虚無感を解消する心理

もし零細企業が、大企業と同じ巨大なプロジェクトを実行しようとしたら、どうなるであろうか。

もし中小企業が大企業と同じ売上高を目標にして行動したらどうなるであろうか。

出来るはずがない。

しかし神経症的な虚無感を感じる人は、これと同じことをしようとしているのである。

虚無感を感じる人は実際の自分を無視して理想的な自画像に固執するということは、中小企業が大企業と売上高を同じにしようとしているのに等しい。

カレン・ホルナイが神経症的な人のエネルギーは自己実現ではなく理想化された自分を現実化しようとすることに向く、といっている。

これがまさに企業でいえば、中小企業が巨大企業と同じことを実現しようとしているということである。

中小企業にとって、長期目標としてそのような目標を立てることが必要なときもあるだろう。

しかし長期の戦略としてではなく、いま現在そのようにして計画を実行するなら、倒産するに違いない。

神経症的な虚無感を感じる人は、企業でいえば、このようにして倒産した企業なのである。

中小企業には中小企業の限界がある。

その限界を経営の責任者がよく認識し、受け入れていない限り、その企業は倒産する。

その限界を知った上で値段を設定する。

その値段で売れるものをつくる。

その限界を克服しようとして企業努力することはいい。

しかしその限界を受け入れないで経営したら、その会社は倒産する。

宣伝力も違う、イメージも違う、信用も違う、銀行から借りるお金の利子も違う。

そのような違いを受け入れた上で製品をつくってこそ、その製品は世の中に受け入れられる。

製品が受け入れられなければ倒産するしかない。

神経症な虚無感を感じる人は自分の限界を無視して、あたかも理想の人間であるかのごとく振る舞うという。

それは恐ろしいことなのである。

普通の経営者なら怖くてそんなことはとてもできない。

幸せを掴む人、逃しやすい虚無感を感じる人

スーパーマンの人生だけが価値あるわけではない。

実際にはスーパーマンではない人が、スーパーマンであるかのごとく振る舞うのは、スーパーマンの人生だけが価値あると錯覚しているからであろう。

ある人が、ある人生を生きる。

そしてその人生は最高であると、その人は思う。

それは、自分にとってはこの人生がもっとも価値あるということなのである。

神経症的な虚無感を感じる人は「実際の自分にとって」ということを考慮しないで考えるから、おかしくなる。

一般的にもっとも価値ある人生というのが、あらかじめあるわけではない。

企業が製品をつくるときはこの姿勢である。

一般的にいいものというのがあるわけではない。

わが社にとっては、この製品をつくることがもっとも望ましいということである。

なんとなくいつも周囲に不満という虚無感を感じる人は、よく見るとやはり「実際の自分にとって」という視点が抜けている。

虚無感を感じる人は実際の自分の実力とか、限界を無視して世の中を見ている。

不満な虚無感を感じる人はたいてい、自分が考えるほど実際の自分には実力がない。

虚無感を感じる人は実際の自分の実力や限界が見えていなければ、会社の自分への態度に不満になるであろう。

また虚無感を感じる人は実際の自分の会社の実力や限界が見えていなければ、世の中全体に不満になるであろう。

虚無感を感じる人はそして実際の自分にとって何が価値あるかという視点が抜けているから、一般的に価値あるという人生を生きようとする。

虚無感を感じる人は背伸びをする。

虚無感を感じる人は努力が実らない。

虚無感を感じる人は空回りする。

虚無感を感じる人はするといよいよ世の中に不満になる。

虚無感を感じる人はいよいよ世の中が不公平に感じる。

