居場所がない人はまず生き方を決める

「居場所」の感じ方は、生きる姿勢によって決まる

居場所がないを本当に解決したいのであれば、それは生き方の話になります。

大袈裟に感じられるかもしれませんが、「どのように生きるか」と「居場所」には、実は大きな関係があるのです。

「人気者になりたい」「名声を得たい」など、「外から」何かを求める生き方では、居場所がないから自由になることはできません。

それよりも、自分の「心の平和(やすらぎ)」を「内から」感じたい、と思う生き方こそが、「居場所」につながっていきます。

どんな場でも、どんな相手でも、自分が「心の平和(やすらぎ)」さえ得られれば、そこは「自分の居場所」になるのです。

そのときには、自己受容・自己肯定ができていると言えるでしょう。

仮に相手が嫌な態度をとったとしても、「自分が疎外された」と思うのではなく「あらあら、機嫌が悪いのね」と思えるのです。

このように、「外から」ではなく「内から」大切なものを得る、という考え方は、「自分の心の平和(やすらぎ)」を「唯一の目標」とする、自分の心の姿勢への取り組みです。

他人のためのものではなく、あくまでも自分のためのものです。

居場所がないと感じるときは、間違いなく、そこに「心の平和(やすらぎ)」はないはずです。

自分が人間として不適格と感じることもあれば、世界が自分からみれば低レベルすぎる、「どうしてこんなこともわからないの?」と感じることもあるでしょう。

逆に、周りが優秀すぎて、自分がとてもついていけないということもあると思います。

もちろん、そこにとどまっている限り、生きづらいままでしょう。

そんな生きづらさから解放されたいと思うのなら、まずは自分の生き方を決めることが必要です。

それは、「心の平和(やすらぎ)」だけを目指そう、ということです。

もちろんこれは裕福になってはいけない、能力を高めるための努力をしてはいけない、などという話ではありません。

外的条件は一切関係なく、ただ、自分の心がやすらかならよいのです。

「どういうふうにふるまえば賢く見えるだろうか」など頭の中に葛藤があったり、「人からどう思われるだろう」がきになったり、というような「怖れ」から解放される、ということです。

ポイント:自分の生き方が、「居場所」感を決める。

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怒っている人は、困っている人

まず知っておいていただきたいことは、人間とは、困ったときに感情的に怒ることが多いということ。

逆に言えば、感情的に怒っている人は「困っている人」なのです。

ご自身を振り返ってもわかると思います。

「なんでこんなことに!」と困るようなときに、怒ってしまうのです。

その心のメカニズムを知るだけでも「衝撃」が弱まります。

上司が感情的な人で困っている。本当は自分の失敗なのに「お前のせいだ」と怒りをぶつけてくる。

真正面からとらえれば、「怒られた」「やっぱり自分はだめなんだ」と落ち込んだり、「上司の失敗なのに」と反発を感じたりする、つまり被害者意識にとらわれるわけですが、これは単なる、困った上司の悲鳴です。

もちろん上司がすさまじい勢いで怒ってくるのであれば、怖いですから、その場からいなくなりたくなるのは当然です。

「居場所のなさ」を激しく感じるでしょう。

でも、「所詮は上司の悲鳴」と思えば、「申し訳ございません」と場を穏便におさめることもできます。

もちろん、あなたのせいでしょう、と言いたい気持ちは十分にわかります。

しかし、このような「申し訳ございません」を、謝罪という意味ではなく「お見舞い」ととらえています。

自分は別に悪いことをしたわけではないけれども、相手が大変な状態になって悲鳴を上げているのは確かだからです。

「私が上司に怒られたのではなく、上司はただ困っているのだ」という視点の転換は、「心の平和(やすらぎ)」をもたらします。

居場所がないは、精神的な寂しさやむなしさにつながるものですが、寂しさやむなしさを感じる方たちにとって、「心の平和(やすらぎ)」を得ようとすることは決して別次元の話ではないと思います。

自分の心が平和(やすらか)であるとき、私たちは居場所がないなど感じないからです。

ありのままの自分が、ここにいてよいのだ、と思えるのです。

とはいえ、もちろん、どんなにつまらない場でもそこに「いなければいけない」などということはありません。

時間の無駄だと感じて、退出してよい場なのであれば、立ち去ってもよいですよね。

「心の平和(やすらぎ)」を中心に考えれば、行動の自由も広がるでしょう。

もちろん「居場所」を感じながら、です。

ポイント:自分の心の平和だけに注目すると、「居場所」が手に入りやすくなる。

人間は本来温かいものと思えば、生きやすくなる

ところでここでの大前提は、「人間とは本来温かいもの」という認識です。

いわゆる「性善説」と呼ばれるものでしょう。

人間が本来温かいものなのか、冷たいものなのかは、証拠を持ってこいと言われても難しいテーマです。

でも、あらゆる怖れから解放されて、余裕がある人は、わざわざ他人に意地悪をしたりしませんし、ことさらに「私はこんなに偉い」という自己アピールをしたりしません(そうやって自分の偉さを主張する必要がないのです。偉大な人は往々にして謙虚ですね)。

