虚勢を張る人にはどんなに待っても、幸運はやってこない

会議などでも、こんなことができる、あんなことができると案をいいながら、一つとして実行しない人が多い

虚勢を張る人はそれでいて実際に実行した人を尊敬しない。

やろうとすれば虚勢を張る人は誰でもできるといわんばかりなのである。

「できる」ということと「実際に実行した」ということのあいだには本質的な違いがある。

「できる」ということ、「やろうとした」ということ、そのことと、「実際に実行した」ということではまったく違う。

千里の開きがある。

「俺も独立して仕事をしようとした」

「留学して本格的に勉強しようとした」

「こんな世の中くだらないから、一人で山にでもこもろうとした」

「サラリーマンなんてくだらないから、俺も農業をやろうとしたんだよ」

・・・しかし虚勢を張る人は実際にはしなかった。

人生を有意義にするのに必要なのは、いま述べてきたような虚勢を張る「単なる意図」ではなくて、それを実行する力である。

三十五歳の女性の悩みである

ご主人も三十五歳。

子どもが一人いる。

ご主人は自分と子どもを置いて家を出てしまった。

ときどきおみやげを持って子どもに会いに来る。

ご主人は勤めていた会社の部下と恋愛関係にある。

家を出る前には自分の家にその部下を呼んで夜中の二時、三時まで酒を飲んだりした。

「まるで夫婦気どりなんです」と虚勢を張る奥さんは言う。

たまりかねて、虚勢を張る奥さんがご主人に文句をいったりすると、そんなにしてはご主人がかわいそうだと、その部下が言う。

そんなふざけたことを許してはいけないとアドバイスを受けると、「私もいいました」とその虚勢を張る奥さんはいう。

それで離婚するつもりはないのかと聞くと、「別れるつもりはない」とはっきりという

それならそれで、家庭をきちんとするようにご主人と話しなさいとアドバイスされると、虚勢を張る奥さんは「私も話しました」とまた同じ答えが返ってくる。

たしかに問題の根本としては、ご主人が悪い。

しかしこの奥さんと話していると、「私は幸福になろうとしました」と不服になっている虚勢を張る人を想像する。

虚勢を張る人は私が幸福になろうとしたのになれなかったのは、周囲の人が悪いという論法である。

「私は成功しようとしました」、それなのに成功しなかったのは周囲の人の責任である。

「私は困難を克服したい、だから後は周囲が努力してください」

この虚勢を張る奥さんは要求が少ないようで、実は要求が過大なのである。

普通なら別れるか、実際に家庭生活が円満にいくように努力するかである。
努力したくない、別れたくないと虚勢を張る人は両方に固執する。

要求が多くてこの虚勢を張る奥さんは、身動きできなくなっているのである。

このような考え方、感じ方だと、どうしても何かにつけて、虚勢を張る自分を被害者の立場に置くことになる。

自分の不幸の原因が虚勢を張る自分の感じ方、考え方、要求にあることに気がつかない。

神経症的な考え方の人は自分にだけ何か特別いいことがあるのを待っている

その時代や、その年齢の人が共通に味わうような困難があっても、虚勢を張る人は自分には何か特別の幸運がめぐってきて解決されるように感じている。

虚勢を張る人は誰でもが味わう困難を、自分だけは回避できるように感じて、何もしないで待っている。

「何もしないで待つ」・・・それは甘やかされて育った虚勢を張る人の特徴ではなかろうか。

自分の力を使うことの喜びを知らずに育った虚勢を張る人の特徴ではなかろうか。

神経症的要求の特徴の一つ、「それにふさわしい努力をしないで」というのは、別の言葉でいうと「何もしないで幸運を待つ」ということである

