血縁関係に付け込まれるな

”とにかく、すべて受け入れてほしい”

甘えた人間の怖ろしさは、表面に現れる外面と違って、心の底は冷酷無比ということである。

「甘えの構造」に「身内にべたべたと甘える者に限って、他人に対して傍若無人、冷酷無比の態度に出ることが多いように観察される」と書いてあるが、そのとおりである。

同じことをシーベリーも言っている。
彼は「血縁関係に付け込まれるな」と注意をうながしている。

甘えている者は、身内に甘えるだけ甘える。身内の中では他人のお金も自分のお金もない。

すべてが”みんなのお金”になる。

もちろんこういう”みんなのお金”を主張する甘えた人は、自分の稼ぎがあまり多くない人である。

甘えた者は”個”とか”個人”という考えを激怒して嫌う。

それらの概念を決して認めようとはしない。

個として自立する痛みに耐えられないから個に反対するのである。

甘えている者は身内の者に限りなく一体感を求めていく。

そして、それを”愛情”と錯覚する。

甘えている者は、家の中に個人がロックできる部屋があることも認めない。

個人の部屋はあっても、ノックもしないで自由に出入りする。

これらは甘えた親によくある行動である。

そして、他人の部屋にノックもしないで入れるのが素晴らしく”愛情豊かな家庭”と信じて疑わない。

そのような家庭の人達に、それは愛情とは全く反対で、自己中心的幼児の依存心にすぎないと説明したところで、聞く耳を持たない。

やはり「甘えの構造」に「母子は生後は明らかに物理的にも心理的にも別の存在である。

しかしそれにも拘らず甘えの心理は母子一体感を育成することに働く。

この意味で甘えの心理は、人間存在につきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとすることであると定義できるのである」とある。

つまり、甘えた人間は、分離の事実を認めることができず、それを意思の力で無意識へと追いやるということである。

甘えた人間は、心のいちばん底では、人間存在の分離の事実を知っている。

しかし、それを認めたくない。

そこでその事実を否認し、その感じ方を抑圧して、身近なものに一体感を求めてくる。

甘えたものにとっての”愛情ある家庭”とは、人間存在の事実を認めることのできない幼児の集団でしかないのである。

幼児の集団といっても、肉体的年齢はそれぞれ五十歳であり二十歳である。

このような集団は、内で甘え合いながら、外の人々に対しては冷酷無比の態度がとれる。

確かに、身内にべたべたと甘える人は、外部の人に冷酷無比な態度をとる。

しかし”冷酷無比”は”甘え”の特徴であることを忘れてはならない。

この人は、内と外で違った態度をとっているのではない。

身内のある人にベタベタと甘えるということは、実はその身内の人に冷酷無比であるということでもあるのだ。

ベタベタと甘えることで相手と一体化し、相手を自分の思うように支配しようとしているのである。

大人になってからもベタベタ甘えていることが、冷酷無比なことなのだという点を見抜けないでいるからこそ、人は時に被害者になって、精神的に異常をきたすのである。

ある家庭に親戚のおばさんが同居したとする。

そこの主人は会社でストレスに悩まされているにもかかわらず、さらに会社が終わってからアルバイトをする。

体力が酷く消耗しても働く。

おばさんを含めた家族を養うために。

ところが、そのおばさんは毎日のうのうと遊んでいる。自分からは働こうとしない。

主人は、誕生日のプレゼントまで買う。

そして、ついに過労で体を壊して入院する。

シーベリーの本にはこのような例がたくさん出てくる。

このおばさんは身内に甘えている。

このようなケースは、今の日本ではだんだんと少なくなってきている。

しかし、これがおばさんではなく両親となると、ケースはグッと増える。

そしてそんな親たちが「うちの娘は私を大切にしてくれない、息子は私にこんな着物を着せておいて」と愚痴をこぼす。

私は「甘えの構造」は名著であると思っている。

何回か読み返した。

ただひとつ残念なことは、甘えと利己主義の関係が徹底的にはあきらかにされなかったことである。

たとえば、今のケースで言えば、この両親やおばさんは利己主義なのである。

身内の人間が体を酷使し、過労で倒れて入院するまで平気でいられるのである。

いや、それでも不満なのである。

つまり、主人がストレスや過労で消耗しきっているという事実にすら気が付かないのである。

そして逆に、他人の利己主義を責める。

そこの主人が、少しでも自分個人の趣味とか慰みを持てば、「あの人は酷い利己主義だ」と非難する。

個というものを認めていないから、何もかもがみんな一緒でなければならないのである。

酷い利己主義者ほど、他人のほんの些細な利己主義をも非難罵倒する。

遠慮のない身内のせかいなどというのが、実はその世界は身内の誰かの犠牲の上に成り立っているのである。

甘えたものが冷酷無比であるというのは、甘えている者を観察すればわかることである。

つまり、身内にベタベタと甘えているのは、身内の者がベタベタ甘えることを許すからである。

甘えたものは、周囲が自分を受け容れることを際限なく求める。

そして、甘えたものは身内の中にあって、受け入れてほしいという自分の要求がかなえられていると感じる。

そこでは他者を自分が独占している雰囲気さえもあり、おとなしい。

しかし、自分が受け入れられないと感じるときは攻撃性を示す。

つまり、身内であろうと、自分が受け入れられないと感じる時は冷酷無比になる。

これまで、ここで述べてきたことは、主として、身内に対して冷酷無比になる例についてである。

なぜなら、甘えについて述べられる場合、たいていこの点が抜けてしまっているからである。

それによって、あたかも身内への甘えと外への冷酷が矛盾しているように受け取られてしまう。

ここでいいたいのは、甘えている人間が決して内と外で違った人間になるのではなく、単に、周囲がその甘えを許すか許さないかの違いだけであるということである。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには血縁関係に付け込まれないことである。

※参考文献:自分を嫌うな 加藤諦三著

 

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