見栄っ張りを克服する心理

失敗すると嫌われるのではないか

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人が大人になって、「それ貸して」と言って断られる。

「なんで?」と聞けない。

見栄っ張りな人は「断られる」ということと「嫌われる」ということの分離ができていない。

恥ずかしがり屋の研究で名高いジンバルドーは、恥ずかしがり屋の人には四つの社会的恐怖があると言う。

これらの恐怖は、この分離ができていないことによって起こる。

たとえば、失敗することの恐怖である。

一度や二度失敗したからといって人に嫌われたり、バカにされるわけではないのだけれど、恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人や、自己蔑視している人はきっとバカにされる、嫌われるにちがいないと思ってしまう。

だからこそ恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人や自己蔑視している人は、失敗をふつうの人より恐れるのである。

見栄っ張りな人はバカにされれば憎しみが出る。

見栄っ張りな人はそうすれば他人を落として心を癒そうとする。

見栄っ張りな彼らは小さい頃から不安な緊張で心身ともに疲れて、虚の世界で生きている。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は、自分がいちばん必要としている人から評価されていない。

見栄っ張りな人はこの人から「すごーい」と言われたら自信が生まれるというような人から、「すごーい」と褒められていない。

見栄っ張りな人はたとえば親から褒められるという体験がない。

見栄っ張りな人は「ここまでつらい努力をしたら褒めてもらえるのではないか」と思っていたのに褒めてもらえなかった。

見栄っ張りな人は逆に「この程度しかできないのか?」と怒られてしまった。

見栄っ張りな人は傷ついた。

でも見栄っ張りな人は親が怖くて怒りを意識できない。

見栄っ張りな人はそこでさらに努力をしてみた。

でも見栄っ張りな人は褒めてもらえない。

見栄っ張りな人は自分ではよくできたと思ったから、親から「頭がいい」と褒めてもらえると思ったら褒めてもらえなかった。

見栄っ張りな人は「ダメだなあ、これはこうするもんだ」とバカにされてしまった。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は、小さいころから一生懸命努力した体験がある。

見栄っ張りな人はそれを親などに褒めてもらえなかったという落胆がある。

しかし、見栄っ張りな人はそれを他人は別の評価をしていたということに気がついていない。

たとえば見栄っ張りな人は親に褒めてもらおうとして必死でマラソンをした。

見栄っ張りな人は「こんなにつらいのははじめてだ」と思った。

見栄っ張りな人は「すごーい」と褒めてもらえると思った。

しかし親は褒めてくれなかった。

逆に見栄っ張りな人は自分より速い人と比較されてしまった。

しかしそのときに「よく頑張る感心な子だなあ」と見ていた人もいるのである。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は、そのことに気がついていない。

もちろん「ああまでして走らなくたっていいのに」と思って見ていた人もいるだろう。

いずれにしても、見栄っ張りな人は自分の頑張る姿を人がどう見ているかがわかっていないのである。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は、認めてもらいたい人に認めてもらえないという体験を積み重ねてしまっている。

見栄っ張りな人はその結果として自分のイメージがひどく悪い。

見栄っ張りな人は自分はダメな人間だと心の底で感じてしまっている。

見栄っ張りな人はそこで人から褒められたいのだけれども、実際に褒められるとなんとも居心地が悪い。

見栄っ張りな人は自己イメージが悪いから、人から褒められると違和感がある。

見栄っ張りな人は褒められると居場所がなくなる。

見栄っ張りな人は内心嬉しくても照れてしまう。

見栄っ張りな人はそこで人が褒めてくれるのに、その褒め言葉を「そんなことはない」とか「私なんか」と遮ってしまう。

見栄っ張りな人は「ありがとう」と言えばいいものを「私なんかダメよ」と自己卑下してしまう。

見栄っ張りの人の四つの社会的恐怖

では、恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人の、四つの社会的恐怖をくわしく見ていこう。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人の心理的特徴は恐怖感である。

