自分を安売りしないではいられない萎縮してしまう人達

生きるエネルギーは誰にでもある

問題はそのエネルギーをどう使うかである。

非生産的に使う人もいれば、生産的に使う人もいる。

自分が幸せになるように使う人もいれば、自分が不幸になるように使う人もいる。

アメリカにToxic Peopleというタイトルの本があるが、毒になる人々である。

他人の心に毒を盛ることにエネルギーを使う人もいれば、他人を励ますことにエネルギーを使う人もいる。

とにかく人を不愉快な気持ちにさせることにエネルギーを使う人がいる。

自分のことを考えてみれば、誰でも思い当たる体験だろうが、一緒にいて心が安らぐ人もいれば、不愉快な気持ちにさせられる人もいる。

それは社会的地位や富とは関係ない。

その人といるとなぜか元気になれる

逆に、その人といるといつも「いやーな気持ちになる」人もいる。

同じに見える人間なのだが、とにかく人は相手の心に毒を盛る人もいれば、相手の心に栄養を与える人もいる

オーストリアの精神科医ベラン・ウルフは「幸せは運命で決まるのではなく、生き方で決まる」という。

生産的いい人か非生産的いい人かは性格、生き方で決まる。

非生産的いい人が高齢になると悲劇である。

老いるということは賛美をもらう生き方ではない。

老いたら老いた生き方がある

老いてきても若い頃のように「わーすごい」という生き方をしようとしてしまう人が、高齢の非生産的いい人である。

歳をとったら知恵の職人になる。

何を素晴らしい人生と思っているか。

そこに勘違いをしている萎縮してしまう人がいる。

生産的構えの人とは幸せな人ということである。

苦しみや悲しみは人生に必ず伴っている。

苦しみや悲しみがないことが幸せという意味ではない。

「生産的生命とは理性的で、自発的で、創造的で、愛情のある生命である」

誰もが美人に生まれるわけではないが、誰もが生産的になれる。

美人で不幸な人もいれば、不美人で幸せな人もいる。

「生産的であるということは、他人の生産性を害することなしに、自分自身のポテンシャルを生み出すことである」

他人の生産性を害する人が、Toxic Peopleである。

そして萎縮してしまう人は自分の生産性も害している。

他人の心に毒を盛っている人は、じつは自分の心にも毒を盛っている。

他人の心に毒を盛っている人は、そのことに気が付いていない。

なんで自分の人相が悪いのかに気がついていない。

「人は生産的である必要がある」

人は単に生存のために働くだけではなく、自分の可能性を創造し、新しくする必要がある。

萎縮してしまう人はいままでに相手のお気に入りになるためにどれだけ自分を変えようとしたことか。

そしてその度に萎縮してしまう人はどれだけのストレスと、どれだけの不幸を味わってきたことか。

人が生まれつき持って生まれた潜在的可能性は、相手に気に入ってもらおうとすることで実現することができない。

自分を変えることはできない。

その人はその人でいい。

私たちが日々苦労していることの最大の問題は人間関係である。

親戚関係の付き合いでも、家庭生活でも、仕事場でも、友達との関係でも、とにかく「人とうまくやる」ことに神経をすり減らしている

そして多くの萎縮してしまう人はこの人間関係の難しさの中で消耗し、燃え尽きていく。

それが非生産的いい人である。

萎縮してしまう人は一生懸命なのだけれども消耗するだけで、充実感がない。

社会的な成果ばかりではなく、萎縮してしまう人は心の成果がない。

よく「結果を出す、結果を出す」と言うが、成果というのは社会的な成果ばかりではない。

毎日を楽しく生きることが結果である。

大切なのは心の成果である。

非生産的構えの人から生産的構えの人へ、変わるためのキーワードはPositive Noである

萎縮してしまう人を救う言葉はPositive Noである。

「非生産的人間は、空虚な自己を怖れ、常に自分を満たそうとする。

自己欺瞞と補給に囚われ、喜びや創造性や豊かさをつかめない」

いままで心理的にも経済的にも豊かになろうと努力しながらも、うまくいかない萎縮してしまう人がいる。

その萎縮してしまう人は例えば、人脈のつくり方が間違っていたのではないだろうか。

フロムの言うように自己欺瞞に囚われていたかもしれない。

「飛んで火に入る夏の虫」という格言がある。

行動はそんな感じなのである。

人が幸せになれるか、なれないかには人間関係は決定的に重要な要素の一つである

萎縮してしまう人は、その人間関係が悪い。

そしてその悪い人間関係を萎縮してしまう自分がつくっている。

例えば先に説明したToxic Peopleである。

そういう人と萎縮してしまう人はこちらからかかわっていく。

避けるべき人に萎縮してしまう人はこちらから迎合していく。

そして生きるのが萎縮してしまう人はつらくなっていく。

まず萎縮してしまう人は人間関係を反省することから始めなければいけない。

非生産的いい人はすべてを既存のカテゴリーで考えている

例えば友達というカテゴリーで考える。