もちろん、世の中が不公平ではないといっているのではない。

不満分子といわれる虚無感を感じる人は、実際の不公平よりひどくそれを感じるし、また公平なことでも不公平と感じる。

「実際の自分にとって」という視点から見れば公平なのであるが、虚無感を感じる人はその視点から見ないから不公平に感じてしまうのである。

虚無感を感じる人は、客観的に「自分の努力」を評価してみると・・・

もう一つ、不満な虚無感を感じる人は、たいてい他人の努力が見えていない。

虚無感を感じる人は他人があることをするのに、どれだけの努力をしているかということがわかっていない。

だから虚無感を感じる人は自分に対しても、もっと他人は大切に扱ってくれていいのではないかと思ってしまうのである。

虚無感を感じる人は自分が他人に比べて努力していないのに、そのことがわからないから自分のポストに不満で仕方ない。

また、虚無感を感じる人は努力はしていても見当違いの努力なのである。

勉強にも自分の実力に合った努力というのがある。

そうでないと努力しても効果が上がらない。

自分のレベルを無視した努力をしても、効果は上がらない。

自分の実力が初歩なのに上級の英会話の授業を聞いても、その効果は半減する。

それと同じことを会社でもしている。

会社内のポストに不満な虚無感を感じる人は、その会社のなかで、その人に期待されている役割ではない役割を演じようとして努力しているのである。

課長には課長に期待されている努力というものがある。

それをしてこそ、会社はうまく経営される。

小学校の算数がわからないのに、高校の数学の勉強を必死でしても努力が空回りするのと同じである。

実際の自分を認識し、受け入れてこそ、その努力が効果を表わす。

会社が努力を認めてくれないと不満を抱えている人には、このタイプが多い。

つまり、こんな会社で努力してもばからしいという不満分子のなかには、自分の実力を錯覚している虚無感を感じる人がいる。

その虚無感を感じる人は努力をするかもしれないが、その会社にとって必要な努力をしていないのである。

その会社にとって必要な役割を演じようとしていないのである。

「自分が白鳥なのにナイチンゲールの役割を期待されても、決してナイチンゲールの役割を演じてはならない、白鳥であることに固執しろ」とシーベリーはいう。

そのとおりである。

もう一つ大切なことは、自分が白鳥なのにナイチンゲールと錯覚してはならないということである。

実際に自分が白鳥であり、人が白鳥であることを期待しているのに、ナイチンゲールの役割を演じようとする人がいる。

虚無感を感じる人は神経症的な人であり、いつも不満な人である。

白鳥には白鳥の生が最高なのであり、ナイチンゲールにはナイチンゲールの生が最高なのである。

白鳥には白鳥の生が最高なのであり、ナイチンゲールにはナイチンゲールの生が最高なのである。

しかし、自分が白鳥なのにナイチンゲールであることを期待されて、ナイチンゲールになろうとして神経症的になる人もいれば、自分が白鳥で人も白鳥であることを期待しているのに、ナイチンゲールになろうとし、またナイチンゲールと思ってもらおうとして、いつも世の中と格闘して不幸な人生を送る人もいる。

人望のある人というのは、白鳥であって白鳥の役割を演じようとしている人である。

あるいは、ナイチンゲールであってナイチンゲールの役割を演じようとしている人である。

人望のない虚無感を感じる人というのは、白鳥であるのにナイチンゲールの役割を演じようとする人であり、またナイチンゲールであるのに白鳥の役割を演じようとする人である。

その人が実際には白鳥であるかナイチンゲールであるかということと、人望とは関係ない。

虚無感を感じている人の「自分らしさ」とは何か?

