他人を理解し他人の目が気になる心を克服

「他人」について考えてみるべき理由

それにしても、他人の目が気になるときの「他人」とは誰なのでしょう?

いわゆる「世間」?

インターネット上の不特定多数の「誰かさん」?

嫌われたくないリアルな知人?

答えは、「他人とは、自分に評価を下して傷つける存在」という「少しのトラウマ」を通して作られてきた「虚像」です。

他人の目が気になる心」を癒すためのポイントは、「虚像」ではない「リアルな相手」に目を向けることです。

なぜなら、「他人の目が気になる心」を手放すためには、自分ではなく他人についてよく考えてみることが必要だからです。

「他人からの評価」というのは自分側の問題を反映したもののように見えますが、実際にはそれは相手側の問題です。

なぜなら、こちらは同じ状態でいても、相手によってその評価が違うからです。

同じ格好をしていても「おしゃれ」とほめてくれる人もいれば「ださい」と批判してくる人もいます。

あるブランドものをもっていることで神のようにあがめてくれる人もいれば、「露骨なブランドものはださい」と吐き捨てるように言う人もいます。

評価というのはあくまでも主観的なものですから、人によって評価が違うのは当然です。

もちろん、多くの人が「きれい」と言うスタイルはありますし、ほとんどの人が「ださい」と言うファッションもあります。

しかしこれも、それぞれの人がどれほど強くその感覚を抱いているか、ということになると、かなり個人差があるものです。

同じように「きれい」と言う場合でも、そのことに強い関心を持っている人と、社交辞令的に言っているだけの人がいます。

あるいは、他の人が「ださい」と言うので、実際のところよくわからなくても同じように言っている、という場合もあるでしょう。

「他人からの評価」が自分側の問題のように感じられるのは、このように「多くの人がそう言う」「みんながそう言う」といった場合に、あたかも客観的事実のように思われるからなのですが、実際には「多くの人」も「みんな」も、一人一人がどのようなニュアンスで言っているかは異なるのです。

ポイント:「他人からの評価」は客観的事実ではなく、相手の主観的評価。だからこそ個人としての「相手について考えてみる必要がある

相手か自分か、境界線の問題

他人の目が気になる、というとき、私たちは、「相手が見る自分」と、「実際の自分」をほとんど混同しています。

しかし、本当のところは、「相手が見る自分」には、相手側の事情がかなり反映されているものです。

人は、何かをそのまま見るということがありません。

必ずそれぞれの「とらえ方」を通して見るのです。

その「とらえ方」を作るのは、その人の性格だったり、その人の価値観だったり、それまで歩んできた人生における様々な体験だったり、その日の気分だったりします。

ですから、相手が見ているのは「実際の自分」ではなく、あくまでも、相手の「とらえ方」を通した「相手が見る自分」なのです。

ある振る舞いをしたときに、そのありのままを何の問題もなく受け入れる人もいれば、「人として問題がある」と感じる人もいるものです。

また、同じ人でも、その日の状態によって、受け入れてくれる日もあれば、そうでない日もあるでしょう。

「他人からの評価」というものは相手側の問題です。

相手には、それぞれの性格、それぞれが置かれている状況、今までの体験など、本人にしかわからない事情がたくさんあって、その結果としてその人はある言動をとるのです。

ところが、他人に評価を下されたときの私たちは、自分が悪いのだと感じて自分側を整えようとします。

本来は相手側の問題なのに、自分側の問題であるように感じてしまうのです。

これが、「相手側の問題か、自分側の問題か」という「境界線の問題」として知られているものです。

ポイント:相手側の問題を自分側の問題と混同するのはやめよう

相手には相手の事情がある

「他人からの評価」を「相手の問題」と認識するということは、突き放すということではなく、相手の事情を尊重するということです。

その事情の詳細はわからなくても、何かしら事情があるのだろうな、という目で見てあげることが、結果として相手への優しさにもつながります。

また、「他人の目」が気になる、ということは、暗黙のうちに「自分さえきちんとすれば相手はほめてくれるはず」という認識がある、ということです。

これは実はとんでもない押し付けになります。

どんな人にも、機嫌のよい日と悪い日があります。

たまたま機嫌が悪い日に、「これだけおしゃれをしているのだから、ほめてね」と要求されたら苦しいでしょう。

「他人からの評価」に合わせて自分を整えて相手の顔色をうかがう、ということには、実はそんな側面もあるのです。

どんな人にも、うまく振る舞えない日があるにもかかわらず、相手の顔色をうかがっている人は、あらゆる人に、どんな日にも好意的に振る舞うことを期待しているようなものだと言えるのです。

