自意識過剰な人はその「不満」の数だけ「要求」があることに気づいていますか

相手が自分をどう思っているか気になってしかたがないとき

自分のことを実際の自意識過剰な自分以上に思ってもらおうとして周囲の人々に与えるものには、「こころ」がない。

どうしても自意識過剰な人は「かたち」だけになる。

「私がこんなにしてあげているのに・・・」とか「どうして私だけがこんなにつらい思いをするのだ・・・」などと周囲の人に不満を感じる自意識過剰な人は、なぜ自分がそこまで無理をして周囲の人に与えているのかを反省してみることである。

たいていの人は、自分の心の底にそこまでしてでも、周囲の人に実際の自意識過剰な自分以上に自分を思ってもらおうとする欲求があることに気がつくのではなかろうか。

結局、周囲の人に不満を感じる自意識過剰な人はたいてい、自己顕示のために人に与えている。

だから自意識過剰な人は親しい関係ができないのである。

そこまで無理をして、人のために与える自意識過剰な人の心の底を問い詰めていくと、そこには自己顕示欲がある。

相手と感情を共有することを「こころ」があるというのである

自己顕示欲の強い自意識過剰な人には「こころ」がない。

自己顕示欲の強い人には、認めてもらうための行動が多すぎる。

しかし期待したほど相手は自意識過剰な自分を認めてくれない。

そこで自意識過剰な人は不満を感じる。

人の為に努力に努力を重ねながらも、なぜかことごとくうまくいかないという自意識過剰な人は、心のどこかに問題がある人である。

人の為に尽くす真の動機に自意識過剰な人は気がついていない。

自分の心の底をそういう自意識過剰な人は冷静に見つめてみることである。

もちろん心の底にあるのは、ここで言う自己顕示欲ばかりではない

カレン・ホルナイが言う神経症的愛情要求かもしれない。

「私はあなたにこれだけのことをしました、あなたは私に何をしてくれますか」というような、ひそかな要求が心の底にあるかもしれない。

だから、無理な努力を自意識過剰な人はして相手に尽くしているのである。

心の底で自意識過剰な人はいつも相手に何かを期待しているから、相手のために苦労しているのかもしれない。

相手が自分に何かをしてくれることを自意識過剰な人は心ひそかに期待しながら相手に尽くしているのかもしれない。

そして期待しているようなものが自意識過剰な人は相手から返ってこないので不満を感じているのかもしれない。

何かを期待するくらいなら好意など施すなと、シーベリーは述べている。

自分が時間をかけ考慮を重ねたものを与えるか、それとも自分はそんなに寛大な人間ではないということを認めるか、二つにひとつであると彼は言っている。

感謝を期待すれば、どことなく隙間風が吹いてくるとも言っている

自分はそんなに寛大な人間ではないということを自意識過剰な人は認めることができず、無理な努力をして人に何かを与えて体を壊しても、いいことは何もない。

無理な努力をする時間を自分の心の底を見つめる時間にする。

そのほうがはるかに人生の成功は約束される。

人生の成功と社会的な成功とは違う。

無理な努力を自意識過剰な人はしているから人生の成功が逃げていくのである。

苦労しなければ向こうから人生の成功がやってくる。

笑う門には福が来るのである。

逆に苦労する門からは福が逃げていく

日本には、自己犠牲の姿勢をなかなか崩さない自意識過剰な人は実に多い。

それほど不平を言うのなら、自己犠牲をやめればいいと周囲の人は思う。

しかし、自意識過剰な人は自分を犠牲にする人はまず犠牲的役割を放棄しない。

それは犠牲的役割を放棄するのが自意識過剰な人は淋しいということである。

「なんで私だけがこんなに犠牲になるのだ」と不満を言いながらも、その犠牲的役割を放棄しないのは、それだけその役割がその自意識過剰な人に意味を持っているからである。

その犠牲的役割こそが、その自意識過剰な人にとって生きている意味なのである。