虚勢を張る人は競争社会で努力をしないでも、自分にだけは何か特別の幸運がめぐってきて、人がうらやましがる財産を手にすることができるように感じている。

そのようなことはないと虚勢を張る人は口ではいうかもしれないが、実際にはそのための努力をしないで、いつかその日が来るように感じている。

だから自分の財産をつくるための努力を、虚勢を張る人は普通の人のようにすることはない。

普通であれば、それで財産がない生き方を覚悟するのであるが、虚勢を張る人はそれもしない。

なんとかなるだろうと虚勢を張る人は思っている。

楽観主義とも違う

虚勢を張る人は心の底のどこかで自分にだけは特別の幸運がめぐってくると感じているだけである。

自分の人生を自分の力で生きていこうという心の姿勢が虚勢を張る人にはない。

自分の人生に責任を持つという姿勢が虚勢を張る人にはない。

誰かがうまくやってくれる。

いや誰かがうまくやってくれる責任があると、心の底のどこかで虚勢を張る人は感じている。

だから困難がきても、虚勢を張る人は本気にならないのである。

虚勢を張る人が「普通に生きる」という豊かさ

カレン・ホルナイが説く神経症的要求の最後は、その要求の性質が復讐的であるということである。

ある母親の怒りである。

十六歳の高校一年生の娘が妊娠した。

相手は家庭教師として教えにきていた大学四年生。

娘もその相手も結婚したいと願っているようである。

しかしこの母親は、普通の恋愛ではないと解釈する。

「だいたいこんな年齢が離れていて、普通の恋愛とは違う」と主張する。

母親は二人を強引に別れさせた。

「高校生は高校生と恋愛するものです」という考え方である。

そこまでは古いコチコチ頭の母親と解釈すればいいのだが、その先がある。

彼女はこのニ十二歳の青年に、自分の娘を「一生傷ものにされた」と騒ぐ。

「相手を許せない」と「正義の怒り」を燃やす。

彼女は再三に渡って、「相手は成人です」「相手は大人です」と声を荒げる。

自分で強引に別れさせておいて、相手から慰謝料を取りたいという。

そして、この青年では話にならないから、その青年の両親に会ったという。

あるときは子ども扱い、あるときは大人扱い

欺瞞とは、このような立場の変更である。

相手の両親は、二人が結婚したがっているなら時機を見てという。

神経症的要求をする虚勢を張る人はよく正義に訴える。

「許せない」という正義の強調は、復讐心のカムフラージュである。

そして要求が復讐的であればあるほど、被った害が誇張される。

「一生傷ものにされた」という主張である。

こちらの受けた被害を思えば、自分は相手にどのような処罰をも科する資格があると感じる

虚勢を張る彼らには復讐がエネルギーになっている。

見返してやるという虚勢を張る気持ちが強い。

そして虚勢を張る人は執念深い。

いつまでも相手を責めていても虚勢を張る人は気がすまない。

彼らが意識していなくても、そのような虚勢を張る人には、無意識に復讐心が隠されている。

神経症的要求を持っている人は、公平に扱われていても、自分は他人に不当に扱われていると思っている

したがって、虚勢を張る人はいつも憤慨している。

自分だけが特別偉い立場に立とうとすれば虚勢を張る人はいつでも不満で、いつでも憤慨していなければならない。

自分では虚勢を張る人は正義の士のように感じている。

しかし、日々の生活で虚勢を張る彼らが正義にかなった生活をしているかというと、大変疑問である。

自分の神経症的要求を虚勢を張る人は正当化するために、「俺は男だからこのようにしなければ」などの理由を持ち出すこともよくやることである。

「俺は働いているから家では」「私は妻だから」「親戚だから助けてくれるのが当たり前だろう」等々となる。

虚勢を張る人は他人と同じ基準で評価されるのを恐れていないか?

