虚しい人は自分をよく見せようとすると、いつの間にか他人の気持ちを無視することになる

誰もあなたを見下してなどいない

恥ずかしがり屋の虚しい人というのは、どうしても誤解される。

ある恥ずかしがり屋の人で、友人が出来なくて、学校や職場と家にだけいるという虚しい人がいる。

そのたいていの虚しい人は、他人が何かに誘ってくれるのを待っているのである。

虚しい人は自分のほうから、何かを言い出せない。

友人が何かをしようとしているとき、自分も参加させてくれ、となかなか言えない。

参加したらそこで何が起こるかわからない。

虚しい人は参加して、いろいろなことをうまく処理できるだろうか、と不安になる。

そもそも恥ずかしがり屋の人というのは、自己評価が低い

虚しい人は他人が実際の自分を知ったら、自分に失望するだろうと思い込んで他人と親密になることを恐れる。

また、参加させてくれといって断られることを恐れる。

あるいは虚しい人は自分を誘ってくれないのは、彼らが自分を好きでないからだろうと解釈したりする。

ときには虚しい人は自分が参加することは、彼らに迷惑なのではないかと思ったりもする。

ところが、他人は反対に、誰それは一人でいたいから、自分も一緒に行きたいと言わないのだろうと解釈する。

虚しい人「自分=恥ずかしい」という心の病

イギリスの詩人、アルフレッド・テニスンの詩に、「彼女は恥ずかしがり屋であった、私は彼女が風邪を引いていると思った」というのがある

アメリカの心理学者のジンバルドーの本にも「年齢問わず、恥かしがり屋の人はよく誤解される」と書いてある。

恥ずかしがり屋の子どもはあえて質問しようとしないし、物事をはっきりさせようとはしないし、学校などで助けが必要なときでも助けを求められない、というのである。

恥ずかしがり屋の虚しい人は、ここに書いてあるように、物事をはっきりさせないで、その場をにごしてしまう。

それは虚しい人がはっきりさせようとして、他人に何かを聞くのが怖いからだし、とにかくはやくその場を逃れたいと感じているからである。

虚しい人は人と接すること、人と接している今の状態、なじみのない今いるところ、なじみのない人々、知っている人々、とにかくそれらから逃げ出したいと感じているから、わからないことをはっきりさせるまで、その場にとどまることができないのである。