だから「なんで私だけがこんなに犠牲になるのだ」と文句を言いながら、その役割を続けることがその自意識過剰な人の願望なのである。

自意識過剰な人は”愛情の深さ”を”自己犠牲の深さ”と勘違いしてしまうと・・・

シーベリーの本に、仕事を持つある女性の話が出ている

疲れきって自意識過剰な彼女は医者を訪れる。

休暇が自意識過剰な彼女には必要である。

しかし休暇が自意識過剰な彼女は取れない。

会社が許してくれないと自意識過剰な彼女は思っている。

ボーイフレンドがアパートに遊びに来るといっては自意識過剰な彼女は、特別の料理をご馳走する。

彼に楽しい思いをさせようと、自意識過剰な彼女は、いくらでも骨を折る。

ボーイフレンドは喜ぶが、自意識過剰な彼女は消耗し、倒れる。

そして倒れてもなお、自意識過剰な自分のことよりも周囲の人のことをしようとする。

しかしこの女性は医者の忠告を聞いて、そのような生活を止めた

するとどういうことが起きたか。

ボーイフレンドは、単に自意識過剰な彼女のつくるおいしい料理を目当てに来ているだけであることがわかった。

単に都合のいい存在としてしか自意識過剰な彼女は扱われていなかったのである。

会社はどうであろうか。

上司も自意識過剰な彼女が有能であるからこそ仕事をまかせている。

彼女が酷使され続けることを拒否した時点から、彼女の成功ははじまるのである。

自意識過剰な自分の弱さから皆を喜ばせようとするときに周囲に集まる人はずるい人ばかりである。

決してその尽くす人を自意識過剰な人は尊敬しているわけではない。

また親しみを自意識過剰な人は感じているわけではない。

ある神経症的な人は若い頃「かたち」と「こころ」が理解できなかった

そこで体を壊すまで自意識過剰な彼は働いた。

いっさいの遊びを自意識過剰な彼はしないで、体に鞭打って働きに働いた。

体を壊して自意識過剰な彼は寝込んでも寝込んでも、また立ち上がって働いた。

そしてその異常な働きから得たすべての収入を自意識過剰な彼は周囲の人のために使い果たした。

彼は自分のためには何も残さなかった

しかし周囲の人は自意識過剰な彼にいよいよ多くを要求し、彼を牛馬のように扱った。

「なんで自分だけが」という不満を心の底に持ちつつ、自意識過剰な彼は犠牲的役割を演じ続けた。

しかし自意識過剰な彼は運に見放されていたわけではないのである。

犠牲的役割を自意識過剰な彼は演じるから福が逃げていったのである。

自分の心身を消耗しつくすような苦労を自意識過剰な彼は背負い込まなければ、福は向こうからやってくる。

それに気がつかずに、周囲に「かたち」だけのものを与え続けた

「かたち」だけのものを自意識過剰な彼からもらった人はもっと与えろと要求した。

その要求に応えるべく自意識過剰な彼は地獄の努力を続けた。

犠牲的役割を自意識過剰な彼は演じ続ける限り、蜜を求める利己主義者だけが周りに集まる。

しかし、無理な苦労を背負いこむのをやめれば周囲には心の温かい人が集まる。

自意識過剰な人は「犠牲を払うから幸せになれない」

日本人はどうも「苦労をすればいいことがある」という考え方をしがちな気がする。

しかし、それにはひとつ重大な前提がある。

人の為に苦労をする動機を自意識過剰な人は無視してはならないということである。

動機によっては、自意識過剰な人の苦労はさらに悲劇を呼び寄せるだけである。

「苦労をすればいいことがある」という考え方が身についている自意識過剰な人にはむしろ、タタルキェヴィチの「犠牲を払うから幸せになれない」という言葉が必要である。

シーベリーは失敗と美徳とを無意識に結びつけている人がいるという

こういう人は成功することを恐れている人であるが、このような人はアメリカ人より日本人に多いのではなかろうか。

タタルキェヴィチの「犠牲を払うから幸せになれない」という言葉の真の意味を理解し、失敗と美徳とを無意識に結び付けなくなれば、世の中の多くの母親や妻や、上司や部下の不満はかなり解消されるのではなかろうか。

