メンヘラを克服する心理

メンヘラの人は先を見て、時間をかけて解決する

まさかこんなことになるとは思わなかった

長い人生にはそう思うことが度々ある。

人生覚悟しないと生きていけない。

覚悟をしている人は、「今が最後」といつも思っている。

しかし後から考えると「あれが良かったなー」と思える。

だから先を見て考えれば、今のトラブルは違って見える。

メンヘラの人はトラブルの時には焦って「今すぐに解決しよう」ではなく、先を見て、時間をかけて解決すること。

親の介護にまつわる家族の間の人間関係のトラブルは多い。

しかし親の介護をしていると、自分が介護される時どうすれば良いかが分かる。

何が介護する人間にとってイヤなことかが分かる。

すると今度自分が介護される側になった時には親子関係は上手くい。

今の介護の苦しさは二十年したら報われる。

従って介護という親孝行は早ければ早いほど良い

介護をしていけば、一人で生きていく精神状態になっていく。

介護は大変でも、介護で自分の老後の生き方が分かる。

自分の老後が見えてくる。

親の介護は人生の答えを教えてくれる。

自分はこの年にはこうしようとか、その年代その年代の自分が、どう生きれば良いのかという生き方をメンヘラの人に教えてくれる。

だからメンヘラの人はものの見方を変えると損なんてない。

損というのはその時だけのことを考えているから損していると思えるのである。

介護をしていないとその年齢になった時にどう生きて良いか分からない。

「落ち込んでいく道を選ぶのか、悟りの道を選ぶのか」

これが「最後の試練」と思うことがある

メンヘラの人は留めを刺されたような事件が起きる。

それでも、それをくぐり抜ける。

「これが最後、これが最後」と、何度も「最後の難関」を乗り越える。

やるだけやって、なるようにしかならない。

やるだけやってメンヘラの人は後は受け止めること。

覚悟を決める

メンヘラの人は一度覚悟を決めてもすぐにまた悩み出す。

また覚悟をメンヘラの人は決める。

それでもメンヘラの人はまた悩み出す。

何度でもメンヘラの人は覚悟をする。

そのうちにある時、ふと悟りが開ける。

悟りは奇跡を生む

悟りを開いた時に、メンヘラの人は精神安定剤を飲んでも得られなかった安らぎを感じる。

「橋の下で生きる」覚悟があれば、ポストを失うことなど何でもない。

メンヘラの人はポストや評価に執着していると豪邸に住んでも悩みに悩む。

放浪の旅の時も、考えてみれば、それはホームレス。

スーツケース一つで世界を歩く人は幸せ。

メンヘラでない人は旅するホームレス。

そこで人生終わってもいい。

そう思えば、日常の小さなことが小さなことになる。

田園調布に家を建てても、その家を持って死ねるわけではない。

重い病気になるのと、今のこのトラブルとどっちが良いか考える。

落ち込んでいく道を選ぶのか、悟りの道を選ぶのかの選択をする。

メンヘラの人の人生は戦いである

生きるということは川の流れ、バックはできない。

リンゴを落とした、流れて行っちゃった。

それなのにメンヘラの人は「あれさえあれば」と「あれ」に執着して悩む。

「あれはあれでいいんだ、はじめからなかったんだ」、そう思えばいい。

過去はない。

過去があるのはあなたの心の中。

過去をイヤなことにしない、メンヘラの人は過去をバネにすること。

何かイヤなことがあったら、メンヘラの人は試しに「今が一番良い」と思ってみる。

具体的な生活妨害で困ったら、メンヘラの人は「これは十年も続かない」と思えば良い。

それがメンヘラの人は戦い。

人生は戦いである。

その「戦い」という意味は、今記したようなこと。

元気な人の方が勝ち

生きるためには慎重さが必要、メンヘラの人はおかしな人と関わらないようにいつも用心すること。

これもメンヘラの人は戦い。

それでも関わってしまうのが人生。

これもメンヘラの人は戦い。

イソップ物語に「オオカミとキツネ」という話がある。

キツネがオオカミにつかまりました。

じぶんは年をとっているから殺さないでくれとたのみますと、キツネはいいました。

「正直なもんくを三ついえば、ゆるしてやろう。」

すると、キツネはいいました。

「あなたに、あわなければよかった。」

「いま、あなたが生きていなければよかった。」

「これからも、あなたにあわなければいいが。」

人間の本心もこんなものである。

現代の複雑な人間関係の中で生きている人間の心の中を見てしまえば、こんなものである。

