虚栄心が強い人が本当の自信をもつための初め

内づらの悪い虚栄心が強い人というのは、内の世界にくると退行的になってしまうようである

いや虚栄心が強い人は退行的にならなければならないと感じている。

虚栄心が強い人は内の世界では保護され、依存しようとする。

いずれにしろ親との関係で気に入られる態度をとらねばならないように感じる。

たとえば親が自己中心的で支配的であったとする。

息子をいつも支配し、自分に結び付けておこうとしていたとする。

するとこの虚栄心が強い息子は結婚して、母親との内面化された体験を妻に転移する。

たとえば、妻も母と同じように自分に対して要求がましく、自分を独占しようとしていると感じてしまう。

もちろん妻が母と同じように独占的であり、要求がましいこともある。

しかしまったく違うこともある。

問題は違うにもかかわらず、同じだと思ってしまうことである

たとえば母親がいつも息子と一緒にいたがっていたとする。

母親自身がどこか旅行に行くにも、虚栄心が強い息子と一緒でなければつまらない、といった具合である。

虚栄心が強い息子がどこか外から帰ってくると、外であったことの一部始終を報告するように求めたりした。

このような母親は息子の自立心、親から独立したいという欲求を芽のうちにつみとってしまう。

そのうえ絶えず子どもをコントロールしようとしている。

そして虚栄心が強い息子は母親のコントロールに服していると、よい子として気に入られる。

そのためこの虚栄心が強い子は、自分は身近な人に気に入られるためには、いつも依存的な態度でいなければならないということを学習してしまう。

心に葛藤のある親は、無意識に子どもを操作しようとしている

虚栄心が強い子どもは操作されることで気に入られる。

すると今度は結婚しても、同じように感じる。

つまり配偶者が自分を操作しようなどとまったくしていないのに、操作しようとしていると感じてしまう。

もちろん妻もまた心に葛藤がある場合は、夫を無意識に操作しようとするだろう。

この場合には、虚栄心が強い夫の感じているとおりの妻である。

しかしそれは虚栄心が強い夫が現実の妻をよく見て、そう感じたのではなく、たまたま内にある母親を転移したら、それと一致していたというだけの話である。

とにかく母親でも父親でも、子どもをいつまでも子どもとして扱い、いつまでも自分たちから離れないようにしようとする親がいる

そして、そのように依存的でない態度に子どもが出るととても不機嫌になる親がいる。

そうすると虚栄心が強い子どもは結婚してからも、いつも依存的にしていないと相手は不機嫌になると錯覚してしまう。

虚栄心が強い人は自分が自立した一人の男として、あるいは女として振る舞うと、相手が不愉快になるだろうと錯覚する。

支配的な親の意見にいつも合わせていたように、結婚してからも気に入られるためにはいつも相手の意見に合わせるほうがいいと思っている。

そして虚栄心が強い人は自分の意見を述べ、それが親の意見と違ったときに親がとても不機嫌になったとすると、今度は結婚しても自分の意見を述べることは相手を不愉快にさせると錯覚する。

