自己肯定感が低い人が高める心理

失敗を恐れている自己肯定感が低い人は、失敗をすると取り返しがつかないと思い込んでいる。

失敗などは決して取り返しのつかないものではない。

また失敗を異常に恐れる自己肯定感が低い人は、一回の失敗が自分をすべて駄目にすると思っている。

自己肯定感が低い人は不安だから自分の失敗を誇張して考える。

自己肯定感が低い人は失敗すると、自分の欠点を非難するだけでなく自分自身を非難する。

自己肯定感が低い人は絶えず他人に好印象を与えないと、人に見下されるのではないかと恐れる。

自己肯定感が低い人はだからいつも成功していないと不安なのである。

自己肯定感が低い人はそこでいつも緊張している。

そのように失敗に神経質な自己肯定感が低い人は、自分を他人によく見せようとすること以外に人生の目標がない。

だから自己肯定感が低い人は普通の人以上に失敗を恐れる。

自己肯定感が低い人は失敗したら他人に非難されるかもしれないと恐れる。

失敗したぐらいで人はひなんなどしない。

だいたい人が自分に対して、いつも辛らつな見方で批評したり攻撃するとは限らない。

そうした意味では、失敗を恐れる自己肯定感が低い人は人の好意を信じられない人なのかもしれない。

自己肯定感が低い人は、まず人を批判することをやめてみる

自己肯定感が低い人はなぜそんなに人を恐れるのか?

