固執する人が気が楽になる心理

固執する人が気が楽になるとは

固執する人とは、小さな物事に必要以上に執着してしまうことである。

それは仕事や日常の生活や人間関係にも影響する。

そこで、固執する人が気が楽になる心理を人間関係を軸にのべてみたい。

固執する人の心理

固執する人は自分については欠けたところばかりを注意するのに、他人についてはその恵まれたところばかりを注意する。

このように神経症的な固執する人は、自分の不運と他人の幸運とを比較する。

よく「隣の芝生は青い」という。

しかしこれは不満な固執する人の発想である。

それではいったい、なぜ隣の芝生は青いのであろうか。

なぜ固執する人は他人の優れた点、恵まれた点ばかりに注意を集中するのであろうか。

自分のコップのなかの水を見るときは、固執する人は「半分しかない」とないほうに注意を集中し、他人のコップの水を見るときには「半分もある」とあるほうにばかり注意を集中する。

自分について十のうち一ないと、十全部がないと思い、他人は十のうち一あると、十全部があると錯覚する。

それはそもそも固執する自分の心の葛藤と不安を、他人に優越することで解決しようとしたからではなかろうか。

「もっと、もっと」と言い続ける固執する人の不幸

コップのなかに水が半分「しか」ないと思う人は、不安な人である

固執する人はコップのなかに水がいっぱいでないと不安だから、半分「しか」ないと感じる。

そういう固執する人は水はいっぱいである「べき」だと思いこんでいる。

だから、ないほうの半分に注意が集中してしまう。

正確に言えば、固執する人はコップのなかに水がいっぱいでも不安なのである。

もっとなければ固執する人は不安である。

不安な人は、もっともっとという強迫性に悩まされている。

自分に財産があっても、いつも不安な固執する人がいる。

もっと財産がないということで固執する人は不安なのである。

自分が得ていない財産のほうに注意が集中する

固執する人は自分がすでに得ている財産に注意がいかない。

つまり自分がすでに得ている財産では、その固執する人は幸福を感じられない。

自分がまだ得ていない財産で不幸になる。

あのときにあの外貨を買っていれば、と悔やんでいる固執する人がいる。

調べてみると、その固執する人はすでに大変な財産を持っている。

しかしその得ている財産には意識がいかない。

すでに得ている財産のことを考えて安心したり、よかったとは思わない

固執する人はもっと得なければ不安なのである。

もっと得なければ固執する人は不満なのである。

自分がこの世で一番得しなければ不満なのである。

あのときに固執する人はあの外貨を買っていれば儲かった「はずの利益」を考えて不幸になる。

そういう人は現実にはお金持ちであろうが、心理的には固執して貧しいのではなかろうか。

逆に現実にはそれほど財産がなくても、自分が得たささやかな財産を考えて、よかったと思う人もいる。

ささやかな財産を考えて幸福になれる人もいる

そういう人は現実には財産家ではないが、心理的には豊かな人である。

よく、お金持ちほどケチであるという。

その真実の程度はわからないが、わずかな財産で幸せになれない固執する人は、大きな財産でも幸せにはなれない。

心理的に健康な人は、自分に欠けているものは欠けていると認めると同時に、どんな逆境でも自分にあるものを見失わない。

固執する人の「超安定志向」はここから生まれる

不安な人は「こうでなければいけない」という非現実的な基準を持っている

固執する人はその基準に達しない部分に意識が集中する。

生活程度でも固執する人は同じである。

自分にふさわしくないほど高い基準を設定する。

その非現実的な基準を固執する人は達成しなければいけない、達成すべきであると思い込んでいる。

そこで少しでも固執する人はその生活程度に達しなければ、不幸になる。

レベルに達していない部分に意識が集中する

少しでもその生活程度に達しなければ、固執する人はそれを異常に意識して不幸になる。

しかし不安がなくなれば、自然とその非現実的な基準は自分の心のなかから消えていく。

不安がなくなれば、なんであのような固執した高い生活程度を維持しなければ不幸であったかわからなくなる。

「こうでなければいけない」と固執する人は思い込んでいるのに、「こう」なれなければ心理的にパニックに陥る。

しかし「こうならなければいけない」と思い込んでいなければ、「こう」ならなくても不幸にはならない

いろいろな事情から生活程度を下げなければいけなくなるときに、心理的パニックに陥り、挫折する固執する人がいる。

神経症になって固執する人は入院したり、生活程度を下げなければいけないのに下げられないで、借金を重ねて破産する。

そこまで生活程度を下げられない人は、やはり不安からその生活程度の基準が決定されている人である。

そのような人にとっては、固執する人は生活程度の基準は単なる生活程度の基準ではない。

それは自分を固執する人は不安から守るものである。

したがって、生活程度を下げるということは、単に不便に耐えるというだけの意味ではない。