虚栄心が強い人はそこで自分の意見があっても、妻に不愉快になられたくないので、いわずに我慢する。

すると虚栄心が強い人は言いたかった意見をいわずに、反対の意見に自分を合わせたことで、心のなかはおもしろくなくなる。

虚栄心の強い人の「完全」への固執は弱さの裏返し

ところで内の世界で退行的になって気に入られようとする虚栄心が強い人は、逆に外の世界では背伸びする

先に述べたように、内で依存的になるゆえに自分を弱く頼りなく感じる虚栄心が強い人は、外で自分の弱さや頼りなさを隠そうとして、過剰代償しようと試みる。

つまり虚栄心が強い人は大人であること、一人の独立した人間であることを過剰に示そうとする。

虚栄心が強い人は自ら自分にそのような過大な要求を課す。

どんな立派な人だって人間である以上、何らかの弱さや頼りなさを内にもっている。

内づらの悪い虚栄心が強い人は、外ではその弱さや頼りなさを受け入れず、反動形成として、理想的な態度に出ることがある。

虚栄心が強い人は一人前の大人でないゆえに、それを隠そうとしてかえって過剰に一人前の大人であることを示そうとする。

誰だって泣き言をいいたくなるときがある

しかしこのような虚栄心が強い人は、自分のそのような弱さを徹底して避けようとする。

誰だってついつい感情的になってしまうことがある。

しかしこのような虚栄心が強い人は、完全に自分の感情をコントロールしようとする。

虚栄心が強い人は内面が幼稚であるがゆえに、かえって成熟した人の態度を無理矢理とろうとするのである。

したがって虚栄心が強い人はいつも緊張している。

虚栄心が強い人はいつも無理している。

いつも打ち解けない。

いつも防衛的になっている

虚栄心が強い人はこのような持続的緊張からくる疲れ、不快感、不満が内の世界で爆発しやすいのである。

このような虚栄心が強い人は、内でも外でも錯覚している。

虚栄心が強い人は内では先に述べたように、依存的であることによって相手から受け入れてもらえると錯覚している。

依存的な態度以外は、相手を不快にすると間違って考えている。

虚栄心が強い人は外にあっては、完全に成熟した大人であることによって以外、受け入れてもらえないと錯覚している。

外の世界がいかに厳しいからといって、完全に強い人間以外は受け入れられないなどというものでもない。

ときには弱音も吐くし、ときには甘えるし、ときには弱々しく保護を求めてしまうことが人間にはある

しかしそれはそれとして、仲間は受け入れてくれる。

完全な人間以外はすべて排斥されてしまうなら、受け入れてもらえる人などいなくなってしまう。

神経症的な虚栄心が強い人が、ときに非現実的なほど高い基準を自分に課すのは、反動形成である。

自分の弱さ、頼りなさ、劣等感を隠すために、そのように過代償を試みているのである。

虚栄心が強い人は非現実的なほど高い基準を自分に課し、スーパーマンのように振る舞うことでしか、自分のなかの弱さや劣等感から目をそむけることができないのである。

心の底の底で感じている自分の弱さや劣等感が深刻であれば深刻であるほど、虚栄心が強い人はより高く、より強く振る舞わねばならなくなる。

うつ病者などが自分に課す要求水準をさげることができないのは、それだけ自己評価の低さが深刻であるということであろう

内づらの悪い虚栄心が強い人は、外では自分に実際に求められている以上の振る舞いをしようと無理をして、消耗する。

虚栄心が強い人の内づらの悪さも外づらのよさも、ともに内面の弱さの現れにしかすぎない。

弱さの表現のされ方が逆の方向になっているということである。

虚栄心の強い不機嫌な人の「心のなか」

不機嫌とは、不完全な抑圧なのではなかろうか

虚栄心が強い自分は相手にかくかくしかじかのことをしてもらいたくない。

しかし、虚栄心が強い人はそれを相手にいえない。

そのことを相手にしてもらいたくないということ自体を相手に知られたくないのである。

虚栄心が強い自分は相手にAということをしてもらいたくない、しかしそのことを知られたくないとなると、それを知らない相手はAということをする。

Aということを相手にされながら、相手に講義することはできない。

そこで、むしろ虚栄心が強い自分はAということをしてもらいたがっていると相手に思われたい、自分が現実にもっている対人的欲求と正反対の欲求をもっていると相手に思ってもらいたいふりをすることにもなる。

相手がそのように行動したとすると、虚栄心が強い自分としてはしてもらいたくないことを相手からされたことになる。

しかし同時に、そのようにしてもらいたがっていたと相手に思ってもらいたい・・・虚栄心が強い人は対人関係におけるこのやり場のない感情の行きづまりが、不機嫌であり、対人的不快感である。

だからこそ、虚栄心が強い人の不機嫌とは、表現しようにも表現できない感情なのである。

表現しようとすると、自分が表現したいことと逆のことを表現してしまうことになる

そこでどうしても虚栄心が強い人の不機嫌とは表現されることを拒否した感情にならざるを得ない。

虚栄心が強い人は自分が実際に感じていることを表現しようとすれば、相手に伝えたいと思っていることと逆になってしまう。

相手に伝えたいと思っていることを表現しようとすれば、実際に感じていることと逆になってしまう。

そこで虚栄心が強い人は沈黙する以外に方法がなくなる。

沈黙しているからといって、相手に表現し、伝えたいことがないわけではない

それはある。

虚栄心が強い人はあってもどうにも処理のしようがないのである。

そして虚栄心が強い人は相手に伝えたいものがある以上、相手のそばは離れたくない。

虚栄心が強い人は離れたくないけれど、不快で離れたい。

したがって不機嫌な虚栄心が強い人は孤独を求めながら、孤独ではいられないのである。

孤独になれば虚栄心が強い人の不機嫌が消えるのは、この矛盾が解消するからである。

だからといって、虚栄心が強い人は相手が自分にかかわってこなければ淋しい。

しかし、虚栄心が強い人はかかわってくれば不愉快なのである。

なぜ「本当の自分」を見せられないのか?