それは自己肯定感が低い人はいつも自分が人の悪口を言っているからである。

自己肯定感が低い人は「あいつは実力がないよ」「あいつは底が浅いよ」「あいつはいつだって人を押しのける」などと、毎日毎日、人の悪口を言っている。

だからこそ、自己肯定感が低い人は自分が失敗するのが怖いのである。

もし彼が人の悪口を言わなくなったら、心の中でも言わなくなったら、彼は今ほど失敗が怖くなくなる。

ジンバルドーも言っているが、恥ずかしがり屋の人は注目を集めたいのだけれども、いざスポットライトがあたるとなると、怖くなってそのスポットライトを避ける。

それは自己肯定感が低い人は日頃、人の悪口を言っているからである。

自己肯定感が低い人は日頃の態度が彼に晴れ舞台を恐れさせるのである。

自己肯定感が低い人は実際の自分が人々にわかってしまうと、皆が自分の悪口を言うのではないかという恐れが、成功への恐れではなかろうか。

「あいつは部長のくせに、あんなこともできない」と悪口を言われることを恐れているのではなかろうか。

実力を試される晴れ舞台を踏めるか踏めないかは日頃の態度なのである。

晴れ舞台を恐れる人をよく観察してみることである。

よくもまあと思うほど人の悪口を言っている自己肯定感が低い人が多い。

そして、日頃人の悪口を言っている人を見ていると、いざ晴れ舞台というときに身をかわす。

悪口を言うというようにはっきりとした悪意が外に出ないでも、はずかしがりやの自己肯定感が低い人は人の好意を信じられない。

あるいは自己肯定感が低い人は人の親切を信じられない。

自己肯定感が低い人は人の誠意ある言動でさえも、いつも疑っている。

自己肯定感が低い人はほんの少し「こころ」を開くだけでいい

「なぜ、現在日本では心理的病が増加しているのか」という質問を学生にしたケースがある。

すると学生は、親の世代が貧しい世代で、その苦労を子どもに味わわせないようにしたからだと答えた。

しかも彼らは、そのような親の行為を好意と受け取っていた。

だから、親のしたことは悪いことにはならないというのである。

子どもが受けるべき困難を取り除いてしまうのは親の過ちである。

子どもに喜んでもらおうとするのは決して親の愛情ではない。

喜んでもらうことで、親が子どもから気に入られようとしているのなら、それはおよそ愛情とは正反対のものである。

自己肯定感が低い親の自信のなさでしかない。

「こんなにしているのに、うまくいかない」という人には、次の自己肯定感が低いK夫人の話が役に立つのではなかろうか。

K夫人とは、アメリカの心理学者デヴィッド・シーベリーの本に出てくる人である。

自己肯定感が低いK夫人は大学教授の奥さんである。

家計は必要に追いつかない。

そのうえ息子たちは虚弱体質、娘も一冬に幾度も風邪をひく。

自己肯定感が低いK夫人はとうとうまいってしまった。

家事が手にあまると思うようになり、自分は主婦として不向きなのではないかと思うようになった。

いつも不安である。

お金のことでやきもきし、子どもたちにイライラし、夫の体のことについて心配し、自分たちの不確かな未来にばかり注意が向いてしまう。

この困窮の真の原因はなんであろうか。

自己肯定感が低いK夫人は家庭の重圧と解釈している。

しかし真の原因は自己肯定感が低い彼女の心の中にある。

自己肯定感が低い彼女を不幸にしているのは、家のなかで自分は誰からも頼られるべきであるという彼女の古い固定観念であり、頼られたいという願望である。

自己肯定感が低い彼女は妻らしさをまっとうしようとする。

それが自己肯定感が低い彼女の能力を越えているし、適性にかなっていない。

無理がある。

自己肯定感が低い彼女は人にまかせることができない。

そして人の責任まで背負っていつもイライラしている。

そのことが家庭の雰囲気を悪くし、子どもにも悪い影響を与えている。

自己肯定感が低いK夫人は被害者と思っているが、実は加害者なのである。

この世の中には被害者意識を持った加害者のなんと多いことか。

自己肯定感が低いK夫人のような人は子どもが幸せそうにふるまっていないと「こんなにしてあげているのに」と、不満になりがちである。

そのような親はたいてい「こころ」と「かたち」がわかっていない。

「こんなにしてあげている」ことはすべて「かたち」なのである。

こんな大きな家に住んでいるのに、こんな立派な人達と知り合いなのに・・・すべて「かたち」なのである。

自己肯定感が低い彼女はそんなに努力をする必要はないのである。

間違いは自己肯定感が低い彼女のやり方にある。

もっと自己肯定感が低い彼女に適した家庭の運営のしかたがあったのである。

自己肯定感が低い彼女は自分のすることを正当化するために、心を閉ざしてしまっている。

自己肯定感が低い彼女は自己犠牲の姿勢にヒステリックなほど誇りを感じている。