いま自分が友達と思っている人は本当に友達か。

友達ではなくToxic Peopleかもしれない。

友達と思っている人が、本当に友達ならそんなに生きるのがつらいはずがない。

その第二は、自分の隠された真の動機に気が付くことである。

自分は良いことをしていると萎縮してしまう人は思っている。

非利己主義的な活動をしていると思っている。

非利己主義的な行動に隠された真の動機は、非利己主義とは違うかもしれない

萎縮してしまう人は単に人に良く思ってもらうためかもしれない。

孤立を萎縮してしまう人は怖れているだけかもしれない。

行動特性と性格特性の違いを認識することである。

そうしたことを意識化した後で、萎縮してしまう人はNegative YesからPositive Noに変わる努力をする。

自分が変わって、人生を切り拓かなければならないときに、萎縮してしまう人はいままでどのタイプに相談していたであろうか。

間違った人に相談しているのである。

萎縮してしまう人というと、まず、いい顔依存症の人とか、受容的構えの人とか、安売り依存症の人とか、神経症的非利己主義の人とか、偽名現象の人とかを思い出す。

もちろんこれらの萎縮してしまう人はいろいろな点で重なっている。

例えば言いたいことが言えないなどということは共通している

自分の必要性を萎縮してしまう人は主張できないことも共通している。

相手の言うことに萎縮してしまう人は振り回される。

相手の言うことが不当でも萎縮してしまう人は笑顔で承諾して、後で悔しい思いをする。

そして眠れぬ夜を過ごしたり、食欲を失って萎縮してしまう人は悩む。

萎縮してしまう人の共通点はPositive Noが言えないことである。

そしてPositive Noと反対のNegative Yesを言うのが委縮してしまう人である。

YesはYesなのであるが、萎縮してしまう人のYesは迎合である。

保護を求める神経症的非利己主義である。

世の中には「何であそこまで自分を安売りするのだ」と思われる萎縮してしまう人がいる。

安売りしないではいられないのである。

とにかく良い顔をする萎縮してしまう人がいる。

自分を安売りする萎縮してしまう人である。

しかも安売りしていることに萎縮してしまう本人は気が付いていない。

そこで周りには質の悪い人ばかりが集まる。

たいていは高慢な人の餌食になる。

ずるい人間はそのように自分を安売りする萎縮してしまう人を利用する。

ずるい人間は安売りしてくる人間をさらに叩いて買う

自分を安売りしないではいられない安売り依存症の萎縮してしまう人は、神経症的非利己主義の典型である。

萎縮してしまう人は自分を安売りしながら、心の底では悔しい。

そして無意識に萎縮してしまう人は怒りをためる。

安売りする萎縮してしまう人は誰に対しても無防備であるが、殊に神経症的要求をする人に対しては無防備である。

神経症的要求とは百円払って千円の御菓子を買おうとするようなことである。

当然買えると思っていること

安売り依存症の萎縮してしまう人は相手の好意を得るために自分を安売りする。

彼らの勤勉さは相手の好意を得ようとする勤勉さである。

相手への思いやりではない。

萎縮してしまう彼らは、自分を安売りしているうちに、本当に相手は安物と思いだしたということが分からない。

安売り依存症の人は千円のものを百円で売ってあげる。

すると始め相手は「儲かった」という気持ちになるかもしれないが、その安売りが続くと、本当に百円でいいと思いだす。

そして次に百円で売らないと、相手を「けしからん」と思いだす。

安売り依存症の人はなれなれしい人に注意をすることが必要である

ところが安売り依存症の萎縮してしまう人は、逆にこのなれなれしい人に自分を安売りする。

萎縮してしまう人は安売りすることでなれなれしい人にさらに舐められる。

なれなれしい人は弱い萎縮してしまう人を探している。

そして「この人は弱い」ということをとっさに見抜く才能がある。

自分が人に迷惑をかけることを萎縮してしまう人は恐れる。

しかし他人が自分に迷惑をかけることには萎縮してしまう人は抗議できない。

萎縮してしまう人はどうしても、人を利用する人の餌食になってしまう。

利用される不満を自分の中で処理できないで、最後には不眠症だ、自律神経失調症だ、うつ病だなどということになる

萎縮してしまう人は自分を安売りしているのに、いつのまにか相手は逆に高く買ってやったと思いがちである。

安売り依存症の人はしなくていい仕事をする。

してあげる必要がないことまで萎縮してしまう人はしてあげる。

自分の責任ではないことまでしてあげて、萎縮してしまう人は疲労困憊する。

その結果、相手はさらに高慢になる。

相手は萎縮してしまう人をたいしたことがない人間と思う。

萎縮してしまう人は自分に絶望している

妥協し、譲歩し、値下げして売る人は絶望しているとフランクルは言う。

なぜ絶望するのか?

それは長いこと自分でない自分を生きてきたからである。

ある意味で、絶望するのは当たり前のことである。

なぜ安売りするか?