ところで、なぜ虚栄心が強い人は実際の自分の対人的欲求を相手に知られることを恐れるのか。

なぜ虚栄心が強い自分が相手にそうしてもらいたくないと思っていることを知られたくないのか。

それは虚栄心が強い人が相手に心理的に依存しているからである。

虚栄心が強い人は相手に気に入られるためには、自分はかくかくしかじかでなければならないという錯覚がある。

そして虚栄心が強い人は実際の自分は相手に気に入ってもらえないのではないかという恐れがある。

ことに小さい頃、親と相互依存的に生きてきた虚栄心が強い人にとって、相手に気に入られるということは、相手の束縛を喜んで受け入れることであり、相手の支配に忠誠を誓うことである。

虚栄心が強い人は喜んで相手の自分に対するすべての管理を受け入れることである。

自分のなかに相手に知られて困るものは何もないということである

虚栄心が強い人はすすんで自分のことをすべて相手に知らせることである。

これらが相手に気に入られることである。

要するに、虚栄心が強い人は一切の自分を放棄して相手の支配に甘んじることが気に入られることである。

親と依存的関係を結んできた虚栄心が強い人は、このように相手に迎合することに慣れている。

虚栄心が強い人は自分が相手一人の占有物になることが大事なことなのである。

ところが心理的に自我が機能しはじめると、自分の世界が欲しくなる

誰にも知られない自分の世界、誰にも干渉されない自分の世界、誰にも管理されない自分の世界が欲しくなる。

このことは、人間の自我の確立の過程でなくてはならないものであろう。

たとえば中学生や高校生が、自分の部屋に親が入ってくると怒るようなものである。

べつに親が入ってきたからといって困るわけではない。

また親に隠しておかなければならないものはないにもかかわらず、親に入ってこられるのがおもしろくない。

それは、何かそれだけで親に自分の心のすみずみまで支配され、管理されるような気がするからである。

このとき親に怒れる子どもは成長できるが、すべての子どもがこんなとき怒れるわけではない。

親に気に入ってもらうために、自分の不快さをおさえて喜ばなければならない虚栄心が強い子どももいる。

そうしないと親が怒りだすからである。

親の拒絶を恐れる虚栄心が強い子どもは、そこで親のお気に入りになろうとする。

情緒未成熟な親は、自分に従順な子どもを喜ぶ。

「うちの子はよその子と違って、部屋に入っていっても決して怒ったりしないんです」などと自慢したりする。

虚栄心の強い人は誰にも干渉されない心の世界をもっているか

よく親が得意になって、自分の子どもは外であったことを何でも報告するとか、自分の子どもは何も隠し事をしないとか、自慢気にいう

いかに自分の子どもがすばらしい子どもかを自慢するとき、よくこのように「この子秘密をつくらない。何でも親にいう」というような主旨のことをいう。

しかしこれはまさに、親の情緒未成熟、我執の強さをあらわしているにすぎない。

親の満たされない独占欲を虚栄心が強い子どもが満足させているだけである。

誰にも干渉されず、管理されない心の世界をもつことが人格の基礎となろう。

ところが親と依存的関係をもって来た虚栄心が強い人にとっては、自分の世界をもつことはそのまま自分に近い人への裏切りでしかない。

虚栄心が強い人は大人になって結婚しても配偶者と親とを同じに考える。

つまり小さい頃、自分の親が自分に期待したことと同じようなことを、配偶者は自分に期待していると感じてしまうのである

そのような虚栄心が強い人は、三十歳になっても四十歳になっても、十歳の子どもの頃と同じ欲求をもっている。

したがって虚栄心が強い人は配偶者が親となってしまう。

虚栄心が強い人は自分の部屋に入ってこられるとおもしろくない。

