他人の目が気になる原因は「少しのトラウマ」

ほとんどの人が、多かれ少なかれ「人にどう思われるか」ということを気にしてはいるのでしょうが、それがどの程度か、ということには個人差があります。

気になり方が強い人と、そうでもない人の違いは、明らかに存在しています。

何がその違いを作るのでしょうか。

「他人の目」の気になり方が強い人の場合、だいたい共通して言えることとしては、批判的な人、心配性の人、過干渉の人が身近にいた、ということが多いものです。

「こんなことをして、人からどう見られると思っているの」

「あなたはどうしてこんなにだめなの」

「〇〇さんはもっとうまくできているのに」

「どうしてもっとうまくできないの」

「あなたのせいで△△になったのよ」

などというメッセージを、比較的近い距離の人から受け取ってきているのです。

私たちは小さい頃から、様々な評価を受けながら生きてきています。

「いい子」「悪い子」「勉強ができる」「スポーツができる」「頭が悪い」「不器用」「優しい」「意地悪」「スタイルがいい」「太っている」等々、あらゆるところに評価があるものです。

もちろん、ネガティブな評価は人を傷つけます。

日常生活においてネガティブな評価などによって傷つけられることを「少しのトラウマ」と呼ぶことにします。(医学的に「トラウマ」というときには、命に関わるほどの衝撃的な体験をしていることが前提になりますが、日常生活の中で「太っている」と言われても命に関わるわけではないので、本来の「トラウマ」と区別して、「少しのトラウマ」と呼んでいきます。)

どんな人にも「少しのトラウマ」はあるでしょうが、人によっては「少しのトラウマ」(場合によっては本当の「トラウマ」)に満ちた環境で育っているものです。

身の回りには「少しのトラウマ」を与えてくる人しかいない、というような環境もあります。

そんな環境で育ち、自分のありのままを安心してさらけ出せるような経験をしていないと、当然「他人とは、自分に評価を下して傷つける存在」として認識するようになります。

だから傷つけられないように、「他人の目」を気にするようになるのです。

周りの人が直接「少しのトラウマ」を与えてくるわけでなくても、「そんなことをしたら人からどう思われるか」というようなことばかり言われて育ってきた人は、やはり「他人とは、自分に評価を下して傷つける存在」という認識を身につけていきます。

「少しのトラウマ」を無数に体験してきた人は、自分についてのネガティブな評価を吸収していきてきたわけですから、もちろん自分に自信がありません。

他人を「自分に評価を下して傷つける存在」として認識するようになり、傷つけられないように、つまりネガティブな評価を下されないようにと、「『他人の目』が気になるスパイラル」に入ります。

つまり、このスパイラルは、「他人とは、自分に評価を下して傷つける存在」という認識を中心に回っているものであって、このスパイラルから抜け出そうと思ったら、まずはその認識を問い直さなければならない、ということなのです。

ポイント:「他人の目」が気になる人は、他人を「自分に評価を下して傷つける存在と認識している

他人の目を気にするほど自信がなくなっていく

「『他人の目』が気になる心」と「自信」は深い関係にあります。

本当に自信があれば、人からどう思われようと気にならないはずで、自信がないから「他人の目」が気になるのです。

そして、「他人の目を気にすればするほど、自信はなくなっていきます。

どういうことかを説明していきましょう。

「他人の目」を気にするということは、自分を「まな板の上の鯉」にするということです。

つまり、人からの評価に自分の価値を委ねきってしまうということなのです。

自分を「まな板の上の鯉」にしてしまう、というのはとても無力なことです。

「まな板の上の鯉」でいるようでは、自信などつくわけがないのです。

よい評価を受けることもあるかもしれませんし、自信がついたように感じることもあるかもしれませんが、評価する主体が相手である以上、それは本当の自信とは違います。

よい評価を受けたところで、「次もよい評価を受けなければ」というプレッシャーがかかりますし、「自分よりもよい存在」が現れれば、相手の注目はそちらに移ってしまうでしょう。

