怒りや憎しみの深層に本当の気持ちがある

何も言わないのは、これ以上傷つくのが怖いから

自分を自由にする生き方。

そのことについてお話しするために、一人の女性をご紹介しましょう。

彼女は、二十代後半のOL。

つい先日、恋人に別の女性ができ、彼と別れることになった彼女は、そのショックからなかなか立ち直ることができません。

そこで、カウンセラーのもとを訪ねました。

「どうしても彼への憎しみを手放すことができないの」

苦しみの表情を浮かべながらそう語る彼女に、私はこうたずねました。

「あなたはどうしたいの?」

彼女は、「どうしたいと言われても・・・」と口ごもりました。

「恨みつづけるのはもうやめたいけど、できないんです」

カウンセラーは彼女から本当の気持ちを引き出したいと思っていました。

カウンセラーが引き出したいその気持ちというのは、「彼が憎い」といういまの気持ちではありません。

「憎い」と思うに至る前の気持ちでした。

「裏切られたことを知ったとき、あなたはどうしたのですか?自分が傷ついたってことを、満足いくまで彼に言ったの?」

「ううん、言えなかったわ。彼に言ってもどうせ争うことになるだけだと思ったから」

「あなたは、彼と争うことを避けたかったのね。でも、それはどうして?」

「彼と争って、自分がもっと傷つくのが怖かったんだと思うわ」

「あなたは、彼によって傷ついているのね。それが忘れられなくて苦しんでいるんでしょう?もともと傷ついているのなら、気持ちを伝えて傷ついても同じことではないのかな」

「これ以上、傷つきたくはないのよ」

「これ以上傷ついてしまうと、どうして断言できるの」

「彼が私の言うことに耳を傾けてくれるとは、とても思えないもの」

相談にやってくる人は、しばしば、「自分が主張しても相手は聞いてくれない」「もっと自分が傷ついてしまう」と決めてかかります。

結果としては彼と別れることになっても「伝えたら、伝えないよりは満足できるかもしれないし、立ち直りも早いかもしれない」とは考えません。

彼女もまたそうした中の一人でした。

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相手を許せない自分を認めてあげる

「あなたは彼とヨリを戻したいと思っているの?」

「ううん、あんな、平気で人を裏切る男なんか、もういまさらって感じ。だまされて悔しいっていう気持ちのほうが強くて」

「その悔しさを、どうすれば手放せると思う?」

「私が彼を許すことができれば、この苦しさはなくなると思う」

彼女は、自分の心の中だけで、感情を処理しようとしていたのです。

「あなたは、彼を許したいの?」

「許したいと思っているわけじゃないけれど、許せたほうが気分はラクになるでしょう?彼だけが悪いわけじゃないって思うと、少し気分がおさまるのね。でもすぐに、やっぱり許せないと思ってしまう。でも、許すべきだと思う」

