愛情生活と感謝の心

幸福な愛情生活の方法

現実的であること

日本では結婚した三組のうち一組、米国では二組に一組が離婚するといわれている。

また、婚姻を継続していても、セックスレスであるとか、不倫しているとか、別居状態であるなど、愛し合う関係とはいえない家庭も少なからずある。

一人の男性と一人の女性との生涯を通じた結婚という制度は、もはや先進国では破綻していると言わざるを得ない。

こうした現実から、愛に対して現実的な態度をとることが求められる。

ドラマや映画のようなロマンスは、現実には存在しない。

相手のすべてを信頼し、身も心もなげうって愛に没入する。

そんな愛など現実にはありえない。

「この人でよいのか」「このまま続けていいのか」と、多かれ少なかれ逡巡しながら愛は継続するものである。

「あの人と結婚していたらもっと幸福だったのでは?」という疑問は、いくら問いつめても答えは得られない。

幸福になるためには、ただ「この人を愛していこう」という実存的な決断があるのみである。

愛とは煩雑さを引き受けること

愛ある生活といっても、現実は毎日毎日のうんざりするような雑事の積み重ねである。

結婚するまでは、食事を作るにしても洗濯をするにしても、自由意志でやればよかったし、やってあげれば感謝してくれた。

しかし、結婚すれば、どちらかがやらざるを得ない義務になる。

恋愛時代や新婚時代には官能的だったセックスも、数年すれば刺激の度合いも落ちてくる。

愛することとは、こうした煩雑さや幻滅を引き受ける覚悟をすることでもある。

妻が夫の愛への不信を語るとき、実際には自分の日常生活への不満であることが少なくない。

そうした妻に「どうしたら幸福だと感じられると思いますか?」と聞くと、「日曜日に一緒に買い物に行って欲しい」とか「帰ってきたら、話しに付き合って欲しい」、「家事にもっと協力して欲しい」。