見栄っ張りな人はこの恐怖感ゆえに臆病になり、人に対して警戒心を持ち、不信感をもつ。

「人が怖い」ということと、「失敗を恐れる」ことはつながっている。

負けると恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は、根に持つ。

見栄っ張りな人は負けた悔しさを表現できないからである。

ジンバルドーの言う四つの社会的恐怖とは、「失敗することの恐怖」「人から低く評価されることの恐怖」「拒絶されることの恐怖」「親しくなくなることの恐怖」である。

おそらく、これらの恐怖感は「親しくなることの恐怖」を除けば、誰にでもあると思うだろう。

「これがなぜ恥ずかしがり屋の人の特徴なのだ?」という気がするかもしれない。

しかし、やはり恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人が持つ失敗することの恐怖と、心理的に健康な人が持つ失敗することの恐怖とは違う。

それは恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人が失敗を恐れるのは、不信感という土壌の上での恐怖感だからである。

周りの人が自分を認めていてくれて、自分も周りの人を信じることができる。

そうしたなかで失敗するのと、周りの人が自分に批判的で、だれも信じられないという人間関係のなかで失敗するのとは意味が違う。

そして「臆病、警戒心、不信感」というものが土壌にあればこそ、見栄っ張りな人はこれらの社会的恐怖が深刻になる。

次に恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人には助けてくれる人がいない。

見栄っ張りな人はこれが不安や恐怖感を深刻にする。

これらのことで、恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人の、失敗するかもしれない、拒否されるかもしれないという不安は、心理的に健康な人よりはるかに深刻である。

心理的に健康な人にとっては怖くないことでも、恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人にとっては怖い。

すでに説明したように、恥かしがり屋の見栄っ張りな人は小さい頃、助けてくれる人がいなかった。

見栄っ張りな人は信頼できる人がいなかった。

見栄っ張りな人は母性的保護を母親から期待できなかった。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は小さいころからひとりぼっちだった。

見栄っ張りな人はだれからも積極的に関心を持たれなかった。

だから心理的に健康な人よりも、見栄っ張りな人は、はるかにそうした社会的恐怖をもたらす事態には敏感である。

「望むときに愛着人物を得られないという可能性ほど恐怖をもたらす事態はないと思われる」

自尊心が傷つけられる見栄っ張りの人

誰でも失敗することの恐怖を持っていると思うかもしれない。

ただすこし違うのは、恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人が失敗を恐れるのは、一度の失敗ですべてがダメになると思っていることである。

なぜだろうか?

それは見栄っ張りな人は小さい頃から親に「事が起きたらそれでおしまい」と脅されていたからである。

見栄っ張りな人は「おしまい」ではないのに「おしまい」と脅された。

子どもを恥ずかしがり屋にする親は、ちょっとしたことでも子どもを脅す。

しかし、実は事が起きてもどうということはない。

つまり子どもはいじめられたということである。

恥ずかしさは、家庭から始まる。

シャイな父親の子どもの四分の三はシャイであった。

いじめも家庭で始まる。

「殺されるかもしれないという恐怖感」は広い範囲を含んでいる。

それはほんとうに「殺されるかもしれない」と恐怖することから、このように脅されて怯えることまで含まれている。

フロイトが人間性の半分を埋めたなら、私たちはその明るい半分を埋めなければならないと主張し、人間の自己実現を研究したマズロー博士は「明らかに不安定な人間は、品位を持って敗北を受け入れることができない」と述べている。

「品位をもって」の元の言葉はgracefullyである。

人格不安定な人も失敗や敗北を受け入れることがある。

しかしそれは、見栄っ張りな人はたとえば「どうせ私はダメですよ」というような甘えた自暴自棄のような認め方である。

最近の研究によれば、この傾向は人格に対する脅威があるところにおいて表れる。

つまり見栄っ張りな人は失敗が安全、自尊心、威厳などの喪失を意味するときに、失敗を認めることができないとマズローは言う。

つまり恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人にとって、失敗は自分の自尊の感情を傷つける。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人にとって、失敗は自分の人格に対する脅威なのである。