これもまた「境界線」の問題です。

相手には相手の事情があって、その反応は必ずしもこちら側と関係があるわけではないのです。

たとえば「ださい」と言われた場合、それは確かにこちらに対して向けられた言葉ではありますが、それも、相手の機嫌の悪さなどを反映したものであり、相手が絶対的な真実を述べているわけではありません。

「八つ当たり」という言葉もありますが、機嫌が悪い時には、とりあえず何でも悪く言う、という人もいます。

「八つ当たり」のきっかけを作るのはこちらの外見であったり言動であったりするかもしれないのですが、それはあくまでも「きっかけ」に過ぎず、こちらが「ださい」から相手の機嫌が悪い、ということとは全く違うのです。

確かにこちらが実際に「ださい」という場合もあるでしょう。

でも、そのことと、相手が「ださい」と言ってくることとは、違う話です。

これがよく分からないという人は、あなたが「ちょっとださいな」と思う人を見たときに、相手に向かって「ださい」と言うかどうかを考えてみてください。

多くの人の答えは「言わない」だと思います。

内心で「ちょっとださいな」と思うことと、それを相手に直接言うこととは、別の話だからです。

相手に「ださい」と言うのは失礼だし傷つけることだと私たちは知っているので、そういうことは言わないのです。

ですから、それを言ってくるという時点で、相手には何か特別な事情があるのだろうと考えてみて下さい。

「本来人として言うべきでないこと」を言っている人、というのは、「つい言ってしまった人」か、何らかの形で心を病んでいる人なのです。

ですから、もしあなたが「ださい」と言われても、「自分がダサいのは事実だから、それを言われたことは仕方がない」というふうに受け止めるのではなく、相手が「本来人として言うべきでないこと」を言った、というふうに受け止めるほうが正確なのです。

そのうえで、「つい言ってしまった人」を寛大な目で見てあげるか、「この人にはずいぶんと心を病むような事情があるのだろうな」などと考えるかして、相手の事情を尊重することに目を向けてみましょう。