「まな板の上の鯉」は、それをコントロールすることもできず、ただじっと評価に耐えなければならない無力な存在なのです。

ポイント:人からの評価に身を委ね「まな板の上の鯉」でいる限り、自信は生まれない

他人からの評価に「絶対」などはない

他者による評価も、それが絶対的なものであればまだ自信につながる拠り所になるかもしれません。

例えば、「完璧な体型」というものがこの世にあれば、それを手に入れることによって確かに自信はつき、「他人の目」が気にならなくなるでしょう。

ただし、その「完璧な体型」が永遠に完璧のままでいてくれれば、ですが。

実際には違います。

ダイエットをして「目標3キロ減」を達成することはできるでしょう。

それまで着られなかった服がかっこよく着られるようになるのは嬉しいものですし、自信もついて感じるでしょう。

でも一歩外に出れば、「自分よりもやせた人」「自分よりもスタイルがよい人」はいくらでもいます。

すると自信は失われてしまいます。

現実に「自分よりもスタイルがよい人」がゼロになるということはあり得ませんから、「スタイルがよくなれば自信がつく」という道に終わりはないのです。

さらに、やせた身体を維持するのも、ダイエットに無理があれば長続きしないものです。

一般に、人が飢餓状態でいられるのは3週間程度と言われています。

ですから、少し気を抜くと、リバウンドしてしまいます。

すると、「もっとダイエットしなければというエンドレスの努力に入ってしまうのです。

まるでベルトコンベアーをずっと逆走し続けるようなものです。

その他、ファッションやメイク、自分の人間関係や言動などについても基本的な構造は同じです。

どんな自信も、「よりよいもの」が現れるまでのつかの間のもので、とても不安定なのです。

ファッションやメイクが決まったと思っても、よりセンスのよい人を見ると自信を失ってしまう。

流行はどんどん移り変わっていきますから、常に情報を収集して目を磨いておかないと流行に乗り遅れてしまう。

自分の結婚相手は完璧だと思っても、他の人のパートナーとつい比べてしまい、自分の選択を疑ってしまう。

自分が話していることや、メールの返信が、ちゃんと空気を読んでいるのか、常に気にしてしまう。

あるときには評判がよかった話であっても、別の場面ではしらーっとされてしまうこともありますし、ある人に対してはちょうどよかったメールの返信のタイミングが、別の人にとっては「遅い」ということになるかもしれません。

これらすべてに「完璧」がない以上、常にその評価は不安定で、本当の自信は得られないのです。

取得した資格や試験の点数など、一見「絶対的」に見えるものであっても、その資格や点数がどのように受け取られるか、ということになるとやはり相手次第なのです。

ある資格をとって「よくやった」と自信がついたのもつかの間、「よりよい」資格を得た人を見れば自分の資格など取るに足りないものに思えることもありますし、同じ資格を持った人同士でも、「あの人のほうが有能」などという問題はついて回ります。

そこが、「他人の目」についての最も苦しい点の一つだと言えるでしょう。

他人からの評価はどこまで行っても「相対評価」であり、また、「他人が決めること」だからです。

自分よりも「見た目のよい人」が出てくれば、自信は失われますし、ある人がよいと言ってくれても別の人が批判的であれば、やはり自信は失われます。

他者による相対評価ほど、不安定なものはないのです。

この不安定さは、実際に他人がどう見ているか、ということを超えて、「もしかしたら〇〇と思われるのではないか」というような強迫観念を次々と生み出していきますから、ますますエンドレスになります。