暗い顔をして「私さえ我慢すれば」と言っている自意識過剰な母親は日本に多い。

しかし、その我慢こそ家族を不幸にしているのかもしれないということを、自意識過剰な母親達は考えたことはないようである。

もちろんそのような自意識過剰な人の我慢が家を救っていることもある。

しかし逆にそのような我慢こそが家を崩壊させるということもある

シーベリーは「いつの日かわれわれは、よくあるあの自己犠牲とは、他人を食いものにする生き方の第一点であることに気がつくでしょう」と述べている。

シーベリーは、他人のトラブルを自分のものとすることは、盗みであって美徳などではないと主張する。

そのトラブルによってその人は成長するのである。

他人のトラブルを自意識過剰な人は背負いこんで消耗し、周囲の人の重荷になりながら、自分一人で自分は犠牲的美徳の人と思い込んでいる人がいる。

自意識過剰な人がトラブルを生み出す四つの考え方

私たちはよく相手のために犠牲になっているつもりで、実は自分が相手を犠牲にしているということがよくある

だからこそいくら年齢を重ねても大人になれないピーターパンシンドロームの自意識過剰な母親は「あなたが幸せになってくれるなら私はどうなってもいい」というようなことを言うのである。

この自意識過剰な母親は自分を犠牲にしているのではなく、自分の弱さを正当化して息子を犠牲にしているのである。

だからこそ息子は心理的に成長できない。

「私がこんなに一生懸命しているのに、どうして皆はわかってくれないの・・・」と不満を感じる自意識過剰な人は一度立ち止まって自分の心の底をのぞいてみることが必要である。

「一生懸命」しているから、すべてがまずく回転しているのかもしれない

自分が今、人のためと思ってしていることは、自意識過剰な人は実は人に何も本当の恩恵をもたらしていないかもしれないという発想を持ってみることである。

精神分析医のロロ・メイの書いた『愛と意志』という本がある。

そこには、「他人の身になって心配することはしないが、つねに他人の面倒はよく見ることができたし、心以外なら金銭も、どしどし与えることができた」と書かれている。

シーベリーは、トラブルを生む十二の考え方を挙げている。

そのなかで、ここで関係のあるものを挙げると、次の四つのことである

第一に、他人の重荷を背負い込む

第二に、疲れすぎて遊びを知らない

第三に、自分が終始悩まされているからといって、他人を非難すること

第四に、自分は運に見放されているとおもっていること

「なんで私だけがこんなに苦労をしなければならないのだ」と、いつも不満な自意識過剰な人はこのようにトラブルを生む考え方をしているのである。

「他人の重荷を背負い込む」のは、その自意識過剰な人の自己顕示欲かもしれない。

相手に自意識過剰な人は自分の偉大さを示すためかもしれない。

恩を自意識過剰な人は売るためかもしれない。

相手を自意識過剰な人は縛るためかもしれない。

先に弱さと言ったのは、このような心理である。

わざわざ他人の重荷を背負い込む「隠された真の動機」にその自意識過剰な人が気がついていないのである。

わざわざ他人の重荷を自意識過剰な人は背負い込むのはなぜか。

その人が自意識過剰な自分では気がついていない、その人自身の心に問題があるに違いない。

もし何の問題もなく、愛情から「他人の重荷を背負い込む」のなら、あとで「なんで私だけがこんなに苦労をしなければならないのか」と、いつも不満になることはないはずである。

