心が疲れた人が気が楽になる心理

心が疲れた人は本心を出したほうが、愛される

心が疲れたとは

心が疲れた心理について少し述べたいと思う。

アメリカの実業家、デール・カーネギーの本にクローリーという凶悪犯罪人のことが出ている。

クローリーは田舎道の車のなかでみだらな行為(necking nasty)をしていた。

そこに警官が近づいて、免許証を見せてくれといった。

するとこの男は一言もいわずに警官を撃ち殺した。

シャワーのように撃ちまくったのである。

これを読めばたいていの人は、このクローリーというのは、とんでもない男だと思うであろう。

そしてこの男は、自分たちとはまったく異なる男だと思うに違いない。

警官が免許証を見せてくれといっただけのことなのに、シャワーのようにピストルの乱射をするなど、精神のバランスを失っていると思う。

たしかに普通の人から見るとバランスを失っている。

しかしこの一人の男から見ると、それはバランスを失った行為ではなかったのではなかろうか。

彼にとって唯一の重要な現実は、その行為だったのであろう。

そのとき彼の視野に入っているものは、自分の欲求だけだったのである。

第三者から見るとそれほど重要でないことであっても、彼にとっては唯一の実在であったのであろう。

自分の欲求に心を奪われている心が疲れた者にとって、その欲求が唯一の実在である。

彼は外に関心をもっていない

このクローリーという男と、相手の都合を無視して多忙な作家などに会いに行こうとする心が疲れたナルシシストとどこが違うのであろうか。

相手が忙しいということが、その心が疲れた人の視野にはまったく入らない。

自分が会おうとする人が作家であれば、当然自分以外の読者も同じように会いにいっているかもしれないということが、心が疲れた彼の考え方の中にはまったく入ってこない。

いやそのようなことを知れば、心が疲れた人はそのこと自体がきわめて不愉快なのである。

心が疲れた人は自分は他の読者とは違う、ということが彼の心の中では当たり前のことになっている。

しかし自分のナルシシズムに気づくというのは大変むずかしい。

強度のナルシシストになればなるほど、自分のナルシシズムには気づかないものである

自分が相手と話をする時間があるという事実だけしか、心が疲れたナルシシストの視野に入らない。

ナルシシストは相手は自分と話をする時間がないという事実は、まったく頭のなかにあらわれないのである。

このようなナルシシストは、今の日本の世の中にいくらでもいる。

鏡の前で自分の姿にいつまでも見とれている心が疲れたナルシシストの女性が、それを邪魔されたとき、やはり不快になるであろう。

心が疲れた人は一言もいわずにピストルを撃つことはないかもしれないが、注意されたことと心理的には不釣り合いな怒りを感じるに違いない。

第三者にとってはとるにたらない小さな小さなことが、心が疲れたナルシシストにとっては唯一の重要な現実になるということが怖いのである。

ナルシシストでない人は、たとえば自分のかわいい犬が自分にとっては重要だけれど、他人にとっては重要でないかもしれないことをよく知っているということである。

自分にはこの犬は大切なものだけど、隣人には大切なものでなく、もしかしたらうるさいものでしかないと知っている

心が疲れたナルシシストは、自分が自分の子どもをかわいいと思うように周囲の人もかわいいと感じていると思う。

そしてその前提に立って心が疲れた人は行動をはじめる。

周囲の人はうるさいし、はやく向こうに行ってくれればいいと感じているとは思わない。

いや想像できない。

何度もいうように、ナルシシストは他人の現実と自分の現実とが違うということが認識できない。

なぜか「ずるい人」をまわりに呼び寄せてしまう心が疲れた人

自分を偽っていると、いつになっても強くなれない。

心が疲れた人は自分がそれほど愛他的でもなく、奉仕精神にとんでいるわけでもないのに、他人に悪く思われるのが怖くて、いかにも立派そうに振る舞う。

実際には自分の利益を害されたことで、ひどく怒っているのに、心が疲れた人は寛大な心をもった人間だと思ってもらいたくて、笑ってすます。

心のなかではある人のものすごい利己主義を許せないのに、心が疲れた人はいかにもすべて受け入れているように、心の広さを示す。

しかし実際には心が疲れた人は心が広いわけでもなければ、寛大なわけでもない。

いい顔をしたいために心が疲れた人は他人の利己主義に不本意ながらおしまくられて、心ならずも笑顔をつくっている。

このように実際の自分を偽っていれば、いつの間にか心が疲れた自分の存在が不確かになる。

心が疲れた人はわけもなく沈みこんでしまったり、ときどきはわけもなくイライラしてくる。

憂うつになったり、億劫になったり、どうしようもなく不機嫌になったりするのは、どこかで心が疲れた人は実際の自分を偽り続けて生きてきたからである。

実際の自分を偽るから、心が疲れた人は他人と接しても幸福感は高まらない。

高まらないどころか、心が疲れた人はより深刻な憂うつへのステップにしかならない。