神経症的な人は自分のユニークさを印象付けようとしている、とカレン・ホルナイはいう。

変わり者といわれる人がいる。

そういう人の中には、自分が人と同じ基準で評価されることを避けようとしている虚勢を張る人もいる。

人と同じ基準で評価されることを虚勢を張る人は避けるために、あえて変わり者でいる人である。

普通の人と同じ基準で評価されると、虚勢を張る自分は自分の望みどおりの高い評価を得られないということを、心の底の底で知っている。

そのように評価されたのでは、その虚勢を張る人の神経症的自尊心が満足しない。

そこで自分は特別な人間だということを虚勢を張る人は強調する。

他人の人と違ったモノサシで虚勢を張る人は測ってもらおうとする。

それは、その虚勢を張る人が自分を守ろうとしているからである。

虚勢を張る人は自分を守ろうとすればするほど、傷は深くなる

防衛的になった人ほど無個性な人はいない

そのもっとも無個性な虚勢を張る人が、極端に自分の個性を強調する。

その虚勢を張る人の個性的というのは、単に不自然というだけのことである。

自分を守ろうとしないで自然にしていれば、自然とその人の個性は表現されてくる。

だからこそ、真の個性にはいやみがないのである。

個性的ということは、普通ということである。

普通の人の方が本当は個性的である。

普通の人は、わざわざ人から普通の人と同じ基準で判断されることを避けるために、自分を偽ったりしない。

普通にしているということは、自然にしているということである。

普通にしているということは、格好をつけないということでもある。

つまり、自己実現的に生きているということである。

自分のできることをしているということである

虚勢を張る神経症的ということと、個性的ということは違う。

普通にしているということは、イソップ物語にあるように、「あの葡萄は酸っぱい」といわないことである。

酸っぱい葡萄も甘いレモンもないのが、普通ということである。

自分に価値があることを見せるために、虚勢を張る人は甘い葡萄を酸っぱいと言い張り、酸っぱいレモンを甘いと言い張る。

それは個性的というのではなく、虚勢を張る神経症的というのである。

自分のユニークさを印象づけるために、実際の自分の感じ方を偽る虚勢を張る人は、同じように個性的ではない。

神経症的な人は、虚勢を張る自分の要求を哲学に一般化することがある。

たとえば、自分が病気で知人が見舞いにきてくれないと、虚勢を張る人は会社より友情のほうが大切なのにと、相手の生き方、価値観を非難する。

あるいは知人が結婚式に出席してくれない。

すると、人間としてもっとも大切な日なのに、あいつは立身出世ばかりを大切にするくだらない男だ、という言い方を虚勢を張る人はする。

そして虚勢を張る自分は人間として、誰よりも立派な生き方をしているような口ぶりになる。

自分が気に入らないのに、それを哲学的にいったりする

自分のユニークさを強調するために、独特の哲学を持ち出す虚勢を張る人がいる。

虚勢を張る人はそれは本当の哲学ではなく、防衛的哲学である。

自分の傷ついた神経症的自尊心を虚勢を張る人が回復するために持ち出す哲学である。

神経症的自尊心の持ち主のやるすべてのことは、どうしたら虚勢を張る自分が傷つかないかというための行為になる。

自分の神経症的自尊心が傷つかないようにとすることに終始する虚勢を張る人の人生は、貧しい。

ところがそのような虚勢を張る人は二言目には、価値だ哲学だと持ち出して、いかにも自分は精神的に豊かな人であるかのごとく、他人に印象づけようとしている。

そして普通に生きている人の人生より、はるかに虚勢を張る自分たちの人生は豊かであると主張するのだが、実際にはもっとも貧しい人生である。