私は彼女が「許す」ということをどういうふうに考えているのか気になりました。

許せない気持ちをずっと引きずっていながら、許さなければならないと考えてしまう・・・こんな状況で、本当に許すことができるのでしょうか。

「意地悪な質問かもしれないけれど、あなたは彼の幸福を願うことができる?」

「いいえ、できないわ。彼が新しい彼女と楽しくやっているって考えると、壊してやりたくなっちゃう。二人の関係がダメになればいいのにって」

「それが許したことになるかな?」

「いいえ、ならないわね」

許せないという気持ちを我慢して、どうして人を許すことができるでしょう。

「思うんだけど、あなたは彼を許す必要があるのかなあ」

「え?」

「彼を許しなさいと言われて、許せるものなのかな」

「許そうとしてきました。自分を救うには許すしかないと思ったから」

彼女は、恨みという感情を悪いものだととらえ、そんな否定的な感情を抱く自分を醜いと考えているようでした。

それが彼女を苦しめていたのです。

もちろん彼女が、心から彼を許すことができれば理想的ではありますが・・・。

「でもあなたは、ゆるさなければならないと考えれば考えるほど、彼を許せなくなっている。そうじゃない?堂々巡りだと思わない?」

「・・・思う」

彼女に「許せない」という自分の感情を素直に認め、そんな感情を抱く自分を許してほしいと思いました。

本当の気持ちを感じることを自分に許す

私たちの体には、無駄なものは何一つありません。

感情も必要だからあるのです。

もちろん、怒りや憎しみの感情も必要なものです。

ならば、「自分が不快に感じるから」といって、感情をあらわにするのはいけないことなのでしょうか。

私は、どんな否定的な感情であっても、それを抱く自分を許すことができたとき、もっと違った感情がわき出てくる、ということを知っています。

「いま、あなたは彼のことを語りながら、許せないという感情でいっぱいになっていると思います」

カウンセラーの言葉に彼女は我に返ったようでした。

許さなければいけないと考えながらも、結局は、許せない気持ちに支配されてしまっていることに気づいたのです。

カウンセラーは本当の気持ちに気づきはじめた彼女に、もっと気持ちを体の感覚を使って味わってもらおうと思い、彼女にまぶたを閉じるようにお願いしました。

「じゃあそのままでいてね。いまのその感情を、体のどこで感じている?」

「苦しくて、感じたくないです」

「感情を抑えようとしなくていいですよ」

「こんなに苦しい思いをするのはイヤだなあ」

「それはあなたが、気持ちを感じることを、自分に許していないからです。彼を憎いという感情がわいてくるのを自分に許してほしいのです」

「どうやって?」

「抵抗しないで、否定的な感情をもつ自分にOKを出して、そのまま感情に身を任せて味わってみることです。心の中で『憎んでもいいんだ』とつぶやいてみてください」

「すごく憎いって感じ。ものすごく腹が立つ」

「その怒りを、体のどの辺りで感じますか。それをチェックしてくれませんか?」

「お腹と胸が苦しい。体が硬くなっていて、息が出来なくなりそう」

「それでOKです。それをそのまま感じてください。」

彼女は自分の体に意識を向け、感情のある所を探ろうとしました。

「どんな気分ですか?」

「怒りがおさまってきて・・・」

そう答えたきり、彼女はしばらくの間黙っていました。

そして、いきなり声をあげて泣き出したのです。

これは、予想した結果でした。

彼女はやっと、憎しみの奥にある悲しみにたどりついたのです。

自分の感情を大事にする

感情は無理に消そうとしたり、抑えたりすると、かえってエスカレートしてしまうものです。

「辛い。なんとかしたい。でも消えない。どうしたらいいんだろう。こんなに苦しいのなら、いっそのこと感情なんてなくなってしまえばいいんだ」

などと考え続けてしまうことで、逆に感情がエスカレートしてしまいます。

だから、わき上がる感情を止めるには、考えることをやめてしまえばいいのです。

とは言っても思考は止めようとして止まるものではありません。

こんなとき、自分の感覚や体に注意を向けましょう。

感情をただ体で味わっていると、その感情はゆるやかに消えていくのです。

カウンセラーは彼女にたずねました。

「いまの気分はどう?」

「体から力が抜けていくみたい。疲れたって感じ」

「それをどこで感じている?」

「体全体だけど、とくに方の力が抜けて、胸がゆるんでホッとするわ。私はずっといままで、憎しみで体を硬直させていたのね」

カウンセラーは彼女の落ち着いた表情をみて、涙を流した理由を、彼女の口から語ってもらおうと思いました。

それは彼女に自分の感情を再認識してもらうためでもありました。

「先ほどまでは『憎い、許せない』って感じていたと思うのだけど、悲しくなってきたでしょう。あなたは憎しみの感情と、悲しいという感情と、どちらが自分の本当の感情だと思う?」

「わからない。両方あります。」

「彼の行為を思い浮かべると、『怒りや憎しみ』を感じるけれども、自分の感情に意識を向ければ、『悲しい』というのがあなたの本当の感情のような気がするけれど、どうですか」

「そう言われてみれば、そんな感じもするわ」

「怒りと悲しみの二つの感情を味わってみて、どちらが気が晴れる?」

「悲しみ・・です」

「あなたが自分を大事にするためには、『彼が憎い』という感情と、『私が悲しい』という感情のどちらを大事にしたほうがいいと思う?」

「・・・」

「彼が憎いという感情だけを後生大事に抱きつづけていたら、憎しみは消えるかなあ。あなたの悲しみは癒されますか」

彼女の目は始終「彼が自分にどうした」という彼の行為ばかりに向けられていて、「私はどう感じているか、どうしたいのか」に向けられてはいませんでした。

なぜなら、彼女は傷ついた自分をみつめるのを恐れていたからです。

しかし、彼女が彼への恨みを手放すには、傷ついた自分の心と対面しなければなりません。

そのためには、彼に向けていた意識を自分に引き戻し、自分の体の状態や感覚を知る必要があると考えていました。

体は心と密接につながっています。

体は表情、仕草、クセ、呼吸、姿勢、体型といったもので、自分の心を表面化させていきます。

あなたが気づこうが気づくまいが、あなたの心は常に、自分の心のあり方を、体の状態として、あるいは感覚、感情を通して伝えてくれているのです。

他者に目を向けて生きている人は、こういった自分の体や感覚に関心を向けようとしませんが、自分の体の状態や感覚に意識を向け、問いかけてみると、満足感と体の弛緩といった形で、生き方の適切さを教えてくれるのです。

「自分を大事にする」とは、こんなふうに他者に向けられた意識を自分に引き戻して、自分の体や感覚と丁寧につき合っていく、ということなのです。

感情は厄介か?