そんな回答しか返ってこないことが多い。

何かもっと深い空虚なものを感じていながら、それをうまく言語化できないということでもないようである。

こうした女性は、「幸福とは今、ここにあるもの」ではなく、「いつでも別などこかにあるもの」と夢見ている。

「いつか自分は洗練された美しい貴婦人に変身する」という夢を持って過ごしていた、あの若すぎた青春時代のように。

そうではなく、煩雑な日々を共に過ごせるそのこと自体が、幸福な愛に他ならないのである。

競争しない

愛することは、相手と競争したり、相手に勝とうとしたりしないことである。

「夫婦ともいい人たちなのに」と思うカップルがうまくいかないことがある。

その一因は、「いい子競争」にある。

「いい子競争」とは、自分を相手よりも「いい子」として優位な位置を占めようとすることである。

そのために、相手にとっては余計なお世話だと思われる行動をしてしまう。

本人は気持ちよくても、結果として相手を貶めることになる。

この競争は親が介在するとき、とりわけ明白になる。

たとえば、Aさんの母親が老人介護施設に入所して車いす生活を送っているとしよう。

その母親を夫婦で見舞ったとき、義母に「いい子」をアピールしたい夫が、車いすを押して母親を散歩に連れ出した。

普通なら義母に尽くしてくれる夫に感謝すべきところであるが、やはり「いい子」競争意識の強いAさんは、これを見て思わず怒りを覚えてしまう。

これは幼いときから身に付いた心と行動の習性なので、必ずしも意識せずに行っているので注意を要する。

「いい子」競争に限らず、愛情生活において競争心は邪魔なだけである。

「愛とは一体化することだ」という期待は持たない方がいい。

一体化を求めることは、自分の期待通りの行動を相手に要求することである。

一体だと感じられるときとは、期待した通りの行動を相手がしてくれたときだからである。

相手は自分とは別の人生を歩んできた別の人格である。

自分にぴったり合う人などいない。

相手を理解しようとしても、自分の心の枠組みでは理解しきれない部分が残る。

でも、その人をそのままに受け入れ、敬愛することである。

昔、白樺派の文豪である武者小路実篤の「君は君 我は我也 されど仲良き」という言葉が、いくつもの家庭で掲げられていた。

お互いに異なる独立した二人が、あるがままの相手を受け入れ合うこと、それが愛である。

若い頃は、「ああして欲しい、こうして欲しい」と相手に求める。

お互いに歩み寄れるところは歩み寄る。

こうして夫婦は成長し、夫婦関係も成熟していく。

それにより、そのままの相手を受け入れ合うようになる。

そこにはたしかに諦めや我慢が含まれる。

しかし、生活を共にしてきたことで築かれた絆があり、たとえケンカしても相手を愛おしく感じながらぶつかるようになる。

これが夫婦の愛情であり、この愛情がベースにある諦めや我慢は、若い時期の諦めや我慢とは異質なものとなる。

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感謝の心で世界は変わる

平凡な日々だけれど

阪神・淡路大震災や東日本大震災のあと、「生きていること、そのこと自体に感謝したい気持ちになった」と多くの人が語っている。

家族がいてくれること、心配してくれる人がいること。

そうした当たり前のことに感謝するという気持ちになったというのである。

名誉や欲、そんなものにあくせくすることが色あせて、「なんでもない日常が続いていること。

それが、幸せということなのだと改めて感じた」し、「生きているだけで満たされる思いがする」などと。

生きていること、家族がいてくれること、友達や恋人がいてくれること。

これらを感謝の心で見ると、世界は明るく、楽しく、輝かしいものに見えてくる。

なぜなら、感謝とは、足りないことに目を向けるのではなく、現実を足りているものとして受け止めることだからである。

相手に感謝することは、過剰な期待をせず、彼を、彼女を、あるがままに肯定的に受け入れることである。

完全な相手などどこにもいない。

相手のよい点を見て、足りない点には目をつむることである。

許せなかった夫のはずが

Yさんの夫は典型的な回避型愛着スタイルの男性である。

金融関係の仕事で収入は申し分なく、生活態度は堅実である。

これという趣味もなく、休日に外出することもほとんどない。

彼女が言い出し、計画しなければ、家族旅行に行くようなこともなかった。

ベッドは別にして久しい。

以前から時折、夫の無神経な言葉に傷つけられることがあったが、夫はそのとこに気づいていない。

優しいのは相変わらずなので、悪気はないのだとは思える。

でも、Yさんにはつらい言葉だ。

結婚当初から細かいことにこだわるのがしみったれていて、どうしてもなじめない。

一人娘が大学入学のため家を出て、二人きりの生活になると、嫌悪感と不信感が募っていった。

そうした時期が続いて、離婚を考えるようになった。

それで、思い切って、離婚を考える人達のワークショップに参加した。

参加者は順番に離婚を考えている理由を述べた。

家庭内暴力、浮気、賭け事、仕事が続かない、酒乱、子どもへの虐待的態度等々。

ところが、Yさんの番が来ても離婚の理由を語れない。

必死に自分の気持ちを表現しようとするが、他の参加者からは、「何が問題なのかわからない」「ないものねだりなのでは」などと指摘されるばかりだった。

「もっと自分から心を開いて接近したら」「たまにはホテルに誘ってみたら」「いいところだけを見て、感謝すること」等々と助言をもらった。

ワークショップの間中、自分の甘さを痛感して涙が止まらなかった。

それでも心の内を打ち明けられたこと、そして、自分の境遇を新たな視点で見直すことができて、すっきりした気持ちで帰路についたという。

「楽しい毎日」の作り方

相手の心をコントロールすることはできない。

できることは、自分の心を変えることである。

変えられないものは、それとして受け入れるしかない。

「ニーバーの祈り」として知られるアメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの言葉がある。

神よ、変えることのできるものについて、それをかえるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、それをうけいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。(大木英夫訳『終末論的考察』)

感謝は自己価値感を高揚させる。

なぜなら、感謝とは、自分が他者から恩恵を受けていることを意識することであり、自分が愛され、気にかけてもらっていると感じることだからである。

感謝の反対は愚痴である。

愚痴を言うほど、足りない部分に目が行き、不満だらけになる。

愚痴は相手を貶めるだけでなく、愚痴を言う視点は自分にも向けられ、足りないだらけの自分として自分を貶めることにもなる。

今日で人生が終わりだとしたら、愚痴なんか言っていられない。

とにかく楽しい一日を過ごそうとするだろう。

他のことは変えられないのだとしたら、自分の心を変えていくしかない。

幸福な日々は、こうしたほんのちょっとした心がけから始まるのである。