怯えてしまう人の心理と対処法

怯えてしまう人とは

怯えてしまう人の心理とは

怯えてしまう人の心理とは、相手が威圧的でパワーバランスが全く違ったり、相手に自己主張できず、ありのままの自分で生きていけていない状態にあることである。

怯えてしまう人でもそうでない人でも、誰でも充実した人生を送りたいと思う。

人とのいさかいを好む人は居ない。

誰でもトラブルは望まない。

生き甲斐のある平穏な人生を送りたいと思う。

しかしそれにも拘らず人の一生はトラブルの連続である。

平穏な人生を望みながらも、いさかいは絶えない。

それは、誰もが平和を望みながらも、人類の歴史が戦争の歴史であるのと同じことである。

怯えてしまう人が「大変なことが起きた!」という時はたいてい人間関係が原因である。

またやりきれないトラブルとは多くの場合、人間関係のトラブルである。

怯えてしまう人は事柄そのことよりもその根底にある人間関係がやりきれない。

人間関係のトラブルで怯えてしまう人は色々と悔しい思いをしている人は多い。

相手は泥棒とか強盗殺人というような犯罪者ではない。

たいていは善人の顔をした悪人である。

ようするにずるい人である。

現実の世の中では自分が正しい生き方をしていれば何のトラブルも起きないというわけにはいかない

人の負担で甘い汁を吸おうとする人もいれば、人を犠牲にしてのし上がろうとする人もいれば、笑顔で人のものを取っていくずるい人もいる。

詐欺師もいる。

ヤクザに因縁をつけられれば大きなトラブルに巻き込まれる。

「そんなの例外的だよ」と思う人もいるかも知れない。

しかし実は「ヤクザに因縁を付けられるのなら、その方がよほど良い」という場合も多い。

それは相手がヤクザなら警察も建て前として出て来ざるを得ないからだ。

ところが因縁を付けるのがヤクザではなく、普通の一般市民だったらどうなるか。

怯えてしまう人は誰も助けてはくれない。

公的機関はむしろ市民の間のトラブルを嫌う。

警察も民事不介入である。

公的なところではなくても体面を気にするところはトラブルを嫌う

そこで「騒ぐ方を何とかなだめる」という形で怯えてしまう人は解決をしようとする。

つまり騒がない人、おとなしい人の犠牲において人間関係のトラブルを解決しようとする。

だいたい公的機関は、リスクを冒して市民の間のトラブルを解決しようなどとはしない。

何よりも自分たちを守ろうとする。

従ってずるい市民の起こすトラブルはある意味で、ヤクザに因縁を付けられるよりももっと消耗するという場合が多い。

普通の社会生活では騒ぐ人は得をする。

ずうずうしい人が得をする。

鉄面皮な人は、相手を痛めつけても心の痛みを感じない。

そしてそれは現実の世の中では案外日常的に起きていることなのである。

自分が悪いことをしなければ、とんでもない人達と関わり合わないで生きていける、というのなら良い。

しかし私たちは自分がどんなに悪いことをしなくても、トラブルに巻き込まれる。

自分が間違ったことをしなくても、トラブルは起きる。

怯えてしまう人はおとなしくまともに生きていれば生きているほど、周囲のずるい人から因縁を付けられる。

いじめる人は、おとなしい怯えてしまう人を脅して甘い汁を吸おうとする。

人を騙すことを何とも思っていない人がいる。

従って世俗の世の中では人間関係のトラブルは起きて当たり前なのである。

怯えてしまう人が自分を守るのは自分しかいない

自分を守るのは自分しかいない

この世の中には誰も守ってくれない種類のトラブルが沢山ある。

それが現実の世の中である。

そしてそれは怯えてしまう自分が解決しなければならない。

誰も助けてくれない。

だいたいトラブルの相手はずるい人であるから、怯えてしまう誠実な人の方が悪い人に仕立て上げられていく。

このような場合には普通の人は消耗して病気になることもある。

ストレスに負けるのである。

恥知らずの方は消耗しないから元気である。

人間関係のトラブルには色々な種類があるだろう。

会社では仕事上のトラブルが起きるし、親族内でも経済的なトラブルが起きる。

仲間に裏切られることから生じるトラブルもあれば、敵でも仲間でもないが嫉妬や妬みから生じるトラブルもある。

怯えてしまう人の妬みと嫉妬は日本社会の特徴である

人間関係のトラブルの種類をあげていけばきりがない。

トラブルは敵と味方のトラブルばかりではない。

親しいはずの血縁の間でもトラブルは生じる。

「親の介護を誰がするか」ということや遺産相続を巡って親族の間にトラブルが生じる。

あるいは親族の中に誰か一人でもアルコール依存症やギャンブル依存症の人が居ようものなら親族間の大トラブルの元になる。

地域社会でのトラブルも絶えない。

その一方の当事者であるこちらの性格によってもトラブルの種類は異なる。

こちらがコミュニケーションが上手くできない怯えてしまうが故に生じてしまうトラブルもあれば、コミュニケーションが普通にできても生じるトラブルもある。

何度も言うように、世の中には色々な人がいるからどうしても人間関係のトラブルは生じる。

怯えてしまう人は自分を守るたくましい人になる

怯えてしまう人は自分を守るたくましい人になる

現実の世の中の人間は立派な人ばかりではない

一方にずるさのない、素のままで生きた人もいるが、他方に冷酷で自己中心的で利己主義な人もいれば、また偽善者そのもののずるい人もいる。

怯えてしまう人がいれば、善良で温かい人もいれば、冷たい人もいれば、人を陥れようと画策する人もいれば、人を犠牲にして自分だけ甘い汁を吸おうという人もいる。

人のために尽くす人もいれば、恐喝してトコトン相手から搾取する人もいる。

とにかく、現実の世の中には想像を絶するとんでもない人達が沢山居る。

素直な人がいる一方で、とことんひねくれた人や、どうしようもなく僻んでいる人がいる。

人の幸せを祈っている人もいれば、人を呪っている人もいれば、明るい顔をした人もいれば、憂鬱で暗い顔をした人もいれば、無表情な人もいれば、豊かな感情の人もいれば、血の通った感情を失ったような人もいる。