次に、彼女が感情をどうとらえているのかを知ろうと思いました。

「あなたは、感情って、どういうものだと思う?」

「いまの私には、こんなに苦しいのなら、感情なんてないほうがいいと思ってしまうけど」

「それはあなたが、自分の感情を抑えようとしてしまうからじゃないかな」

「・・・ええ、抑えようとしてしまいますね。消せるものなら消したいです」

「そうですね。でも、憎んじゃいけないと思えば、憎しみは消えるもの?」

「感情に抵抗しないで味わえば軽くなるというのはわかるわ。でも、やっぱり感情をうまくコントロールできたらいいと思ってしまう」

「感情は厄介なものだと思っている?」

「ええ、そうだと思う。イヤなことが多いから」

そこで私は彼女が感情を厄介なものだと思う理由を探ってみました。

「例えばあなたが怒りや憎しみにさいなまれているとき、彼があなたを裏切った場面を、頭の中で何度も何度も再現させていない?」

「ええ、一度裏切られると、この前もそうだった、あのときもそうだった、彼に最初に出会ったときも、同じようなことをされた、って彼の悪いところが次々に浮んできます」

「同じ場面を何度も何度も登場させて、その度にあなたは腹を立てているんですね。つまり、本当はたった一度の体験なのに、繰り返し想像しては、10回も20回も怒りの感情を体験しているってわけです。ということは、あなたが自分で怒りをつくり出しているということにはならないかな」

「何を言いたいの」

彼女は少しムッとして言いました。

あなたの中の「怖れ」を相手は敏感に察知している

カウンセラーは彼女の感情をさらに探ってみました。

「いまのその言葉は、どういう気持ちで言ったの?」

「どういう気持ちって?何を言いたいのだろうと思っただけです。」

彼女は今度は穏やかな口調で言いました。

私は彼女にその違いを体感してもらうことにしました。

「いまの言い方は、少し違って聞こえました。最初の言い方は、責められているような気がしたもの」

「ええ、先生を責める気持ちが入っていたと思う」

「二度目は?」

「ただ純粋に、何をいいたいのだろうと思った」

「その違いですね」

「確かに最初は、先生を責めていた。でも私は、逆に先生が責めているように感じました。」

他者の目を気にしすぎてしまう人は、他者の意見も単なる意見としては聞こえず、責められていると感じてしまいます。

なぜなら、他者の目を気にしてしまう気持ちの裏には、「相手に従わされるのではないか、支配されるのではないか」といった恐れや不安がひそんでいるからです。

そうした恐れや不安から、責められていると感じてしまうのです。

カウンセラーは彼女に口調を変えて何度か「何を言いたいの」とつぶやいてもらい、違いを体感してもらいました。

「責めているときは首や肩が張って、イヤな感じだけど、ただ純粋に何が言いたいんだろう?と思っているときは、自然に言葉が出る感じです」

根底にあるわずかな意識の違いで、表現のトーンは変わってしまうものです。そしてそれは、私たちが想像している以上に、相手にも敏感に伝わってしまいます。

あなたがもしも、意識の中に「支配されるのではないかという恐れ」や「相手を責める気持ち」をひそませて言葉を送信するとしたら、相手は意識の奥にある責める気持ちを敏感に受診して、同じように返信してくるのです。

根底に他人への恐れを抱いていると、自分が責められていると誤解して、自分を守るために相手を責めてしまう。

肯定的な感情よりも、否定的な側面を多く拾ってしまう。

それが、彼女が自分で創造している世界でした。

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彼女だけではなく、一般的な傾向として、気持ちのよい感情を味わう機会が減り、感情というと否定的な感情をイメージしてしまう人が少なくありません。

感情の素晴らしさを知るには、否定的な感情の数倍も肯定的な感情を拾い集めるように意識することが大切でしょう。

カウンセラーは彼女にも、肯定的な感情を拾ってもらうことにしました。

「四年間もつき合った」という彼女。

その間にも、彼との楽しい時間がたくさんあったはずです。

「こんな状態ですから、楽しいことなんて、考えてもみなかったけど・・・。

そう言われると、私って、楽しいことって、あまり浮んでこないみたいです」

「それじゃあ、なおさら必要です。たくさんあるはずでしょう。電話をしているとき、デートをしたとき、食事や映画やレストラン、ホテル・・・二人でどこに行って、何をした?」