やはり、シーベリーが言うように「自分が終始悩まされているからといって、他人を非難すること」は間違った考え方なのである

原因は、自意識過剰な自分の心の中の未解決な問題であるのだから。

そしてその自意識過剰な人が「自分は運に見放されていると思っている」とすれば、これもまたおかしい。

決して子どもや知人、上司、同僚や後輩が悪いわけではない。

無理な努力を自意識過剰な人が繰り返して、自分のまわりにわざわざ苦労を集めているのである。

背負い込む必要のない他人の重荷を背負い込んだのは相手のためではなく、自意識過剰な自分のためなのである。

そのことに気がつかない限り、自意識過剰な彼あるいは彼女は、一生無理な努力を重ねながら、周囲の人に不満を感じるであろう。

人間関係は「かたち」ではなく「こころ」なのだと気がつくまでは、一生しなくてもいい苦労を自ら好んで重ねるであろう。

そして「私は犠牲者だ」と自意識過剰な人は嘆き、人を恨みながら苦労ばかりの人生を終わる。

なんと多くの自意識過剰な人が、昔の部下に不満を持っていることであろう。

その人達の話を聞いてみれば「私はこんなにあの人のためにしてあげた」と言う。

しかしそこに「こころ」がなかった。

部下の世話をこんなにした、上司にこんなに尽くした、「それなのに」と自意識過剰な彼らは不満を言う。

不満を言う人のしていることは皆「かたち」なのである

そしてほとんどの自意識過剰な人が自分のしたことはすべて「かたち」だけであったということに気がついていない。

会社でいうと、自意識過剰な人は上司の引っ越しを手伝うことにはじまって、上司の不始末を自分が泥をかぶる、ひどいのになると上司の愛人関係を自分のことにして解決し、挙句の果てに奥さんから離婚された、という話までいくらでもある。

大学でいうと、自意識過剰な人はかつての部下の不満は、上司の教授の授業を代行していた、論文をかわって書いてあげたなど、会社と同じようにいくらでもある。

部下は「それなのに自分を教授にするために努力をしてくれなかった」、上司のほうは「彼を教授にしてあげたのに、その後の彼は・・・」と、不満を述べる。

しかし、不満を感じている自意識過剰な人が尽くしたり世話したりしていることは、皆「かたち」である。

不満を持つ昔の上司や部下で、「あのときに彼は会社で、あるいは大学で不公平に扱われていた。

それがつらかった」と、そのときの心痛を語る自意識過剰な人はいない。

「こころ」がないのである

だから自意識過剰な人は相手はこちらからの恩恵がなくなれば離れていくし、こちらはひそかに期待していたものが返ってこなくて不満になる。

「俺は部下のためにこんなに尽くしたのに」という自意識過剰な上司の不満は、ちょうど「私はこんなに子どものためにしてあげたのに」という自意識過剰な母親の嘆きと同じである。