萎縮してしまう人は他人に気に入られるために自分の安売りを始めてしまう。

人とつながっていたいから萎縮してしまう人は安売りを始めてしまう。

安売りしなければ、萎縮してしまう自分は相手にしてもらえないと錯覚する。

ありのままの自分には萎縮してしまう人は価値がないと思っている。

虐待を許すのは低い自己イメージが原因であるが、安売り依存症の萎縮してしまう人も同じである。

相手にとって都合の良い人間になることによってしか、萎縮してしまう人は人と接することができない。

不当に「尽くす」ということでしか相手と接することができない

ところが、こういう萎縮してしまう人は安売りする場所を間違える。

萎縮してしまう人は安売りする相手を間違える。

そんな人のために、気に入られようとしても何の意味もない人に萎縮してしまう人は自分を安売りする。

そういう人たちに、萎縮してしまう人は必死になって無理をして、その結果、神経症やうつ病になる。

相手に気に入られたいということがいかに愚かなことか、分からない。

神経症やうつ病になるような萎縮してしまう人は自分を卑屈なほど安売りする。

自分を安売りしながらも、萎縮してしまう人は根は自己中心的である。

相手に卑屈に迎合しながらも、萎縮してしまう人は心の底では自己中心的である。

だから本当は萎縮してしまう人の迎合は苦しい。

彼らは自分の才能は、たいしたことはないものと見なし、相手の才能を大変なものと見なす

萎縮してしまう人は一緒に仕事をして成功しても、自分の貢献を主張しない。

その人でなければできないことをしても萎縮してしまう人は「そんなことは誰でもできる」と考える。

逆に失敗すれば、萎縮してしまう人はそれは自分に力がないからと考える。

だからずるい人に萎縮してしまう人は利用されやすい。

彼らは自分を安売りしている上に、さらに自分のほうからずるい人に萎縮してしまう人は迎合していく。

実際に自分はおいしいサクランボをつくれているのに、サクランボをつくることには価値がないと思う

誰でもできるわけではないのに萎縮してしまう人は「そんなことは誰でもできる」と考える。

では、なぜ萎縮してしまう人はそう言ってしまうのだろうか。

それは、萎縮してしまう人はサクランボをつくることを楽しんでいないからである。

自分に絶望して、萎縮してしまう人はマゾヒスティックになって「そんなことは誰でもできる」という言葉で自分を慰めている。

「皆のため」と言うがじつは「自分のため」の萎縮してしまう人

「他人のために生きること」と、「自分のために生きること」が矛盾していると思っている人は、神経症である。

自分を犠牲にして他人のために生きると、萎縮してしまう。

心理的に健康になればなるほど、理性と感情の矛盾は解消されていく。

逆に神経症が深刻化すれば深刻化するほど、萎縮してしまう人は「自分のため」と「他人のため」は矛盾してくる。

息子の離婚の相談をする父親がいる。

「皆に幸せになってもらいたい」と口では言う。

本人も意識では本当にそう思っている。

相手の家の父親も「子どもが可哀想だから、元の鞘に戻れ」と言う。

両家の両親を巻き込んで2年間。

じつは、父親は息子に相談されるのが嬉しい。

息子の悩みが解決しないのが嬉しい。

自分が重要人物であり続けられるからである。

意識の上では「解決しよう」。