そう考えると、人間は本来温かいものなのではないでしょうか、そして両方の生き方をしてみて、「人間とは本来温かいもの」と信じるほうがずっと生きやすいです。

人間はもともと温かくひたむきな存在であるということは健康であっても病気であっても同じです。

病気の人は怠けているように見えるかもしれませんが、病気というハンディを抱えながら、誰よりも頑張っている人なのだと思います。

そういう見方をしていると、いろいろと心温まる体験をすることができますし、「怒っている人は困っている人」などという視点の転換ができて楽です。

そもそも、私たちはどんなときに幸せを感じるでしょうか。

自分のありのままを人から受け入れてもらえる。

自分を信頼してもらえる。

悲しいときは、泣いてもいいんだよと暗に認めてもらえる。

自分という個人の存在や生き方を尊重して(リスペクトして)もらえる。

そんなときに感じる、あの何とも言えない温かい感覚は、何ものにも代え難い、人生で得られる最高のものの一つだと思っています。

そしてそれこそが、私たちの本質が温かいものだとしめしているのだと思います。

また、そのように信じたほうが「生きやすい」のは確かです。

本当か嘘かはわからないけれども、人間は本来温かいものだ、と信じて生きる方が、生きやすいです。

確かに、人はそれぞれが違う存在です。

生まれ持ったものも、今まで経験してきたことも異なっています。

しかし、人は、実は決してそれほど違わない存在だと思うのです。

表面的な「いろいろ」は、むしろ人間の多様性を示すもので、「人にはそれぞれの事情がある」と教えてくれます。

同時に、どんな人も、できるだけのことをして頑張っているのが人間という存在なのです

一見とても不適切なことをしている人でも、それがその人なりの「精一杯」なのです。

小さい頃に虐待された人は、警戒心を持って、傷つけられないように生きていくのが精一杯でしょうし、あるいは、「怖い!」という感情を刺激されてしまって相手に対して攻撃的になることもあります。

これも精一杯の行動です。

どちらの例にしろ、それぞれが一生懸命生きているのだということを認めれば十分で、「浮いている」などという見方をする必要はないと思うのです。

自分はいろいろ不運なことを体験したので、一見「浮いている」行動をとっているかもしれない。

でも、一生懸命生きているのは、誰とも変わらないのです。

それでも、人の多様性を受け入れられない集団はあります。

「形のつながり」を求め、そこからはずれる人を「浮いている」などと疎外するのです。

運悪くそんな場に居合わせてしまったら、「人は多様で温かい存在だということを知らない、気の毒な人たちなんだな」と思うことができれば、自分の心の平和は保たれますし、居場所がないを感じることもないでしょう。

