人の心の温かさを信頼する

いつもがんばっているあなた。

時には甘えても大丈夫。

弱みを見せても大丈夫。

あなたが他の人に喜んでなにかしてあげるように、他の人もあなたのためになにかしてあげられることを喜ぶものです。

あなたが弱さを見せても、欠点があっても、受け入れてくれるものです。

思い出してみて下さい。

あなたがなにかで失敗したとき、落ち込んでいるとき、周囲の人はあざ笑いましたか。

「大丈夫?」と声をかけてくれたはずです。

「がんばって」と支えてくれたはずです。

あなたも、他の人がそうした状態のときにあざ笑うのではなく、その人のためになにかしてあげたいと思ったはずです。

人に頼むのが苦痛だという人。

他の人が頼んできたとき、あなたはむげに断りましたか。

その依頼が理不尽でない限り、また、自分が手一杯な場合を除き、「いいわよ」と、頼みを受け入れたはずです。

そして、そのことでむしろ喜びを感じたはずです。

だから心配しなくて良いのです。

頼みたかったら、頼むことです。

甘えることです。

人の心はあたたかいものです。

その温かさを信頼して、素直に自分を出していくことです。

他の人も自分と同じ

「他の人も自分も同じなのだ」と確認することが、人を信頼し、安心して心を開く支えになります。

たとえば、パーティに出席したとき、「どうしてみんなのように楽しめないんだろうか」とか、「どうして私だけこうなってしまうのだろう」などと、「自分だけが異質である」と感じがちです。

