愛しているのに、不満がたくさん

家族に尽くしてどうして悪い?

「愛」を観念的な視点からだけで捉えると、頭が混乱してくるでしょう。

自分に「愛さなければならない」と強制する結果、相手にも、「私がこんなに努力して愛しているのだから、あなたも、私を愛する努力をしなさい。感謝しなさい。それが思いやりというものじゃないの?」と、相手にも自分を愛すべきだと強制し、それが得られないと、

「どうして私の努力に報いないんだ」

と怒って相手を攻めて争い合う結果となってしまいます。

「愛する」には”心”が最も大切であるはずなのに、「愛さなければならない」と自分に強制すると、その”心”がすっぽりと抜け落ちてしまうのです。

いつでもこうしたいとは限らない

「私は家族を愛しています。家族を大事にしたいのです」

自分のそんな思いは大切にしたいものです。

仕事をしていても、家族への愛情から、「休日は一緒に過ごしたいし、どこかに連れて行ってあげたい」と思うでしょう。

けれども、いつもいつもそうだとは限りません。

むしろ、「いつも、いつも、そうでなければならない」と自分に強制するところから、争う心が生じます。

自分のベースに愛情があっても、ときには「うるさいなあ」と思うこともあるでしょうし、「一人にさせてくれ」と言いたくなるかもしれません。

愛しているから子どもや夫にお弁当を作ってあげたいと思っても、毎日、毎日、作ってあげたいという気持ちであふれているわけではないでしょう。

「今日は、作るのが面倒くさいなあ」

と思う日もあるでしょう。

作っている最中に夫が横で「あれを入れてくれ。それは嫌いだ」などと口出ししてくれば「邪魔しないでよ」と腹が立つかもしれません。

子どもが、横から、「それ、もっと入れてよ」と注文をつけたり、「これ、今、食べていい?」などと聞いてくれば、「うるさいなあ。あっちに行っててよ」と苛立った言い方をしているかもしれません。

疲れていれば、「私、眠たいんだから、休みの朝ぐらい、ゆっくりさせてよ」と不満をこぼしたくなるでしょう。

さらには妻が、「休みの日ぐらい、あなたたちが私に作ってくれても罰は当たらないんじゃないの」などと嫌みっぽい言い方をしてしまうとしたら、すでに”冷たい戦争”が勃発しています。

もしこんなときにお互いに認め合う関係を築いていたとしたらどうでしょうか。

今日は、ゆっくりしたいから、出かけるのは、午後からでいいかなあ」と”自分の気持ちを大事にする”ために、相手に伝えることでしょう。

お休みのときは、家事から解放されたいんだ。だから協力してほしい」などと自分から働きかけて、「どうするか」を話し合うことができるでしょう。

これは「自分がそうすること」を心から認めているから言える言葉です。

自分の気持ちを大事にしたい。

相手の気持ちも大事にしたい。そう思っています。

互いの敷地の境を認識しているかどうかで、その場が戦場になるか充実した時間や満足できる時間になるかが決まるのです。

相手も必要としているとは限らない

家族を「愛さなければいけない」という思いに囚われていると、自分の「今、これをしたい。したくない」という欲求や気持ちのほうを疎かにしてしまいます。

自分の気持ちを無視してまでも相手のために生きたり、相手がすべきことにまで手を出してやってあげるということは、「相手の敷地に無断で侵入していって、相手の家や敷地内を掃除してあげるようなもの」です。

私は、親切でそうしてあげているんだから、どこが悪いの?」と思うかもしれません。

けれども、隣家の敷地内が、自分の目から見てどんなに汚く映ったとしても、それは隣家の自由です。

それを認めないことから、争いが始まっていくのです。

もしあなたが、自分の部屋や引き出しやバッグを無断で開けられたり、引っかき回されたりすれば「ありがとう」という気持ちにはならないでしょう。

あなたが大事にしているものを、赤の他人が勝手な判断で「これ、いらないな」と捨ててしまえば、許せないと思うでしょう。

いきなり、「あんなものより、こっちのほうが性能がいいよ。お前のために俺が買って交換しておいたから、使うんだぞ」と人に押し付けられても、感謝する気持ちにはならないでしょう。

こんなふうに、どんなにその行為が愛情によるものであっても、相手の自由を侵害すれば、そこから敵意識が芽生えていくのです。

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「そうですね」と頑として言わない人

否定的な受け答えには理由がある

会社の同僚が、「俺今、手が離せないから、これ買ってきてくれないかなあ」と言えば、「忙しそうね。わかったわ」と言うよりは、「どうして、私が行かなくちゃならないのよ」と答えてしまいます。