実際の自分は相手と同じように利己的である

心が疲れた人は自分を犠牲にして他人に尽くすことなど喜んでできるわけではない。

それにもかかわらず、心が疲れた人はそのように善意の人と思ってもらおうとして心を偽って、無理してうわべだけの善意の気持ちを表現する。

しかしそのように振舞えば振る舞うほど、心が疲れた人は本質的なところで欲求不満になる。

本心から出た称賛ではなく、心が疲れた人の不満をおさえておさえてやっと口にする称賛は、相手を気分よくさせるものではないだろう。

実際のところは、相手の成功は身勝手な行動の結果であっておもしろくない。

そんなときにも、心が疲れた人はいかにも喜んでいるふりをする。

そのように自分を偽りつづけることの結果として、心が疲れた人は自分に意味を感じなくなってしまうのである。

小さな子どもは、親の喜んだ顔が見たいために無理をする

そしてその無理を心が疲れた人はずっと続ける。

そんな生き方をしていて、気持ちが萎縮しないほうが不思議である

そういう生き方をしてきた心が疲れた人は、「人がよい」といわれるような人ではあるけれど、結局周囲の人に利用されるだけで、みんなから軽く見られている。

そのように生きている心が疲れた人は、周囲の人から大事なところでは無視される。

考えてみれば、心が疲れた人は本当に悲劇の人なのである。

心が疲れた人はかわいそうといってこれほどかわいそうな人もいない。

つらい思いをしながら自分を偽りつづけて、人の愛を求める

しかし心が疲れた人は最後まで傷つけられるだけで、屈辱の人生を閉じる。

自分の本心と正反対の言動をとり続けている心が疲れた人は、一日もはやく気がつくことである。

人の愛に飢えているからこそ、それを得たいと自分を偽り、挙句の果てに無視され傷つき、日ごとに心が疲れ、自分への無力感を深めていく。

人の愛に飢え、人とのやさしいふれあいを求めつつ、人々の蔑視のなかで悲惨な人生を送る心が疲れた人のなんと多いことか。

愛に飢えている心が疲れた人々は、子羊なのである。

そして愛に飢えている心が疲れた人々は、狼を自分のまわりに呼び寄せてしまう。

愛に飢えている人は、利己主義者にとってカモである。

利己的な人間にとってこんなおいしいものはない

愛に飢えている人は、ついつい「いい顔」をしてしまう。

心が疲れた人がついつい「いい顔」をしてしまうのは、その人が立派だからではなく、その人が弱いからである。

人に嫌われるのが怖くて、心が疲れた人はついつい「いい顔」をする。

自分を偽っても最後には自分が傷つき、心が疲れた人はみんなから軽く見られるだけである。

払った犠牲に感謝する人などいない。

感謝の気持ちを知っている人は、自分を偽るような心が疲れた人のそばからは離れてしまっている。

好かれたくて周囲の人のために犠牲を払いながら、心が疲れた人は感謝もされず逆に軽く見られるとはなんと不幸なことか。

それよりも、そのようにして自分を偽る心が疲れた人は深く深く傷ついている。

愛に飢えて愛を求めるのはいい

しかし決して愛に飢えて自分を偽ってはいけない。

自分を偽る者は、いつまでも心理的に成長しない。

そこが心が疲れた人の悲劇なのである。

心理的に成長しないということは、実際にはきわめて自己中心的で利己的であるということである。

心のなかは利己的で、心が疲れた人はいつも振る舞いは利他的ということになる。

「誰にでも「いい顔」をするから孤独になる」

利己的なずるい人間に「いい人」などと思われることは、不幸なことでしかない

しかし愛に飢えている心が疲れた人は、誰にでもいい顔をしてしまう。

心が疲れた人は相手がずるい人だろうが卑怯な人だろうが、「いい人」と思ってもらいたいのである。

精神医学の本などに、心が疲れた人は相手の資質と関係なく好かれようとすると書いてある。

つまり、たとえ相手が嘘つきであっても、心が疲れた人はその人から嫌われるのが怖いということである。

例えば心が疲れたうつ病者の対人関係の特徴は、八方美人ということである。

ところで、これらの本が一つ大切なことで書き落としていることがある。

それは、相手が嘘つきであるか正直であるか、ずるいかずるくないか、そういうことは自分を偽っていない人にしてはじめてわかるということである。

愛に飢えて嫌われるのが怖くて自分を偽ってしまった心が疲れた人は、相手がまったく見えなくなっているのである。

Aという人と接したとき、心理的に成長した人ならすぐに、ああこの人はずるい人だなというのがわかる

しかし嫌われるのが怖くて自分を偽ってしまった心が疲れた人には、Aという人がずるいということ自体が理解できないのである。

つまり心が疲れた神経症者にとっては、人柄の違いということがない。

「ない」というより「重要でない」といったほうがいいだろう

心が疲れた彼にとっての重要な現実のなかには、ある人がずるいか誠実かという違いはないのである。

極端にいえば、心が疲れた彼の世界には誠実な人とずるい人とがいない。

みんな同じ人なのである。

心が疲れた人は本当に愛してくれる人を遠ざける態度をとっていないか?