「うーん、そうだ、彼と一緒に九州に行ったことがあります。親に内緒だったから、バレないかってドキドキして。初めての旅行だったから、最高でした」

「みていてわかります。幸せそうな顔をしているもの。そのときのことを詳しく話していただきませんか?」

「不思議ですね、そう言っただけで、あのときの光景がパアーッと目の前にあらわれてきます。

彼と何を喋ったかよりも。楽しいことって、言葉よりも、映像なのね。

私たち、旅館に泊まって、お風呂に入りました。

渓谷が見下ろせる露天風呂。洞窟になっています。

夜中だったから、誰もいなくて仄暗い明かりが灯っているだけでした」

「素敵ですね」

「人目を避けて入るとき、冒険しているようで、ワクワクしました。お湯が、赤い光でユラユラ揺らめいています。

ゴツゴツした岩に囲まれて、遠くから川の流れる音がかすかに聞こえてくる。暗闇の中に私たちだけ。

誰にも邪魔されない二人だけの世界って感じで、彼の白い肌と赤い明かりが目に映っていて、すごく幻想的・・・」

「お風呂の感触は?」

「熱いけど、熱すぎるってことはないです。でも、お湯の中に入ると、岩がゴツゴツしていて体に当たります。足元がヌルヌルして滑ってしまいそう。

岩に手を置いて、恐る恐るつかるの。彼が私の体を支えてくれる。

彼の腕と体がとてもたくましくて、肌の感触が温かい。安心できて、すごく気持ちがいいです。

湯船の中で、お湯をかけ合ったり、じゃれ合ったり、抱き合ったりしたわ」

「彼の表情はどうですか?」

「とても楽しそう」

「いまのあなたの気持ちはどうですか?」

「心も体もすごく温かくなって、気分がいい。あのときの無邪気な気持ちを、いまも感じています。気持ちがよくて、喋りたくなくなってしまいそう・・・」

「意識は相手に向けている?それともあなたが感じているんですか」

「私の目は彼を見ているけど、意識は彼に向かってはいない。感じているのは私。とても心地いい・・・」

私が彼女に伝えたかったのは、「楽しさや喜びや幸福感は、相手が満たしてくれるのを待っていたり、相手に要求したりして得られるものではなく、自分自身が自分のために感じるものだ」ということでした。

その直後、彼女の幸福そうな表情が崩れて、別のことを考えはじめたのがわかりました。

「ずっと、彼と一緒にいたかった。彼は私との楽しかったことなんて、思い出したりしないのかな」

カウンセラーはすかさず「待って」とストップをかけました。

「意識を相手に向けないで。そのまま向けると、彼を責めてしまい、恨みを手放せなくなってしまう。そこで止めてみてください」

「どうすれば止められるの」

「お風呂の場面に戻って」

「ええ」

「そのことを思い出して。どう感じている?」

「楽しかった・・・。いろんなことが浮かんできている」

「どんな感情がわいてくる」

「寂しい・・・、悲しい・・・。でも、楽しかったんだと・・・」

「もう一度、つぶやいてみて」

「寂しい・・・、悲しい・・・。でもとても楽しかった・・・」

感情は自然にわいてくるものだから止めようがない、と思っている人もいるかもしれません。

しかし、感情は思考でも生まれます。

否定的な感情を手放そうとしない人は、頭の中で否定的な会話を繰り返し、それによってつくり出される否定的な感情に溺れていきます。

そんなときでも、肯定的な言葉を声に出してみると、否定的な感情はやわらいでいきます。

たとえその肯定的な言葉が、自分の気持ちにそぐわなくても、肯定的な言葉を声に出して表現すると、それは肯定的な響きとして体に共鳴し、肯定的な作用を与えてくれます。

「そうやってつぶやくと、どう?いまのあなたの気持ちが本心ですね。」

彼を恨んでいるとき、いまの自分の感情を大事にしていた?」

「いいえ。いまやっと、自分の本当の心に出合えたって感じがするわ。彼とは、終わってしまって、悲しいけれども、楽しかった・・・」

「いまそれを味わってみて、どう思う?」

「とても素晴らしい体験をしたんだと思う」

いい感情も、悪い感情も自分で選択して拾えるものです。

相手の否定的な側面ばかりを拾って、憎み続けることもできますが、意識を自分に向け、楽しい感情を拾って、味わうこともできます。

「少し、少しずつかもしれないけれど、私、恨みを捨てられそうな気がする。裏切られたからって、楽しかった過去をすべて捨てることはないんだもの」

もしもあなたが否定的な感情に苦しんでいるとしたら、抑えようとしないで、そんな感情をもつことを自分に許して、充分に味わってみてください。

自分の感情を大事にするとは、こういうことです。

そして、それが癒やしや浄化につながるのです。