豊かに生きるとは、自分が傷つかないようにと、そればかりで生きないということである。

普通に生きるということが、もっとも豊かに生きるということではなかろうか。

虚勢を張る人はいまこそ、「本当の自分」と向き合うとき

悩む人というのは、たいてい人間関係において相手と自分との関係を間違って解釈している

虚勢を張る人は自分との関係においてしか相手を捉えていない。

相手には相手の人間関係があり、相手には相手の人生観があり、相手には相手の環境があるということが虚勢を張る人はわかっていない。

それが自己中心性ということでもある。

相手には虚勢を張る自分とは関係のない部分がある、ということがわかっていないのである。

また、自分にとって重要な人というのがいる。

自分が重要であるかどうかは、まったく別なのである

虚勢を張る人は自分にとって重要であっても、その人にとっては自分が重要ではないということがわかっていない。

自分にとって重要な友人がいると、その友人にとっても虚勢を張る自分は重要であると思い込んでしまう。

自分にとっては友人でも、その人にとっては、自分は単なる知人であるかもしれない。

相手が虚勢を張る自分とは関係のない生活を持っているということが、なかなか理解できない、自分とは関係のない相手の生活の部分に対する、無理解なのである。

自分の人生の責任は、自分でとるしかない。

自分に関係のある人はすべて、母親のように自分と接することが当然と思い込んでいる

しかしそのようなことにはならない。

そこで虚勢を張る人は怒りだす。

したがって虚勢を張る人は社会的に孤立していく。

社会的に虚勢を張る人は相手と関係していくことができない。

相手を理解できないということは、相手の心にふれていないということなのである。

相手に対する要求ばかりに虚勢を張る人は気をとられて、相手の要求が理解できない。

自分が相手と話がしたいとなると、虚勢を張る人は相手が他のことをしたいということに気がまわらない。

そのように相手の心が理解できない虚勢を張る人だから、友達ができないのだということが理解できない。

そして自分の相手に対する要求を、虚勢を張る人は正義の名において強制する。

あなたにはそうする責任がある、ということである

個人的な関係において、自分の要求を正義の名のもとに強制しようとしたら、自分は神経症的虚勢を張る人になっているなと反省することである。

虚勢を張る人は人との付き合いにおいて、自分の要求を正義の名のもとに強制するのは、すでにどこか心が病んでいるのである。

カレン・ホルナイも神経症的要求の特徴のところで、正義の強調は彼らが陥っている困難に対して、他人に責任を負わせようとすることだと述べている。

突然自分を襲った困難の責任は、虚勢を張る人にとっては他人にある。

このように考えれば、虚勢を張る自分の栄光化された自己像は傷つかずにすむ。

他人の罪責感を刺激するのは、それによって虚勢を張る自分の責任を逃れ、同時に栄光化された自己像を守ろうとするからである。

悩んで正義を強調する虚勢を張る人の話を聞いていると、自分には責任がないということを強調することが目的のようにさえ見える。

こんなになってしまったのは、すべて友人が悪いということである。

そんなに友人がけしからんのなら、その友人と別れればいいのに、その友人から決して離れようとしない

虚勢を張る人は自分が会社でうまくいかないのはおまえが悪いと妻を責める夫、自分が無気力になったのは友人が悪いと強調する若者、先生が自分のことを理解しないという学生、すべて物事がうまくいかないのは彼らが悪いと激しく責任を追及する。

そして、自分がこんなに悩んでいるのにということが、相手の責任を追及することを正当化する根拠の一つとなり、にもかかわらず、相手のこの冷たい態度は許せないと虚勢を張る人はなるのである。

