孤独感を感じる人が気が楽になる心理

孤独感を感じる人の自己防衛としての八方美人

孤独感を感じる人の隠された「本当の自分」

孤独感を感じる彼らは「相手がほんとうの自分を知ったら相手は自分のことを嫌いになるだろう」と思っている。

そして嫌われるのが怖いから、孤独感を感じる人は自分を隠す。

そして孤独感を感じる人は身構える。

防衛的な態度に孤独感を感じる人はなる。

これらの性格者の防衛機構は従順である。

攻撃性などは抑圧される。

嫌われるのは怖いからと、孤独感を感じる人は自分を他人に隠せば、いつか自分が自分にふれることもなくなる。

自分にも自分がわからなくなる。

そもそも「ほんとうの自分にふれる」とはどういうことだろうか?

不幸な時には「私は不幸だ」と自覚することである。

それが、ほんとうの自分にふれるということである。

そうすれば自分が今何をすればいいかがわかってくる。

「ほんとうの自分」というと何かすごいことかと思う孤独感を感じる人がいる。

孤独感を感じる人はそう思うからほんとうの自分に気がつかない。

たとえば「天職」という。

すると何か自分の隠れた才能が発見されて、特技を身につけて・・・と考える。

ミケランジェロのように絵の才能が見つかると思う人がいる。

天職をそのように考えれば、自分探しは失敗する

平凡な職務もまた天職なのである。

しかし、まさにそんな孤独感を感じる人たちがしばしば内心では「ほんとうの自分を人が知ったらどう思うだろう」と考えているのである。

孤独感を感じる人は自信を持ちたければ、自分でほんとうの自分の感情を知ることを禁じてはならない。

「嫌われたくない症候群」の孤独感を感じる人は、自分の評判が悪くなるのを気にして、ほんとうの自分をだれにも見せることなく終わった過去を反省することである。

周囲の人が「ほんとうの自分」を知ったら自分を嫌いになるだろうと思って、孤独感を感じる人は自分の感情を隠した。

その隠したことで、周囲の人は「ほんとうの自分」を嫌いになるだろうという考えを孤独感を感じる人は強化したのである。

もしそこで自分の感情を出せば、孤独感を感じる自分は嫌われるとは感じなかった。

しかし嫌われると思って隠したそのことで、孤独感を感じる人は嫌われると感じてしまったのである。

人は自分の行動で自分の感情をつくっていく。

孤独感を感じる人のカラ騒ぎ依存症

嫌われるのが怖くて、仮面をつけて生きてきた人がいる。

嫌われないための演技をしながら生きてきた孤独感を感じる人がいる。

しかしその演技で孤独感を感じる人は「自分は嫌われる」という感情を強化してしまったのである。

いつになっても大人になれないピーターパン人間は、孤独感にさいなまれながらも友達がいるフリをし、自分に疑惑を抱きながら自信があるフリをすると、『ピーターパン・シンドローム』の著者ダン・カイリーは言う。