メンヘラでない人は、冷静な時には格好つけたことを言うが、本心は言わない。

望まないことが起きないようにするのがメンヘラでない人の知恵である。

でも事はメンヘラの人は起きる。

メンヘラの人はこういうような愚痴を言うような生き方をしているから捕まった。

自分を守る知恵が足りなかった

メンヘラの人はそのことを反省すれば良い。

「あなたに、会わなければ良かった」と言うなら、メンヘラの人は「会わないような生き方」をしなければいけなかったのである。

会わないようにメンヘラの人は注意をしていなければならない。

会わないようにメンヘラの人は見張っている。

でもメンヘラの人は会ってしまった。

だからこれを機にメンヘラの人は「会わない努力をする」ということを学べば良い。

メンヘラの人の辛い体験は自分を鍛えるチャンスでもある

ずるい人と誠実な人を見極める

それにも拘らずある視点から見ればトラブルは対処の仕方によっては望ましい結果を生み出す。

第一に、人間関係のトラブルが起きると、今の人間関係の何処が問題で、誰がこのトラブルの本当の犯人であるかが分かる。

メンヘラの人はここで人を判断する力が養われ、それが次のトラブルの解決につながる。

今メンヘラの人が苦しんでいる人間関係のトラブルがある。

その本当の原因となっている人は、表面的にはいい人であることがある。

それ故に本当に悪い人が誰であるかが、なかなか見えてこないことがある。

ずるい人は自分の手を汚さないで人を搾取する。

弱い立場のメンヘラのものを苛める。

ずるい人は弱い立場の人を助ける顔をしながら、弱い立場の人を食い物にして生きている。

ずるい人は強い立場の人よりも弱い立場のメンヘラの人から取っていく。

現実の社会の中で生きる能力で、最も大切なのはずるい人と誠実な人を見分ける能力である

メンヘラの誠実な人が働き過ぎて燃え尽きたり、やさしい人が過剰なストレスから無気力になったり、寂しい人が過労死したりする。

トラブルが起きた時にはメンヘラの人は誰が真犯人かを見極める。

これがメンヘラを克服する上で最も大切な解決のポイントである。

「誰がずるい人か?」が見えればメンヘラの人は解決の方向に歩み出すことができる。

誰がトラブルの真犯人か分かれば、メンヘラの人は人間関係のトラブルは対処できる。

それが「今までの人間関係の垢を落とす」ということである。

今まで自分の周りにいた人の心がトラブルで見えてくる

メンヘラの人はやさしい人と冷たい人が見えてくる。

献身的な人と利己的な人が見えてくる。

そのトラブルの解決で、自分の身の回りの人間関係の膿を出しきる。

自分の周囲の人で、メンヘラの人は本当に悪い人が誰だか分からない。

だから、一生懸命に努力しても、メンヘラの人は何故か報われない。

生きるのがどんどん苦しくなる

メンヘラの人は努力が報われなければエネルギーのレベルはどんどん下がってくる。

そしていつかストレスがメンヘラの人は過剰に堆積する。

イライラもメンヘラの人は酷くなる。

やがては無気力になり、病気にもなり、最後には死ぬことさえある。

あなたに直接危害を加えている人が、必ずしもあなたにとって最も困る人ではない。

メンヘラのあなたを本当に追いつめているのは、あなたに直接危害を加えている人ではないかも知れない。

あなたに表面いい顔をしながら、陰でチクチクいじわるをしている人がいるかも知れない。

あなたからしゃぶるだけしゃぶって、しゃぶれなくなったらメンヘラのあなたを追い出しにかかる。

あるいはさっさっとメンヘラのあなたを捨てていく。

トラブルがなければメンヘラの人は人間関係の膿は出せない。

メンヘラだからこそ他人の痛みがわかる

人間関係のトラブルを乗り越えた時にはその人の人生観はより深くなっている

その煮えくり返るような悔しい気持ちをじっと我慢した時に、メンヘラの人は初めて虐げられて生きてきた人達の気持ちが分かる。

メンヘラのあなたは強者の横暴を体験し、相手を殴り殺してもまだ気持ちが収まらないほど悔しい。

それなのにメンヘラの人は口で非難することさえできない。

どうしても収まらないほど悔しさをメンヘラの人は感じ、夜も眠れない苦しい日が続く。

その苦しい体験をして、メンヘラの人は弱い立場に立たされたものの気持ちが初めて理解できる。

そこで初めてメンヘラの人は弱者へのやさしさが生まれる。

やさしさを持った強者こそがたくましい人なのである

強い立場の者から痛めつけられて、もだえ苦しんだメンヘラの体験が本当にたくましい人を作る。