強度の神経症になると、殺してやるとまでいいはじめることもある。

つまり虚勢を張る彼の感じ方のなかでは、自分がこんなに悩んでいるということがすべての現実なのである。

「それなのに」皆の態度は何だ、と虚勢を張る人はいうことになる。

そのとき皆もそれぞれ自分の困難と戦って生きているという現実は、虚勢を張る人にとって完全に無視される。

自分も他人も「特別扱い」しない「やさしさ」。

「自分がこんなに悩んでいるのに」ということがすべての現実になればなるほど、それに巻き込まれない人に対しては、どのような処罰を与えても正当であるという感じ方になる

それが友人を殺してやる、上司を殺してやる、先生を殺してやるということである。

虚勢を張る彼には、自分に対してすべての時間を捧げない人は、不正義なのである。

彼の正義は報復的正義なのである。

たとえ周囲のひとが、すべての時間をあげても虚勢を張る人は解決はできない。

カレン・ホルナイも”retributive justice”という言葉を使っている。

周囲の人間は悲鳴をあげる。

「自分がこんなに傷ついているのに」「自分がこんなに一生懸命なのに」と、虚勢を張る自分のことが極端に強調される。

逆に自分が他人を傷つけている、自分が他人の迷惑になっているということは、虚勢を張る人にはまったく頭のなかに浮んでこない。

自分がこんなに悩んでいるのはすべて周囲のある人が悪い、と虚勢を張る人はその責任を転嫁する。

そこで相手の責任を虚勢を張る人は追及しているのである。

自分が悩むことの責任は周囲にある、というのが彼の確信である

それにもかかわらず、その人達から決して離れないというのが神経症的な虚勢を張る人の特徴であろう。

つまり虚勢を張る人は責任を追及していない限り、自分が維持できないということである。

別の言葉でいえば、虚勢を張る人はその人達に心理的に依存しているということである。

もし本当に周囲がそんなに悪いなら、心理的に健康になれば、もうこんな人達から別れようということになる。

しかし、あなたのせいだと虚勢を張る人は責任を追及している人に、心理的に依存しているから離れることができない。

上司、同僚、先生にとっては、絡みつかれてどうにもできなくなる。

虚勢を張る人は自分だけ特別だと思っていないか

神経症的要求は、相手を滅ぼす

つまり本来関係のない虚勢を張る人に自分の悩みの責任を覆いかぶせ、あくことなく責める。

そして虚勢を張る人は何よりも自分の悩みは、他の人の悩みと違って特別なのである。

そのことを理解しない友人、上司、先生は、虚勢を張る人にとって殺人に値するほどけしからんことになる。

しかも矛盾しているのであるが、虚勢を張る人は自分の悩みは、普通の人などに理解できるものではないと確信している。

悩みを抱えた虚勢を張る学生が自分の大学の学生相談センターに行ったとする。

すると、学生は学生相談センターの人などにはとても理解できないと主張する。

虚勢を張る自分の悩みは特別で、高尚で、理解しにくくて、特別に重要なのである。

もし同じことを他の学生もいっていたなどといえば、虚勢を張る人は烈火のごとく怒りだす。

自分の神経症的自尊心が傷つくのであろう

つまり、自分は特別に重要な存在である、という感じ方が悩みの原点であるということが、虚勢を張る人はどうしても理解できない。

自分は多くの学生のなかの一学生にすぎない、自分は多くの社員のなかの一社員にすぎないということが、虚勢を張る人はどうしてもわからない。

社会がその人を多くの学生のなかの一学生として扱うことが、虚勢を張る人はどうしても許せないのである。

会社がその人を多くの社員のなかの一社員として扱うことが、虚勢を張る人はどうしても許せないのである。

自分のことだけを特別に考えないことが、虚勢を張る人は正義に反すると思ってしまう。

虚勢を張る悩んでいる人のいうことは間違っているというよりも、偏っている。

「私はこんなに悩んでいる」ということは確かであろう。

しかしそれだからといって、虚勢を張る人の周囲の人に対して特別な権利が生じるわけではない。

周囲の人に特別の要求をしていいというわけではない。

「自分はこんなに必死に会社に訴えた」ということも、主観的には事実であろう

しかしだからといって、虚勢を張る人は自分が特別な社員になる資格を獲得したということではない。

会社が虚勢を張る自分にだけ特別の注意を払う義務があるわけではない。

それにもかかわらず神経症な虚勢を張る人は、「こんなに必死になって訴えたのに」あのような態度は許せないとなる。

虚勢を張る彼らは自分が「こんなに」これこれをしたのに、と自分のしたことを強調して相手を責める。

そのように相手を責めることで、相手の罪の意識を刺激して、虚勢を張る自分の要求にしたがわせようとする。

しかし普通の人には、ここまで強度に虚勢を張る神経症的になっては、手に負えない。

悩むか、悩まないかが、人生の分岐点

このようになってしまうのは、一つにはちょっとしたトラブルにも耐える力がないからであり、もう一つにはすべて自分に都合よくいって当たり前、何かうまくいかないことがあれば、それは許されないことだという思い込みがあるからである