そのときに「こころ」があれば相手は離れていかない。

あとで自分にもっと大きく何かを返してくれるだろう、というようなひそかな期待がなければ逆に相手は感謝したであろう。

そうした下心がなければ相手は返してくれる。

自意識過剰な人は自分の意思を相手に押し付けるから本当の理解が得られない

また、シーベリーの本にはつぎのような例も出ている

ジャスパー・ジャストンという生真面目な男性である。

製粉所の町で育ち、六つのときにはもう働かされていた男である。

息子のために自意識過剰な彼は骨身を惜しまず働いたにもかかわらず、その息子は非行に走った。

疲労と絶望の声を出してシーベリーに自分の人生を説明する。

小さい頃から自意識過剰な彼はいっさいの遊びとは無縁であった。

だから彼はただ働きに働いて自意識過剰な自分ができなかったことを、子どもにさせてやろうとした。

息子が三歳のときに自意識過剰な彼は乳母をつけてやった。

その女性が息子の勉強もみた。

やがて彼女はその家の家政婦になった。

息子に教育もし、陸軍士官学校に送り込んだ。

ところが、その息子が酒を飲むようになり、ふしだらな女とつきあうようになり、手に負えなくなった

ジャスパー・ジャストンは確かに息子に与えた。

しかしそれはすべて「かたち」である。

「親しさのなかにある美しさ」を自意識過剰な彼は息子と共有することはなかった。

「かたち」は与えたけれども「こころ」は与えなかった。

「暇がなかった」と自意識過剰な彼は言う。

身を粉にして自意識過剰な彼は働いて家に帰ってきた。

「使い古しの荷箱みたいに空っぽになって、家族に金を持ち帰ろう」と自意識過剰な彼はしたのである。

しかし、彼は「その代わり家族から金以外のすべてを奪い取る」。

そのような態度を、利己主義の骨頂だとシーベリーは言う。

彼の態度は、一見愛他主義に見える。

しかし実は自分の意思を相手に押し付けるだけの、利己主義の骨頂だとシーベリーは言うのである

ジャスパー・ジャストンは身を粉にして働いたからこそ息子が非行に走ったのである。

身を粉にして働く必要は自意識過剰な彼にはなかった。

身を粉にして自意識過剰な彼は働かない方がよかった。

乳母などつける必要もなかった。

家庭教師などつける必要もなかった。

彼が身を粉にして働かないで遊んでいたら息子はまともに育ったであろう。

彼は身を粉にして働かないで家に帰って来て、息子と炉端に仲よく座って、息子の話に耳を傾けていたら息子は非行に走らなかったであろう。

身を粉にして自意識過剰な彼は働いて、ボロボロになって家に帰り、お金を稼いで息子に家庭教師をつけたからこそ、彼の人生はすべてうまくいかなかったのである。

もし彼が働いて疲労など感じることなく、楽しく遊んでいたら、彼は絶望することはなかった

自意識過剰な彼が努力しながらも幸せになれなかったのは、心の中にある自分の陥っている困難の原因をつきとめることを怠ったからである。

自分が陥っている家庭の状況に自意識過剰な彼は苦しめられていると思っている。

しかし彼を苦しめているのは、彼の心の弱さである。

心の弱さが、自意識過剰な彼を苦しめる家庭状況をつくってしまっているのである。

自分が与えているものはすべて「かたち」であるということに自意識過剰な彼は気がついたら、彼は苦労をしないで息子も幸せになれたであろう。

「かたち」を与えて「こころ」を与えることをしない自意識過剰な人は、自分のためになると思えることは他人のためにもなると思い込んでいる。

自分がしたかったことは他人もしたいと思い込んでいる。

だから相手に自意識過剰な自分の意思を押し付けてしまう。

「かたち」ではなく「こころ」を与えていたなら、息子は非行に走らなかったであろう

自意識過剰な彼は息子に「自分がなってもらいたいような人間」になってもらうために、身を粉にして働いていたのである。

彼が身を͡粉にして働いていたのは、息子の幸せのためではなく、自意識過剰な自分の自己顕示欲のためである。

ジャスパー・ジャストンは、家庭教師をつけるという「かたち」を与えた。

しかし問題は「かたち」ではない。

たとえば息子と一緒に自分も勉強してみたいなという気持ち、「こころ」があったら、家庭教師という「かたち」を与えなくてもよかったろうし、また家庭教師という「かたち」が生きてきたろう。