メンヘラの人はそれまでは机上の理屈だけを言う。

複雑な世の中の動きと関係なく正しいか正しくないかを言う。

正しいことは実行できると思っている。

そして「正しければ、それでやればいいじゃないか」というような世間知らずなことをメンヘラの人は言う。

現実の世の中では、正しいことでもできないことはある

合法的なことでもできないことがある。

世間知らずで社会的に強い立場の人の言う理屈は、現実の世の中の恐ろしさを無視した机上の空論でしかない。

そんな人のアドヴァイスは現実の世の中では何の意味もない。

悔しさで眠れないメンヘラの体験を続けて初めて、「あーこうした下積みの体験を続ける人たちがいるのだ」と理解する。

そのメンヘラの体験で下積みの人の気持ちを理解できるようになる。

そこでやさしくてたくましい人になる。

ある人が「役所を怒らしていいことないですから」と言った

どんなに不当なことを言われても、悔しくても役所の言うことに従って我慢するという。

その屈辱のメンヘラの体験をしてこそ、初めて他人の痛みを理解できる人間になる。

メンヘラの人は眠れない夜が続き、「あー、もうオレはダメか、眠れなくて脳がやられてしまうか」そう思って悔し涙を流した夜があって、弱者の気持ちが理解できる。

屈辱の体験をした時に、メンヘラの人は現実の世の中で生きることができる一人前の人間になれる。

格好よく正義を振りかざす人間が、たくましいわけではない。

その表面的に格好いい正義の人に痛めつけられたメンヘラの人が、やがてたくましい人になる。

憎しみの仮面を被った正義に、とことん痛めつけられたメンヘラの人がたくましい人になるのである。

悔しさに眠れない日が続いて消耗し尽し、ついに体を壊して負けたメンヘラの人が、その絶望の廃墟の中から立ち直ってたくましい人になるのである。

メンヘラの人の依存心を断ち切る

悔しさにもだえる時に、誰か自分を助けてくれる人が欲しいと願う。

「この人に言えば、自分の悔しさを理解してくれて、思う存分に悔しさを晴らしてくれる」、そんな人が欲しいと思う。

「そういう人がいたらどんなに良いだろう」と思うが、そんな人は現実の世の中にはいない。

メンヘラの人が「闘う」ということは依存心をなくさなければならない。

だからたくましい人になるためにはそうした助けを求める依存心をメンヘラの人は断ち切らなければならない。

この「誰かオレのこの悔しさを分かってくれ、そしてこの恨みを晴らしてくれ」という甘えを心の中で断ち切って、メンヘラの人はたくましい人になれる。

そして何よりもそうした地獄の体験をしたメンヘラの人は顔が違ってくる。

憎しみや恨みの感情に耐えてメンヘラを乗り越えた人の顔は違う。

メンヘラの苦しみに耐えた人と苦しみの体験の少ない人とでは顔が違う。

苦しみを乗り越えた人の顔は引き締まっている。

顔の奥が輝いている。

たくましい人である

それは何よりもトラブルで人間理解が進んだのである。

安っぽいヒューマニズムなどではとうてい到達できないところに到達したのである。

「仲良くしましょう」とか「平和のために」とかいう歯の浮くような机上の空論としてのヒューマニズムから現実の世の中にしっかりと根を下ろしたヒューマニズムに変わる。

刃物を持った恐喝、感情的恐喝など、様々な恐喝に接して生き延びたメンヘラだった人は、生徒会民主主義から現実に立脚した民主主義になる。

そうしてたくましく成長した人は、「勝つこと」が必ずしも自分にとって良いことではないと分かっている。

それはメンヘラだった人が勝った時に周囲の人から恨みを買っているということを知っているからである。

相手が「すいません」と言った時に、勝ったわけではない。

相手の恨みを買ったのである。

このツケを長い人生でいつか払うことになる。

本当に「勝った」ということは、こちらの言い分に相手が納得した時である。

納得しないまでもこちらの真の強さを認識した時である

メンヘラを克服した、たくましい人とはこの現実の世の中で生きていける人である。

サメや虎がいるばかりではなくハゲタカもヒルもいるのがこの世界である。

そこで餌食にならないで生き抜いていかれる人がたくましい人である。

机上の勉強だけしていてもたくましい人にはなれない。

世俗の世の中で失敗したり騙されたりと辛酸をなめ尽くしてたくましい人になっていく。

踏まれても、踏まれても雑草のように伸びていく。

悪には負けないが、自分は悪いことをしない。

それがたくましい人である。