よく、その人の「器」ということがいわれる。

器が大きいか小さいかが問題なのではなく、その人がその人の器で生きようとしているかいないかが問題なのである。

虚無感を感じる人は実際の自分を無視して周囲に要求をする。

しかし、虚無感を感じる人はそのような要求がかなえられることはない。

すると、虚無感を感じる人は不満になる。

慢性的に不満な顔をしている虚無感を感じる人を観察すると、たいていその人の要求のなかに神経症的と思われる要求がある。

そして虚無感を感じる人がその要求をする背後には、実際の自分を過大に評価しているということがある。

逆にいえば、他人を過小評価しているということでもある。

そしてその不満感は、その虚無感を感じる人の意識を、自分に欠けていることにばかり集中させる。

よくいわれる、コップに水が半分入っているときに、半分もあると考える人と、半分しかないと考える人の違いである。

神経症的要求がかなえられなくて慢性的に不満になっている虚無感を感じる人は、自分の環境のなかで恵まれている部分には意識がいかない。

給料が安くて、忙しいけれどもやりがいがある仕事というものがある。

そんなとき慢性的に不満な虚無感を感じる人は、給料が安いということにばかり意識がいく。

慢性的に不満な虚無感を感じる人は、トータルに物事を見られない。

給料は安いけれどもやりがいのある仕事、というような全体的な判断ができない。

したがって、虚無感を感じる人はいつも不満である。

虚無感を感じる人はその点で社会性に欠ける。

虚無感を感じる人は社会性に欠けるから周囲からなかなか評価されない。

虚無感を感じる人はそこでさらに不満になるという悪循環に陥る。

そのような虚無感を感じる人は、自分を慢性的に不満にしているところの神経症的要求に目を向けない限り、いよいよ不満になるだけである。

つまり、自分をもう少し公平に評価するということである。

虚無感を感じる人は実際の自分を過大評価している限り、不満はなくならない。

虚無感を感じる人は社会が不公平なのではなく、自分による自分の評価が不公平なのである。

虚無感を感じる人は実際、自分はそんなに会社に貢献していないのに、貢献していると思いこんでいる。

虚無感を感じる人は実際、自分はそんなに能力がないのに、能力があると思い込んでいる。

虚無感を感じる人は実際、同僚がその仕事に貢献しているのに、していないと思い込んでいる。

自分にできないことをしようとするのではなく、自分にできることを淡々としている人は、そのような不満を持たない。

そのような不満を持つ虚無感を感じる人というのは、想像の中で理想化された自分があり、その想像のなかで理想化された自分を現実の企業のなかで現実化しようとしているのである。