もし、自己肯定感が低い彼女が自己犠牲をやめて自分の適性を大切にし、楽しく生きればすべてはうまくいったのである。

自己肯定感の人は人に「~してあげているのに」と思っているうちはわかりあえない

「かたち」だけで「こころ」がないということを理解してもらうためには、メランコリー気質について少し説明させてもらわなければならない。

ドイツの学者テレンバッハも言うように、メランコリー親和型の人は人に尽くすことによってしか人と接することができない自己肯定感が低い人である。

自己肯定感が低い人は与えることでしか人と接することができない。

人にご馳走することでしか人と付き合えない自己肯定感が低い人がいる。

与えるといっても、あくまでも「かたち」である。

相手にご馳走した、お金を貸した、仕事を代わってあげた、などである。

自己肯定感が低い人は自分はこれこれのことを相手にしてあげたということである。

自己肯定感が低い人は例によって相手との心の触れ合いはない。

自己肯定感が低い人は態度は立派だけれども、相手と正面からぶつかっていない。

人間関係ばかりではなく、自己肯定感が低い人は仕事においても、質量ともに非現実的なほど高い基準を自らに課して必死で働く。

自己肯定感が低い人はそんなに善良で、かつ努力しながらもつらい人生を送りがちである。

自己肯定感が低い人は必死で働きながら、なぜかいいことはあまりない。

それは自己肯定感が低い人が相手に尽くしながらも相手の「こころ」をとらえていないからである。

自己肯定感が低い人は相手と正面からぶつかっていないからである。

自己肯定感が低い人は相手と心の触れ合いがない。

だから、自己肯定感が低い人はそこまで尽くしながらも、いざというときに助けてくれる人もいない。

相手に尽くすことよりも、相手に「こころ」を開くことのほうが大切だということが、自己肯定感が低い人彼らにはどうしても理解できない。

相手に「こころ」を開いていれば、相手に尽くさなくても、困ったときには助けてくれる人が必ず現れる。

相手に大金を貸してあげなくてもいいのである。

無理しないで貸してあげられるだけのお金を貸してあげて、あとは「俺だって、金ないんだよ。お前ももっと働けよ」というような会話でいいのである。

周囲と”いい関係”を保てる自己肯定感が高い人はこんな人

「かたち」でいきてきたものは「かたち」を失うことを恐れる。

自己肯定感が低い人は大きな家から小さな家に移ることを恐れる。

自己肯定感が低い人はその心配で不眠症にさえなる。

ここで自己肯定感が低い人は「かたち」を維持するために、死にもの狂いの努力をする。

自己肯定感が低い人は無理に無理を重ねる。

自己肯定感が低い人は気が休まることがない。

自己肯定感が低い人はもっと仕事をしなければといつも焦っている。

自己肯定感が低い人はいつも何かに追われている。

しかし、子どもにとっては大きく立派な家で父親がイライラしているより、小さな家で父親がイライラしていないほうが、ずっと快適な生活空間である。

そのことが自己肯定感が低い燃え尽き型人間には理解できない。

ある家族である。

子どもは三人。

ある家の地下のようなところを借りて住んでいた。

それから父親は頑張って働き、家族と一軒家に移り住んだ。

新しい家でも楽しい生活があったのであるが、ある日ふと、末の子がつぎのようにしみじみともらしたという。

「あの地下の生活は楽しかったね」

それは狭くてごちゃごちゃしているところであった。

しかし、その狭くてごちゃごちゃしているところで、皆が楽しく騒いでいたのである。

食堂があったのではない。

もちろん一人ひとりの部屋など考えられもしないほど狭いところである。

その末の子は決して成績がよかったわけではない。

しかし少なくとも中学生まで見る限り、家庭内暴力や登校拒否などはとても考えられない明るい子であった。

燃え尽きる人は、結婚でも仕事の成果でも最高のものを求めると、フロイデンバーガーは言う。

自己肯定感が低い人は「かたち」を求めるから最高のものを望むのである。

自己肯定感が低い人は、大きな家に住んで、高い給料で、子どもの成績がよくて、地域社会の尊敬を得て、といった具合である。

それに対して、結婚生活に「こころ」を求める人は結婚生活の内容が大切である。

「自分にとって」最良の結婚を求める。

一般的な最高のものを求めるのではない。

「こころ」を求める人は”最高”と”最良”の違いがよくわかっている。

しかし、「かたち」で生きている自己肯定感が低い人は”最良”とは”最高”であると錯覚している。

「幸福論」の第一人者として有名なタタルキェヴィチの「きわめて重要な経験よりもささやかな幸福のほうが、より大きな喜びの源になることもある」というような言葉が理解される家庭である。