繰り返しになるが、神経症的な人は「どんな人でも関係なく」好かれようとするといわれるが、もともとその人の心理的世界のなかでは、他人はみんな同じなのである。

だからこその心が疲れた人は、ときに誠実な人から逃げ、ずるい人に迎合していくのである。

他人はみんな違う。

ずるい人もいれば、誠実な人もいる。

嘘つきもいれば、正直な人もいる。

やさしい人もいれば、冷たい人もいる。

利己的な人もいれば、利他的な人もいる。

しかし自分を偽って生きている心が疲れた人には、どうしても相手が見えない。

自分を偽って生きている心が疲れた人は、自分も見えていないのである。

自分が見える程度にしか相手は見えない。

自分を偽ることなく、相手にぶつかっていったときはじめて、相手がどんな人であるかわかる

心が疲れた人はすぐにいい顔をしてしまっては、相手の正体がわかるはずがない。

しかも相手の嫌われるのが心が疲れた人は怖いのである。

相手に悪く思われるのが心が疲れた人は怖いのである。

相手に悪く思われるのが怖いという恐怖心で、心が疲れた人は相手が見えなくなっている。

だから相手がずるくても誠実でも、心が疲れた彼にとっては、同じように見えてしまうのである。

今相手にぶつかると書いたが、相手にぶつかるということは、相手に実際の自分を表現するということである。

相手にぶつかるということは、相手の前で自分を偽らないということである

みんなに気に入ってもらいたいという気持ちに負けてしまっている心が疲れた人は、決して相手にぶつかっていくことはできない。

したがって、心が疲れた人は、また親しい人もできない。

みんなに気に入ってもらいたいという気持ちに支配されてしまっている心が疲れた人は、心の孤独な人である。

そして心が疲れた人は孤独であれば孤独であるほど、みんなに気に入ってもらうためには、どう振る舞えばよいかということに気をつかう。

悪循環で心が疲れた人は地獄に落ちていかざるを得ない。

自分を偽ることをやめたときはじめて、それぞれ人格をもった他人が眼の前に現れる

「ああずるい人だな」「ああ心のあたたかい人だな」とわかるのは、自分のほうが一つの人格をもったときである。

常に他人に見られる存在から見る存在へ、常に他人に評価される存在から評価する存在へ、常に裁かれる人間から裁く人間へ変わったときはじめて、相手と対等になれる。

心が疲れた人はどうしたら気に入ってもらえるかと自分を偽っている限り、常に相手は裁判官であり、自分は被告人である。

相手と気持ちのうえで対等になったとき、相手から自分がどのくらい軽く見られていたか、どのくらいなめられていたかわかる。

自分で自分を卑しめつづけ、自分で自分を傷つけつづける人、それがみんなに気に入られようと消耗し続ける孤独な心が疲れた人である。

自分で自分を卑しめ続けていた、自分で自分を傷つけ続けていた、そのことがわかりだせば、逆に相手も見えてくるのである

どうしたらみんなに自分を気に入ってもらえるかと気をつかっている心が疲れた人は、自分の人格をもたず、他人の人格も見えない、恐ろしい無人格な世界に住んでいるのである。

みんなにいい顔をしている心が疲れた人は、そうした意味できわめて不誠実な人である。

人格をもってはじめて誠実さも出てくる。

自分を偽る心が疲れた者は戦えない。

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心が疲れた人は受け身でいるから「人が怖い」