虚無感を感じる人は自分にできることをすることに関心がいくのではなく、自分を理想的に見せることに関心がいく。

そのような神経症的な虚無感を感じる人のなかで、もっともひどいのが”完全主義者”である。

虚無感を感じる人は「心理的過食症」

虚無感を感じる完全主義は「心理的過食症」である。

「食べても食べても、もっと食べないではいられない」というのが過食症である。

心理的過食症の虚無感を感じる人は、得ても得てももっとえなければいられない。

それは向上心とは違う。

向上心には不安が伴わない。

心理的過食症の虚無感を感じる人はいつも不安なのである。

そして虚無感を感じる人は依存心が強い。

虚無感を感じる人は自分がいま素晴らしい生活をしているということだけでは、満足できない。

虚無感を感じる人は自分が素晴らしい生活をしているということを、人に知ってもらわなければならない。

また虚無感を感じる人は自分が素晴らしい生活をしているというより、人より素晴らしい生活をしているということが大切になってくる。

つまり、虚無感を感じる人は自分の人生に意味を与えるものは自分ではなく、他人なのである。

そのような虚無感を感じる人は、誰も見ていないところでは何をしても意味を感じない。

虚無感を感じる人はそこで行われることは、すべて他人が見るときのための手段でしかない。

虚無感を感じる人は他人に自分をよりよく見せるための準備期間でしかない。

虚無感を感じる人は一人でいるとき、どんな素晴らしい体験をしても何か一つ物足りない。

そのような虚無感を感じる人は本当の意味で、一人ではいられない。

自分一人の「時」がその「時」として意味を持ち、満ち足りて過ぎていくとすれば、その人は自分の足で立っているということである。

隠された依存心を持つ虚無感を感じる人は、一人でいるとき、必死で努力をしているようであるが、人でいることの苦しさから目を背けているところがある。

一人でいる現在という貴重な財産を、いつも将来のために貯金しているのである。

もし貯金するのでなければその「時」を耐えられない。

一人では居ても立ってもいられないという虚無感を感じる人が、これである。

社会的に活躍するということと、一人でいられるということは違う。

社会的に活躍している人で、一人ではいられない人はたくさんいる。

虚無感を感じる人が何をしても「あせって」しまうのは・・・

何かをしたとき、その80%で満足できるということは、心理的安定を示している。

たとえば100人のために何かをしたとする。

そのとき80人の人に満足してもらえれば、それでその企画は成功したと考えられる人と、そうでない人がいる。

満足していない残りの人に気を奪われる虚無感を感じる人は、イライラする。

ある企画を立てて、100人全員が満足しないと不満である虚無感を感じる人は、押し付けがましい人でもある。

どんな企画を立てても、全員が喜ぶわけではない。

参加者一人一人を個人として尊重する人は、むしろ80人が喜んでくれたことを成功と感じる。

ある企画を立て、人々の参加を募り皆に喜んでもらおうとして努力しても、決して皆が喜んでくれるわけではない。

もし皆が喜んでくれないことに腹を立てる人がいれば、今述べたごとく、その人は押しつけがましい虚無感を感じる人である。

どんなに素晴らしい企画であっても、またその実現のための努力を惜しまないとしても、やはり不満な虚無感を感じる人は不満なのである。

このように押し付けがましい虚無感を感じる人が、向上心があるわけではない。

むしろ依存心が強い虚無感を感じる人なのである。

自分が立てた企画に参加した人全員に喜んでもらわなければ気に入らないというと、まるで完全を目指している立派な人のように思えるが、決してそんなことはない。

そしてこのような神経症的完全をめざす虚無感を感じる人は、不満をいう人にばかり気をとられて、自分の企画に参加して満足している人がいるということを忘れてしまいがちである。