息子と話をするのが楽しい

息子と勉強するのが楽しい。

息子と遊ぶのが楽しい。

息子を見ていると元気が出てくる。

このような「こころ」があったら、「かたち」にこだわらなかったであろう。

そして「こころ」があったうえで「かたち」を与えていれば「かたち」が生きてきたであろう。

人に振り回されない、自分自身の人生を生きる。

アメリカの心理学雑誌『Psychology Today』に以前掲載された「Success in the land of the less」という論文がある。

それによると、これからの成功について再定義したほうがいいだろうということである

そしてその成功についての再定義に必要な八つのポイントについて述べられている。

そのうちのひとつは”Self-promotion vs. self-trust and self-expression”である。

現代社会では、成功とはいかに我々が自分自身をうまく売るかという事だと考えられがちである。

そして自分自身を売り込む過程で、しばしば自己尊敬を伴った自己受容に混乱をきたすという。

他者が自意識過剰な自分を買ってくれないと、まるで自分は失敗者であるかのごとく感じる。

自分を売り込む人は、心理的にも職業的にも失敗するという

この論文の主張は、自分をプロモートするよりも、自己信頼のほうが大切であるという主張である。

自己信頼と自己実現できる人が新しい意味での成功者であるという。

他人に自分をよく印象付けようとするよりも、自分で自分を信頼することが新しい成功であり、また他人に自分をよく思ってもらおうと努力する結果は失敗する、というのがその主張である。

そしてこの論文はつぎのように質問している。

”Do you strive to appear more successful to others than you think you really are?”

実際の自分より、自分がすぐれていると思われようと努力すればどうなるか

自意識過剰な人はいつも無理をしていなければならない。

いつも気を自意識過剰な人は張っていなければならない。

そして何よりも、自意識過剰な自分が本当に欲しいものは何かということがわからなくなってくる。

自分の人生の目的がわからなくなってくるから、自意識過剰な人はいくら努力しても本当の満足が得られないのである。

仕事がうまくいっても自意識過剰な人は、何か物足りない。

成功しても何か物足りない

本質的な満足が自意識過剰な人にはないのである。

それだけにつぎの質問は大事である。

“Do you fear being disliked?”