ポイント:自分をネガティブに評価してくる人には「何か特別な事情がある」と考えてみよう

人間は変化に違和感を抱くもの

人を見たとき、瞬間的に「太った?」「その服、ださくない?」などと、嫌な評価を下してくる人はいます。

そんなことを言われたら傷ついてしまいますね。

そしてそれに応じて、自分が振り回されてしまうと、とても「自信」どころではありません。

しかしここで、「相手はなぜそんなことを言うのだろう」ということをちょっと考えてみましょう。

もちろん相手が単なる「評価体質」である人の場合もあるでしょう。

「人生=評価を下すこと」のようになってしまっている人を、「評価体質」の人、と呼びます。

しかし全員が全員「評価体質」の嫌な人、というわけでもなく、ただ「つい言ってしまう」という人もいます。

あるいは、実際言葉にはださなくてもついびっくりした顔をしてしまう、という人もいるでしょう。

こういう人たちに何が起こっているのかというと、目の前の変化に衝撃を受けているのです。

久しぶりに会った相手が太っていたら、つい「太った?」と言ってしまったり、少なくとも驚きが顔に出てしまったりすることもあります。

これは単なる「変化への反応」であり、相手の状態への確信に満ちた非難というわけではありません。

変化に対して違和感を抱くのは、人間があらゆる変化に適応する上で自然なことです。

人間は生き物ですから、自分の安全を確保する必要があり、そのための防御能力がいろいろと備わっています。

その一つが、「変化に対して違和感を抱く」というものです。

これは「この変化が自分にとってどういうものなのだろうか」ということを調べるためのステップです。

ですから、何か変化があったときに違和感を抱くのは当たり前なのです。

それが「眉をひそめる」というような現象として観察されたとしても、そこには必ずしも非難の意図は含まれていないのです。

ポイント:相手が自分の変化に何かしらネガティブなリアクションをとったとしても、それは単なる「変化への反応」である

相手のリアクションの本当の意味を知ろう

「太った私を見て驚いた顔をした」というある一点だけを見て、その人の人格に評価を下すようなことをするのは不適切です。

そんなことをしたら、自分自身が「評価体質」の人になってしまいます。

人間はそれほど完璧な存在ではないのですから、瞬間的に未熟な反応をしてしまう、ということはどうしても起こってきます。

そして、とっさの反応は「驚き」や「違和感」であっても、人間はそれだけの単純な動物ではありませんから、それを自分にとってどう位置づけるかを考えていくものです。

一般的には、

「どうしたんだろう?」
「前のほうがよかったのに」

と思ってしまった自分に対して、

「本人が一番気にしているはずだ」
「人を外見で判断してはいけない」

と制したりして、衝撃を受けながらも一生懸命配慮して現実に適応していくよう努力するものです(こういう配慮が働かない人が「評価体質」の人だと言えます)。

そして、自分の中でもバランスをとろうとしますし、相手に対してもあからさまな反応をしないように努力するものなのです。

この「努力」をうまくできる人もいれば、そうではない人もいて、その結果、つい何かを言ってしまうということもあるでしょう。

つまり、つい「太った?」と言ってしまったり、驚いた顔をしてしまったりする人がいたとしても、それは単に努力の成果が人それぞれというだけの話であって、こちらのことを「それほどひどい外見」ととらえているという意味ではないのです。

そのことに気づかず、相手の態度にショックを受けてこちらも固まってしまうと、やりとりがぎこちなくなってしまい、お互いに余計な感情を刺激されたりするものです。

固まるのではなく、自分から「太ったから、驚いたでしょう」などと言ってあげるのは親切なことです。

相手も態度が軟化し、「たしかにちょっと驚いたけど、何か大変だったの?身体の具合?ストレス?」などと言いやすくなるはずです。

ときには、相手のちょっとした言動について、「自分が太ったからバカにしているのではないか」などと解釈してしまうこともあるでしょう。

しかし、「他人の目」ばかり気にして相手の顔色をうかがい、相手の反応に対し、「ほらやっぱり。相手は私のことを変だと思っているんだ」などと思うことは、相手が「こちら側の変化」に適応するプロセスすら尊重してあげていないということになります。

これでは、どんなに驚くべきものを見ても、その場で瞬時に受け入れることを相手に期待しているようなものです。

変化に直面したときには適応のためのプロセスが必要な生き物である人間には、それは不可能なことなのです。

少しくらいの怪訝な顔は、「自分が悪く思われた」という意味ではなく、「変化への適応に苦労しているんだな」と見てあげるのが最も適切ですし、そうすることで自分も楽になります。

ポイント:自分の変化に対して相手が怪訝な反応をしてしまうのは「変化への適応に苦労している」から

評価体質の人ってどんな人?

「自分はありのままでいても大丈夫だろう」という感覚がほしくても、それを許してくれない人たちがいます。

いろいろと批判してきたり評価を下してきたり、一方的なアドバイスばかりしてきたり、責めるような質問をしてきたり、とにかくこちらの「ありのまま」が気に入らずに変えようとしてくる人たちです。

口を開けば他人についての評価ばかり、という「評価体質」の人たちとは、どういうタイプなのでしょうか。

評価とは、ある状況を自分なりに位置付けて安心する為の試みです。

曖昧なものをそのままにしておくことへの耐性は、人によってかなり差があります。

かなり多くのことが曖昧でも「まあ、人生(人間)というのはそんなものだから」と放置しておける人もいますし、少しでも曖昧な要素に耐えられないという人もいます。

「評価体質」の人は、何かを自分なりに位置づけないと安心できない人である場合もありますし、それが「自分なりの位置づけ」であるという自覚に乏しい人である場合もあります。

後者はどういう人かというと、自分と他人の捉え方が違うということを「知らない」人です。

そういう人は、もちろん単に「思い込みが激しい人」という場合もあるのですが、それ以上に、自分自身が評価ばかりされてきた、ということが多いものです。

自分自身が評価ばかりされてきた人は、「少しのトラウマ」に満ちていますから、相手の評価を、まるで真実のように受け取ってしまいます。

「相手の事情」など考えず、相手の評価をそのまま吸収してしまっているのです。

また、「誰かから悪く言われたこと=悪いこと」ととらえてしまうため、その価値観の軸は単一で、深みがない場合が多いのです。

ですから他人を見たときも、自分がされてきたときと同じように、「相手の事情」を考えることなく評価を下してしまうことが多くなります。

もちろん自分が評価ばかり下されてきたことを快く思っていなくて、自分は相手に対して寛大でいようとしている人もいます。

何かと決めつけられてきたことに反発を感じており、自分は違うふうに振る舞おうと思っているのです。

そういう人を外から見れば、物わかりのよい、寛大な人に見えるでしょう。

ところが内面を見れば、自分自身にとても厳しい評価を下していることが多いのです。

自分が「少しのトラウマ」を受けたことを癒そうとせず、それどころか自分を厳しく評価して、
「他人を理解している自分」
「寛大な自分」

を作ろうとしているのです。

このように、自分自身の「ありのまま」を認めず「他人の目」を意識して我慢を積み重ねているのですから、他人に対して寛大でいることについて、かなりのストレスがたまってきます。