今のトラブルがどんなにイヤでも、苦しくてもメンヘラの人は「これは自分の幅を広げるんだ」と思えばいい。

メンヘラの人の愛情飢餓感は敵意を生む

人はトラブルに対処することで大きく成長する。

メンヘラの人は愛情飢餓感が強ければ強いほど、物事が自分の思った通りに行かないと不満になる。

愛情飢餓感が強いメンヘラの人が、傷つかないためには、「こうしたい」と欲するように皆が賛成して動くことが必要である。

しかし現実の世の中では皆が自分の思うように動かないから、傷つく。

どのくらい深く傷つくかということは、どのくらいそのメンヘラの人の愛情飢餓感が深刻かに正比例する。

「依存と支配」ということがよく言われる。

依存していれば依存しているほど、その依存している人を自分の望むように動かそうとする。

それは愛情飢餓感の特徴である

愛情飢餓感が強ければ、メンヘラの人はそれだけ人が自分の思うように動いて欲しいし、動いてくれなければ傷つく。

そこでメンヘラの人は怒り、敵意を持つ。

人は、自分が心理的に依存している人に敵意を持つ。

その「依存と敵意」といわれる矛盾した心理もメンヘラの人は愛情飢餓感の一つの症状である。

先ず「依存と支配」があり、次にその結果として「依存と敵意」が現れる。

相手に依存しているから、相手が自分の思うように動いてもらいたい。

しかし現実には思うように動いてくれないから、メンヘラの人は傷ついて相手に敵意を持ってしまう。

助けてくれと頼んだ人から、助けてもらえない

メンヘラの人はその時に傷ついて相手に対して憎しみが出る。

そしてそれは最後に無力感をもたらす。

そういうメンヘラの人は恋愛をしても、すぐに上手くいかなくなってしまう。

それは愛情飢餓感から「依存と敵意」になり、メンヘラの人は依存する恋人に敵意を持つようになってしまうからである。

依存をしていればメンヘラの人は要求は多い。

要求が多ければ、それが通らなくてメンヘラの人は傷つく機会も多い。

この場合もメンヘラの人はそれは同時に無力感をもたらす。

自分で解決しようとするのではなく、人に頼って解決しようとするから、メンヘラの人は解決できない時に憎しみが生まれ、最後には絶望感と無力感が生じるのである。

物事を解決しようとすれば、メンヘラの人は依存心があっては無理である。

たくましい人は、自分を頼りにする

トラブルに対処するということは、依存心を乗り越えるということにもつながる。

トラブルに対処するということは、鍛えられるということである。

メンヘラの人の低い自己評価と憎しみと絶望感や無力感はお互いに深く関わり合っている。

そしてその中心に愛情飢餓感がある。

つまりトラブルに対処するということは、そういう依存心の強い自分を変えていくということである。

他人の不幸が嬉しくなった時には、メンヘラの人はすでに敵意から憎しみに変わり出している。

憎しみが無差別になり出している

あなたの周囲には好き勝手なことをする自己中心的な人がいる。

そういう人は力でメンヘラの弱い人を痛め続ける。

そのような冷たい利己主義者のいいなりにならないで、メンヘラの人は自分を守る戦いをすることは自分を向上させることである。

それをメンヘラの人は忘れてはならない。

「動物は困難を乗り越えた時に強くなる」

第三は、人はトラブルで強くなる

メンヘラの人はトラブルを乗り越えることによって強くなる。

より自由になる。

弱ければメンヘラの人は自由ではない。

セリグマンの著作に次のような突然死の実験が載っている。

ひよこを不動状態にし、その後に溺れさせるという残虐な実験である。

ひよこの第一のグループは不動状態を自分で終わらせることができる。

つまり自分が不動状態をコントロールできる。

このひよこのグループは動けるようになった時には、そこから出てきた。

第二のグループは不動状態を随意には終わらせることができない。

実験者はそこからひよこが出てくるとつついて苛めた。

第三のグループは、不動状態にさせられない。

そして水中テストをした。

絶望的な第二のグループは、最も早く死んだ。

何もしなかった第三のグループはその次に死んだ。

そして不動性の終結をコントロールできたグループは最後に溺れ死んだ。

ヒヨコはトラブルを解決したことで強くなったのであろう。

動物は困難を乗り越えた時に強くなる

想像すると耐えられないようなこの残酷な実験の犠牲者になったひよこたちのためにも、この貴重なデータを私達人間は自由に生きるために使わなければならない。