血の通った感情がないばかりか、他人の苦しみという血を吸って離れないヒルみたいな人も沢山いる。

見知らぬ人に親切をする人もいれば、近い人を平気で騙す人もいれば、いじわるをすることが生き甲斐の人もいる。

人の命を救う人もいれば、命の恩人を裏切る人もいる

だから怯えてしまう人は正しく生きようとするだけでは、現実の世の中では豊かな人生を送ることはできない。

怯えてしまう人はたくましい人にならなければ、豊かには生きていかれない。

たくましい人というとすぐに、脂ぎった事業家のおじさんが大きな声で騒いでいるのを思い出す人がいるかも知れない。

しかし必ずしもそうではない。

そうして騒いでいる人の中にもたくましい人もいるだろうが、たくましい人というのは外から見えるものではない。

静かに縁側に座っていてもいい。

コタツにいたっていい。

そうしていても不屈の精神の持ち主はいる。

仲間から裏切られたことは辛いが、それを乗り越えれば強くなる。

それは人生の大きな財産になる。

そして「こういう時にはこうして乗り越える」という知恵を学ぶ。

一度学習すればもうそのようなタイプには引っかからない。

怯えてしまう人はこのようなことを学問は教えてくれない。

生きていくためにはたくましい人になることは最も大切なことである。

しかし怯えてしまう人は、それは学校の授業では教えてくれない。

怯えてしまう人のトラブルの原因は目に見えない

怯えてしまう人のトラブルの原因は目に見えない

この世の中で何かをすればトラブルは起きる

しかし自分が何も動かなくても事は起きる。

怯えてしまう人はどんなに慎重になっても現実の世の中で生きている以上人間関係のトラブルは起きる。

自分がどんなに正しいことをしていてもトラブルは起きる。

怯えてしまう人はこちらが交通規則を守って慎重に正しい運転をしていても車の事故は起きる。

大変なことは周りが勝手に持ってくる。

こちらが約束の時間を守っても、相手が約束の場所がよく分からないで遅れてくるということはある。

そして怯えてしまう人はこちらが弱い立場で相手に文句を言えないでいる。

すると、その次の仕事が上手くいかない。

怯えてしまう人はこちらが時間を守ろうとしても道路が事故で予想以上に渋滞して身動きできないということもある。

どんなに平穏無事に生きようとしても世俗の世の中で生きている限りトラブルは起きる。

とにかくこの世の中には不満な人が多いのだから怯えてしまう人は人間関係のトラブルは避けられない。

不満な人は、人のあら探しが生き甲斐になる

例えばの話。

夫と上手くいっていれば、奥さんは他人の子どもにはちょっかいを出さない。

しかし夫と上手くいっていない奥さんが多いからあなたの子どもにちょっかいを出す。

怯えてしまうあなたにとっては余計なお世話だが、あなたの子どもにちょっかいを出す人はあなたの周りに沢山いる。

そしてトラブルが起きる。

怯えてしまうあなたがどんなにその人と関わりたくなくても相手が関わってくる。

それが世俗の世の中で生きるということである。

世俗の世の中で生きるなら、怯えてしまう人は人間関係のトラブルは避けられない。

トラブルの原因は目に見えない。

もし原因が目に見えるのならトラブルを避けられる。

しかし怯えてしまう人の人間関係のトラブルの原因は人の心の中にあるから、目には見えない。

独身でいても問題は起きるし、結婚していても問題は起きる。

結婚生活に問題があるからと離婚をしても、引き続き問題は起きる。

離婚の時にどんなに養育費の取り決めをしていてもそれは守られないことが多い。

そこで養育費のことを巡ってトラブルが起きる。

結婚生活が長く続いている人たちは問題解決能力がある人たちである。

欲求不満な人は攻撃的である

人を攻撃することで心の傷を癒す。

人をいじめることで心の傷を癒す。

自分の本当の不満の原因が親であっても、親への攻撃ができない時には、兄弟に攻撃性を置き換える。

それもできなければ仲間の悪口を言って回る。

あなたが怯えてしまう人であれば欲求不満な人はあなたを攻撃してくる。

怯えてしまうあなたをいじめてくる。

欲求不満な人は不満のはけ口を探している。

「能あるタカは爪を隠す」という格言があるが、世の中には能のない欲求不満なタカが多いから、爪であっちこっちをひっかく。

世の中には色々な価値観の人が生きている。

世の中の人が皆同じ価値観なら人間関係のトラブルも少ないだろう

しかし現実の世の中には色々な価値観の人が生きている。

自分の世界観では相手を傷つけていなくても、相手にとって傷つくことをしている、言っていることはよくある。

ある怯えてしまう女性アナウンサーである。

その怯えてしまう人とある教授が仕事で待ち合わせをした。

その教授の方は出がけに突然人が訪ねてきて、意図せずして約束の時間に遅れてしまった。

するとその怯えてしまうアナウンサーが後にその教授の悪口をあるところに書いた。

ことはそれだけではすまなかった。

その悪口を他の教授がコピーして学内にばらまいた。

何故そんなトラブルが起きたのか?