つまり、他人の「ありのまま」を受け入れることが難しく、いちいち評価を下したがる人は、自分自身にも同じように厳しい目を向けているもので、なかなかリラックスできない苦しい人生を送っているというふうに見ることができます。

ポイント:他人に評価を下したがる人は、自分自身にも厳しい評価を下して苦しい人生を送っている

「評価体質」の人は、何かを自分なりに位置づけないと安心できない人である場合もある、と前述しました。

その基本にあるのは不安の強さです。

不安ゆえに「曖昧なものに耐えられない」度合いが強く、「つまりこういうことなんでしょう?」と同意を求めて安心したいのです。

「曖昧なものに耐えられない」タイプの人としては、発達障害を持つ人もいます。

一つのことが気になると、それを何かの形で片づけておかないと全く落ち着かないのです。

「つまりこういうことなんでしょう?」を超えて、「つまりこういうことね」と自分で決めつけながらやっていかないと、その曖昧さに圧倒されてしまって、まさに「もたない」という状態になってしまいます。

こういう人に対しては、「小さなことをいちいち決めつけながらでなければ生きていけないなんて、大変なんだな」という見方をすることができます。

もしも自分がこういったタイプの人に一方的な評価を下されても、相手を「大変なんだな」と思える見方を知っていれば、相手に対して優しい気持ちになれることさえあるでしょう。

ポイント:「評価体質」の人の中には、不安が強いあまり、些末なことをいちいち決めつけないと生きていけない人もいる

虐待されてきたなど、その人生が「トラウマ」や「少しのトラウマ」に満ちている人の場合は、他人のメッセージのあらゆるところに「危険の兆候」を探しながら生きています。

人との間に危険をたくさん経験してきた人たちですから、またどこから危険が起こってくるか、ということにとても敏感なのです。

そういう場合、自分と異なる考えを持つ人に対して「危険」を感じることがあります。

自分と異なる考えを持っているということは、自分の考えを否定する要素を持っているということであり、そこに「危険の兆候」を感じてしまうのです。

ですから、他人の言動に対して何かとネガティブな評価を下しやすくなる場合があります。

「どうしてこんなにひねくれたものの見方をするのだろう」

「他の人は違うふうに考えるんだな、とただそのままにしておくことがどうしてできないのだろう」

と、思うような人の場合、実はその根底に傷ついた心があるのかもしれません。

そう考えると、その人のことを、ただの「嫌な人」以外の見方で見ることができるようになります。

そして何と言っても、自分がネガティブな評価を下された場合に、それを「自分が悪いから言われた」とそのまま受け取ってしまうのではなく、相手の複雑な人生を反映したものなのだな、と「相手の問題」として見やすくなります。

ポイント:傷ついた経験ゆえに危険に敏感になった人は、他人の言動にネガティブな評価を下しやすい

関連記事

本当の意味で「相手」に目を向ける

ここまでお話ししてきたことは、「相手」に目を向けるということです。

一般に、「他人の目」を気にしないようにするためには、「相手を気にすることをやめよう」と考える人が多いと思います。

しかし、実際に必要とされることはその逆です。

「相手を気にすることをやめる」のではなく、「本当の意味で相手を気にする」ことでこそ、人は「『他人の目』が気になる心」から解放されるのです。

「本当の意味で相手を気にする」ということは、目の前のリアルな相手に視線を移すことです。

虚像ではないリアルな相手を見て、相手にもいろいろな事情があるということを知ると、「少しのトラウマ」によって形成された「他人とは、自分に評価を下して傷つける存在」という色眼鏡を外すことができます。

「他人の目」を気にする病気になる人たちにはリアルな人間関係が少ない、ということがあります。

これは、病気ではない人たちについても言えることです。

もちろん表面的にはそれなりに人間関係がある人も多いのですが、そこで、本当の「人間関係」があるのか、というと、そうでもないのです。

本当の「人間関係」というのは、自分の気持ちを伝え、相手の気持ちも聴き、心のレベルでの交流が行われるものです。

自分をある程度オープンにしてさらけ出すことによって、相手も気持ちをさらけ出してくれて、そこにつながりを感じる、というとき、私たちは「受け入れられている」と感じるものですし、相手のことも最も受け入れやすくなります。

「他人の目」を気にしているときの私たちは、相手のことを、そのような深みのある存在ではなく、ただ自分に評価を下す機械のような存在として見てしまっており、不完全ながら一生懸命生きている一つの人格として見ることができなくなってしまうのです。

ポイント:「相手を気にすることをやめる」のではなく、「本当の意味で相手を気にする」ことが重要