この実験は過労死を考えることにも参考になる。

「若い頃の苦労は買ってでもしろ」

トラブルを処理することで、自分の心の中に力を感じるようになる。

別の表現をすれば自分の核の部分が強くなる

一口に言えば強くなる。

メンヘラの人はどんなに名誉や財産があっても自分の核に力を感じなければ、幸せにはなれない。

それは核の部分に力を感じなければ、メンヘラの人はいつも周囲の世界に怯えているからである。

その結果あるメンヘラの人は周囲の人々に迎合したり、別の人は攻撃的になったりする。

いずれにしてもメンヘラの人は穏やかな気持ちではいられない。

よく「若い頃の苦労は買ってでもしろ」と言われる。

それはこの苦労がメンヘラのその人を強くするからである。

この苦労はここで言う人間関係のトラブルである。

誰もいないところでメンヘラの人は偉そうなことを言っていてもしょうがない。

人に向かってメンヘラの人は自分の意志や考えを伝えることができなければならない。

若い頃に苦労をして強くなることがその人のその後の人生にどれだけプラスになるか分からない

それは財産や学歴などよりもはるかに力になる。

社会の中で生きていく上で、メンヘラの人が一番頼りになるのはこの力である。

大企業のエリートコースを進みながらも途中で燃え尽きたり、うつ病になったりするメンヘラの人がいる。

そういうメンヘラの人は若い頃勉強ばかりして人間関係のトラブルを処理してきた体験に乏しいのではないだろうか。

一生懸命頑張った。

一生懸命努力した。

でもメンヘラの人が得たものは、世の中で生きていくのに、あまり頼りにはならない力であった。

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メンヘラの人は整理すると自分が見えてくる

第四は自分が見えてくる

小さなストレスが、心の底に溜まっているメンヘラの人が多い。

一杯溜まっている。

それが溜まり過ぎるとメンヘラの人は憂鬱やイライラになる。

一つ一つを取ればメンヘラの人は取るに足りないこと。

でもメンヘラの人はそれが溜まると取るに足りないことではなくなる。

それを取り除いていけばメンヘラの人は自分が見えてくる。

日々の小さなことをキチンと紙に書いてみる

それを読み返してみる。

猫にサンマを取られた。

ドブ板が割れてドブに落ちた。

あのおばさんは頼んでいるのに、外に干している洗濯物を直さない。

見苦しくて見ると不愉快になる。

書いていくとものが見える

あの人は自分に、一番最後にお茶を持って来た。

そういう小さなことを書いていく。

すると、「何でそこまで眼がいくのか?」と考える。

メンヘラの人は会議であいつが賛成しなかったことが何でそこまで応えるのか。

その人をメンヘラの自分が重要視しているから。

書くとメンヘラの人は自分が見えてくる。

何が自分にとって一番大事なことか見えてくる。

例えば一番目は「周囲の人から認められたい」ことだと気が付く。

そこでメンヘラの人は「認められることと命を捨てることと、どっちを選ぶ?」

答えは「命」である

以前は、アメリカで犬を連れてヒッチハイクをしている人をよくいた。

どう見てもお金はない若者だろう。

そしてヒッチハイクできなくて、夕暮れ迫る時間にハイウェイから犬と「一緒に」とぼとぼと普通の道路へと歩いている姿があった。

今晩の泊まる場所はないだろう。

貧乏でも、その後ろ姿が惨めではない。

そういう人が、「これと、これと、どちらを選ぶ」と選択をしていったらどうなるか。

「良く思われること、素敵な人と誉められること」と犬とどちらを選ぶか。

犬を選ぶ

「本当に食べたいものと、犬のどちらを選ぶか」

犬を選ぶ。

犬とお金。

犬を選ぶ。

犬と命。

こうして自分が分かる。

犬のためには「人から良く思われること」などはどうでもいい

そういう自分が見えてくる。

ゴミ箱をあさる。

他人から見るとあさっている。

惨めに見える。

しかしその人は、この犬のためなら「やりましょう」という気持ちだから惨めではないだろう。

本人は犬のために働いている。

ゴミ箱をあさる彼には献身の対象がある。

犬への愛の力で、それらの行為はなんでもない。

同じ行為が、ある人から見れば「あさっている」と見えるが、犬のオーナーにしてみれば、食べさせるために「働いている」となるだろう。

貧しくても献身の対象がある人と、大金持ちで献身の対象がないメンヘラの人とどちらが幸せか?