自分の情緒的未成熟を外側の体裁で補足しようとする固執する人にとって、外側の変化は耐え難い。

そのためいつも生活程度が下がらないかと不安である

固執する人は満足できる生活程度を維持しているときも、将来を心配して不幸になる。

もし生活程度を固執する人は下げなければならないようなことになったらどうしようと、いつも心配して消耗する。

人生の諸問題を情緒の成熟ではなしに、外側の体裁で乗り切ろうとするから、心配は尽きないのである。

そのような固執する人は、生活程度についても非現実的な「超安定」を求める。

そのような超安定はまず得られないから、生活程度が高いにもかかわらず不安で不満で、不幸である。

「ちょっとした不安」が「大きな困難」に見える固執する人の心理

シーベリーは、多くの窮状は打ち負かすのではなく、私達が大きく成長することによって乗り越えられると述べている。

まさにそのとおりである。

つまり多くの窮状は、情緒の成熟を固執する人は外側の体裁で補おうとすることで生じているということである。

さらにいえば、多くの窮状は情緒の未成熟故に、固執する人は窮状と感じられているに過ぎないということである。

情緒の成熟した人は、来たるべき困難に備えて着々と準備はする。

しかし、決して取り乱さない。

いたずらに心配して消耗しない。

それでいて困難を直視する

情緒の未成熟な固執する人は、来たるべき困難に狼狽して、自分がしようとすればできる準備すらしない。

実際に困難に直面すると固執する人は心理的に動揺してしまい、何から手をつけていいかわからなくなる。

そして、どうしよう、どうしようと泣き叫ぶだけで、困難を直視しない。

困難を固執する人は直視しないが、困難を恐れ、誇張する。

情緒的に未成熟な固執する人は、不安によって誇張された困難におじけづき、圧倒されて、自分の現在の幸運の部分を忘れる。

普通の人は、不運ばかりということもない

全体として考えれば幸運なのに、固執する人は不運な面ばかりに気持ちをとられすぎて、悩みつづけて一生を終わる。

情緒的未成熟を外側の体裁で補おうとする固執する人は、幸運なときにも不運を恐れて心安らかではない。

現在が幸運でも、未来に訪れるかもしれない不運のほうに意識が集中して心が乱れる。

「気を奪われる」という表現がある。

あることをしているときに、別のことが起きると、そのことのほうに気を奪われる

あまりにもさっと気を奪われてしまう固執する人というのは、自我がまだ確立していないのではなかろうか。

ある人が現われると、その人に注意がいくというのはいい。

しかしその人への注意を、自分がコントロールできるかできないかが問題なのである。

また人を固執する人は判断する場合でも、ある人の欠点に気を奪われるということもある。

その人といるときは、腹が立って仕方ない。

不愉快で固執する人は仕方ない。

うまく固執する人はその感情をコントロールできない。

欠点ばかりに注意を向けないで、別の点に注意を向ければ、それほど腹が立ち不愉快ではないということもある

しかし自我の確立がなされてはいない固執する人は、それができない。

ある一点に気を奪われる。

自分の恵まれている点ではなく、固執する人は不運な点にばかり気を奪われるというのも同じである。

関連記事

固執する人はないものを数えるべからず

カーネギーは、悩むことをやめて新しい生活を始めるのに大切な点を『道は開ける』のなかでいくつもあげているが、そのうちの一つに、「あるものを数えて、ないものを数えるな」というのがある

そしてそのことを説明した箇所には同じようなことを主張、あるいは戒めた何人もの人をあげている。

ドイツの哲学者、アルトゥル・ショーペンハウエルはやはり、私達は自分の持っているものをほとんど考えないで、常に欠けているものを考えるという。

しかしこれは、私達というより、固執する人は、といい換えた方が正しいだろう。

そしてカーネギーはこれを「地上における最大の悲劇」と書いている。

地上における最大の悲劇かどうかは別にして、この傾向が幸せになろうとすれば幸せになれる固執する私達の人生を不幸にするということは、確かである。

ある公務員の話である

公務員宿舎に入りながら、土地と家を買うことを考えていた。

しかしその日その日の仕事に追われて、ついつい時機を逸してしまった。

ところがそのうち土地の値段は暴騰した。

彼が買おうとした土地は、数年のあいだに三倍にもなってしまった。

来る日も来る日も固執する彼は、あのときあの土地を買っていればと嘆いた。

彼の一生の給料よりもっと多額の値上がりであった。

自分はついてない、ついてないと固執する彼は、嘆き続けた。

しかし固執する彼は、そのあいだ土地を買わなかったからこそできた豊かな生活があるという点には、目を向けなかった。

もしそのときに土地を買っていれば、たしかに土地は暴騰した。

しかし彼は土地を買わなかったからこそ、そのあいだ公務員宿舎という恵まれた環境で生活できたし、ローンで苦しめられることもなく、家族揃って旅行したり、文化的なことにお金を使えたのである。

