メンタライゼーションとは

つらいことや苦しい気持ちを打ち明け、共感や理解を得るという戦略は、効果的な方法だが、気持ちが食い違っている状態や、心が通じ合っていないときには、それだけではうまくアピールできない場合もある。

自分の苦しいことばかり主張してと、冷めた見方をされないとも限らないのだ

そういう場合には、さらに高度な技が必要になってくる。

その例を、『赤毛のアン』にみることができる。

アンは巧まずしてそれを用いたのである。

男の子をほしがっていたのに、間違えてアンがやってきたとき、兄のマシューの方は、アンに同情し、家においてやりたいと考えるようになるが、もっと現実的な妹のマリラの方は、しゃべりすぎるアンのことを耳障りな存在だと感じ、孤児院に返す気でいた。

ところが、その気持ちが揺れ始めたのは、アンから自分の身の上を聞かされたことからだった。

アンの両親は二人とも教師だったが、アンがわずか生後三カ月の時に、熱病にかかって相次いで亡くなってしまったのだ。

それから、親戚のもとを転々として、子守や家事をする小間使いとしてこき使われながら、どうにか生きてきたのである。

マリラの心は揺れていたが、アンを引き取ろうという気持ちをさらに決定づける、もう一押しがあった。

マリラが、アンに、「おまえを引き取ったおばさんたちは、優しくしてくれたのかい」と尋ねたとき、アンは一瞬答えに詰まりながら、こう答えたのだ。

「優しくしてもらえないこともあったけど、おばさんたちも、たくさん子どもを抱えて、それどころではなかったのよ」と。

マリラには、孤児となって親戚や知人に引き取られた子どもが、どんな目に遭うかは、聞くまでもなくわかっていたことだった。

しかし、アンは、自分が受けた仕打ちについて、誰かを責めたり、恨み言を言ったりするのではなく、むしろ彼らを庇おうとした。

その瞬間、マリラは、どんなことがあっても、この子を守ってやらねばという気持ちに襲われたのだ。

つらい体験を嘆き、悲しみや怒りを表現することも、共感を得られるかもしれない。

しかし、もっと相手に感銘を与え、その心を動かすのは、その悲しみやつらさを乗り越え、そのことを許そうとする姿なのである。

それができるのは、自分の体験を、自分を越えた視点で振り返る、メンタライゼーションと呼ばれる力を備えることによってである。

マリラは、わずか十一歳の女の子が、自らの過酷な体験を、そんなふうに語るのを聞き、心を動かされたのだ。

不遇な境遇をプラスに変えるメンタライゼーション

不遇な境遇で育った場合も、その境遇やそれを与えた社会を恨み、人間全般を呪詛しながら暗い人生を送る人もいれば、その出来事を受け入れ、許し、人を信じて、前向きに生きていける人もいる。

その違いを生み出すのも、このメンタライゼーションだと言われている。

優れたメンタライゼーションをもつ人は、不安定な愛着の親に育てられても、自分の子やパートナーに対して安全基地となり、安定した愛着を結ぶことができる。

このように、メンタライゼーションを高め、物事を自分の視点だけでなく、相手の視点やもっと大きな視点から眺め、理解しようとすることが、過酷な体験をした場合にも有効なのである。

日々の生活や周囲の人との関係を苦痛に満ちたものから、居心地のいいものに変えていくのにも、そこで鍵を握るのは、自分の視点を離れる技術なのである。

瞑想やマインドフルネスが役立つのは、雑念やとらわれを減らすことによって、このメンタライゼーションを高めるという点においてなのかもしれない。

ただ、瞑想やマインドフルネスだけでは、メンタライゼーションを高めるには十分ではない。

今まで見えなかったものが見えるようになるためには、ただ瞑想していたのでは、長い時間を要してしまう。

それを短縮しようと思えば、視力回復トレーニングのような、特殊なトレーニングが必要になるのである。

※参考文献:対人距離がわからない―どうしてあの人はうまくいくのか― 岡田尊司著