人が怖いというのは、その人が受け身で生きている証拠である

自分の側から相手に対してはたらきかけることがあったり、話しかけることがあったり、頼むことがあったり、聞きたいことがあったりすると、相手が怖いということはあまりないだろう。

自分に何かやりたいことがあり、そのことからある人と会うことになり、その人に確かめたいことがあったりする。

そんなとき、その人が怖いということはあまりないのではなかろうか。

心が疲れた人が何か漫然と人に会うようなとき、はじめて人が怖いと感じるのである。

何にも自分の側になくて、ただ自分の虚栄心のようなことから、心が疲れた人はある社会的に高い地位の人に会おうとすれば、そのときは恐ろしいに違いない。

自分の側から相手にはたらきかけることが何もないとき、心が疲れた人ははじめて人は相手が恐ろしいのである。

心に葛藤があるとき不安になり、その結果、心が疲れた人は人に対して自然な態度ができなくなる。

そうした態度の一つが従順である

そして不安から相手に従順になる心が疲れた人は、心の中で弱さ、頼りなさを感じる。

人が怖くなるから、相手のお気に入りになることで、心が疲れた人はその怖さから逃げようとする。

こんな心が疲れた人は相手に対する積極的な姿勢は何もない。

相手に気に入られているか、気にいられていないか気になるのは、心が疲れた人は受け身の姿勢で生きているからである。

他人が自分をどう見ているか気にするうつ病的な人、神経症的な人、心が疲れた人が受け身であるのは当然なのである。

彼らが受け身である限り、どんなに他人に対して従順になっても、心が疲れた人はやはり他人は怖い。

自分自身の願いを心が疲れた彼らがもたない限り、そしてその実現に向けて動きださない限り、いつまでたっても人が怖い。

人が怖いのは、心が疲れた人が人との間で共有するものをもっていないからである。

ある願いを実現するために、どうしてもこの人に協力してもらいたいということがあって、その人と接しているときは、こちらが頼む側であっても、その人が対人恐怖症的な意味で怖いということはない。

心が疲れた人は好きな「ふり」、うまくいっている「ふり」

話すことがあって人と会うのなら、恐れからどうしたら相手に気に入られるかということを気にすることはない

まずとにかく話すことを話す。

心が疲れた人は話すことがなくて人に会えば、あたりさわりのない話になり、お互いに興味のないことを話しあうことになる。

こんなプロセスを踏めば、心が疲れた人はいよいよ怖くなる。

お互いに自分達に興味のあることを話しあっているとき、相手にどう思われるかなどと気にするものではない。

興味がないのに興味のある「ふり」をして話しているとき、心が疲れた人は初めて相手にどう思われているか気になるのである。

他人の好意に心が疲れた人はどっぷりとひたれないというのも、同じである。

本当に自分にしたいことがあり、そのしたいことをするためにある人の好意を必要としているならば、その人の好意を喜んで受けるのではないだろうか。

その人の好意に心から感謝するであろう。

「ありがとう」と心からお礼をいうであろう。

気が引けて、とてもその好意を受けられないなどということはないはずである

心が疲れた人は実際にはやりたいことがなくて、その人に会うのも怖くて、それでいながら接したとき、はじめて気が引けて相手の好意を受けられないということがおきるのである。