強い人間は淋しい時に孤独感を自覚する。

友達がたくさんいる「フリ」をしない。

しかし弱い人間は、淋しい時にかぎって友達がたくさんいる「フリ」をする。

「フリ」をしていると心の傷が癒やされるような気がする。

しかし実はそういう「フリ」をしたことで、孤独感を感じる人はいよいよ友達のいない自分はダメな自分という感覚を強化してしまうのである。

「幸福を求める叫び声をあげながら、陽気に振舞う。

最悪なのは孤独感に苦しんでいるのに、愛されているフリをすることだ」

この愛されている「フリ」こそ、いよいよその人の孤立感を強化していく

カラ騒ぎをしている孤独感を感じる人は、たいてい淋しい人間である。

孤独感を感じる人は淋しくてたまらないからカラ騒ぎで心の虚しさを埋めようとする。

しかしそのカラ騒ぎでいっそう心の虚しさは強化されている。

だからカラ騒ぎをしている孤独感を感じる人は、いつもカラ騒ぎをしていないといられないのである。

カラ騒ぎ依存症のようなものである。

イベントの好きな人、騒ぎの好きな孤独感を感じる人は日常生活に満足していない。

孤独感を感じる人は人とふれて生きていない。

弱くて淋しい孤独感を感じる人はたいてい、心の通う会話ができない。

心がふれあう会話ができないから孤独感を感じる人は満足できずに、カラ騒ぎをするのである。

これらの若者はエネルギッシュではない。

カラ騒ぎをしているとエネルギッシュに見えるが、そうではない

弱くてさびしい孤独感を感じる人にかぎって「オレはみんなに愛されている」と虚勢を張る

だれにも相手にされていない孤独感を感じる人にかぎって自分は重要人物であるという「フリ」をする。

さびしい人間、自信のない人間、孤独感を感じる人にかぎって栄光を強迫的に追求する。

弱くてさびしい孤独感を感じる人は名誉とカラ騒ぎを必要とする。

これが非抑制的な若者の場合である。

つまりダン・カイリーの言葉を使えばピーターパン人間である。

「嫌われたくない症候群」の孤独感を感じる人はどちらかといえば抑制型である。

ピーターパン症候群も「嫌われたくない症候群」も、嫌われるのは怖い。

「嫌われたくない症候群」の人は、防衛的性格としての明るい性格と、本当の自分の性格の二つの自分で生きてきた

防衛的性格としての明るい性格の人は、前から見るととても明るく明朗である。

しかし、孤独感を感じる人はうしろ姿がものすごくさびしい。

うしろから見るのと前から見るのとこれほど違うのかと驚く。

見る人が見ると、その違いがわかる。

そしてそのさびしいうしろ姿がその孤独感を感じる人のほんとうの姿なのである。

その人の心の底を表現しているのは、孤独感を感じるその淋しい後ろ姿なのである。

心が萎えていると欲に走るか、無気力になる

心が萎えているときにはリスクを冒さない。

孤独感を感じる人が嫌われるのが怖いのはエネルギーがないから。

フランクルは「真の愛充足の質を体験できない人間に限って、この欠損、内心のこの空虚さを自分の中の単なる衝動満足の量で鈍らせるのが常なのはしごく当然です」
と述べている。