これは完全をめざしているというような、誉められた姿勢とは違う。

虚無感を感じる人は皆に誉められたいという、心理的必要性が強いということにすぎない。

向上心どころか、幼児性である。

虚無感を感じる人の「完璧主義」は依存心の裏返し

自分がどれだけ苦労したかということと相手がどれだけ喜ぶかということとは、関係がない。

押し付けがましい虚無感を感じる人は、自分がどれだけ苦労したかということしか頭にない。

虚無感を感じる人はだから自分がこんなに苦労したのに、喜んでくれないという不満になる。

そういう意味では押し付けがましい虚無感を感じる人は同時に、自己中心的な人でもある。

このような虚無感を感じる人と一緒にいると、なにか窮屈なのである。

なんとなく束縛されるような気持ちになる。

それは自分の自然な感情と関係なく、ある一定の感情を持つことを強要されるからである。

ある企画を立てて全員に賞賛されないと気がすまない人は、他人のために働いているようであるが、そのような虚無感を感じる人は形の違った保護を求めているにすぎない。

虚無感を感じる人は表面的には他人の世話をしているようであるが、結局本質的には他人に世話をしてもらっているにすぎない。

ある企画を立てて、表面的にはその参加者の世話をしているが、虚無感を感じる人は情緒的に他人に世話をしてもらっているのである。

他人の世話をして他人に感謝されたいという欲求は、意識されなくてもその虚無感を感じる人の心の無意識の領域にある。

それは小さな子どもの依存心より人を束縛する。

小さな子どもの依存心は複雑ではない。

ところが、このような隠された依存心は複雑である。

表面的には世話をする側が、世話をされることを求めているからである。

虚無感を感じる人は世話をするような顔をしながら、世話をされようとする。

虚無感を感じる人は自分に対する自信はない。

しかし虚無感を感じる人はその自信のなさも隠されている。

虚無感を感じる人は自己不信が感謝の要求となって表われる。

表面的には世話をしているのであるから、感謝をされてもいい。

そこで当然、感謝を期待する。

ところが相手は、なんとなく感謝をする気持ちにならない。

そのことが、世話をしている人はおもしろくない。

すると虚無感を感じる人は恩着せがましくなる。

虚無感を感じる「不満100%人間」の苦悩

大人になってあまりにも感謝を要求する虚無感を感じる人は、基本的なところで生きることに不満なのである。

虚無感を感じる人はおそらく小さい頃の愛情欲求が満たされていないのであろう。

虚無感を感じる人はもともとあることと関係なく人生に不満なのである。

不満を述べていることと直接は関係のないことに不満なのである。

その満たされない甘えの不満が、ある一つの具体的なことを通して表現される。

コップのなかにある半分の水に注意がいかなくて、ないほうに注意がいってしまうのは、もともと自分の人生には、何か重要なことが欠けているという不満のせいなのである。

だからこそ、何をしても不満な虚無感を感じる人は不満なのである。

反面、その不満を抑圧して、反動形成で何でも賛成する虚無感を感じる人もいる。

逆に何かに文句をつける虚無感を感じる人は、たいてい決まっている。

文句をつけないと気がすまない。

不満分子というのは、何にでも不満なのである。

虚無感を感じる人は基本的な欲求が満たされていない。

したがって、虚無感を感じる人は基本的に人生に不満である。

だから何が悪いというのでもない、虚無感を感じる人はとにかく自分が関係することに文句をつけていないと気がすまない。

もっと簡潔にいえば、自分を育てた母親が自分の基本的な欲求を満たさなかったことが不満なのである。

虚無感を感じる人はあることに不満をいい、文句をつけているが、抗議はもしかすると、自分の甘えの欲求を満たさなかった母親に向けられているのかもしれない。

虚無感を感じる人は基本的な不満が、ある具体的なことを通して表現されている。

たとえば、ある企画を立てる。

旅行の企画である。

その企画に参加して文句を言う虚無感を感じる人がいる。

こんな旅行は意味がない、主催者はもっと真剣に物事を考えるべきだとかなんとか、次から次へと不平を述べる。

それではその虚無感を感じる人が次に同じ企画に参加しないかというと、やはり参加する。

そのように、不満な人が不満なそのことから離れていくかというと、そうではない。

見ていると、虚無感を感じる人はただの不満なのである。

虚無感を感じる人は不満を言いつつ、やはり参加してくる。

虚無感を感じる人はそれでまた不満を述べる。

このような人は主催者からすると、とにかく参加して欲しくない人なのである。

これは企画だけではなくて、人間でも同じである。

虚無感を感じる人はそんなに文句があるなら、その人と付き合うのをやめればいいのに、その人のそばを離れない。

虚無感を感じる人は相手の欠点をあげつらう。

たしかにそのような欠点を相手は持っているのかもしれない。

しかしなにも、その人と付き合わなければならないわけではない。

虚無感を感じる人はさっさと別れればいいのだが別れない。

むしろ虚無感を感じる人はまつわりつく。

それはおそらく相手の欠点を非難することを通して、その虚無感を感じる人の基本的欲求不満が表現されているのであろう。

相手の欠点に不平を述べている虚無感を感じる人自身は、自分の無意識にある基本的欲求不満について気がついていない。

虚無感を感じる人は問題は相手の欠点にあるのではなく、自分の基本的欲求が満たされていないことにあるのだとは気がついていない。

