”自我境界が鮮明になれば人生に自信を持てる”

努力しないという人生も、またそれぞれ「個性的人生」なのであろう

同じ「努力しない」といっても、それは人によってそれぞれ違う。
「努力しない」という裏には、それぞれ違った動機がある。

怠け者で努力しない人もいれば、反抗して努力しない人もいれば、親を困らせようとして努力しない人もいれば、信じる人から裏切られて信じる者がなくなって努力するエネルギーがなくて努力しない人もいれば、長いこと真面目に努力して生きてもう疲れ果てて努力しないでいる人もいる。

外から見れば同じように努力しない人生に見えても、その人生の裏には、それぞれその人がいるのである。

そして、自らの固有の人生に気が付き、人と自分の違いをハッキリと認識したときに、じががかくりつしてきたということができるのだろう。

あるいは、自我境界が鮮明になってきたということである。

自我境界が鮮明になるというのは、自分はAとも違う、Bとも違う、Cとも違うと感じることである。

自我が未確立であるということは、自分はAのもっているものも欲しい、Bの持っているものも欲しい、Cの持っているものも欲しいと思うことである。

そして、自分本来のものがなんであるかが分からない、それが自我の未確立である。

それは、ライオンのように強いことを望んでいるうさぎみたいなものである、ウサギのように速く走れることを望んでいるカメみたいなものである。

そんなウサギを変なウサギと思わないだろうか、変なカメと思わないだろうか。

スーパーマンとは、実際に世の中にいたら「変な人」なのである。

自我境界が鮮明になった時が「自分の人生」は「自分の人生」なのでということがわかった時である。

必死で生きて来た者が自分の人生に自信を持つ時である

表面的に見て自分の人生に劣等感を持って頑張って生きてきた者が自信を持てる時である。

そして、努力もしないで得意になって生きていた人が自信を失うときである。

不機嫌な人間は、他人の不機嫌にもっとも敏感である。

なぜなら、不機嫌な人間は自我境界ができていないからである。

今、自分が不機嫌であるとする。

たとえばそのとき、ある誰かに朗らかでいてもらいたい。

ところがその人は朗らかにしていない。

するとそれがおもしろくない。

他人の気持ちが自分の望みどおりに動かないとふてくされている人がいる。

自我境界の不鮮明な人である

他人に「こうした気持ちでいてもらいたい」ということは誰にでもあろう。

ここまでは自我境界の形成されている人も形成されていない人も同じである。

ところが自我境界の形成されていない人は、他人の気持ちは自分の手足と同じように動くのが当たり前と感じているから、他人の気持ちが自分の望むように動かないと怒り出す。

極端な場合にはパニックになる。

他人に対する自分の望みが自分の要求になってしまうのが、自我境界の形成不全の人である。

別の言葉でいえば、

個性化の未完成でもあるが、さらにいえば、その要求は神経症的要求でもある

疲れて帰宅するビジネスマンは誰だって、家の中が明るい笑顔に満ちていることを望むだろう。

そしていたわってもらえればうれしいだろう。

しかし、自我境界の形成されている人にとってそれはあくまでも望みである。

そうある「べき」で、そうなっていなければ不当なことであるというわけではない。

自我境界の形成されている人、個性化の完成している人にとっては、それらはあくまでも願望である

要求ではない。

神経症的要求というのは、他の人にとっては願望であることが、要求になっていることである

家には家でいろいろなことがあるだろう。

子どもがぐずっている、隣家の下手なピアノがうるさくて赤ん坊が寝付けない、今月のローンの支払いができるかどうか心配である、などなど。

自我境界が形成されている人は、帰宅したときに家の中が自分の望むような雰囲気になっていなくても、すぐにカーッと来ない。

ところが自我境界の形成不全な人は、身近な人々の気持ちが自分の手足のように動くと感じてしまっているから、自分の望むように動かないとカーッとなってしまう。

「俺がこんなに疲れて帰ってきたのに」と怒り出す。

そしていったん怒りだすと、なかなかこの不快な気持ちから抜け出すことができず、夜中まで延々と家の者をせめたてる。

相手の気持ちは相手の内づらの法則に従って動くのであって、こちらの望みに従って動くのではないということが、頭でわかっても感じとしてつかめないのが自我境界の形成不全の人である。

個性化の未完成な人である。

神経症的要求を持つ人である。

母親が忙しさから解放され、一息ついて紅茶を飲み出した。

とたんに赤ん坊がワーッと泣き出した。

自我境界の形成不全な母親はカーッとなる。

「ああ、まったく、人がせっかく紅茶を静かに楽しもうと思ったのに」と怒る。

自我境界の形成されている母親だって同じように感じるが、カーッとなって怒ったりはしない。

赤ん坊が何をいつどう感じるかは、自分の決めることではなく、赤ん坊に任せる以外にないと感じているからである。

他者の自己化が行われていない。

神経症的要求を持っていない母親である。

他人が何を望み何を感じ、何を楽しみ何を怒るかは、他人の問題であって自分の問題ではない

そのことが感情としてわかっている。

つまりそのように感じ取れる。

これが自我境界が形成されているということである。

個性化の完成した人である。

自我境界ができていない母親は、子どもが自分と違った感じ方をするのが面白くない。

まるで自分の手足が自分のものでないような不当な感情を抱く。

まさに自己中心的な親である。

自己中心性とは「他者がいない」ということである。

そして、常に子どもが自分の感じ方を変えるように圧力をかける。

やがて子どもは、母親が望むように感じようと努力し、自分を失っていく。

そしていつか、自分は何が好きであるかもわからなくなる日が来る。

自我境界の形成不全な親といると、ただ一緒にいるだけで子どもは圧迫を感じる。

ところがこのような母親は、自分の子ども以外には、外づらがよいことがほとんどである。

母親は自我が未確立だから、他人を前にして不安である。

その不安への対応として迎合する。

迎合することで見を守る。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには、自我境界を鮮明にすることである。

※参考文献:自分の受け入れ方 加藤諦三