大きな家に住んでいるという経験よりも、家族とともに囲む夕げの楽しさが、大きな喜びの源である家庭である。

子どもが幸せそうにふるまっていないと「こんなにしてあげているのに」と不満になる親がいる。

そのような親はたいてい「こころ」と「かたち」がわかっていない。

格好にこだわらない「自分」を持っている自己肯定感が高い人は心が弾んでいる

ある心理的に病んだ人で、ものすごく虚栄心の強い自己肯定感が低い人がいる。

自己肯定感が低い彼は大きな庭のある家にすんでいることで得意になっている。

自分の力で持った家ではなく、親からの遺産である。

その自己肯定感が低い人が今度は犬を飼おうと考えはじめた。

「こんな大きな庭に血統書つきの犬がいたらすごいぞ」という考えである。

もちろん犬が好きだから飼うのではない。

自己肯定感が低い人はこんな庭にこんな犬を飼っているという経験を持ちたいのである。

自己肯定感が低い人はまさに「かたち」である。

まず自己肯定感が低い彼は、いかにして血統書つきの犬を手に入れるかを考えた。

そこに目をつけた人が自己肯定感が低い彼に血統書つきのコリーを買うことをすすめた。

自己肯定感が低い彼はすぐにその血統書つきの犬を買った。

そして「どうだ、すごいだろう」と世間に向かって得意になっていた。

まさに復讐的勝利である。

そして自己肯定感が低い彼は毎朝その庭で体操をしていた。

毎朝犬と会うのであるが、犬との「こころ」の交流がない。

ジョンという名の犬はまったく自己肯定感が低い彼になついていない。

自己肯定感が低い彼が朝、庭に出て行っても犬は喜ばない。

信じられないことであるが、犬は喜ばないのである。

犬のほうは「こころ」があるから、たとえ毎朝会っていても、「こころ」のない自己肯定感が低い人を見て喜ばないのである。

そしてそのことを自己肯定感が低い彼のほうはふしぎにも思わない。

自己肯定感が低い彼も犬との心のふれあいを求めて飼ったのではないから、それにショックを受けない。

犬は「こころ」のある人とない人とを正確に見分ける。

その家のそばを夕方通る人がいる。

ジョンという名の犬は、その人にしっぽをちぎれんばかりに振って体全体で喜ぶ。

その通りがかりの人はその犬を見て、「ジョン、いたのか。元気だな、よかったな、ジョン」と話しかける。

犬と心の触れ合いがある。

その人は地位も名誉もお金もない人である。

しかし「こころ」がある。

ある犬の好きな人である。

雑種の犬を飼い始めた。

いつも犬を飼えるマンションを探し求めて住んでいる。

犬の好きな人は、雑種であろうが血統書付きの犬であろうが、自分がかわいいと思うことが大切である。

彼には、いくつかの分譲マンションを買える可能性のあるときもあった。

しかしそれらの分譲マンションは、皆犬を飼えないマンションであった。

そこで、犬を飼えるマンションを借りて住んだ。

収入としては分譲マンションを購入する人と違わないのだけれども、遂に彼は一生マンションを買わなかった。

犬と別れて分譲マンションを買うくらいなら、そんなマンションはいらない。

彼は犬を手放すくらいなら、一生犬と一緒にマンションを借りていたいと思った。

そんな人もかなりいる。

犬が好きで一生マンションを買わなかった人は、血統書付きの犬を飼っていることが大切なのではない。

犬が好きで、自分の好きな心やさしい犬を飼うことが大切なのである。

これが「こころ」である。

先の心理的に病んだ自己肯定感が低い人は犬を飼いながらも、犬と遊んでいるよりも、周囲の人からちやほやされることのほうが楽しい。

犬の好きな人は人からちやほやされるよりも、好きな犬と遊んでいるほうがずっと楽しい。

しかし自己蔑視してしまった自己肯定感が低い人は、犬と遊んでいるよりも、人からちやほやされることのほうが嬉しい。

自己肯定感が低い人は何よりも嬉しいことは自分がほめられることである。

そういう自己肯定感が低い人が犬を飼うのが「かたち」である。

自己肯定感の低い人は、こう考えればいろんなことがうまくいく

「かたち」だけで「こころ」がないということを理解してもらうためには、もうひとつヒステリー性格について少し説明させてもらわなければならない。

「ヒステリー性格者は体験に飢えている」と言われる。

たとえば山登りである。

山の好きな人は山に登ることそのことが嬉しい。

しかし、ヒステリー性格の自己肯定感が低い人は、山に行っても深く山と交わることができない。

自己肯定感が低い人は山に登ることそのことの喜びがない。

それなのになぜ山に登るのか?

自己肯定感が低い人はそれは、何々という有名な山に登った、という体験が欲しいからである。

山を愛し、山と深く交わった人は、どんな山に登っても、それぞれの満足をもつ。

しかし山に登っても山と交わることのできないヒステリー性格者は、自分にも他人にも話せる体験としての〇〇山登山を必要とするのである。

そのような体験はストレスがたまるだけで楽しみでもなんでもない。

自己肯定感が低い人は山に登ったという「かたち」が欲しいのである。

自己肯定感が低い人は「私は、〇〇山に登った」という体験が欲しいのは、山を愛していないからだろう。

山を愛している人は、どのような山であってもその山に登ること、そのことが目的となり、その登山が深い満足を与える。

ことさらに登ったという事実を、自分にも他人にも確認する必要はない。

それは何も、あとに残る必要のあるものではない。

そのときすでに満ち足りているから、登ったという「かたち」は消えてもいい。

「かたち」を求める自己肯定感が低い人は、自分のプラス・イメージを高めるための体験をしているのである。

このような自己肯定感が低い人が子どもを山に連れて行くと、「親子で山登りをした」という経験を重要視する。

自己肯定感が低い人は子どもが非行にでも走れば「親子で山登りまでしたのに」という疑問になる。

「ヒステリー性格者は体験に飢えている」という言葉は「ヒステリー性格者は、かたちで生きている」という意味である。

外国生活でも同じである。

自己肯定感が低い人はアメリカにいる自分、アメリカにいるということが自分に与える威信に関心を持ってしまうので、アメリカ人を理解しようという姿勢がない。

アメリカに住むことの面白さ、楽しさ、苦しさ、困難、そうしたものに関心のある人が「こころ」を理解している人である。

アメリカで偉い人と会ったという事実、そしてその事実が自分に与える威信にばかり気をとられていて、その偉い人と会って討論したことの内容、その内容の面白さには興味を示さない自己肯定感が低い人がいる。