同意するのが怖い

こんなふうに、相手の心や気持ちに寄り添うよりも、相手の言葉を否定したり覆そうとしてしまうのです。

どうしてでしょうか。

それは、一つには、相手の言ったことに同意すると、「相手が要求することを、すべて呑まなければならない」と思ってしまうからです。

「負ければ」相手に従うことになってしまいます。

敵意識の強い人にとっては、「そうだね。わかった」という言葉は、相手に屈服するにも等しい意味であり、禁句なのです。

二つ目の理由は、それに応じてしまうと、どうしていいかわからないからです。

勝ち負けを争う人の選択肢は、「話に乗るか、乗らないか」のどちらかです。

日頃から戦っているために、戦う言葉を知っていますが、仲良くしたくても、その方法も言葉も知りません。

戦うことしか知らなければ、人と親しくすることは困難でしょう。

戦うことでしか身を守れない人の人生には、戦いがついて回ります。

戦わないためには、「戦わないで身を守る」方法をみにつけていく必要があります。

その基本原理が、これなのです。

  • 自分の敷地は、安全に保証されている
  • お互いの敷地内には、無断で侵入しない
  • お互いの敷地を行き来するときは、同意を求めて許可を得る
  • それぞれの敷地は自分で管理し、責任を果たす

戦いから降りるだけでなく、できるだけ「戦いの中に身を置かない」ためには、この原則をそれだけ身につけることができるかにかかっているのではないでしょうか。

相手に立ち入らせない一言を

多くの人に最も欠けているのが、相手が自分の敷地内に無断で侵入しようとしたとき、自分の意志を持って、「ここは私の敷地内です。入るときは許可を求めてください」と”堂々と”述べる行為です。

これができないために、相手が敷地内に入ってきて家のドアを開けたときは既に、敵に襲われるという恐怖心から銃を構えていて、「入ってくるな!」

と、銃をぶっ放すような過剰反応で、全面戦争に突入してしまうような言動をとってしまうのです。

この”自分の意志を持てない”というのが、敵意識を抱いて戦っている人たちの「最大のウィークポイント」ではないでしょうか。

「意志の強さ」というのは、「何がなんでも自分の我を通す」ということではありません。

強引に押して相手を納得させたり、相手を打ち負かしたりしてでも自分の主張を通すことが「意志が強い」というのは、とんでもない勘違いです。

自分の気持ちや欲求や希望を”気持ちよく優先できる”。

そんな自己肯定感の高い感覚を指して、「意志が強い」と称すべきでしょう。

自分が「どのようにしたいか」を伝えるだけで

たとえば「今日は、ジムに行って汗を流そう」という予定を立てていたとき、友達から「今、みんなと一緒だから、出て来ないか」と誘われたとしましょう。

もしこのとき、ジムに行くという自分の予定を曲げて、渋々出かけて行ったらどんな気持ちになるでしょうか。

一緒にいればそれなりに楽しいでしょうが、自分の予定を曲げたことは心に残ります。

仲間が自分のことを「軽く見ている」ように感じるという男性が、まさにこんなパターンで動いていました。

「いつも、今日はどうだ。今から来いよって、僕の都合などお構いなしなんです」と彼は憤慨するのですが、「呼ばれれば、すぐに出向く」というパターンを作ったのは、彼自身です。

「呼べばすぐ出て来る奴」というイメージが定着すれば、仲間は自分の都合で呼んだり、彼の都合は後回しにしたくなるのが「関係性」なのです。

しかも、そんな関係性を築いてしまうと、仲間は「出て来るのが当たり前」の感覚になっています。

そうなると彼自身も断りづらくなるだけでなく、仲間もまた、断られると気分を害して「だったら、いいよ」と乱暴に答えたくなるでしょう。

もしかしたら、それが仲間との関係をギクシャクさせる発端になるかもしれません。

他方、自己肯定感の高い人は、ジムに行きたかったらその誘いを、「ありがとう。嬉しいな。今日は予定があるから、今度誘ってよ。僕は〇曜日だったら、空いているから」

というふうに軽快な気分で断ることができます。

「そんな軽さで応じていたら、相手は気分を悪くするんじゃないですか」と相手への印象が気になるかもしれませんが、それが思い込みなのです。

実はこんな軽さが「意志を持つ」ということなのです。

その軽さの中には、

  • 私は自分のしたいことを、心から認めている
  • 私は自分のしたいことを、意志を持って気持ちよく優先することができる

こんな質の高い自己肯定感が培われています。

これが意志を持つということです。

こんなふうに普段の生活においては、自分が意志を持って決めれば、誰もそれを邪魔することはできないのです。