今は、ごく一般の家庭でも、虐待が起きやすくなっている。

明らかに痕跡が残る身体的な虐待でなくても、過度な支配や厳格さで、こどもを心理的に支配し、従わないと罰を与えるという形での心理的虐待は、頻繁に起きている問題だといえるだろう。

最もよくあるケースは、勉強や習い事に親が一生懸命になるあまり、子どもの意欲や関心とは無関係に無理強いし、従わなかったりできなかったりすると、感情的に叱ったり怒鳴ったりして、ときには暴力まで振るってしまうというものである。

2016年8月には、勉強に取り組もうとしない我が子に腹を立て父親が刺し殺してしまうという痛ましい事件も起きている。

それは決して特別な家庭の問題ではなくなっている。

もう一つありがちなケースは、子どもの行動上の問題について指導しようとして、それが行き過ぎてしまい、虐待になってしまう場合だ。

しかし、どちらも構造は共通している。

親が自分の基準や期待を子どもに求めようとして、期待外れだとそれが許せず、怒りをぶつけてしまうというパターンである。

この構造の特徴は、親側の基準や期待を一方的に子どもに押し付けて、それに応えたら「良い子」と評価するが、答えられなかったら「悪い子」とみなして罰を与えるという構造だ。

これは一方的なコミュニケーションに陥った状態であり、安全基地の条件である応答性、つまり、子どもからの反応を受け止めながら、相互的なやりとりを重視して物事を進めていくということからも、また、相手を評価せずにありのままの存在を肯定的、共感的に受け止める、ということからも外れている。

相互性を欠いた一方的な押し付けと、評価に縛られた子どもは、主体性を奪われるばかりか、逃げ場所を失ってしまう。

家庭は、安全基地とは正反対の、「危険基地」や「強制収容所」となってしまう。

それは、指導という名の虐待に他ならない。

いかなる指導も、虐待の様相を帯びてしまうと、子どもを伸ばす方向には役立たず、子どもの安心感を脅かし、主体的な意欲を奪い、もっと問題を深刻にしてしまう。

勉強ができるようになるために、と思ってしたことが、かえって子どもを勉強嫌いにしてしまい、拒絶反応を起こすようになるケースも珍しくない。

これは子どもの才能を潰す行為でしかない。

また行動上の問題を治そうとして厳しく指導したばかりに、問題行動がさらにエスカレートし、反抗や非行が激しくなることも多いし、行動上の問題は改善したかに見えても、もっと厄介な問題―愛着障害―たとえば無気力や自己肯定感の欠如など―を生じてしまう。

ここで気になるのは、医学モデルによる診断と治療も、一つ間違えば虐待と同じ構造になってしまう危険があるということだ。

親が自分の基準から外れた子を「悪い子」とするだけでなく、医学までもが、親ではなくその子の方を「異常」と診断することは、虐待に加担することにならないだろうか。

※参考文献:愛着障害の克服 「愛着アプローチ」で、人は変われる 岡田尊司著