心の底では、心が疲れた人は相手の好意をそれほど喜んでいない。

心の底から喜んでいる好意なら受けるのが自然であるが、心が疲れた人は好意を受けることで相手に借りができるような気がするのである。

借りをつくりたくないという気持ちも心が疲れた人はあるのだろう。

嬉しくもない相手の好意ということで、心が疲れた人は関係ができるのを嫌っているのである。

そもそもはじめにやりたいことがあり、そのことに関して相手と関係ができるわけではないのだから。

貸し借りというのは、心が疲れた人が心理的に孤立しているとき、とくに生じてくるのではないだろうか。

相手と心理的につながっているとき、あまり相手の好意は負担にならない。

しかし心理的に相手と関係していないとき、心が疲れた人の相手の好意は感謝よりも負担になる。

心理的に深くかかわっている恋人同士、友人同士であるなら好意は負担ではなく、「ありがとう」ということになる。

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心が疲れた人は「想像上の敵意」に怯える人の考え方

受け身で心理的に誰ともかかわっていない

心が疲れた人は自分が対人的に受け身であるということにも気がついていない。

受け身で心理的に孤立して、相手に気に入られようとしているのが心が疲れた人なのである。

自分が心理的に好意を抱いている人から、具体的に好意を受けても負担にはならない

本当に愛している人から好意を受けても、負担にはならない。

好きだけれども心が疲れた、敵意や憎しみを抑圧している、などという人から好意を受けると負担になるのである。

お互いに嫌いだと感じている人の間で、好意がとりかわされるということはないであろう。

無意識には憎んでいるのに、好きな「ふり」をしている心が疲れた人から好意を受けてはじめて負担になるのである。

ジンバルドーは恥ずかしがり屋の人の特徴の一つに、他人に助けを求められないということをあげている。

しかし、なぜそうなのかということについては説明していない。

恥ずかしがり屋の人も敵意を抑圧しているからだと思う

心が疲れた人は自分では意識していなくても敵意を抑圧しているから、人に助けを求められないのである。

敵意の抑圧がなく、本当に好きな人にはものを頼めるのではなかろうか。

こうしてほしいと相手にいえる人というのは、相手に敵意を抑圧していない。

しかし敵意を抑圧していると、心が疲れた人は恋人同士でも相手にこうしてほしいということはなかなかいえないものである。

敵意を抑圧するということは、二人の関係が心が疲れた人はうまくいっている「ふり」をしていることである。

お互いに心が疲れた人は、相手にも自分にもうまくいっている「ふり」をしている。

やはり破局が怖いから、心が疲れた人はすべてうまくいっている「ふり」をする。

ところで、心が疲れた人の敵意の抑圧は大人になってから、人を対人的に受け身にする。

抑圧された敵意は投影される

心が疲れた人は相手が自分に対して敵意があるかのごとく感じたりもする。

自分は人に好かれていないとも感じる。

こうしたなかで心が疲れた人は人から好意を受ければ、負担になるのは当たり前である。

相手の好意を心が疲れた人は心の底で信じられないのである。

相手が自分の存在を喜んでいるということが心が疲れた人は信じられないのである。

好意で親切にするのは、決して心理的に無理して親切にしているわけではない

心が疲れた人は敵意を抑圧すると、相手は無理をしていると感じてしまうのである。

メランコリー気質(うつ病前性格)の心が疲れた人が人から何かをしてもらうと、その何倍ものことを返さないと気がすまないという。

しかし、自分の心理的負担を軽くしようとして心が疲れた人は相手に何か特別のことをしてあげても、心理的負担がなくなるわけではない。

逆に心が疲れた人はいよいよ心理的負担は増してくるということのほうが多い。

やはり心理学者のジョージ・ウェインバーグが主張するように、行動は背後にある動機を強化してしまうのであろう。

人は自分を侮辱する人間を憎む。

しかしそれにもかかわらず、その人からすぐに離れられるというものでもない。