それは先ずその怯えてしまうアナウンサーと教授の価値観が違ったからである。

その怯えてしまうアナウンサーは約束の場所に心理的に「構えて」きた。

それなのに相手は遅れてきた。

そこでその遅れてきたことをその怯えてしまうアナウンサーは「私をアナウンサーと思って軽く見た」と自分の価値観で、相手の遅れを解釈した。

もちろんそれは間違った解釈であった。

その怯えてしまうアナウンサーは自分の職業に誇りを持っていない。

怯えてしまう彼女がその悪口を週刊誌に書いたということは悔しかったからである。

「そこまで悔しかった」ということである

小売店には文句を言わないが、デパートには文句を言う。

プライドは関係によって決まる。

小売店でも問題は起きるしデパートでも問題は起きる。

怯えてしまう彼女は劣等感を隠しているからそうふるまう。

彼女は派手な生活をしているが、怯えてしまう心の底には劣等感がある。

努力や実績以上に収入も名声もある。

怯えてしまう彼女は濡れ手で粟の生き方をしている。

それを心の底で自分は知っている。

悪口を書いた怯えてしまう彼女にも問題があるし、それをコピーして学内に配る教授にも問題がある。

配る人も欲求不満な人である。

両者とも自分が傷ついている。

しかし世の中には問題のある人は多い。

傷ついている怯えてしまう人は多い。

彼はビラを配られて心理的にまいった

しかし実はビラを見た人はそこで終わりなのである。

皆は問題にしていない。

しかしビラをまかれたということを知った怯えてしまう当事者はいろいろと憶測をして心理的にまいる。

一般的に中傷はそこを狙っている。

中傷の怖さはそこにある。

そういう話を聞いた時に、聞いた人は一瞬で終っている。

しかしそれを知った当事者がいつまでも気にする。

怯えてしまう人にトラブルは向こうからやって来る

怯えてしまう人にトラブルは向こうからやって来る

世の中には怯えてしまう劣等感が深刻な人も沢山いる。

誰と会っても「私を馬鹿にしないだろうか」と思っている。

そういう怯えてしまう人は普通の言葉も軽蔑の言葉と受け取る。

仕返しをしようと思う

あなたの言った好意的な言葉さえトラブルの原因になる。

誰だってそれほど自信があるわけではない。

自分では人から痛めつけられていると思っている。

怯えてしまう人はいじめられていると思っている。

そして、怯えてしまう人は軽くあしらわれていると思っている。

トイレで怯えてしまう人は泣いている。

しかし周囲の人は怯えてしまうあなたがトイレで泣いていることを知らない。

周囲の人は、「自分は泣いているのに、あなたは泣いていない」と思っている。

そこであなたの言動に何か傲慢さを感じて刺激される。

それを根に持っている。

そこでいつか仕返しをしようと思う。

そこであなたが会社でちょっとした失敗をする。

それが大袈裟に取り扱われる。

また世の中には怯えてしまうナルシストも多い。

自分のアイデアや意見が素晴らしいと思い込んでいる

得意になってペラペラと演説をする。

感心して聞いていないと怯えてしまう人は面白くない。

そこで怯えてしまう人は感心して聞かない人を恨む。

そういう人が職場や地域社会で様々なトラブルを起こす。

会社でも自分の位置が分からない怯えてしまう人がいる。

血縁関係でも同じ。

自分の位置が分からないということは責任ある仕事から逃げているということである。

そうした怯えてしまう人は自分の意に染まないことが社内にあると、周囲の人の気持ちを考えないで、今までの習慣を勝手に変えようとする。

そこで周囲の人とトラブルになる。

心が傷ついている怯えてしまう人は仕返しをしようとする。

だから早く偉くなって名声を得たい。

これが強迫的名声追求者と言われる人たちである。

みんなに仕返しをしたい復讐性のある人が、この世の中には沢山居るのだから、あっちでもトラブル、こっちでもトラブルが起きるのは当たり前である。