見栄っ張りでない人でも選択にリスクはつきもの

したがって、恥ずかしがり屋の子どもは選択できない。

心理的に健康な子どもとは選択のできる子どもである。

選択することにはリスクがともなう。

見栄っ張りな人は何をしても失敗する可能性がある。

見栄っ張りな人はいつも選択が間違わないなどということはない。

少なくとも選択するときには、リスクがともなうから決断が必要である。

選択するとは、間違うかもしれないけれどもこちらにするということである。

だからこそ人は選択することで心理的に成長できる。

子どもが夏のキャンプに参加する。

ヨットに乗ろうか、カヌーに乗ろうかと考える。

どちらに乗って失敗しても、やったという達成感がある。

その達成感が心理的成長につながる。

自分で選択することで、失敗しても結果に納得する。

選択することで、自分がわかってくる。

どちらかを選択すればトラブルはある。

だからトラブルは進歩の母なのである。

日常生活の小さな小さな選択でも同じである。

自分で選択をしていれば、納得する。

車に乗っているときに、ガソリンがなくなってきた。

いつもいれているところでガソリンを入れれば八千円、いま目の前にあるスタンドで入れれば一万円。

でも、ガソリンがなくなったら大変だからと安心感を買った。

そう思えばこのガソリンスタンドの一万円が納得出来る。

ところが恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は、そんなときに、一万円のガソリンを入れたところで「ああ、損した、損した」という嘆きになってしまう。

見栄っ張りな人は選択を迫られたときに、優柔不断になる。

見栄っ張りな人は小さいころから選択をした体験が乏しいからである。

自分で選択すれば「これを選んだ」ということで損を納得できる。

選択するのだから、何かを基準にしている。

そこで自分が見えてくる。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は納得出来る性格がつくられていない。

選択は竹の伏目みたいなものである。

何かを選択し、それを試みる。

それで子どもは成長する。

谷があったら飛び越えてみる。

失敗しても、その飛び越えようとした気持ちを喜んでやる親が子どもの心理的成長を促す。

心理的に病んでいる親は、社会的成功が子どもの成長だと思っている。

子どもの心理的成長に害になる親とは、谷を越えようとして失敗したときに子どもを責める親である。

こうして子どもは見栄っ張りな失敗を恐れる大人になっていく。

そして失敗を恥ずかしいことと思う見栄っ張りな大人に成長していく。

じつはこうした現象は日本に多いという。

ジンバルドーは、失敗したときに日本の子どもほど責められる子どもは世界にいないと言っている。

子どもの試みようとする気持ちを喜ばないで、社会的成功だけを期待する親は、子どもの世界をどんどん小さくしていく。

そうした親は子どもの社会的成功で自分の心の傷を癒やそうとしているのである。

見栄っ張りの人は「挑戦」するにもタイミングが大事

大人になっていきなり「挑戦が大切である」と言われても、それは無理である。

小さい頃から挑戦をしてこなかったのだから。

そうした体験がないのだから。

しかし恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は、ここで「挑戦しなければ」と思ってしまう。

見栄っ張りな人は無理をして挑戦しようとする。

そして見栄っ張りな人は挑戦できない自分をダメな自分と思ってしまう。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人やうつ病になるような人は、周囲の人が無理なことを言っても「それは無理だ」とは思わない。

そして、見栄っ張りな人はその無理なことをしなければならないと思う。

見栄っ張りな人はだからいつも不安な緊張をしているのである。

大人になって「やってみようか」という気持ちになるのは、小さい頃からいろいろと挑戦してきた人達である。

何事も「いきなり」というのは無理なのである。

悩んでいる見栄っ張りな人は、たいてい何事も「いきなり」を自分に期待している。

それは見栄っ張りな人は小さいころから周囲の人に「いきなり」を期待されたからである。

悩みの解決も、何かをできるようになることも、人間関係がうまくいくことも、悩んでいる見栄っ張りな人は「いきなり」を期待している。

いきなり立派になる人間などいない。

そして見栄っ張りな人は無理なことをしようとするから努力が実らない。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人やうつ病になるような人は、無駄な努力をして消耗するだけで、いつになっても自信がつかない。

ライフサイクルを重視し、青年期の課題をアイデンティティの確立に求めたエリクソンは、アイデンティティの確立のためには、思春期には自我喪失の恐怖に直面することが大切であると言っている。