そういう人も「かたち」で生きている自己肯定感が低い人である。

そして自己肯定感が低い人は家族でアメリカに滞在していれば、子どもに「こんな素晴らしいことを経験させてやってる」と恩着せがましく思う。

外国で生活などしなくても、ささやかな喜びを大切にする家のほうが子どもの「こころ」を成長させる。

それは音楽を聴くということでも同じであろう。

音楽は好きな人にとってはおもしろいであろうが、音楽が好きでない人でも音楽会に行くことがある。

自己肯定感が低い人は自分は芸術を理解しているという思いが大切なのである。

そして自己肯定感が低い人は子どもを音楽会に連れていってあげたという「かたち」を重んじる。

自己肯定感が低い人は子どもに情操教育をしていると得意になる。

自己肯定感が低い人が「したことがむくわれない」のには理由がある

「こころ」のないヒステリー性格者は、仕事場でも同じである。

自己肯定感が低い人は真面目なわりのはなぜかうまくいかない。

自己肯定感が低い人は出世を心の底で望み、真面目に働きながらも、なかなかエリートコースに乗れない。

ある大学での話である。

ある教授が還暦を迎えた。

そのときに弟子のひとりが還暦のお祝いをしたいと教授に申し出た。

教授は「いいよ、そんなことしなくて」と照れて言った。

「言った」という表現よりも「言ってしまった」という表現のほうがいいであろう。

その教授も内心は還暦のお祝いをしてもらいたかったのである。

照れていただけなのである。

ところがその弟子が「かたち」だけの自己肯定感が低い人であるから、教授の言葉をそのまま受け取ってしまった。

「かたち」だけの自己肯定感が低い人は言葉に弱い。

自己肯定感が低い人は言葉にだまされる。

自己肯定感が低い人は言葉の裏にあるものを察知できない。

そして還暦のお祝いをしなかった。

自己肯定感が低い弟子にしてみれば、自分は「還暦のお祝いをしましょうか?」と申し出た。

すると「しなくていい」と教授が言った。

だから「しなかった」のである。

言葉としてはそのとおりである。

残念ながらそこに「こころ」の存在が無視されている。

もし本当にその弟子が還暦のお祝いをしたければ、あるいはする気があれば「先生、還暦のお祝いをします」と言ったかもしれない。

「しましょうか?」というのは「しない」ことでもある。

する気があれば「します」である。

するとどうなるか?