しかし、虚栄心が強い人はそれを望んでいると思われたい。

それはまさに錯覚なのであるが、とにかく虚栄心が強い本人はそう思っている。

虚栄心が強い人はまず相手の自分に対する期待に間違いがある。

相手は自分がAということを望んでいることを期待しているという錯覚がある

そして、虚栄心が強い人は相手に心理的に依存しているがゆえに、自分がAということを望んでいるふりをしようとする。

虚栄心が強い人は自分は管理されたがっていないのに、管理されたがっているというふりをしなければいけないように思いこんでいるのである。

相手は管理したがっていない。

そして虚栄心が強い人は実際の自分は、管理されたくないという欲求を一方でもっている。

「一方で」と記したのは、虚栄心が強い人が心理的に依存している以上、自分が独立した一つの世界をもつことに頼りなさを感じていることも、確かなのである。

たとえば相手に向かって、「離れたい」と言えたとする。

そこで相手が、「それでは離れていけ」というと急に不安になってしまう

虚栄心が強い人は自分の世界をもつには頼りなく不安であるが、相手に管理されることには耐えられないということなのである。

小さい頃、親が情緒未成熟でなければ、ここらへんのことはうまくいくのである。

まず子どもが自分の世界をもつことを親は自分への裏切りと感じない。

裏切りと感じないというより、そのことを不愉快に思わない。

子どもが秘密をもつことを許す。

小さな子どもは「秘密のもの」をもちたがる。

自分の「秘密の場所」を宝のように大切にしたりする。

子どもにとって秘密とは、人格形成に欠かせない大切なものである

精神科医の土居健郎氏は、人格の真の形成が行われるために秘密をもつこと、秘密を保持しようとすることが不可欠だといっている。

あらためて、親が「うちの子はよその子と違って何でも話す」と得意になっていることがまことに恐ろしいことであることに気づく。

そしてそのように言うことによって、子どもには秘密をもってはならぬとプレッシャーをかけることになる。

秘密をもつことは、そのまま親への裏切り、拒絶を意味するからである。

「秘密」を否定する家庭では信頼関係は育たない

「うちの子はよその子と違って秘密をもたない」と得意になる親は、心の底でいつまでも子どもを自分に縛り付けておこうとしているにすぎない。

そしてそのことで子どもが成長することをはばんでいるのである。

「よい子」が大人になり、外的には他人に迎合して適応していても、内的には自己不在で虚栄心が強い不適応である

こうした見せかけだけの良好な適応は、いつか破綻する。

「うちの子はよその子と違って、外であったことを何から何まで話して、決して秘密をもたない」などと得意になる親は、他人を信頼することのできない人なのであろう。

虚栄心が強い人は自分の心の底に敵意を抑圧し、その抑圧した敵意を他者に投影しているのである。

そして虚栄心が強い人は自分を取りまく世界が敵意に満ちていると錯覚している。

だから、虚栄心が強い人は相手の心のすみずみまで見て支配していないと不安なのである。

それだけに自分の心の底の底までさらけだそうとする虚栄心が強い子は、よい子に見えるのである。

このような虚栄心が強い親は、自分の安全を守ろうとすることばかりに気をつかって、子どもの心を理解する能力などまったくないのであろう。

そしてそういう虚栄心が強い親に限って、自分は立派な親だと信じ込んでいたりするのである。

虚栄心の強い人がどうしても自分の価値を低く見てしまうときには

親子の関係が重要だという

とくに、親が虚栄心が強いナルシシストで自分の現実と他人の現実が違うということがわからなかったり、他人を愛する能力を欠如していたりすると、子どものなかに生きることや他者への基本的信頼感が発達しないことになるから、問題は大きい。

