負い目から逃れる人

”恩着せがましさ”

負い目に苦しむ人の対人反応の第一は、このように、気分がひかる、あるいは、尽くすということである。

しかし、第二の反応はこれと正反対である。

身近な人間に負い目を負わすことで、自分の負い目から逃れようとする。

おまえのような酷い女と付き合ってやっているなどと恋人を非難し責めることで、負い目から逃れようとする。

その人がいかに酷い女であるかを強調し、その女性が自分は酷い女だと思い込んでくれれば、恋人との関係において負い目から逃れることができる。

恋人の条件が悪ければ悪いほど、安心感を得られる。

ある抑うつ的男性が恋人について次のように語った。

「恋人の父親が死んだということを聞いた時ほど、なぜかほっとしたことはない」

父親もいないお前と付き合ってやると男性が思い、そんな私とつきあってくれていると女性が思えば、この負い目に苦しむ男性は救われる。

負い目に苦しむ人間にとって、”私のような人間が”というような、相手の自己を卑下した発想程救いになるものはない。

また、ある抑うつ的女性が自分の恋人の評判について次のように語った。

「その人がいないところでみんながあの人の悪口を言っている時、ああ、あの人が聞いていてくれたら、と思いました。」

つまり、こんなに評判の悪いあなたと、私は付き合ってあげると思えることで、彼への負い目から解放されるからである。

生きることに喜びを味わっている人であるならば、恋人の親の死の知らせに接して、ああかわいそうだ、なぐさめてあげたいと思うであろう。

しかし、負い目に苦しむ人は逆で、ああよかったとなる。

愛情豊かに育った人であるならば、
自分の恋人が陰口をたたかれているのを聞けば弁護したくなるであろうが、負い目に苦しむ人は逆である。

相手を傷つけることで、自分の負い目の苦しみから逃れようとする者は恐ろしい。

弱い立場にある相手をとことん傷つけるからである。

親子関係でも同じである。

子供が失敗して自分が助けてやらなければならないことを喜ぶ。

親の子に対する恩着せがましさは、今まで述べてきた通りである。

何かの本に、親は自分の荷物が重くて持てなくなると、それを子供に渡してしまう、というようなことが書いてあった。

このことは負い目を負った親に良くあてはまる。自分に対して子供が負い目を感じることで救われるのである。

したがって、子供が自分に負い目を感じるようにしむけていく。

そのためには傷つけつつ世話をすることである。

相手が自分から離れられないようにしたうえで傷つけていく。

負い目を負った者の対人反応の第一は、絶えず気が引けていたり、とにかく他人のために尽くしたいということであり、第二の反応は、相手を傷つけて、相手を自己卑下させて、自分の負い目から逃れようとすることである。

これは正反対のようであるが、ともに自分の存在理由を自分なのかで見つけることができず、他者へ逃避しているという点では同じである。

第一と第二は表面的に正反対であるが本質は同じなのである。

たとえば、第一の”他人のために尽くす”という対人関係の在り方を考えてみよう。

生きることに負い目を負った父親が、いつも家族の為だけに生きているとする。

この父親は愛情があるわけではない。

とすれば、
恩着せがましくなってくる。

対人反応の第一の様式と第二の様式は紙一重である。

いつも家族の為だけに生きていながら、家族の気持ちを大切にするわけではない。

家族が、それぞれ何を望んでいるかを理解できるわけではない。

ただ事物のためにいきるのと同じように、家族のために生きているのである。

このような人は”他人のために尽くし”ながら関係者にとっては押しつけがましく感じられて、なんとはなしにうるさがられている。

やることは立派なのだけれど、どうも注意の人に親しまれないという人が、このタイプの人である。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには負い目から逃れようとしている人と距離をとることである。

これから負い目を負わせる側の心理について考えてみましょう。

生きることに負い目を負わされた人間の側から見れば、この人間はいくら非難しても非難しすぎることはない。

しかし、彼がそうすることにも、もちろんそれなりの理由がある。

彼にとっては自分が生きるために、やはりそうする必要があったのである。

負い目を負った人間は、最も身近な人間に負い目を負わすことで、自分の負い目の苦しさから逃れようとする。

つまり相手に負い目を負わせた人間もまた、負い目を負っていたのである。

負い目を負った人間は、まず当然のことであるが、他人からあらゆる点において借りを作ることを避ける。

恩着せがましく育てられた人間は、とにかく恩をきることを嫌がる。

他人から借りを作ることが苦しい。

当然のことながら、他人にものを頼むのが嫌である。

他人にものを頼むことは、負い目をさらに大きくすることだからである。

したがって、他人に何かしてあげることはあっても、他人に何かしてもらうことは避けようとする。

どうしても自己を主張できない。

ほんの小さなことでも他人に頼めない。

負い目に苦しんでいる以上、他人の助力は、土下座しても償えない気持ちになる。

とにかくいつも気が引けているのである。

コーヒーを飲もうということになって、どの店に入るかということさえ、他人に譲らざるを得ない。

いわんや何を食べるか、和食か洋食かなどと言うことになれば、すべて他人優先。

他人に譲っている方が心理的に楽なのである。

自分の好みを主張すると、負い目が増してしまう。

絶えず気が引けて、絶えず他人に譲りながら、絶えず何か不満である。

それでも自分の好みを主張して借りを作るよりはいい。

テレンバッハの「メランコリー」に次のような一文がある。

「他人との関係は、尽くすということを媒介として営まれる。

メランコリー親和型の人は、決して無条件にものを受け取ることができない。

他人から何かもらうと、すくなくともそれと同等の、たいていは何倍ものお返しをする。
他人からの借りを作ることができず、他人からの恩義を背負いたくないからである。

具体的な尽力を伴わないで、ただ純粋に他人のためにある、というようなありかたは、彼には考えられない。

自分がただそこにいるだけで他の人を幸福な気持ちにしたり、喜ばれたりすることができるようなどという考えは、そのような人には到底受け入れられない。

・・・ある1人暮らしの女性メランコリーが「私は自分がすべきことをするということによってしか、他の人への要求を出せません」といっているのは特徴的である。

マトセックらが、次のように書いているのは正しい。

「愛は、うつ病者によっては、独自の個性を持った独立の人格を肯定することとしてではなく、相手の愛を要求しうるために必要な行為の遂行として生まれる」-

彼はさらに、うつ病の男性においては性的ないとなみですら「妻に対する真の愛情関係の表現などと言うものではなくて、それによって妻を満足させなければならないという愛の仕事」であると述べている」

※参考文献:自分を嫌うな 加藤諦三著

 

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