嫌われるのが怖い孤独感を感じる人は、八方美人になる。

そして愛の体験がない。

嫌われるのが怖いという人は、そのほかのことでもいろいろと悩んでいる

たとえば他人から見ると、「嫌われたくない症候群」の孤独感を感じる人は、自分の悩みをたいそうなことのように思っているナルシスト。

孤独感を感じる人は自意識過剰で自己不在

自己陶酔しながらも孤独感を感じる人は自分が嫌い。

あるいは他人が成功しているか、失敗しているかなどの他人の動向が気になるが、他人への思いやりはない。

他者意識過剰で他者不在。

自分が嫌いだが、他人も嫌い。

求めているものが多いから、嫌なことが多い

「嫌われたくない症候群」の孤独感を感じる人は「イヤなことばっかり」と思っている。

求めることが多いとどうしてもこうなる。

その結果、孤独感を感じる人は自分も他人も嫌いになる。

ある目的を持って動いていれば「イヤなことばっかり」ではない。

孤独感を感じる人は生きる目的がないから、みんなから嫌われたくないと無理をする。

嫌われたくないために孤独感を感じる人は無理をすれば、自分が「みんなを嫌い」になる。

要するに孤独感を感じる人は心理的に親から乳離れをして一人前になっていない。

心理的な自立に挫折して孤独感を感じる人はもがいている。

それがピーターパン症候群であり、「嫌われたくない症候群」である

ピーターパン症候群はどちらかというと外向的な若者であり、「嫌われたくない症候群」はどちらかというと内向的な若者である。

「もし人が生産的に生きることに失敗して、自分自身を是認し得ない際には、他の人からの是認を自分自身のそれに代えなければならない」

要するに孤独感を感じる人は自己実現に失敗している。

孤独感を感じる人は心の底に罪悪感がある。

その罪悪感とは自分自身を裏切ったという罪である。

非生産的に生きたという罪悪感である。

「非難されることに対する恐れも同様に重要な、無意識の罪悪感の現われである」

孤独感を感じる人の原因の一つは自己実現を怠ったことであり、自分を裏切って生きてきたことである。

もちろんさらにその奥には、愛されなかった幼児期がある。

親から関心を持ってもらうためには、自分を裏切らなければならなかった過去がある。

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孤独感を感じる人の行動が認識を歪める

ある三十歳を過ぎた女性が恋をした

孤独感を感じる彼女は若くないと嫌われると思って自分の年齢を隠した。

すると恋愛には年齢が大切だという考え方を孤独感を感じる人は強化してしまう。

そして、孤独感を感じる彼女は若くはない自分は好かれないという自己イメージを強化してしまう。

ことに恋愛では孤独感を感じる人は危険である。

彼女は恋人から嫌われるのが怖いから、自分が弱点と思っていることを隠してしまう。

するとその弱点と思っていることが孤独感を感じる彼女は重大なことに思えてくる。

隠したことで重要でないことが重要なことに思えてきてしまう。

相手はそのことをなんとも思っていないのに、孤独感を感じる人は自分が一人ですごいことにしてしまう。

「こんなことを言ったら嫌われる」と思って、そのことを言わなければ、そのことがもっと嫌われることのように感じ出す

アメリカの精神科医ジョージ・ウェインバーグは「あなたが何等かの行動をしたとします。

すると、そのたびに自分のしたことの動機となった考えを強めています」と『自己創造の原則』のなかで述べている。

まさにこのとおりである。

熱狂的巨人ファンだって生まれたときから巨人ファンではない。

好きだから応援することでファンの心理が強化される。

趣味でも同じである。

あることに打ち込めば打ち込むほど好きになる

恋愛のときばかりではない。

劣等感のある孤独感を感じる人は虚勢を張りがちであるが、虚勢を張ることによって劣等感は強くなる。

孤独感を感じる人は防衛的な行動を続けていると自分への失望にいたる。

だから嫌われるのが怖くて、孤独感を感じる人は相手に迎合していれば、いよいよ自分が嫌いになる。

嫌われるのが怖くて、迎合したり、お世辞を言ったり、「ほんとうの自分」を隠したりしているうちに、孤独感を感じる人はだんだんと嫌われることがものすごいことのように感じ出す。

「本当の自分」はいよいよ嫌われる存在のように感じ出す。

最後には孤独感を感じる人はまるで嫌われたらもう生きていかれないように感じ出す。

事実嫌われることをそこまで恐れている孤独感を感じる人は世の中にたくさんいる。

「説得するための行動は説得者に最大の効果をもたらす」とジョージ・ウェインバーグは言う

断酒会に入会して断酒に成功する人はどういう人であろうか?