とにかくその場をやり過ごす、そのことばかり考えているから、物事をはっきりさせようとはしないのである。

虚しい人はその場でまずく振る舞ってしまうことを恐れているから、どうしてもはやくその場を終わらせたいと焦ってしまう。

そして、虚しい人は必要な助けを求めない。

なぜであろうか。

それは、一つには虚しい人は自分は他人の助けを求めるに値しない人間だと心の底で感じているからである。

また、虚しい人は助けを求めて他人から負担に感じられるのを恐れるからである。

周囲の人はどう思うか

あの人は助けを必要としていないのだろう、あるいはあの人は私たちを信頼していないからだろう、と思うだけである。

周囲の人を信頼していないのではない。

逆である。

虚しい人は周囲の人に悪く思われるのを恐れているのであろう。

好意をもってもらいたいと思っているのである。

だから虚しい人は助けを求めないのである。

恥ずかしがり屋の虚しい人は、自分が他人の好意を得ていると感じていれば、その好意を失いたくないから助けを求めないのである。

ところが、助けを求められなかったほうは、自分を信頼していないから助けを求めないのだろうと感じる。

そして恥ずかしがり屋の虚しい人を、親しみがもてないと感じる。

恥ずかしがり屋の虚しい人は誘われるのを待っている。

しかし周囲の人は、あの人は私たちに興味がないのだろうと思う。

興味がないから、一緒にやろうといって自分たちのところにこないのだろうと思う。

助けの必要なときは助けを求める。

そのほうが人々から信頼を勝ち得るのである。

虚しい人はどうしたら「ありのままの自分」に自信がもてるか

自分に弱点があったのでは、他人は自分を受け入れてくれないと錯覚している虚しい人は多い

アメリカの精神科医、カレン・ホルナイによると、自己蔑視している人はそうであるという。

ではなぜそうなるのか。

おそらく虚しい人の敵意の抑圧がその原因ではなかろうか。

虚しい人は自分の心の中に実際に感じている敵意を抑圧する。

するとその虚しい人の抑圧された敵意は他者へと投影される。

つまり、虚しい人は他人が自分に敵意をもっているかのごとく感じる。

虚しい人は自分の心の中にある敵意を他人のなかに感じとる。

実際には、他人はこちらに敵意などもっていない。

しかし虚しい人は自らの敵意を抑圧したがゆえに、かえって他人のなかに敵意を感じてしまう。

虚しい人は敵意のある他人に受け入れてもらうためには、完全でなければならない。

そのように考えるのは当たり前であろう。

他人がもしこちらに敵意をもっているとすれば、こちらの弱点は攻撃の目標でしかない。

他人の心のなかに敵意を感じとった虚しい人が、自分に弱点があったら自分は受け入れられないと感じても当然である。

虚しい人の不安を安らぎに変える「心のあり方」

よく眠ろう眠ろうとするから眠れないというが、その通りであろう

ところで虚しい人は何でそんなに眠ろう眠ろうとするのであろうか。

それはたとえば、今夜ぐっすり眠っておかなければ明日がつらいからであろう。

明日の仕事が厳しければ厳しいほど、人は今夜ぐっすり眠っておこうとする。

ところが虚しい人は明日のことが不安であれば不安であるほど眠れない。

虚しい人は明日の仕事の厳しさを乗り越えられるかどうか不安であれば不安であるほど寝付けない。

しかし虚しい人が不安であるというのは、明日の仕事がつらいからであろう。

つまり虚しい人は明日の仕事に対して逃げの姿勢になっているのである。

虚しい人は明日の仕事に立ち向かうのではなく、明日の仕事をいかに容易にするかという逃げの姿勢になっている。

逃げの姿勢になれば不安になる

虚しい人は結局もし明日の仕事がうまくいかなかったらどうしようという心配なのである。

眠ろう眠ろうと必死になってしまうのは、失敗することに対する恐れである。

つまり虚しい人は眠ろう眠ろうとするから眠れないというより、不安と恐れから眠ろうとすることで眠れないのである。