そうしたトラブルメーカーが居る以上、あなたがどう生きていても、向こうからトラブルがやって来る。

やさしい人の周りにこそ事件は起きる。

現実の世の中でトラブルが起きるのは冷たい人ばかりではない

やさしい人でもトラブルは起きる。

ある中学校で卒業生が在学時代の担任の先生を殺害した。

その先生はやさしい人だったという。

それなのに「何故?」と人々は言う。

保護者は、学校は「アットホームだったのに」と言うが、学校が「アットホームだったから」こういう事件が起きたのである。

担任の先生が最も温かった。

だから怯えてしまう彼は在学中に担任の先生に自分の気持ちを理解してくれることを求めた。

怯えてしまう彼はやさしい先生だから、「この先生は自分の気持ちを分かってくれるだろう」と思ったのだろう。

求めて得られなかったから傷ついた。

冷たい先生やずるい先生なら、怯えてしまう彼ははじめから何も求めない。

テレビは「いじめがあったかなかったか」ということが焦点だと言うが、全く違う。

苛めがあってもなくても関係ない。

もしあったとしても、それは何か求めたものが得られなかったことの口実に過ぎない。

この事件は「冷たい家庭で温かい先生」というのが構図であると思われる

これらの事件の報道や保護者の反応や教育評論家といわれる人々の言うことを聞いていて、「これならひきこもりが100万人を超えても不思議ではない」と思われる。

その担任の先生がやさしいからこそ事件が起きたということが全く理解されていないからである。

これなら怯えてしまう人が増加しても不思議ではない。

これならニートが八十万人を超えても不思議ではない。

これなら幼児虐待が急増しても不思議ではない。

これならスチューデントアパシーが増加しても不思議ではない。

これなら不登校が社会問題になっても不思議ではない。

何もかも本質的なことが理解されていないのだから。

いずれにしろ冷たい人やずるい人の周りだけで人間関係のトラブルが起きるわけではない。

むしろそういうずるい人の周りではトラブルは少ない。

怯えてしまう人ややさしい人や人格者や誠実な人などの周りで、トラブルは起きる。

担任の先生がやさしくなければこのトラブルは起きなかったのではなかろうか。

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怯えてしまう人がたくましくなるには

怯えてしまう人がたくましくなるには

この世の中に生きている以上、誰でもトラブルメーカーと接する

怯えてしまう人が現実の社会の中で生きていながらトラブルメーカーに接しないで平穏に生きるということは不可能である。

誰もがこのトラブルメーカーに悩まされ、苦しめられる。

従って事が起きた時には、怯えてしまう人は自分の人生を「固める時期」と考えることである。

えらいことになった時には「固める時期」である。

事が起きなければ先に進まない。

これは怯えてしまう自分について回っているもの。

田中角栄だって死んでしまえばもう世間は騒がない。

事が起きた時には、怯えてしまう自分の周りにはそういうメンバーがいるということである。

田中角栄も、あそこまで来たけれどもそれ以上は行かないようになっていた。

周りにいた人がそういう人達だったのである。

怯えてしまう人がたくましい人になれるかなれないかは、最終的にはパーソナリティーの問題である。

成熟したパーソナリティになれれば自然とたくましい人になれる

「他の人なら騒ぎが起きるようなことにもいらだたず、心を乱されずにいられる。

彼らにとっては離れて身を静かに保ち、穏やかでいることはたやすいことなのである。

かくして、彼らは普通の人々のように個人的不運に激しく反応したりすることなしにそれを受け止めることができるようにな」

怯えてしまう人は人生に平穏無事を求めても無理である。

「円満にいけばいいや」と思うことが、逆に酷い結果を生む。

怯えてしまう人は安全を求めて生きていれば安全が得られるわけではない