それは入会活動に熱心な人である。

お酒の害を説いているうちに、自分がお酒の害を確信するようになる。

競争社会では、他人の間違いを見つけて非難する人がたくさんいる。

非難をすることで、いよいよその人が非難に値すると感じはじめる。

「行動が認識を歪める」とジョージ・ウェインバーグは言う。

非難をやめると、人々が優しく見える。

「人間はその生涯の真の成果を、他人がわれわれのためにしてくれるいっさいのものにもまして、この自己教育に負うている」

孤独感を感じる「自分はバカにされている」

現実についてある情報が与えられると、私たちはその情報にもとづいて行動する。

「ある人があなたをバカにしている」という情報が与えられる。

そこで孤独感を感じる人は「どうせオレのことをバカにして」と思って行動していると、そう思えてくる。

しかしその情報は嘘であることが多い。

世俗の世の名には信じられないほどのエゴイストがいる。

彼らも初めからそこまでエゴイストであったわけではない。

孤独感を感じる人はエゴイスティックに行動すればするほど、自分の行動が正しいように思えてくる。

そして他人もまたエゴイスティックに行動しているように見えてくる。

アメリカのカウンセラーのマクギニスのところに来た患者ブレンダは背丈は高いし、知的だし、美しい

しかし孤独感を感じる人は拒絶を恐れて怯えている。

彼女が内気になっていくプロセスは簡単なことである。

友達のなかで自分だけが踊りに誘われなかった学校時代のダンスパーティの記憶がそうさせている。

彼女は「またみんなに相手にされない」という孤独感の恐怖からダンスパーティに行かない。

そのことで「自分は相手にされない」という孤独感の恐怖感を強化している。

あるお人好しである。

自分の敷地内の工事をするときに、隣人に「やっていいですか?」と許可を取りにいってしまった

これは人間関係依存症になるような孤独感を感じる人である。

合法的な工事で隣人の許可などいっさい必要ない。

迷惑をかけるから挨拶をするのは常識だろうが、許可は必要ない。

しかしたまたま隣人が搾取タイプの人だったので、何でもない問題がトラブルに発展してくる。

その孤独感を感じるお人好しは、許可を取りに行ったことで、心の中でなんとなく隣人の許可が必要な気持ちになってしまった。

「やっていいですか?」と許可を取りにいかなければ、そんな必要はないと思えた。

しかし許可を取りに行くという態度が、その人の気持ちを作ってしまう。

そして搾取タイプの人は逆に自分に工事の許可を出す権利があると錯覚した

ジョージ・ウェインバーグは「実際に我々自身の行動が我々自身の見るものを決めている」と言う。

隣人や同僚よりも恐ろしいのはやはり親や上司である。

「権威ある人を恐れて同意するたびに、その人は自信を失っていったに違いありません」とジョージ・ウェインバーグは言う。

親に服従している孤独感を感じる子どもは真面目で努力家である。

多くは才能も豊かである。

世間知らずだから孤独感を感じる子どもは何でも相手の言う事を信じる。

ずるい人にとって孤独感を感じる子どもは利用価値がある。

いや、親に服従して成長してきた孤独感を感じる人ほど利用価値のある人はいない。

孤独感を感じる人の神経症的非利己主義

その人が恐ろしいのではない。

その人を恐れるから心の中で、その人が恐ろしい人間になってしまう。

日本には翻訳されていないがアメリカに『メンタル・タフネス』という野球の本がある。

その著者は、ほとんどすべてのスポーツに威嚇はあると言う。

そしてその脅迫や威嚇に怯える人と怯えない人といる。

そして実際に恐ろしい相手か恐ろしくない相手かは別にして、怯えたら肉体的には緊張や心配が増大して競技には負けると言う。

これはなにも野球ばかりではない

孤独感を感じる人はビジネスパーソンでも同じである。

会議で相手に怯えていれば孤独感を感じる人は議論になったときに負けてしまう。

だいたい怯えていれば、孤独感を感じる人は会議に出ること自体が憂鬱になる。

そして相手の言いなりになってしまう。

「私は脅されない、脅す側になる」という言葉が『メンタル・タフネス』のなかにあるが、脅す側になるかどうかは別にして「私は脅されない」ことは必要である。

そして脅されないための方法としてやはり「脅す側になる」こともときには必要だろう

ほんとうに苦しくなると、孤独感を感じる人は自分の苦しさに気がついていない。

ほんとうに淋しくなると、孤独感を感じる人は自分の淋しさにきがついていない。

孤独感を感じる人は自分がわかっていないと同時に相手もわかっていない。

いずれにしろ孤独感を感じる人は心の中に恐怖感があるから、相手の言いなりになる。

しかも、その心の底の恐怖感に孤独感を感じる本人は気がついていない。

それが無意識の領域にある恐怖感の恐ろしさである。

よく「自分の無意識を夢で理解しろ」と言われる

そのとおりである。

夢はたいへん貴重な自分理解の資料である。

しかし恐怖感が心の底のそのまた底に抑え込まれている場合には、それは夢にさえ現れない。

親に服従して育った孤独感を感じる子は心底「嫌われるのが怖い」。

孤独感を感じる人は何がなんでも「いい人」と思ってもらわなければならない。

なんでそこまで「いい人」と思ってもらわなければならないのか?