還暦を迎えた教授は「あんなに面倒を見てあげているのに、還暦のお祝いもしてくれない」とその弟子に不満を感じるようになる。

自己肯定感が低い弟子の方は弟子の方で自分は「還暦のお祝いをする」と言った、となる。

「それなのになぜか最近教授は冷たい」と面白くない。

続いてその教授がある賞をもらった。

その頃、いろいろと複雑なことがあって、弟子の間が割れていた。

しかしその自己肯定感が低い弟子はその教授の賞のお祝いをしようとした。

しかし自分は年齢、その他の序列からいうと一番弟子ではない。

そしてその一番弟子たちが動かない。

そこで自己肯定感が低い彼は、賞をもらった教授に直接話をしようとしたが、それもうまくいかない。

自己肯定感が低い彼は、またしても同じ間違いを犯す。

要するに、自己肯定感が低い彼には「こころ」がないのである。

「そこまで苦労してもする」気にはなっていない。

彼が「こころ」ということを理解していれば「そこまで苦労してもする」気になったであろう。

自己肯定感が低い彼は周囲の目上の人にあれこれとしようとする。

しかし自己肯定感が低い彼はすべて成功しない。

自己肯定感が低い彼はそのことを「こころ」からしようとしていないからである。

その自己肯定感が低い弟子にしてみれば「自分はいろいろと周囲の人の世話をしている」つもりである。

それなのになぜか、周囲の人は自分を熱烈に支持してくれない。

なぜか周囲の人は自分に好意的ではない。

そして、自己肯定感が低い彼は「世の中なんて、こんなものだ」とすねはじめる。

自己肯定感が低い彼は「自分はこんなに皆のことをしているのに、皆は冷たい」ともなる。

この自己肯定感が低い弟子が自分には「こころ」がなかったということに気がつかない限り、「なんかうまくいかないな」という不愉快さは、彼の人生に続くであろう。

その自己肯定感が低い弟子のすることは、皆「一応・・・」なのである。

自己肯定感が低い彼は「一応、それをして」自分をアピールしているにすぎない。

自己肯定感が低い彼は周囲の人を世話しているというよりも、自分をアピールしているのすぎないということにも気がついていない。

もっときつい言い方をすれば、自己肯定感が低い彼は「もっとも楽な方法で自分を売っている」のである。

よく「もう失礼します、失礼します」と言いながら長居をする自己肯定感が低い人がいる。

自己肯定感が低い人は「お茶は結構です」と言いながら、いつまでも帰らない。

遠慮深いのか、ずうずうしいのかわからない。

こういう人はたいてい「こころ」のない自己肯定感が低い人である。

自己肯定感が低い人は「お茶は結構です」「失礼します」と「かたち」を示すのである。

自己肯定感が低い人は、その言葉をそのまま受け取ってしまう前に

最後に、「こころ」のない自己肯定感が低い人は言葉にだまされやすいということを述べてみたい。

なぜ「こころ」のない自己肯定感が低い人は言葉にだまされやすいのか?

それは自己肯定感が低い人は淋しいからである。

愛とか心とは行動なのである。

しかし「かたち」で生きてきた自己肯定感が低い人は言葉を信じる。

「還暦祝いをしたい」というのは言葉なのである。

「あなたが好きです」も言葉なのである。

「あなたを愛しています」も言葉なのである。

子どもの顔を見て、愛していると言ってもいいが、それは必ずしも愛ではない。

『疑わしき母性愛』という本に「真の愛情は間接的に示される」という主旨の言葉が書いてあった。

まさにそのとおりである。

つまり真の愛情は行動で示されるということである。

「かたち」だけで生きてきた自己肯定感が低い人は、心の底では淋しい。

だから自己肯定感が低い人はついつい言葉を求めてしまう。

「愛している、好きです」といった類の言葉は麻薬のようなものである。

決して根本的な心の淋しさを解決してはくれない。

しかし一応そこでの淋しさはまぎらわされる。

そこで淋しい自己肯定感が低い人はついついそのような言葉を吐いてくれる人に心が傾いてしまう。

そのような自己肯定感が低い人は、シーベリーの次の言葉を記憶しておいたほうがいい。

「貪欲な連中は、自分の意図を隠すのがうまい。目的を隠すのにこれほど抜け目のない者もいない」。

淋しくて悩んでいない人は、この貪欲な連中の意図を感じとる。

しかし、淋しく悩んでいる自己肯定感が低い人はこの人々の言葉にだまされる。

自己肯定感が低い人は、言葉の裏側にある「本当のきもち」に気付こう

言葉をそのまま受け取ってしまう自己肯定感が低い人がいる。

ある自己肯定感が低い青年が友達から「お前はずるい」と言われ、それがショックで自殺をしようとした。

「お前はずるい」と言ったほうの友達は、自分がそのように言ったということをもう忘れている。

自殺しようとした自己肯定感が低い青年にとっては「お前はずるい」は「お前はずるい」なのである。

「ずるい」という言葉に条件環境は関係ない。

自己肯定感が低い人はどこまでも「お前はずるい」は「お前はずるい」である。

もしこの言葉どおり受け取れば、ショックを受けることはわかる。

しかし、言ったほうが忘れている。

言ったほうは、ほんの軽い気持ちで言ったのである。

受け取るほうは深刻にその言葉どおり受け取った。

二人の間で「ずるい」という言葉の共通感覚が違う。

小さい頃に兄弟喧嘩をしたり、親子で喧嘩をしていれば、このようなことにはならなかったであろう。

小さい頃兄貴がおいしいお菓子を余計に取って逃げていく。

「ずるいぞ」と弟は怒る。

兄貴は「お前だってこの間、隠れて余計に取ったろう」と喧嘩をする。

こうして子どもは「ずるい」という言葉も、「嘘つき」という言葉も学んでいく。

「ずるい」という言葉を深刻に受け取るときと忘れていいときとを感覚的にわかっていく。

「ずるい」という言葉は、辞書に書いてある「ずるい」という意味ではなく、使われる日常生活の共通感覚を身につけていく。

しかし凝固した家庭では、喧嘩は許されない。

親しいから喧嘩をするということが理解されない。

子どもは喧嘩しながら親しくなっていくということを認めることができない。

自己肯定感の低い人は自己肯定感の高い人と付き合い、「かたち」ではない「こころ」の部分の見つけ方を学ぶことである。

※参考文献:感情を出した方が好かれる 加藤諦三著

 

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