そのような虚栄心が強いナルシシストの親に育てられると、子どもは大人になって信頼するにたる人と出会っても、その人を信頼できない。

虚栄心が強い人は信頼するにたる友人と出会い、信頼するにたる恋人と出会っても、その人を信じることができない。

信じないのである。

虚栄心が強い人は信じる能力がないのである。

相手がどんなにその人を愛していても、その人を信じることができない

小さい頃、親の拒絶にあって心理的に挫折した虚栄心が強い人は、どうしても心の底では相手の愛を信じられないのである。

小さい頃、親から拒絶されて傷ついた虚栄心が強い人は、大人になって信頼できる人と出会い、その人に愛されても、心のどこかで見捨てられることを恐れている。

虚栄心が強い人は相手に心理的に依存しながら、相手から見捨てられることを恐れる。

相手にとって自分の存在が意味あるものと信じられないのである。

虚栄心が強い人は見捨てられることを恐れれば、相手に見捨てられないように行動しようとする。

どうしたら相手に気にいられるかと、そればかりを考えることになるだろう。

見捨てられる不安をもった人は、どうしたら相手の愛情を失わないかということばかり考える

つまり、虚栄心が強い人は自分のことばかり考える。

虚栄心が強い人は行動の一つ一つが言い訳がましくなる。

対人恐怖症者のように、自分の何かが相手を傷つけることを恐れる。

虚栄心が強い人は自分のした行動の一つ一つについて、これは決して相手を傷つけようとしたものでないと言おうとする。

自分のする行動の一つ一つについて、これは決して自分勝手な行動ではないということを相手に伝えようとする。

ビジネスマンが酒のつきあいを仕事仕事というのには、そのにおいがある。

虚栄心が強い人は酒を飲んでも、決してそれは奥さんをほったらかしにして自分一人がいい思いをしているのではなく、これは仕事なのだということであろう。

人間は不安になると自分のことだけしか考えなくなる

虚栄心が強い人は不安になれば不安になるほど、自分の一つ一つの細かい行動まで、気に入られるために、相手のためにやっていることだと伝えようとする。

一つ一つの行動まで、相手に気に入られようとしている不安な虚栄心が強い人は、自分のことしか考えていないのに、自分ほど相手のことを考えている人はいないと錯覚する。

相手にはそれがわかる。

したがって、相手は淋しい。

不安な虚栄心が強い人は、気に入られようとすればするほど、相手を遠ざけてしまう。

不安な人は、相手のことを考えてやるゆとりがない。

不安な人は、相手が今自分に何を望んでいるかについて、まったくの錯覚がある

不安な虚栄心が強い人は、小さい頃自分を拒否した人をモデルにして人間を考えている。

虚栄心が強い人はその自分を拒否した人に対して、どのように行動したら気に入られたかという経験をもとにして、他人に相対するのである。

「一度きりの失敗」で挫折してしまう

心の健康な人にとって眠れないことがもしあったとしても、それは翌日単に仕事がつらいということである。

そしてその肉体的なつらさは、比較的簡単に耐えられる。

比較的というのは、神経症の虚栄心が強い人と比較してということである。

神経症の虚栄心が強い人が眠れぬ夜を過ごしているときというのは、翌日のことを考えている。

朝までよく眠れなかったら、明日の会議で自分はどうなるかを恐れる

虚栄心が強い人はボーっとしていてうまく発言できないのではないか、自分が発表することになっている項目についてうまく発表できないのではないか、そうすればみんなが自分のことを無能な人間と思うのではないかと恐れる。

そして虚栄心が強い人にとって、他人から悪く思われるほど傷つくことはない。

それが虚栄心が強い人は恐ろしいのである。

虚栄心が強い人は今まで自分のことを有能だと思っていてくれた上司も、もしかすると明日の失敗で、やはりあいつはダメだと思うかもしれない。

そう思うとたまらなくなる。

失敗は悲劇ではない

失敗した自分を他人がどう思うか悩みはじめたとき、失敗は悲劇になるのであろう。

神経症者の虚栄心が強い人の失敗は、まさに自尊心を傷つけるがゆえにつらいのである。

神経症の虚栄心が強い人がぐっすり眠ろうとすることの動機、あるいは動機となっている考え方がまったく逆なのである。

健康な人がぐっすり眠ろうということは、まさに眠りたいということである。

その人はそのとき何よりも眠りたいのである。

「何かのために」眠りたいのではない。

眠りたいから眠るだけである。

眠ることの動機は、眠りたいということである

ところが、神経症気味の虚栄心が強い人がぐっすり眠りたいというとき、それは眠りを楽しみたい、眠りたいということが動機ではない。

虚栄心が強い人はあくまでも明日「もっと働くために」眠りたいのである。

ぐっすりと眠れなければ、翌日の仕事に差し支えるから眠りたいのである。

見当違いのアドバイスで傷ついてしまう前に

不眠症を治すという本には、「眠れなければ眠れないでもいいや」と思えと書いてある。

しかし、これは不眠に悩んでいる人にとってはほとんど意味をなさない。

眠れなくていいやと思えということは、自分の自尊心が傷ついても平気でいなさいということなのである

こんなことができるわけがない。

傷ついても平気というなら、はじめからそれはその虚栄心が強い人の自尊心などといわれるものではない。

そして自分の価値がさげられるということは、神経症の虚栄心が強い人にとっては、他人からの拒絶を意味するのである。

このように考えると、神経症の虚栄心が強い人にとっては睡眠ばかりではなく、生きることが脅威になっていることがよくわかる。

虚栄心が強い人はよりうまく、より多く、いろいろな面で成功することが自分の本質的な価値を高めることであり、失敗は本質的な価値をさげるものである。

そして虚栄心が強い人の本質的な価値をさげることは、当人にとって他者からの拒絶を意味する。

心の健康な人にとっては、この自尊心への脅威ということがなかなかわからない

「何であんなに緊張しているのだろう」と、不思議に思う。

※参考文献:自分を許す心理学 加藤諦三著