不安と恐れのない者が眠ろうとすれば、時間がくれば眠れる。

虚しい人は小心だから、自分が疲れて、つらいことが嫌なのである。

それを避けようとするから、必死になって眠ろうとしてしまうのである。

虚しい人は自分がつらい思いをしないように、なるべく楽にしていられるようにと自分を大切にするあまり、不安になり、臆病になってしまったのである。

自分の心のなかに、明日の仕事を成し遂げようとする意志があれば、むしろ眠れるのである。

うまくいかなかったらどうしようという不安よりも、成し遂げてやるぞという意志が眠りに大切なのである。

自分の成し遂げるべきものがはっきりとわかっている者は、それほど不安になるものではない。

虚しい人は自分の注意が仕事に向いていないで、他人がその仕事ぶりをどう評価するかということに注意がいっているから不安になり、ストレスを感じ、疲れるのである。

虚しい人は「不安の預言者」になるな

自分はなぜ明日のことがそんなに心配なのか、考えてみることである

虚しい人はその心配の核のところに、他人が自分をどう評価するかということが入っているのではないだろうか。

明日の仕事をうまくやらなければ自分の評価を落とすのではないかという恐れが、心配の核にあるに違いない。

だからこそ、虚しい人は眠ろう眠ろうとしても眠れないのである。

眠ろう眠ろうとしても眠れないときには、たいていその虚しい人の関心が否定的なほうに向いている。

建設的なほうに関心が向いていれば、眠れるものである。

勝とうとする積極的な意志を失うと、負けたらどうしようという不安や恐怖に心は食い荒らされる。

明日の仕事が忙しいから今夜眠れないのではない。

虚しい人は明日の仕事の結果が心配だから眠れないのである。

明日の仕事は、今夜ぐっすりと眠って快調な体でなければ大変だと一人で思い込んでいるだけかもしれない。

虚しい人は戦う前から尻込みしているのである。

明日になったら明日になったで、案外やりおおせるものである

虚しい人は「こうなったら大変だ」と思い込んでいるだけなのである。

「今夜眠れなかったら大変だ」と思い込んでいるだけなのである。

虚しい人はそう思い込むことで疲れているのである。

ストレスや不安でエネルギーを使い、ストレスや不安で眠れない。

虚しい人は決して明日の仕事そのものが大変なのではなく、その仕事との取組み方が問題なのである。

明日の仕事のことを考えているのなら眠れないことはない。

精神科医のデヴィッド・シーベリーの本の中に出てくるローニング夫人という人の例である。

ローニング夫人は不幸せであった。

夫のノイローゼが彼女の生活を深刻に脅かしていたのである。

夫は人々を恐れ、終始傷つき、病的な自己中心の生活を送っていた。

彼女は夫のノイローゼに泣かされてきた。

ところがある日、夫人は夫の恐怖を真面目に観察し始めた

するとそれがおもしろくなり、とうとう物語を書き始めたのである。

主人公に夫の生き方をさせてみた。

そうなると夫の行為を観察する機会をかえって望むようになる。

夫に対してこのような関心をもつようになって、夫人は不安から解放された。

ローニング夫人が夫を観察したように、自分を観察するのである。

自分はなぜ眠れないのか。

それを観察していると、虚しい人はやはり自分の関心が否定的なことにばかりいっていることに気がつく。

そして虚しい人は明日の仕事そのものより、明日の仕事の結果に不安になっていることがわかる。

心理的安定の特効薬

神経症等の治療で「敵意の解放」という事が言われる

たしかにそれは効果のあることであろう。

しかしそれが全てではない。

カレン・ホルナイも”Our Inner Conflict”という本のなかで、敵意の解放の効果は制限されたものであると述べている。

虚しい人は敵意の解放とともに他方でその人の情緒の成熟が必要なのである。

幼児的自己中心性を残していたのでは、やはりまた敵意は蓄積される。