もし土地を買っていたら、彼の楽しい家庭生活はなかった。

もしそのとき土地を買っていたら、休日に皆で食事に出かけたり、ドライブに出かけたりという生活はなかった。

土地は手に入ったが、そのあいだの楽しいアルバムはできなかったであろう。

一戸建ての家は手に入らなかったが、その代わり楽しい思い出を持てたとは、固執する彼は考えなかった。

一戸建ての家も財産であるが、楽しい思い出もまた財産である。

カーネギーは「自分の持っている信じがたいほどの資産に自分の注意を集中していれば、私達は陽気になれる」という

そして、ある食料雑貨店を経営していた人の話を書いている。

その人が店をしまい、借金を抱えて銀行にいったときである。

そこで両足がないが陽気にしている人と視線が合う。

「おはよう、いい天気ですね」と挨拶され、固執する彼は自分には足があり、歩けるということに気がつく。

そして固執する彼は、次の言葉を浴室に張り付けた。

「私は意気消沈していた。なぜなら靴がなかったから。通りで足のない人に会うまでは」

固執する人は「自分はもっと、幸せになれるはずだ」

どうして人はこのように自分にないものばかり数えるかというと、自分はもっと幸せになれるはずだという思い込みがあるからではなかろうか。

自分はもっといろいろなものに恵まれてもいいはずだと固執する人は思い込んでいるから、欠けているものばかりに気をとられてしまうのである。

会社の仕事もうまくいき、素晴らしい人と結婚し、財産形成も幸運に恵まれつづけ、友人にも恵まれる。

そうなるはずだと考えていれば、固執する人は欠けたものにばかり注意がいく。

不運ばかりに注意がいき、幸運には注意がいかない。

すべて揃っていることが当たり前の固執する人にしてみれば、自分は会社で上司に恵まれているということは、幸せの原因にはならない。

しかしあのとき、あの土地を買っておけばよかったという固執することは、煩悶の原因になる。

赤面恐怖症の人についても、同じことがいえる。

赤面すると赤面を恥辱的なことと思い、赤面にとらわれてしまう。

赤面したとて、いままでの自分が変わるわけではない

背が半分に固執する人はなるわけでもなく、異常な長身になるわけでもなく、太るわけでも痩せるわけでもない。

自分の顔が歪むわけでもない。

いままで覚えたものを固執する人は忘れるわけでもない。

いままで通り歩けるし、空を見られる。

しかし固執する赤面恐怖症者の注意は自分の赤面に集中して、他のことを考えられなくなっている。

赤面している自分と赤面していない自分とでは、そんな大きな差はない。

いや第三者から見れば、赤面していても、赤面していなくても差などはない。

固執する人の「不満」は、「たった一つの短所」を「致命傷」に変える

他人との関係においても、同じようなことが言える。

ある固執する男性にとって、自分との関係において、大変な価値を持っている女性がいる。

愛情や思いやり、優しさにあふれた素晴らしい女性がいる。

誰よりもよく固執する自分のことを理解してくれている女性がいる。

自分の仕事を理解してくれる。

夜は遅くなっても文句をいわない。

酒を飲みすぎるの、小遣いの使い方が多いのと不平をいわない。

もっと早く出世してほしい、それでないと親戚や隣近所に恥ずかしいなどと不満をいわない。

そんな人と固執する彼は結婚した。

ところがその心やさしい人が一つだけ、たとえば、あまりお金を倹約しないという短所を持っている。

すると固執する人はその人の短所にばかり注意が集中して、いつも喧嘩になるということもある。

いつも、その「お金をもっと大切にしろ」ということで、いさかいが絶えない

相手の欠点そのものが問題というよりも、固執する人はその欠点の解釈が問題なのである。

俺がこんなに一生懸命働いているのに、という不満が問題である。

自分の固執する情緒的未成熟さが、相手の小さな欠点をおおきなものにしてしまっているということもよくある。

中には、そのことで離婚になることもある。

お互いに固執する人は相手の長所に少しでも注意を向ければ、決して離婚には至らなかったと考えられるケースは多い。

相手の長所を数えていったら紙いっぱいに書ける。

短所は一つか二つである。

それでも固執する人は相手の短所が原因で離婚ということが起きる。

「素晴らしい人生」への切符を捨ててはいけない!