自分はただありのまま、そこにいればよいのです。

ところが、「浮きたくない」という一心で「形のつながり」にとらわれてしまうと、一気に居場所がないを感じることになると思います。

居場所がないを感じるかどうかは自分次第なのです。

ポイント:自分を「浮かせる」集団は、人間の温かさを知らない。

居場所を感じる空間とは何だろう

「居場所のなさを手放すワークショップ」では、「今日は居場所がないを感じませんでした」という感想が最も印象的でした。

そして、テーマが同じく「居場所のなさ」であったとしても、違う形のワークショップでは、きっと「ここにも自分の居場所はなかった」と思う人が出ただろうなと思います。

よく、「形のつながり」を強要するタイプのワークショップなどがあります。

「隣の人とハグし合いましょう」「悩みを隣の人に打ち明けてみましょう」というタイプのものには、暴力性すら感じますし、それで「居場所」感が生まれるとも思いません。

「形だけのつながり」はできても、心は満たされることがないでしょう。

「居場所」を感じるためのガイドライン

ここで注目すべきは、そのワークショップのガイドライン(指針)です。

おそらく、居場所感は、そこからくると思うのです。

もちろんガイドラインですから、ルールではありません。

ガイドラインを破った誰かを排除したり、できなかった自分を責めたりする性質のものではないのです。

ガイドラインは、あくまで努力目標。ワークショップが始まるときに、みんなでガイドラインを読み上げ、できるだけ守ろうという方向を確認するだけです。

ポイント:居場所に特定のテーマはいらない。

群れる女子との付き合い方

職場の女子グループが盛り上がっていると「居場所のなさ」を感じる

「形のつながり」ということで言えば、多くの女子は「群れる」のが特徴です。

しかし、「群れる」ことは必ずしもハッピーエンドになりません。

多くの女性が、疎外されることを怖れて群れている、ということもあります。

群れから抜けると、何を言われるかわからないので怖いのです。

だからと言って、盛り上がりの輪に入ってしまうと、「気に入らないテーマであっても、あなたたちと一緒に盛り上がります」という白紙委任状を与えるようなもの。

あまりにも受動的です。

不本意に、人の陰口につきあわなければならないこともあるでしょう。

そんな人生は送りたくないですね。

それよりも、「群れないと不安な、気の毒な人たちなんだな」と彼女たちを見て、自分は自分の人生を磨いていきましょう

それが、平和な心で「群れ」を見る方法です。

もちろん群れから脱したい女子から相談を受けたら、自分の場合はこう考えた、ということを話してあげてよいでしょう。

その人が従おうと従うまいと、自分の考えを再確認することができますし、相手が共感してくれれば親しい友達になれるかもしれません。

それだけのことが頭ではわかっていても、完全にひとりぼっちになるのは寂しいこと。

「群れ」を相手にせずに、その中の一人一人を見てみましょう。

全員とは言いませんが、自分と気が合いそうな人を見つけることはできると思います。

そんな人と一対一の関係を築いていければ、「群れ」に入れないことのダメージは激減します

もちろん自分の自由度も増します。

一対一の関係を持つと意地悪をされる、というような「群れ」であれば、悪質だと言えます。

そんな悪質な「群れ」にご機嫌取りをしてしまうと、いじめの構造に荷担することになりますので、距離をとったほうがよいでしょう。

女子に限らず、親しくできる男友達をつくるのもよい方法です。

ただ、このやり方は下手をすると「男に媚びてばかり」という反感を買う可能性があります。

ですから、ある程度、自分の中にルールを作ることが必要です。

ポイント:「群れ」にしばられると「居場所」がなくなる。

居場所がないは主客転倒

何らかの集まりに行って、あるいは職場などで、居場所がないを感じるときは、「(自分が)とけ込まなければ」と思い、それができない自分を責めたりすると思います。

しかし、「居場所」と「自己受容」の深い関係を考えてみると、「自分は社交ベタだ・・・」などと自分を責めたりするとどんどん居場所がないが強くなると言うことができます。

繰り返しになりますが、「居場所」感を得たいのであれば、周囲に振り回されるのではなく、「自分の心の平和」を中心に考える必要があります。

どういうことかというと、「なじめるか」ではなく、「自分の心はどういう状態か」を考えるということなのです。

「居場所」に関して言えば、常に目を向けるべきは「自分の心」。

それがやすらかであるということは「居場所」があるということです。

多くの場合、「うまく気を利かせてくれなかった主催者」や、「どこに行ってもなじめない自分」に目が向いてしまうと思います。

しかし、あくまでも、その場にいるのは自分自身。

自分の心がやすらかであれば、外形的にどうであれ、「なじんでいる」と言えるのだと思います。

そしてそれが実は相手にも「居場所」を感じさせるのです。

「あの人といると、何だか落ち着く」「あの人は話しやすい」と思われるようになる、ということです。

つまり、自分の「居場所」は自分でつくれるし、それは相手にも波及するということです。

ポイント:自分の居場所感は、相手にもよい影響を与える。

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居場所がないは、心の傷から生じる

先ほど、性善説と性悪説とどちらを選ぶか、ということにふれましたが、少し根拠を示してみましょう。

性悪説をとる人、つまり「人間は本来エゴイスティックな存在で、隙あらば他人の足を引っ張ろうとしている」というふうに考える人は、過去にそのような体験をしたことがあるのだと思います。

それは虐待かもしれないし、いじめかもしれません。

世間体ばかりを気にして、子どものことなど考えてくれなかった親のもとで育ったのかもしれません。

とにかく、何らかの形で「誰かの心の傷」に傷つけられたのだと思います。

心に傷があれば、もちろん私たちは警戒します。

他人への信頼、世界への信頼を失うでしょう。

そんなときには、実は自分に対する信頼も失っているものです。

「これは周りだけの問題であり、自分の問題ではない」と100%思えることは案外ないのです。

人からひどいことをされるということは、自分に何かの落ち度があったからだと、程度の差こそあれ思っているはずです。

あるいは、人から傷つけられた自分は、結果として「周りと比べて、どこかおかしい」人間になってしまったと思っている方もいるでしょう。

ですから居場所がない感が出てくるのです。

相手がどんなことを言おうと「私は心の平和だけを大切にして生きていこう」と決めていれば、実は傷つくこともないのです。

少し説明しましょう。

人を傷つけるような人は、かなり不幸な人です。

「どうして私の人生は、こんなになってしまったのだろう」「どうして自分は能力があるのに認めてもらえなのだろう」「どうして私だけが、理不尽に苦労しなければならないのだろう」などと、人生がうまくいっていないので、八つ当たりをするのです。

そういう人たちはたいてい不機嫌です。

イライラしていて、責任を他人に押し付けてきたりします。

本当に穏やかで幸せな人は、他人のありのままを認めることができますし、他人を傷つけるようなことを言わないものなのです。

今、世界中で、疎外された人たちが、それ以外の人々の安全を脅かしています。

国内で見ても、無差別通り魔殺人などは疎外された末の悲しい出来事だと思います。

また、世界規模で見れば、宗教的な問題もあり疎外されてきた人たちが、暴力的な、非人間的な行いを繰り返しています。

これも、もっと早くに気づいて、「自分とは違う」人を疎外しない努力をしていれば、その人の尊厳や大切な人を奪わなければ、防げたのではないかと思います。

ポイント:攻撃してくる人は、不幸な人。相手の「心の傷」に焦点を当てれば、振り回されなくなる。