虚勢を張る人はとにかく、すべて物事は自分の思い通りになってしかるべきである、と思い込んでいるからであろう。

深刻に悩む虚勢を張る人はたいてい心の底のどこかに、このような考え方を持っている。

前の晩よく眠れなかったということで悩む虚勢を張る人がいる。

一日中、虚勢を張る人は「ああ、昨日の夜は眠れなかった、眠れなかった」と悩み、騒ぎつづける。

そして虚勢を張る人は「どうして眠れなかったのかな」と悩みだす。

このように悩む人はたいてい、いつもいつも熟睡できるのが当たり前、自分はいつもいつも熟睡できなければいけない、いつも自分は熟睡できるべきだと考えている虚勢を張る人である。

それを期待している虚勢を張る人である。

いや期待というより、それを自分に要求している虚勢を張る人である。

その要求が虚勢を張る人はかなえられなかったので、「どうして眠れなかったのかな、どうして眠れなかったのかな」とくよくよと悩み、詮索を始める。

よく眠れないから悩むのではなく、眠れないことをこのように考えるから虚勢を張る人は悩むのである。

普通の人でも、そんなに毎晩毎晩熟睡できるわけではない。

よほど神経の図太い人は別にして、普通の人でも眠れない夜を過ごすことはよくある。

何か気になることがあれば、眠れないことのほうが当たり前かもしれない。

夜中に目が覚めて眠れないと悩む。

夜中に目が覚めれば、心配事のある人はそのことを考え出すから眠れないということはよくあることである

自分の企業を零細企業から中堅企業にまでした、あるたくましい人がいる。

切って張ったの世界で生き抜いた人である。

そういう人でさえ、深夜によく目がさめてしまうことがあり、そうなると眠ろうとしても眠れないという。

ただ彼は「どうしてかな、どうしてかな」と悩んでいない。

眠れないときは、眠れない。

眠れるときには眠れる。

それだけである。

「どうしてかな、どうしてかな」と詮索して悩む虚勢を張る人は、すべてのことが自分の意図したとおりにいくべきだと思い込んでいる。

しかし現実には、意図したとおりにいかないのが、むしろ当たり前である。

人は思い通りにいかなかったことで悩むのではない。

思いどおりにいかなかったことを、どう考えるかで悩むのである。

「完璧な人」なんていない、「完全な日々」なんてない。

もう一つ、悩むのには原因がある

虚勢を張る人は意図したとおりにうまくいかないのは、自分だけであると勘違いする。

自分の思い通りにいく人など、そうそういない。

悩んでいる人が、あの人は虚勢を張る自分と違って、いつも熟睡しているだろうと思い込んでいる人でも、たいていそのとおりにはいっていないものである。

悩んでいる虚勢を張る人には、自分だけがそうなんだと思いこんでいることがたくさんある。

だが、決してそんなことはない。

悩んでいる人には、事実と違って、虚勢を張る人には自分「だけ」という思い込みがある。

実際には意外な人が悩んでいる人と同じであるということが、たくさんある

虚勢を張る人はこの自分「だけ」という思い込みは、おそらく自責の念から来るのであろう。

うつ病者は失敗を自分の欠点と結び付けて解釈する、とアーロン・ベックはいう。

そのとおりであろう。

しかし、必ずしもうつ病というような人でなくても、悩んでいる虚勢を張る人にはこの傾向がある。

昨日熟睡できなかったのは、虚勢を張る自分が神経質だからと決め込む。

神経質でなくても眠れない時には眠れない

しかし悩む虚勢を張る人は、自分が神経質だから熟睡できなかったと、熟睡できなかったのは自分の弱点が原因であると決め込む。

そして同時に、虚勢を張る人は他人をも決めつける。

あの人は図太いから熟睡できる。

虚勢を張る人は自分も他人も、こうだと決めつける。

相手は強く自分は弱いと決め込む。

そして、どうして自分は・・・と自分を責めだす。

また虚勢を張る彼らは、もともとが大変心理的に不安なのであるから、ちょっとうまくいかないと、その不安が意識化されてしまう。