そのとおりである。

まさにエリクソンが言うように、青年は自分の価値が脅かされる事態に直面していかなければならない。

そうする勇気を持たなければならない。

リスク・テイクを避けるとエリクソンの言うごとく、深い孤立感と、その結果として自分の可能性を捨ててしまい、また絶望感を持つ。

マズローも「成長と安全」と対比している。

子どもは安全を選ぶと心理的に成長できない。

自我喪失の恐怖の一つ一つが、竹でいえば節目である。

その節目節目があるから竹は上へ上へと大きく伸びている。

怖いときには挑戦せよ。

失敗したときに、三度までやってみろ。

ただ、思春期になっていきなり「自我喪失の恐怖に直面せよ」と言ってもそれは無理だということである。

小さい頃から木に登り、縄跳びをし、竹馬に乗り、魚を獲り、失敗と成功の体験を繰り返すなかで、大人になって、失敗の可能性のあるものに挑戦できるのである。

そしてくどいようだが成功、失敗にかかわらず、その「してみよう」という気持ちを親から褒められて生きてきて、大人になって、挑戦できる人間になっている。

小さいころからの体験がなければ、見栄っ張りな人はいきなり「失敗の可能性があっても挑戦しろ」と言われても、ついつい自分の身を守ってしまう。

見栄っ張りな人は落ちる可能性のある試験を受けるときには、「やめようか」と思ってしまう。

見栄っ張りな人は負けそうな議論を人前でするのは避けてしまう。

見栄っ張りな人は相手にされないかもしれない会合には欠席してしまう。

幼児期から社会的成功だけを期待して子どもを育てて、その子どもが大人になってから「何事も恐れないで挑戦する人」になってほしいと願っても無理である。

ところが、心理的に病んでいる親はこれを期待する。

失敗を恐れて身を守ることばかり考えている見栄っ張りな大人は、小さいころからの毎日の生活のなかでそうなっているのである。

それはちょうど会社に勤めているときに会社人間で仕事だけの見栄っ張りな人が、定年になっていきなり「趣味の人」になれと言っても無理なのと同じである。

まさにオーストリアの精神科医ベラン・ウルフの言うごとく「悩みは昨日の出来事ではない」のである。

いままでの毎日の生活の積み重ねとして、人は今日悩んでいるのである。

小さい頃からの毎日の生活の積み重ねで見栄っ張りな人は「恥をかかないことばかりに気をつける大人」になっているのである。

「大人のパーソナリティーは未成熟な時期を通じての重要な人物たちとの相互作用、なかでも愛着人物たちとの相互作用の所産と見なされる」

「今世紀大半において賛同を得ているパーソナリティー発達におけるモデルは、パーソナリティーを、一定の段階を経て成熟にいたるものと考えている」

毎日酒を飲んでいれば何年かして肝臓が悪くなる。

ある日、お祝いでたまたま酒を飲んで突然、肝臓が悪くなる訳ではない。

見栄っ張りの人の失敗が恐怖に変わるとき

見栄っ張りな人は大人になってこうした恐怖を持つのは、小さいころに失敗を笑われたり、失敗して軽蔑されたりしたからであろう。

見栄っ張りな人は失敗をして「あんた、バカねぇ」と冷ややかに笑われた。

見栄っ張りな人はその冷笑に傷ついた。

見栄っ張りな人は何かを頼んだら「フーン」と冷ややかに拒絶された。

見栄っ張りな人は人から鼻であしらわれた。

見栄っ張りな人はそうした体験からこうした恐怖を持つようになったのである。

ふつうなら「あんた、バカじゃない」と言われれば、「何言ってんのよ」とケンカになる。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人はそういう人間環境のなかで育っていない。

そこで大人になったときには、ずでに恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人はこのケンカができなくなっている。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は、小さいころケンカになるような言い方ではなく、鼻であしらうバカにされた言い方を経験しているのであろう。

見栄っ張りな人はこうした感情的記憶の積み重ねのうえで、失敗が怖くなる。

見栄っ張りな人は健全なケンカができなくなった。

馬にある音を聞かせたあとに床に電流を流す。

すると電流を流さなくなっても音を聞くと、馬は蹄を上げる。

失敗が音で、恐怖が電流である。

失敗しても、もう周囲の人は「あんた、バカねぇ」と冷ややかに笑わない。

しかし恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は、その音を聞くと電流を流さなくても蹄を上げる馬と同じで、心理的にすくんでしまう。