でも、こうした異質性の感覚は、多かれ少なかれ誰でも持っているものなのです。

隣の人に、「私はこうした場が苦手で、気後れしてしまうんですよ」と言ってみて下さい。

十人中七、八人から、「私もそうですよ」という答えが返ってくるはずです。

どんなに楽しんでいるように見える人でも、怖じ気づく気持ちがあるのです。

それを乗り越えて積極的に人に働きかけていくことで、不安な心が開放され、楽しめるようになるのです。

人はそれぞれ違っている部分よりも、共通する部分の方が多いものなのです。

だからこそ、初めて会った人とでも交流できるし、まったく文化の異なる外国人とでも心通じ合うことができるのです。

私たちは自分が感受性豊かで、「他の人の目で自分を見ている」傾向が強いと思い込んでいます。

でも、それは、あくまでも「自分の目で見た『他人の目』」なのであり、それゆえに「思い込み」に過ぎないのです。

たとえば、あなたは「もっと自分が優れていれば、友達はもっと自分を愛してくれるだろう」と思っていますが、それは友達が実際にあなたに望んでいることでしょうか。

弱みを見せないこと、恥をかかないこと、失敗しないことなどに気をつかっていますが、それは友達があなたに求めていることでしょうか。

あなたは友達に失敗しないこと、恥をかかないこと、優秀であることを求めていますか。

そんなことを求めてはいないはずです。

気軽に打ち解けて、気持ちを通じ合い、楽しい時を分かち合い、落ち込んだときには励まし、支えてくれる。

友だちに期待していることは、そんなことではないでしょうか。

あなたが友達にそうしたものを求めているとしたら、友達もまたそうなのです。

人はみな自分のことで忙しい

「人はみな自分のことで忙しい」という事実を確認することも、人を信頼する支えになります。

私たちは、自分が失敗したことや恥をかいたことは次々と思い出せますが、他の人の失敗や恥ずかしい出来事はほんの少ししか思い出せません。

それは、他の人に対しては、自分に対するほど深い注意を払っていないからです。

また、他の人の心の中はわからないからです。

他の人も同様です。

人にはそれぞれ自分の生活があり、あなたが気にするほどあなたを気に留めていることはありません。

それに、万一、あなたの恥ずかしい失敗を覚えていて、どこかで誰かが話題にして笑っていたとしても、なにか失うものがあるでしょうか。

身体がどこか傷つけられることがあるでしょうか。

本当は痛くもかゆくもないのです。

それなのに気持ちを腐らせてしまうのは、自分で勝手にそうしているからなのです。

自分では謙遜しているつもりなのですが、実際には尊大な気持ちになっているのです。

なぜなら「いつでもみんなが私に注目しているはずだ」と思っているのですから。

それほど自分を重要人物だと思っているのです。

極端な言い方をすれば、自分が世界の中心であるかのように思い込んでいるのです。

私たちは他の人のことを自分との関わりでしか見ていません。

他の人に起こったことを我がことのように覚えている人などいません。

人はそれぞれ自分の生活に忙しく、あなたに起きた些細なことなど、すぐに忘れてしまうものなのです。

不信は勝手な思い込み

人を信頼しようとしても、実際に裏切られることがあります。

こうしたとき、相手を責めますが、じつは自分の勝手な期待や思い込みのために裏切られたと思うことが少なくないのです。

私たちは、相手の人がある行動をしてくれることを、無意識のうちに期待しています。

挨拶したら、挨拶を返してくれること。

手伝ってあげたら、お礼の言葉を言われること。

尽くしてあげたら、今度は相手が尽くす番などと。

このような期待や思い込みがみたされないと、裏切られたような気持ちになるのです。

それで不信感を持つのです。

でも、あなたが「当然」と考える行動は、他の人にとっての「当然」ではありません。

次のような場面を考えてみましょう。

Aさんは、課長から緊急の資料作りを頼まれ、休日を返上して仕上げました。

それなのに、課長はただ「ご苦労様」とだけ言って受け取りました。

Aさんにしてみれば「休日も返上してがんばったのだから、もっとねぎらいの言葉があって当然ではないか」と、怒りを覚えました。

一方、課長は、部長から緊急の課題として命じられたものであり、部署で分担してやるのは「当然」と考えていました。

それで、部下に分担してもらい、自分も休日返上で頑張りました。

課長にとってこの緊急課題の処理はこれからのことであり、気持ちはそちらに向いていました。

それでも、頑張ってくれた部下に「ご苦労様」と、十分なねぎらいの言葉をかけたつもりだったのです。

他の人に「〇〇して当然」という期待をしたり、見返りを期待したりしないことです。

「当然〇〇すべき」でなく、「〇〇してくれないのが当たり前」と思うようにすることです。

それが、大人として自分の心に責任を持つことであり、平穏な心を保つコツです。

成人してからでさえ、親に対して「立派な親であるべき」という思いがあり、それが親への恨みの原因になっている人がいます。

それもまた、自分の勝手な思い込みを親に押しつけているのです。

自分が未熟なように、親もまた未熟な存在なのです。

未熟なのに自分を育ててくれたという事実に感謝することです。

その方がずっと心穏やかで、自分の人生に自分で責任を持てるようになります。

さらに言えば、相手に求めない方が、相手はこちらを向いてくれるものなのです。

恋愛においても、あまり相手に求めない方が、相手はあなたに惹きつけられます。

相手に求めすぎると、相手の人は負担を感じたり、束縛を感じたりして、心が離れていきがちです。

他の人に尽くせば、その人は感謝してなにかの折りに助けてくれる。

そんなことがあるかもしれないし、ないかもしれません。

そんなことが「あったら嬉しいな」と思うにとどめて、それを「当然」とは思わないことです。

自分の弱みが相手を責める

私たちは自分の行動を正当化するために、他の人に不信感を持ってしまうことがあります。

それは、人には誰でも自分を価値ある立派な人間であると信じたい欲求があるからです。

このために、能力の自己評価をすれば、ほとんどすべての人が自分を平均以上と評価します。

大多数の人から「意地が悪い」と評される人でも、自分を「優しい人」と思っています。

こうした自己価値欲求のために、自分の価値を貶めるような行動をしたとき、私たちは自分の価値を貶めないために他の人を責めるということになりがちなのです。

たとえば、次のような例を考えてみましょう。

同僚のBさんは、担当している仕事が遅れていて、かなり残業しないと期日までに終わりそうにありません。

小さな子どもを抱えているBさんに、長時間の残業は気の毒です。

このとき、自分がハードな仕事を抱えていても、できる範囲でBさんを手伝えば、「小さい子どもを抱えて、Bさんもがんばっているんだ」と、同僚として共感し、信頼の絆が深まります。

ところが、Bさんを手伝わないでしまうと、手伝わない自分に負い目を感じて、この負い目を埋めるための言い訳が必要になります。

そこで、Bさんに不信感をぶつけてしまうのです。

「私だって大変な仕事を抱えてやっているのだから、Bさんは大変でも自分でやるべきだ。

そもそも仕事を遅らせたBさんが悪いのだから」と考えます。

そして、自分の心に負担を負わせるBさんに対して、「小さい子どもがいるから甘えられると思っているBさん」ととらえて不快感と不信感を持つのです。

本当は、自分の弱みに端を発しているのに、自分の弱みを隠蔽するために、相手を責めてしまうのです。

日常的にこれに類似した心の動きが頻繁に起きています。

おしゃれで陽気な同僚のCさん。

Aさんは自分と正反対の性格のCさんを見ると、劣等感を刺激され、嫉妬してしまいます。

そのためにCさんを素直に賞賛できません。

そうした心の言い訳をするために、Cさんを貶めてしまいます。

「明るいCさん」ではなく、「八方美人のCさん」と評価します。

「おしゃれで素敵な服装」でなく、「派手で趣味の悪い服装」と評価します。

このように見てくると、相手に不信感を持っていることは、しばしば自分に不信感を持っていることの裏返しなのです。

相手の人を嫌っているのではなく、自分が嫌な気持ちになることを恐れているのです。

このように、他の人への不信感や嫌悪感が、じつは自分の弱みに端を発していないか冷静に省みてみることです。

こうした見方ができると、周囲の人への素直な信頼感が広がっていくはずです。

●まとめ

人の心の温かさを信じよう。

「他の人も自分と同じ」「人は皆、自分のことで忙しい」「不信は勝手な思い込み」ということを思いだそう。

「人の心は温かい」と、何度も頭の中で繰り返そう。