アダルトチルドレンと痛みへの反応としての「うつ」

うつ状態の人というのはみんな寝てばかりで、食欲がなく、自殺傾向があるものだと一般に思われているのは困ったことです。

確かにこのイメージは、うつが深刻になった状態を表わしてはいますが、多くのうつを抱えたおとなたちは日々をふつうに過ごし、自分の責任をほぼ果たすことができます。

彼らが周囲に向けて演じる偽りの自分は、とても落ち込んでいるようには見えないのですが、本当の自分、本当の感情と魂は、ひどい絶望を味わっているのです。

これが明けても暮れても繰り返され、毎週、毎月、そして毎年続いていれば、「隠れうつ」になってもおかしくありません。

うつ状態を隠しておくため、私たちは他人と親しくしたり長い時間を過ごすのを避けて、本当の感情に気づかれないようにし、そして、うつの奥にあるむなしさに気付かれないようにするのです。

相手に「仮面をひっぺがす」機会を与えるような深い友情関係はつくりません。外見上はとても有能で、かつ高い壁をつくって「私のことは聞かないで。私にかまわないで」と断固宣言しているのです。

落ち込んでいるだけでも、辛いことです。

そこへ、落ち込んでいるのはいけないことだという思いが加わるのですから、もっと辛くなります―落ち込みの原因を恥じ、自分が落ち込んでいること自体に耐え難い恥ずかしさを感じるのです。

うつの原因については諸説があります。

うつは生化学的なアンバランスであり神経伝達物質の機能障害からきていて、抗うつ剤の投与が一番の治療だとする臨床医や研究者もいます。

うつは家系的に受け継がれやすく、うつになりやすい遺伝的素因があるらしいということは多くの専門家が認めています。

別の考え方は、うつとは悲観的でゆがんだ物事の見方が習慣となった結果だというものです。

またさらに、うつは喪失によっても引き起こされ、喪失の悲しみに区切りをつける「グリーフワーク」ができなかった結果として生じる場合があります。

グリーフワークとは、きちんと嘆き悲しむことで喪失を過去のものにしていく作業です。

自己否定感が土台にある家族で育つことは、途方もない喪失をともないます。

そこでは否認が支配していることも多く、率直に語ることが許されずに、痛みを乗り越えていく方法がないままで喪失感がつのっていきます。

傷つきも、失望も、怖れも、怒りも、そして見捨てられ体験も、すべて一緒になって渦巻き、心の奥に根づくのです。

そこへ「自分が悪いんだ」という思いまでが加わったとしたら、本当の自分は無価値だと信じて他人から隠そうとしても不思議ではありません。

そして最終的には、三十五歳のときか五十五歳になってからかわかりませんが、いきなり壁にぶち当たります。

しまいこんでいたものがあまりに重荷となり、今まで長いこと自分を守りコントロールしてきたしくみが破綻します。

うつが始まるのです。

喪失にからんだうつを経験している人のほとんどは、自分の感情を極度に恐れています。

そして実際は、とてもたくさんの感情を感じています。

それを語ることが安全でない場合、感情は自分の内面に直接ぶつけられます。

これが、自己否定感を持続させるもうひとつの原因となり、さらにうつ気分を長引かせるものとなるのです。

子どものときに悲しみを表現することが安全でなかったとしたら、おとなになってから経験する喪失に対処する術を身につけていないことになります。

だから喪失に直面したり、それが積み重なった場合、子ども時代に身につけたのと同じ方法に頼って自己否定の殻の中に閉じこもり、感情を否認するしかないのです。

人生の中で喪失を体験し続けていると、ちょっとしたことでもパニックし、おびえきって、無力感と絶望におちいるような思考パターンを身につけがちです。

たとえば、夫が大事な約束に20分遅れたとしたら、交通事故にあったに違いないと考えるかもしれません。

上司があなたにおはようと言うのを忘れようものなら、きっと自分のことを怒っていてクビにするつもりなんだと確信したりします。

小さな情報のかけらをもとに、最悪の事態を予測するのです。

私たちは長年の経験から、頭の中に委員会を作り上げていて、それが内なる批評家となって「愚か者だ」「必要とされていない」「醜い」「どうでもいい人間だ」と自分にささやくのです。

ちょっとした悲しい出来事があったり何かを失う怖れを感じたり、あるいは重要な相手から軽視されたと感じるたびに、その反応が起こります。

そうやって無力感や絶望や怖れを感じると、急下降する渦巻きへと自分を放り込んで、きりきり舞いしてしまうのです。