見栄っ張りな人は何かに取り組もうとすると、失敗することの恐怖が生じる。

見栄っ張りな人はその昔の不快感情が自動的に生じてしまう。

つまり、見栄っ張りな人はすでに失敗についての感情として恐怖というデータが入力されている。

見栄っ張りの人は弱点を過剰に意識する

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人の周囲には、いじわるで不満な人が多い。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人自身が、自分の周りにいじわるで不満な人を集めてしまうのである。

それはいじわるで不満な人にとって、恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は非難しやすいから。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は、言い返さないからいじめられる。

意地悪で不満な人が自分の神経症的自尊心を回復するために人を非難する。

それを恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は、真に受ける。

言うほうは不満な人。

言われる見栄っ張りな人のほうは、その非難を自分の弱点に結び付けて解釈する。

そして見栄っ張りな人はその不当な非難を受け入れてしまう。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は、自分の弱点を過剰に意識する。

つまり見栄っ張りな人はいつも意識している。

「この茶碗、汚い」と不満な人が言う。

すると恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は、私が貧乏だから、と解釈する。

そして、見栄っ張りな人は私を拒絶したと受け取る。

大人になって環境が違い、失敗してもバカにされないのにバカにされると思ってしまうのは、恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人が相手とふれあっていないからである。

つまり、見栄っ張りな人は人とコミュニケーションできないからである。

見栄っ張りな人はいま目の前にいる相手と心がふれあっていない。

見栄っ張りな人は現実の相手を見ていない。

見栄っ張りな人は相手が見えないから、小さいころと同じように失敗することが恐ろしい。

見栄っ張りな人は相手は自分を蔑視すると先入観で思ってしまう。

見栄っ張りな人は相手が見えないから、相手が自分をどう思うかが気になる。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人にとって、相手は魚や蛇と同じである。

見栄っ張りな人はどうすればどうなるかがわかっていない。

つまり見栄っ張りな人は相手に関心がない。

見栄っ張りな人はただ恐れている。

蛇の中にも人間に害になる蛇と害にならない蛇とがある。

襲う蛇と襲わない蛇とがある。

蛇に関心がある人は蛇のことを知っている。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は、相手がわからないから、相手は自分に危害を加えるかもしれないと恐れる。

マムシが気になるのと同じことである。

木こりは木と話しあうという。

料理人はゴボウに関心がある。

恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人は、誰とも話し合っていない。

メランコリー親和型の見栄っ張りな人は良心が「しばしば拡大されて、罪ではなくて、失敗が起きてしまったときにも、良心の叱責の起こる場合がある。

そんな場合、良心はしばしばひどく敏感になっていて、メランコリー親和型の人は、自分のことでいわれのない非難がなされるとだんだん自信をなくし、向けられた非難に甘んじなければならないのではないかという気持ちになってしまう」。

メランコリー親和型の見栄っ張りな人は、負い目に対する敏感さ、わずかな過失が途方もない意味持ったりする。

見栄っ張りな人は他人の罪までひっかぶってしまう誇大的罪業妄想もある。

見栄っ張りな人は他人の怠惰すら自分自身の責任だと感じてしまうことがある。

もともとそういう性質に生まれてくる人もいるだろうが、そのように親から追い込まれる人もいる。

世の中には逆に、自分の罪を他人にかぶせてしまう人がいる。

自分が怠惰なことを棚に上げて他人の怠惰を責める人がいる。

この点を注意しないと、恥ずかしがり屋の見栄っ張りな人はとんでもない目にあう。

社会的成功によって心理的安定を得ようとしている見栄っ張りな人は、すでに心理的安定を得ている人よりも失敗を恐れる。

見栄っ張りな人はストレスも強い。

失敗すると自分の価値が下がると思っている見栄っ張りな人は、自分の価値を信じている人より失敗を恐れる。

失敗すると他人から蔑視されると思っている見栄っ張りな人は、そうでない人よりも失敗を恐れる。

他人が自分のことをどう思っているかを気にする見栄っ張りな人のほうが、そうでない人よりも失敗を恐れる。

他人に自分の重要性を印象づけようとしている見栄っ張りな人のほうが、そうでない人よりも失敗を恐れる。

他人に自分の重要性を印象づけようとしている見栄っ張りな人のほうが、そうでない人よりも失敗を恐れる。

※参考文献:言いたいことが言えない人 加藤諦三著

 

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