それだけにひどく小さな失敗を気にする

虚勢を張る人は小さな失敗で、不安が意識化されるのである。

だからこそ、虚勢を張る人は小さな失敗でも恐れる。

彼らが意見を変えられないのは、その主張によって虚勢を張る自分の価値を防御しようとしているからである。

勝つことができれば、虚勢を張る彼は心の葛藤から目を背けることができる。

何が正しいかより虚勢を張る彼にとっては、どう自分を守るかが最重要なのである。

そしてそれは、他人にはあまり関心のないことなのである。

彼らは栄光にしがみつくことで、自分の心の葛藤を解決しようとしている

それは対人恐怖症者と同じことである。

虚勢を張る対人恐怖症者も人を前にして、理想の自分を演じようとする。

それによって、虚勢を張る自分の心の葛藤を味わわないですまそうとする。

すべて不安を回避するための手段が、虚勢を張る人は理想的自分なのである。

もともと不安でない人は、そのように理想の自分を人前で演じることにこだわりはしない。

充実感のある人生を過ごすために。

実際の自分は愛されるに値しないという自己無価値感、親への憎しみ、周囲への敵意、一人で立つことへの不安、いろいろな感情を味わうことを避けようとすれば、栄光化された自己の像に執着しなければならない

自分が想像のなかで描いた理想像と同じであるならば、そのような否定的な感情を味わわなくてすむ。

神経症的な虚勢を張る人にとっては、想像のなかで勝手に描いた理想的な自分の像が重大なのではなく、心の底の底にある否定的な感情を味わうことを避けるということが重要なのである。

その否定的な感情を虚勢を張る人が味わうことを避けるためには、想像のなかで描く、栄光化された自己がなければならない。

虚勢を張る人は心の底の底にある実際の感情と直面することを避けるためには、理想化された自己像を現実化することにこだわらなければならない。

神経症的な虚勢を張る人はその要求が、自分の抱えるさまざまな問題を解決してくれると思っている。

自己栄光化ができれば、いま苦しんでいる劣等感から逃れることができる

虚勢を張る人は今欲しい尊敬を得ることができる。

あるいは、いま望んでいる愛情を得ることができる。

そして、いまの苦しさを解決してくれる。

彼らはそのように思い込んでいる。

神経症的要求は、心の葛藤を解決するための手段である。

心の葛藤が解決しない限り、虚勢を張る彼はその要求に固執しつづける。

自分は会社でもっと出世してもいい人間である

会社の上司が見る目がないから、不公平だから、と虚勢を張る彼は主張しつづける。

もし虚勢を張る彼が栄光化された自己像にそのように固執しないなら、彼は心の不安に直面しなければならない。

彼がビジネス・エリートということで、心の葛藤を解決しようとしている限り、この周囲への虚勢を張る彼の不満は続く。

周囲の人は、虚勢を張る彼の要求そのものの内容をおかしいと思う。

しかし虚勢を張る彼は、決してそのおかしさを改めようとしない。

それはその要求の内容こそ、虚勢を張る彼の心の葛藤を回避させてくれるものだからである。

それにしても、虚勢を張る人は一度このような生き方を身につけてしまうと、なかなかこの生き方から抜けられなくなる。

人間の悲劇なのである

ひねくれたり、ひがんだり、すねたり、絡んだりしながら生きはじめると、案外この虚勢を張る生き方は心理的には安易である。

自己実現というような生きる充実感がなくても、虚勢を張る人は安易なだけになかなかこの生き方からぬけられなくなるのである。

虚勢を張る人はやめられないのは、喜びがないけれども、安易な生き方だからである。

とにかく、一度神経症的な要求に固執することで、虚勢を張る自分を守るということを身につけてしまうと、なかなか抜けられない。

神経症的な人は、自己実現していないということで、一方で自己消滅し、従順でありながら、他方で虚勢を張る神経症的要求を持つ。

※参考文献:「不安」の手放し方 加藤諦三著