虚無感を感じる人はそのことを理解しない限り、不満家は誰とつきあっても不平ばかりいうことになる。

虚無感を感じる人は自分を不満にしているのは、相手の欠点であるとその人は信じ込んでいる。

しかし多くの場合、そんなことはない。

相手の欠点を認識するということと、相手の欠点に不満になるという事とは違う。

「相手の欠点」とどう付き合うかで、その人の器がわかる

甘えの欲求が満たされている人は、相手の欠点をはっきりと認識するが、同時に相手の長所も認識している。

相手を全体として見られる。

だからこそ相手とのつきあいを楽しめる。

非現実的なほど理想的な人間像を相手に押し付けたりはしない。

人間である以上、誰でも欠点はあるし長所もある。

そして基本的に甘えの欲求が満たされている人は、相手の欠点が自分に耐えられないと感じれば別れる。

そこが、甘えの欲求が満たされないで、それを無意識へと追いやっている虚無感を感じる人とは違う。

無意識に甘えの不満を持っている虚無感を感じる人は、不平をいいつつ別れない。

虚無感を感じる人はもちろんそれにはもっともらしい理屈がつく。

あなたのためにとか、友達だからとか、いろいろ立派な理屈をつけるがそれらは皆、本当ではない。

虚無感を感じる人が別れないということの隠された真の動機は、依存心である。

そのような虚無感を感じる人は、自分から楽しめない。

虚無感を感じる人は相手から楽しませてもらおうとする。

虚無感を感じる人はいつも受け身である。

虚無感を感じる人は相手に誉めてもらいたいし、感謝されたいし、世話をしてもらおうとする。

虚無感を感じる人は問題は相手の欠点にあるのではなく、このような心理が満たされないということにある。

つまり虚無感を感じる人は相手の人柄とか、企画の性質とかに因縁をつけているにすぎない。

このような虚無感を感じる人を満足させることはできない。

満足させようとすれば、企画の場合なら、それは不公平なほど特別にその虚無感を感じる人を扱うしかない。

人の場合なら友人の顔をして母親の役割をするしかない。

虚無感を感じる人はなぜ相手の弱点に耐えられないにもかかわらず離れられないかというと、自分の無意識の領域に問題があるからである。

無意識の領域に隠された問題のない人は、相手の弱点を許せるか、つきあわないかである。

コップの水のあるほうの半分に注意を向けるか、ないほうの半分に注意を向けるかは、無意識の領域の問題である。

相手の欠点にばかり注意が向いてしまうか、長所にも注意が向くかは、やはりその人の無意識の領域の問題である。

ところで相手の欠点にばかり注意がいく虚無感を感じる人は、ときに自分の欠点にばかり注意する。

もちろんその反動で自分の欠点を隠すために高慢になったりするが、虚無感を感じる人は基本的には心の底では自分の欠点に注意を向けている。

相手の弱点を許さない虚無感を感じる人は、自分の弱点をも許さない。

相手の弱点に耐えられない虚無感を感じる人は、自分の弱点にも耐えられない。

それは、虚無感を感じる人は自分自身と相手の存在そのものに耐えられないということでもある。

自分に耐えられないとか、自分に対して非現実的なほど高い基準を課するとかいうことは、基本的に自分の欲求がみたされていないということでもある。

甘えの欲求が満たされていない虚無感を感じる人がいる。

しかしその虚無感を感じる人は、自分が甘えについて欲求不満があるということに気がついていない。

しかし虚無感を感じる人が欲求不満であることには違いない。

虚無感を感じる人はそれが意識されず無意識の領域へと追いやられているだけである。

虚無感を感じる人はその無意識が、欲求を満たそうと、その人に働きかける。

虚無感を感じる人がたとえばちやほやされたがるのは、そのためである。

小さい子が母親に誉められるように、無条件に賞賛されると喜ぶのもそのためである。

虚無感を感じる人は自分が別に尊敬もしていない人からでさえ、無視されるとひどく傷つくのもそのためであろう。

虚無感を感じる人は「自分」を認めてほしければ、まず「他人」を認めよ

ある一人の人から批判されると、皆から批判されているかのように錯覚する人がいる。

また逆に、ある一人の人から賞賛されると、皆から賞賛されているように錯覚する人がいる。

そのように錯覚する人は、一人一人の人が違うということが実感されていない。

あることを企画すれば、それに賛成する人もいるし、反対する人もいる。

あることをすれば、それを誉める人もいるし、批判する人もいる。

あることをすれば、それに感謝する人もいるし、反感を示す人もいる。

同じところに行っても、不平をいう人と、よかったなという人とがいる。

別に個性や趣味が違うというのではない。

とにかく一方は、よいところを見ようとし、そこから何かを得ようとする。

逆に他方は、そこの場所の不愉快なところばかりを見て文句をいう。

これは趣味や性格以前の問題である。

そのことは、一人一人の人と接していればわかる。

一人一人の人と接していれば、人はそれぞれ違うということがわかる。

ある虚無感を感じる人はひねくれているし、別の人は素直である。

それぞれ個性が違う。

ある虚無感を感じる人は自己中心的で人の立場を理解できないし、別の人は他人の苦労を理解できる。

ある虚無感を感じる人は何かにつけて文句ばかりいうし、別の人は何かにつけて協力する。

※参考文献:「不安」の手放し方 加藤諦三著

 

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