無意識では、このトラブルが生き甲斐

トラブルが解決しない限り父親は自分の居場所がある。

この父親は実存的欲求不満である。

その実存的欲求不満の解決が息子の離婚問題である。

こういう人は表面的にはいい人であるが、萎縮してしまう構えの人であり、周囲の人を引っかき回す。

地域社会で隣近所のトラブルに首を突っ込んでくる高齢者がいる。

たいてい「みなのため」と言うが、じつは自分の実存的欲求不満の解決が目的である。

つまり隣近所のトラブルが生き甲斐である

いい人を演じるが萎縮してしまういい人であるばかりでなく、周囲の人を不幸に追いやる。

こういう萎縮してしまう人は癖のある人である。

表面いい人だけれども疲れる人である。

本当はいい人ではない。

フロムのいう神経症的利己主義がまさに非生産的人である。

神経症的利己主義の「神経症的」の部分が「非生産的」ということであり、「非利己主義」の部分が「いい人」である。

非生産的いい人か、生産的いい人かを分けるのは努力するか、努力しないかではなく、努力の動機である。

人は努力すれば良いというものではない

萎縮してしまう人の動機は、他人に自分をよく印象づけようとすることである。

批判されまいとして萎縮してしまう人は仕事熱心。

相手の好意を萎縮してしまう人は得ようとする勤勉さ。

何のための真面目さか。

保護してもらうための真面目さ、注目を求めるための真面目さ、他人の気を引くための真面目さ。

他人から容認され、受け入れられることが萎縮してしまう人は心の安全装置になっている。

時に極端にいい人を萎縮してしまう人は演じる。

神経症者は極端にいい人か、冷酷なまでに利己主義であるという

極端にいい人を演じなければ、萎縮してしまう人は人に「自分の本心が見透かされる」と怖れている。

「自分のサディズムに対する反動形成として極端な気遣いを発展させた人は、この『美徳』を、そのサディズムがあらわになった場合と同じ効果をもたせて、人を支配したり、拘束したりするために使用するであろう」

自らのサディズムを愛と合理化している限り、その萎縮してしまう人が救われることはない。

つまり真の自己にたどりつくことはない。

そうした意味で合理化は人を殺す。

「サディストは、破壊したり、支配したりしようとする自分の願望に気づいていない」

合理化している限り萎縮してしまう彼らが生きている意味、幸せ、生きている充実感等々を得ることはない。

萎縮してしまう人はいい人を演じると憎しみがたまる

フロムの言葉に神経症的利己主義という言葉がある

非利己主義であるからどう考えても萎縮してしまう人は「いい人」である。

しかし現実にそういう萎縮してしまう人は消耗し、人間関係に挫折している。

それはなぜか?

「心が愛に満ちていないのに”善良な方法”をとっても無駄です」

萎縮してしまう人が他人のために何かをしても、他人は幸せを感じない。

恩を着せられて萎縮してしまう人はストレスになるだけである。

表面的にはいい人なのであるが、萎縮してしまう人は何をしてもその見返りを期待する。

そのことで何かをしてもらったほうはストレスを感じてしまう。

表面的にはいい人であるが、心が憎しみに満ちている人の症状である

萎縮してしまう人は何をしても最終的にうまくいかない。

徒労である。

なぜ無意識に萎縮してしまう人は憎しみを持ってしまうのか?