嫌われることが怖いと、ずるく立ち回ることになる。

そしてこの論文が言う自己信頼ができなくなる。

問題なのは、自分で自分が信頼できなくなり、同時に人が信頼できなくなるということである

自意識過剰な人は努力しても努力してもやすらぎがない。

仕事の成果を自意識過剰な人はのどから手が出るほど求めながらも、現実に仕事の成果がでたときには何か物足りない。

成果を求めながらも、自意識過剰な人は成果を手にしたときには物足りない。

要するに自意識過剰な自分が求めるもの、人生の目的がその人にわかっていないのである。

仕事の成果を求める自意識過剰な人は、人からちやほやされることを求めている。

そして仕事の成果が出る。

人はちやほやしてくれる。

しかし何か自意識過剰な人は物足りなくなる。

そしてもっと大きな仕事の成果を自意識過剰な人は求める。

しかし修羅場から逃げるタイプで自意識過剰な人はあるから、心の底で逃げたことの記憶はある。

また、逃げる態度のままで自意識過剰な人はより大きな成功を求めるから、いつも憔悴しているのである。

焦って焦ってどうにもならなくなっている

自意識過剰な人は、その時点では一応自分の欲しいものがわかっている。

それは当面欲しいものである。

しかし本質的なものではない。

私的なことから得られるものを、自意識過剰な人は公務から得ようとしているからである。

求めている段階ではそれは目的である。

しかし手に入ると、自意識過剰な人は「違うな」ということがわかる。

当面の自意識過剰な人が欲しいものとは、格好をつけた欲しいものなのである。

当面の一応の目的だから、手に入ってももの足りないのである

自意識過剰な人は、手に入らなければまた大変な不満を感じるのである。

修羅場から逃げなければ、自分が本当に欲しいものが見えてくるのである。

修羅場から逃げなければ、人生の本質的な目的も見えてくる。

そしてそれを手に入れれば、物足りないということはもうなくなる。

焦りの心理も消えてくる。

これも駄目、あれも駄目という焦りの心理も消えてなくなる。

やすらぎと名誉は同時には得られない。

修羅場から逃げていると自分が本質的に欲しいものがわからないから、あっちに手を出し、こっちに手を出す

そしてどれからも自意識過剰な人は真の幸福が得られない。

無駄を嫌いながらも、自意識過剰な人は無駄な努力を続ける。

シーベリーは「何をすべきかわかっているとき、私達は気楽に生きている」と書いている。

修羅場を避けると、自意識過剰な自分が何を目的に生きているのか分からなくなる。

修羅場を避ける自意識過剰な人も、心の底では何をすべきか分かっている。

しかしそのことから自意識過剰な人は眼をそらしている。

眼をそらさないで「何をすべきかわかっている」ことをすれば、それが修羅場である

そしてその修羅場を突き抜けて自意識過剰な人は気楽に生きることができるようになる。

いずれにしろ、不安から名誉を求める自意識過剰な人はどこまでいっても安心することができない。

いつも自意識過剰な人は追われている。

いつも焦っている。

名誉はやすらぎのうえに得てはじめて意味がある。

やすらぎのうえに名誉を得てはじめて焦りなき満足が得られる

自意識過剰な人は名誉を得ても、焦りが消えないで「もっと、もっと」と求めるのが、強迫的な名誉の求め方である。

自分の心を凍結して自意識過剰な人は名誉を求めるからそうなるのである。

安心を求めて自意識過剰な人が名誉を求めるのは、クラシック音楽を聴きに野球場に行くに等しい。

心のやすらぎと名誉とは本質的に異なるものである。

名誉はいわば公務である。

心のやすらぎはいわば私的生活の問題である。

心のやすらぎは心と心の触れ合いから生じる。

自意識過剰な人はこの”つらい場面”を逃げるか逃げないかで・・・

心を凍結して名誉を求める人はいつも何かに追われて生活するしかない

何に追われているか分からないが、とにかく自意識過剰な人は心のなかはいつも何か怖いものに追われている。

そしてやすらぎを自意識過剰な人は手に入れようとしても手に入れようとしても、どうしても手に入らない。

必死で努力するのだが、自意識過剰な人はなぜか手に入らない。

いつもそこにあるようであるが、つかめない。

手に入りそうで入らない。

名誉とか地位とかが手に入っても何か物足りない

それは本質を自意識過剰な人は間違えているからである。

そして先の論文はまたつぎのような質問をしている。

これも大切な質問である。

”Do you respect yourself”

あなたは自分を尊敬できるか?

自意識過剰な人は、心の底をのぞきこみながらこう自分に質問することである。

すると今まで自意識過剰な自分のしてきたことがわかる。

自分がどんな態度でこの人生を生きてきたのかわかる。

どんなに成功しても、自分を尊敬できないという自意識過剰な人はどういう人であろうか。

社会的に成功しても、眼がキョロキョロしていて落ち着かないという自意識過剰な人はどういう人であろうか。

それは修羅場から逃げてきた自意識過剰な人である。

どんな小さな仕事でもどんな大きな仕事でも、公的なことでも私的なことでも、その過程で修羅場というのがある。

正念場といってもいい。

もっともつらい場面である。

誰にでもいい顔ができなくなる場面である

自意識過剰な人は、格好をつけていてはやりすごせない場面である。

面と向かって相手に相手が望んでいないことを言わなければならない場面である。

相手を喜ばすことで相手から気に入られようなどという態度が通用しない場面である。

相手に何かを与えることで解決しない場面である。

この修羅場から逃げたら、自意識過剰な人はどんなに成功しても心の落ち着きは得られない。

修羅場から逃げたことを、自意識過剰な人は意識のうえではどんなに否定しても、無意識のところにはきちんと刻み込まれている。

心の底では自意識過剰な人は「私は修羅場から逃げた」という事を知っている。

その人を心やすらかにさせないのである

修羅場から逃げて自意識過剰な人は安眠しようとしても安眠はできない。

修羅場から逃げながら不眠症を解決しようとしても解決できない。

人からどう見られているのかが気になる自意識過剰な人は、修羅場に真正面からぶつかっていくことで、やすらぎが得られる。

※参考文献:感情を出した方が好かれる 加藤諦三著