それが無意識にある恐怖感である。

孤独感を感じる人は人が怖いのである。

じっと黙って抵抗しないで、相手の言いなりになっていれば、孤独感を感じる人はなんとか生きていかれる。

危害を孤独感を感じる人は加えられない。

「嫌われるのは怖い」から「嫌われないようにしなければならない」という強迫性にまで孤独感を感じる人はなってしまう。

嫌われたってどうということはないのに、理由もなく「嫌われてはいけない」と思ってしまう

カレン・ホルナイは「強迫的衝動はとくに神経症なものであって、それは孤立、絶望、恐怖、敵意の感情から生まれる」と言う。

そして孤独感を感じる彼らは満足を求めているのではなく、安全を求めているのだと言う。

まさに孤独感を感じる人たちも満足を求めているのではなく、身の安全を求めているのだろう。

さらにカレン・ホルナイは「この強迫的衝動は愛と力を求めるものである」と言う。

強迫的ということは「そうしないではいられない」ということである。

「そうしないと気がすまない」ということである

強迫的衝動とはそうしないではいられない衝動ということだろう。

カレン・ホルナイは「孤立、絶望、恐怖、敵意」と並べている。

この中心は恐怖感であるが、この四つはお互いに深く関連している。

周囲の人は、彼らがなんでそこまで人の言いなりになっているのだかわからない。

なんでその人が人のためにそこまでしなければならないのだか、わからない。

しかし恐怖感、孤独感を持って育った人は、「そうしないではいられない」のである。

フロムは神経症的非利己主義という言葉を使っているが、無意識の恐怖感、孤独感に動かされている人は、神経症である。

そこまで自分を犠牲にして人の為につくさなければいられないのは、心の底の恐怖感、孤独感が原因である。

利己主義的な行動をとると嫌われると思って、自分の利己主義を抑える

しかし利己主義でない行動をしても、その孤独感を感じる人が利己主義であることに変わりはない。

孤独感を感じる人はただ嫌われるのが怖いから非利己主義的な行動をしているにすぎない。

「あの人、利己主義よ」とレッテルを貼られるのが孤独感を感じる人は怖いのである。

嫌われるのが怖いから孤独感を感じる人は非利己主義的な行動をすればするほど、いよいよ利己主義的な行動をすれば嫌われると感じてくる。

その結果、孤独感を感じる人は無理が重なり、最後は抑うつ気分にさいなまれるのである。

それをフロムは神経症的非利己主義と言っているのだろう。

ほんとうに非利己主義的な人は、どんなに非利己主義的な行動をしても抑うつ気分になることはない。

おそらくますます元気になるだろう。

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孤独感を感じる人の自己犠牲にともなう憎しみ

自分のする非利己主義的行動は美徳だろうか?

では孤独感を感じる人はどうしたらいいのか?

まず第一に孤独感を感じる人は「なんで自分はそこまで人から嫌われるのが怖いのか?」と自分に尋ねてみることである。

もしその行動が社会的に望ましくても、孤独感を感じる人は「その行動をする自分の心の中にあるものは何だろう?」と尋ねてみる。

そして孤独感を感じる人はそこに恐怖感を発見することである。

無意識の領域にある恐怖感を孤独感を感じる人は意識化することの意味は計り知れないほど大きい。

「私はなぜこのような行動をするのか?」と反省をして、「私は怖かったのだ」と気がつくことである

次に孤独感を感じる人は「では、この恐怖感がどこから生まれたのか?」と、その源を尋ねる。

そこに恐怖感と共存している憎しみをも孤独感を感じる人は見いだすに違いない。

憎しみは恐怖感と双子の存在である。

憎しみと恐怖感は一対の感情である。

恐怖感のある人は憎しみの感情もある。

それは恐怖感から人は自分を犠牲にするからである。

そして自分を犠牲にすれば、フロム・ライヒマンの指摘を待つまでもなく、憎しみは出る

孤独感を感じるあなたが自分をどう意識しているのであれ、あなたを本当にうごかしていたものは、無意識にある恐怖感と憎しみだった。

それに気がつくことで孤独感を感じるあなたは生まれ変わる。

「不安回避の消極的方法は、いつも二つの可能性をあるていど犠牲にする。

すなわち、自我発展の可能性と、自分の共同社会と相互関係を保ち得る能力を犠牲にしてしまう」

逃げるのは恐怖感があるからである。

自分の心の底の恐怖感から周囲の人を恐ろしい人にしてしまう。

その結果、孤独感を感じる人はノイローゼになる。

自我発展の可能性と、自分の共同社会と相互関係を保ちうる能力を失ってしまうのは、恐怖感があるからである。