低い自己評価から高い自己評価へと自己評価が変化し、幼児的自己中心性が解消されて神経症その他は治るのであろう。

甘やかされてスポイルされた小さな子どもは、周囲が特別に自分に注意を払わないと、何もやる気をおこさない。

甘やかされてスポイルされた子どもは、たとえば先生からえこひいきされないと、勉強しないなどということがある。

また、虚しい人は自分はえこひいきされて当然だと感じている。

「甘やかされてスポイルされた」という表現には、じつは矛盾がある

ただ一般的にそのように使われることがあるので使っただけである。

子どもが自分でできることまで親がしてあげるということがある。

これは親の心理的必要性を満たすための行為であって、決して子どもをかわいがっているのでも、子どもを甘やかしているのでもない。

子どもは自分でやりたいのである。

子どもが自分でできることを自分でやりたがっているのに、親がしてあげたいからしてあげることで、子どもの積極性を殺してしまうのである。

このような親は逆に、子どもが必要としている助けは与えてないものである。

つまり子どもを自分の未成熟な情緒的満足の手段に使う親がいる。

このような親が子どもの自己中心性をいつまでも残してしまうのである。

このような親に育てられると子どもは大人になっても幼児的自己中心性をぬけられず、自分を特別視する

虚しい人は自分が他人と違う特別な人間であるかのごとき錯覚におちいっている。

他方でこのような虚しい人は自分に失望している。

虚しい人はこの二つの自分についての感じ方の衝突で、心の中が大混乱しているのである。

この心の中の大混乱の結果、胃が痛くなったり、肩が凝ったりということになる。

心の健康とは統合性である。

虚しい人は一方で自分は特別に人々から注目されるべく生まれた人間であると感じ、他方では自分は人々の注目に値しないと感じるような心が不健康なのである。

心が病んでいる虚しい人というのは、このように分裂、葛藤していることをいう。

虚しい人はなぜ、相手に尽くす一方になってしまうのか

アメリカの心理学者、ジョージ・ウェインバーグは、抑圧の強い人は、他人が自分に何を期待しているかということについて誤解すると書いている

しかし、なぜ誤解するかということについては書いていない。

それは、投影という心理作用である。

自分がある人を憎んでいる。

敵意をもっている。

しかし道徳的にその人に敵意をもつことは許されない。

虚しい人はそんなとき、その敵意は抑圧される。

自分はその人に敵意がないと意識する。

抑圧されたものは投影される。

虚しい人は相手のなかに敵意を見つける。

そして虚しい人は自分が憎まれているかのごとき錯覚をする。

抑圧の強い虚しい人は、実際の相手を見られない。

ある虚しい男性が相手の女性に性のみを求めていた。

しかしその気持ちは抑圧された

虚しい本人は自分が性のみを相手に求めているなどとは意識していない。

そして、その抑圧されたものは投影される。

つまり、相手の女性が虚しい自分に主として性の満足を求めていると錯覚する。

その虚しい男性は、その女性の期待に圧倒されて、性不能におちいった。

しかし実際には、その女性は性の満足のみをその虚しい男性に求めていたのではない。

その相手の男性を本当に好きだったのである。

しかし虚しい男性のほうは、自分が好かれているということが実感できない。

女性がいくら「あなたのそばにいるだけで幸せよ」といっても信じられない。

その虚しい男性は、自分が愛されるに値しない男性であると心の底で感じているのである。

虚しい人はこの「自分は愛されるに値しない」という感じ方がある以上、何を言われても信じられないであろう。

ところが、虚しい人はそれに加えて先にいった投影が加わって、相手の女性は自分に対して性の満足のみを求めているから、それを与えてやらない限り、自分は見捨てられるに違いないと思い込むのである。