ある男性が素晴らしい女性と、デートのときに約束の時間を守らないということだけで別れた例がある。

相手の女性は働いている。

仕事の都合で約束の時間を守りたくても守れない。

その固執する男性は、大変わがままな男性であった。

そのわがままな固執する男性を理解してつきあうことを心得ているのが、その女性であった。

その男性に自信をつけるために励まし、慰め、いたわっていた。

そのわがままな固執する男性にとっては、おそらくかけがえのない女性であったろう。

しかしデートのとき時間に遅れがちということで、デートしていてもいつも喧嘩が絶えなかった。

約束の時間を守ることは、人間としてもっとも大切なことだという解釈を固執する彼は始めた。

それができないのは人間の屑だ、とまで固執する彼はいいはじめた。

そして二人は別れた。

もし固執する彼が、男としての自信を喪失している自分を励まそうと必死になっている彼女の心に少しでも注意を向けていたら、別れなかったであろう。

そして彼は自信を取り戻し、素晴らしい人生を送れたかもしれない。

まことに、カーネギーがいうように、欠けているものを数え、備わっているものを考えないという傾向は、歴史上のあらゆる戦争や疫病に劣らず、人を不幸にする

だからこそ人は、平和な時代でも必ずしも幸福ではないのである。

相手の小さな欠点が二人のあいだで大きな問題に発展していってしまうのは、その固執する人の心のなかに、たとえば抑圧された敵意などがあるからであろう。

相手の些細な欠点が、その抑圧された敵意を刺激するのである。

問題は相手の小さな欠点ではなくて、固執する自分の心のなかの葛藤である。

だからカーネギーが、この傾向が戦争と同じように人を不幸にする、と人々に訴えても、それだけでは人々がすぐに幸福にはならないのである。

カーネギーの本は日本でも翻訳されている。

そして多くの人が読んでいる。

読んだ人が皆、自分に欠けていることを数えないで、自分に備わっていることを考慮して幸福になるかというと、そうではない

問題はむしろ、そのような本を読んで、その本のいおうとしていることを納得し、それでもいざとなると本に書いてあるようには感情が動かないということである。

それはなぜなのかと反省することが大切である。

そしてその原因として、心のなかの固執する深刻な葛藤に注目することができれば、幸福への第一歩を踏みだしたということである。

限りなくたくさんある相手の長所にもかかわらず、相手の些細な短所で激怒する固執する自分の心の中にある、抑圧された敵意に自分が気づくことが大切である。

あるいは自分への深い失望に気づく人がいるかもしれない。

何に気づくは別にして、親しい相手の些細な短所にばかり注意が集中してしまう固執する人は、自分にも隠している何か重大な感情に気づくのではなかろうか。

古今東西の人生の名著を読む時の大切な点は、ここである

なぜそのような名著の言う通りに、固執する人は自分の感情が動かないのかという反省をしながら読むことである。

名著にしたがって生きることの障害になっている、自分の心の中にあるものを、自分に明らかにしていくということである。

アメリカの精神科医、アーロン・ベックが「うつ病者は自分に欠けているものを自分の幸せにとって本質的なものと考える」と述べている。

これも内容的には、固執する人は自分に欠けているものを数えて、自分が持っているものを数えないというのと同じであろう。

ただここで問題は、不幸だから自分に欠けているものを自分の幸せにとって本質的なものと考えるのか、固執する自分に欠けているものを自分の幸せにとって本質的なものと考えるから不幸なのかということである。

自分はもともと不幸だから、自分に欠けているものを幸せにとって本質的なものと考えてしまうのであろう。

「ゲスト」でありつづけようとするな

自分を常に、人に世話される立場に置いている。

自分も人の世話をしなければとか、固執する自分はいつも世話をしてもらってばかりとか考えない。

逆に言えば、固執する人は相手だってなにも周囲の人の世話をしなければならないということはないのである。

たとえば何かの会を企画する。

すると連絡の仕方が悪いなどと文句をいうのは、こうした神経症的要求を持つ固執する人である。

相手は好意でしているので、義務があるわけではない

しかし神経症的要求を持つ固執する人は、まるでその人に自分を世話する義務があるかのごとく相手に接する。

だから最後には、孤立していくのである。

神経症的要求を持つ固執する人は、自分は他人からの申し出を断わったり、受けたりする立場にいるのが当然だと感じている。

アラン・マクギニスというアメリカのカウンセラーの本に次のような話が出てきた。

孤独な人達は、親友がいないと嘆いているが、その実、友達作りにほとんど身をいれていない

いかに固執する彼らは自分が不幸であるかを訴える。

幸福になりたい、幸福になりたいと固執する人は叫ぶ。

しかし、その努力を人はしない。

幸福になりたいといいながら、固執する人は自分の不幸にしがみつく。

幸福になりたいと叫びながら、暴力をふるう夫と別れようとしない

暴力をふるう夫と別れようとしました、と固執する人のなかには、自分が意図したことを強調する人がいる。

しかし、現実に別れるための行動は、何一つしていない。

いつまで経っても、こうすべきだ、ああすべきだといっていて、いっこうに実行にとりかからない固執する人がいる。

こうしよう、ああしようと固執する人はいっていれば、それでできると思っているのではないかと疑いたくなる。