それは愛されたい、好かれたい、認められたい、嫌われたくない、ということから憎しみの感情は表現されないまま無意識に蓄積されていくからである。

そうして人格に問題を抱えた萎縮してしまう人になる。

内心の怒りを抑えて依頼のすべてに「ええ、いいわ」と答えれば、いい人になるが、萎縮してしまう人は周囲との適応に消耗してしまう。

そういう萎縮してしまう人は頑張るわりには成果が少ない。

長い眼でみると萎縮してしまう人は職業生活でも先細りである。

だからこそ最終的には萎縮してしまう人は人間関係に消耗し、憂鬱になる。

嫌われることを恐れる萎縮してしまう人は自分が何をしたいのか分からない

自分が何をしたいかが分からなくなっている心理状態である

自分が好きな人も嫌いな人も分からない。

スチューデント・アパシーと萎縮してしまう人は同じ心理状態である。

スチューデント・アパシーとは大学生の無気力であるが、彼らは自分が何をしたいのかが分からない。

うつ病者の義務責任感が強いのも同じことである。

義務責任感が強いのは望ましいことであるが、うつ病になる。

彼らの行動は望ましいが、その行動の動機が「人に好かれたい」とか「人から拒絶されるのが怖い」とか、他人に重心が行ってしまっている。

長いこと嫌われるのを恐れて生きてきた結果、萎縮してしまう人は自分が何をしたいかが分からなくなってしまった。

「感情の貧困化」である

萎縮してしまう人は気に入られたいという欠乏動機で長年動いていると、自分の好きなことが分からなくなる。

マゾヒストの意志は自己破壊的に働く。

これが自己消滅型解決である。

マゾヒズムはよく合理化される。

忠誠、愛、ことに自己犠牲的愛に合理化される。

自己犠牲的献身は強度の依存性の表れとフロム=ライヒマンは見事な指摘をしている。

自己犠牲はトラブルの自己消滅型解決の典型である。

マゾヒストがマゾヒストと自覚されないで、自分を愛の人と意識している

ナチス親衛隊がヒトラーに忠誠を誓う。

親衛隊のモットーは「わが名誉、それは忠誠」である。

じつは単なるマゾヒストである。

好かれたい、嫌われるのが怖いという現代人は「わが名誉、それはあなたへの忠誠」である。

それが萎縮してしまう人である。

もう自分が本当は何をしたいのかが萎縮してしまう人は分からなくなっている。

自分が何をしたいかがわからないからこそ萎縮してしまう人は「あなたさえ幸せなら、私はそれでよいの」という非利己主義になる。

「あなたさえ幸せなら」は非利己主義の言葉であるが、自己不在を表している言葉である。

それを理解するためには、神経症的非利己主義の母親と子どもの関係を見ればよい。

「あなたさえ幸せならお母さんはそれでいいの」と言われて育った子は心理的に成長できていない

子どもは神経症的非利己主義の母親が無意識の領域で抱いている憎しみに影響されてしまう。

生への憎しみが徳という仮面をかぶって登場したのが神経症的非利己主義である。

萎縮してしまう人は行動を見るといい人である場合が多いが、心の底に憎しみを持っている。

「神経症者は冷酷なまでに利己主義か、あまりにも非利己主義である」というが、まさにその通りである。

譲りすぎる萎縮してしまう人は、じつは誰よりも我がままで自己中心的である。

しかも本人がそれに気がついていない。

人のために何かをした後に「私がこんなに、我慢しているのに」と言うように思う

したがってその非利己主義的な行動の後に萎縮してしまう人はものすごく不満になる。

受動的人間は、相手に気に入られようとするが、萎縮してしまう人は行動の後に不満になる。

フロムのいう神経症的利己主義は利己主義の反動形成の面もある。

つまり萎縮してしまう人は本当はものすごい利己主義であるが、それを自分の意識から排除しようとして、逆に極端な非利己主義を誇示する。

人を愛する能力、楽しむ能力が萎縮してしまう人は麻痺している。

楽しむ能力が麻痺しているということは、恋人と一緒にいても楽しくないという類いのことである。

人は楽しいことがあればなんとかイヤなことも我慢できるし、やる気も奮い起こせる。

しかし、楽しいことがないのに「頑張れ」と言っても頑張れない。

※参考文献:自分の人生を生きられないという病 加藤諦三著