そして虚しい人のこのような感じ方というのは、大変な屈辱である。

言い換えれば、相手から侮辱されているということである

もちろん相手が実際に侮辱しているわけではなくて、虚しい本人が一人で勝手に相手を誤解して、そう思い込んでいるだけである。

しかし、虚しい人はたとえ実際と違っていても、本人の主観的世界では、それは真実である。

つまり、虚しい人は相手によって侮辱されている。

となると、それに対して憎しみをもつのが人間として当然である。

虚しい人は報復の気持ちが出てきて当たり前である。

こうなれば虚しい人は気持ちのうえではまったく離れている。

虚しい人はこれではいよいよ不能になるのは当然であろう。

性に限らず、相手に尽くさなければ相手からの好意を維持できないと思い込んでいる者は、同じプロセスで心の底に報復の気持ちをもっている。

虚しい人の自己犠牲的献身のようなものが、第三者から見てどこか心のあたたかさを感じさせないのは、そのためである。

やっていることはえらく立派なのに、何か底に流れるものが冷たいという人がいる

それは虚しい人は本人が意識していないにもかかわらず、報復の気持ちがあるからである。

そのように冷たい自己犠牲的献身をする虚しい人は、その人自身が相手から自己犠牲的に尽くされたいのである。

しかし、虚しい人はその尽くされたいという気持ちが抑圧されていることが多い。

そのために、虚しい人は尽くすことを相手から求められていると感じてしまう。

尽くされたほうはなんとなく束縛を感じて、堅苦しさを覚える。

与えることを喜びとするまでに、情緒的に成熟した人もいる。

そのような人に尽くされたときは、それほど束縛感など覚えないものである。

「尽くさなければ、愛されない」という思い込み

相手に尽くそうとする人は、相手に尽くさなければ自分は相手にとって意味がないのだという感じ方を身につけてしまう

先の性的神経症の虚しい男性も、相手の女性に性的満足を与えない限り、自分は相手の女性にとって意味がないのだという感じ方を身につけてしまっている。

この虚しい男性は抑圧と投影の悪循環のなかで、いよいよ自分の無価値観を強化していってしまうことになる。

虚しい人は相手に満足を与えない限り、自分は相手にとって意味がないという感じ方があると、その関係は本人にとって負担になっていく。

その感じ方が強くなればなるほど、その関係は心理的に負担になっていく。

そして強気と弱気の混在しているような虚しい人は、その負担すら認めることができない。

自分にとってその関係が心理的に負担になっているということを認めることは、自分の弱さを認めることである

したがって、なかなかその関係が自分にとって心理的に負担であるということが認められない。

しかし虚しい人は実際には、心理的に負担になっているし、自分の無価値感から相手に満足を与えようとすればするほど、心理的負担は増大していく。

そして虚しい人はこの心理的負担の増大とともに、生きる情熱を失っていくのである。

男女の関係に限らず、いろいろな人間関係はこのようにしてその虚しい人にとって負担になっていく。

その結果として、虚しい人は人間関係そのものが、自分にとって意味がなくなっていく。

つまりその虚しい人と一緒にいてもおもしろくなく、気が滅入るばかりだということになる。

虚しい人は誰といても、なんとなく陰気になってしまう。

そうなれば、周囲の人にとってもその虚しい人は一緒にいたい存在ではなくなっていく。

そして自分は他人の役に立たなければ、他人にとって意味がないだろうと思う虚しい人は、自分の心理的負担をどんどん増やしていく。

自分は役に立たなければ見捨てられるという不安を持っている虚しい人は、その心理的負担の増大とともに、どこかで抑うつ状態に落ち込んでしまうだろう。

今こそ「無価値な自分」を見つめる

他人の役に立つということは、社会的に見て望ましいことである

そのこと自体は否定できない。

ただ社会的に見て望ましい行動をとるということと、その本人の心理にその行動がどういう影響を与えるかということは別の問題なのである。

虚しい人は他人の役に立つというような、社会的に見て望ましい行動が繰り返されるうちに本人は、自分は本質的に無価値な人間なのだという感じ方を心の底で強化してしまうことがある。

心理的に成長し、自分は他人から愛されるに値すると感じている人が他人の役に立つことは、社会的に見ても本人にとっても望ましいことであろう。

他人の役に立つことが、その人にとって喜びとなっている人にとっては、それは個人としても望ましい。

虚しい人が他人の役に立つということ自体が心理的に悪いのではなく、他人の役に立たなければ自分は無価値なのだという感じ方をつくってしまうことが心理的に悪いのである。

他人に近づくために、そして他人との関係を維持するために役に立つということを使うということが、心理的には望ましくないということである。

『幸福論』で知られるスイスの哲学者、カール・ヒルティが動物を虐待するのはよくない性格だと言っている。

犬なら犬は何の役にも立たない。

番犬として犬を飼うとか、血統書付きの犬を飼って自慢するという場合は別にして、普通の犬とか小鳥とかを飼うということは、それが自分にとって社会的に何かの役に立つことを期待してではない。

犬なら犬は、社会的に何の役にも立たないが、心理的に安らぎを与えてくれたりする

それはまったく本質的な価値であって、経済的には負担なだけである。

社会的に役に立たないようなものを虐待するからこそ、自分が役に立たないような人間になってしまうことを恐れるし、役に立たなければ劣等感に苦しむ。

役に立たない動物を大切にかわいがるような人は、自分が社会的に能力がないとか、肉体的に弱いとかいうことで劣等感に苦しむということもないであろう。

自分の弱さを抑圧して虚勢を張ることもないであろう。

そういう人は、本質的に自己評価が高いのである。

※参考文献:自分を許す心理学 加藤諦三著