情緒的に成熟したパーソナリティーになるためには、リスクを取らなければならない。

波乱はないが恨みを持って苦しみながら長く生きている怯えてしまう人もいる。

しかしそれは豊かな人生とは言い難い。

必ずしも平穏無事とは言えないが、その年齢その年齢にふさわしいエネルギーで生きてこそ豊かな人生である

人間社会で生きている以上人間関係のトラブルは避けられない。

さらに怯えてしまう人は自分が悪いことをしなければ、誰かが助けてくれると思ったら大間違いである。

怯えてしまう人の人生には「この人に出会わなければ、これほど苦しまなかったのに」という人との出会いがある。

そうした無念の時がある。

でもそういう人と出会うのが人生である。

生まれてから死ぬまで幸運の連続などという人は居ない。

しかし、そうした人に怯えるような人間関係のトラブルに遭遇してはじめて、その人の真価が問われる。

そこで乗り越えられる人と乗り越えられない人が出てくる。

そこで人を恨んで死んだら、何のための人生か分からない。

やられっぱなしでは死んでも死にきれない。

そう思って最後の力を振り絞る。

誰でも人生の帳尻を合わせたい

嫌がらせの連続で生きるのがイヤになった時には、「帳尻を合わせてやる」と思って、頑張る。

良いことがあるまで頑張る。

たくましくならなければ生きながらえることはできない。

怯えてしまう人が嫌がらせに負けて、人生に絶望するなんてこんな馬鹿らしいことはない。

人間にとって重大な問題は絶望感からいかに自分を救うかである。

怯えてしまう人は人間関係のトラブルから憎しみが生まれる。

その憎しみをなかなか晴らすことができない。

怯えてしまう人はそこから「どうにもできない」という絶望感が生じる。

だから怯えてしまう人は現実の世の中で生きていく以上たくましい人にならなければならないのである。

現実の世の中で生きるにはたくましくならなければいけない。

怯えてしまう人は現実の世の中では「こと」が起きないことを願っても無理である。

怯えの克服方法

怯えてしまう人の克服方法としては、ズバリ心理的距離を取りながら自己主張することである。

怯えてしまう人は、その対象者に対してピンと心の糸が張っている状態。

まずそのピンと張った糸を緩めること。

その糸を緩める方法としては、ビジネスライクに他人と接する。

別の言い方をすると、目的主体で接することである。

そうすると、自己主張しやすい空気になる。

優しい人には自己主張しやすいと思うが、威圧的な姑だったり、怖い会社の上司には自己主張しにくいもの。

そういうパワーバランスの場合、心理的距離をとってみて自己主張することである。

心理的距離を遠く保つ技を極めると対人関係で怯えてしまう人が自己主張しやすく楽に生きることができるようになる。

そして、自己主張するということは自由に生きるということである。

自己主張するにはやはり勇気が必要である。

怯えてしまう人の克服方法は、怯えながら自己主張することである。

震えながら、赤面しながら、泣きながら自己主張することである。

自己主張を続けると、楽に生きるようにできることができる。

いうなれば、自由を勝ち取るには勇気が必要なのである。

生きている以上トラブルは起きる

「これでこのトラブルはやっと終わった」と思うと、たいていまだ終わっていない。

トラブルの根が何処かに残っている。

トラブルは雑草のように強い。

取っても、取ってもまた生えてくる。

だから怯えてしまう人にとって大切なのは、トラブルが起きている中で安らぎを得られるような人間になることである。

『八風吹けども動ぜず天辺の月」の格言がある。

自然界にいて風が吹かないことを願っても無理である。

風邪は吹く。

風邪がやっと止んだと思っても、また吹いてくる。

だから風が吹いても動じない月の心境になることである。

怯えてしまう人はトラブルを日常と心得る。

トラブルに怯えない。

怯えてしまう人は強くなること、たくましくなること、それ以外に現実の世の中で安らかに生きる方法はない。