他人の胸の内など読むことができませんので、確かな安心がほしければ、相手の表情などから、心を読み続ける努力が必要となるのです。

それが、「もしかしたら〇〇と思われるのではないか」「相手は口先ではほめているけれども内心は△△と思っているのではないか」などという強迫観念につながっていきます。

ポイント:他人による評価は不安定。それをもとに行動しているうちは、確かな安心は得られない

自分が誰よりも厳しく評価する者になってしまう

「他人の目」を気にして、それを中心に生きていく、ということになると、どんどん「まな板の上の鯉」現象がひどくなっていきます。

自分の形を整えて、あとは相手の評価を待つ。

少しでも不安な要素があると、また自分の形を整えることを考える。

そしてその後はまた相手の評価を待つ。

こんな生き方をしていたら疲れますし、どんどん力を失っていってしまいます。

なぜかというと、「他人の目」に合わせて自分を変えようとしていくと、自分のよくないところにばかり目がいくようになってしまうからです。

自分にネガティブな目を向けておかないと、他人に悪く思われるかもしれない点をチェックできないため、結果として自分が誰よりも厳しい評価者になってしまうのです。

そのチェックはエンドレスで、何かしら改善があっても、「まだここがよくなっていない」というところに目がいってしまいます。

それはまさに出口のない「スパイラル」なのです。

この「スパイラル」の出口のなさは、その構造からもわかります。

私たちは自信をつけたくて、他人からよい評価を受けようとします。

同時に、自信さえあればこんなに他人の評価が気にならないはず、ということもわかっています。

つまり、「他人の目」を気にすればするほど、自分の自信のなさに直面する、ということでもあるのです。

自信をつけたくて「他人の目」を気にする、ところが「他人の目」を気にするたびに「自信のない自分」を感じる・・・という具合に、やはり出口はないのです。

冷静に考えてみればこの構造が理解できるのですが、「他人さえプラスの評価をしてくれれば自信がつくのに」と思っているときは、それが真実のように思えてしまうものです。

ですから、自分が出口のないスパイラルに陥ってしまっていることに気づきません。

このまま自分を他人の評価に合わせていけばいつか出口に到着するだろうと思ってしまうのです。

ポイント:「他人の目」を中心に生きていると、自分で自分をチェックしては自信を無くすスパイラルに陥ってしまう

相手からの評価がなければ自分には価値がない?

このスパイラルの問題は、単に出口がないというだけではありません。

ぐるぐると回れば回るほど、それ自体が私たちから自信を奪い無力化していく、というところが実は最大の問題です。

「もしかしたら〇〇と思われているのではないか」と自分の「足りないところ」にばかり目を向けていくと、自信はどんどんなくなっていきます。

また、「まな板の上の鯉」状態でいる限り、私たちはどんどん無力な存在になってしまいます。

このスパイラルの根本には、「他人からプラスに評価されなければ自分には価値がない」という思い込みがあります。

そもそもが「他人からよい評価を受ければ自信がつく」という間違った仮説の上に成り立っているスパイラルなのですが、自信を他人からの評価に依存させているということは、まさに「他人からプラスに評価されなければ自分には価値がない」という意味になるのです。

ですから、「『他人の目』が気になる心」との取組みは、本当の自分自身の価値を知る道のりでもあるのです。

ただし、このあたりは注意が必要です。

「自分の価値」というキーワードを与えられると、またまた方向がそれてしまう人が多いからです。

人の「本当の価値」と思われるのは、能力であったり、性格であったり、何を成し遂げたかということであったりすることが多いのではないでしょうか。

ここにも大きな落とし穴があります。

能力も、性格も、何を成し遂げたかということも、いずれも他人の評価なのです。

「能力がある」「能力がない」
「性格がよい」「性格が悪い」
「何を成し遂げたか」「何を成し遂げていないか」
は、いずれも外側から評価できるものだからです。

私たちの本当の価値は、外側から評価できるような性質のものではありません。

自分の本当の価値を知ることが、本当の自信につながっていきます。

つまりそれは外側から評価できるような性質のものから生まれてくるのではないのです。

ポイント:本当の「自分の価値」は外側から評価できるような性質のものではない

評価に潜んでいる暴力性

ところで、評価とは何でしょうか。

私たちは何かを見たときに、それを自分なりに消化しようとします。

生物である私たちは、常に自分の安全確保をするようになっています。

異物が目の前に現れたら、それを自分なりに消化して位置づけないと、安全が確保できず、不安になります。

この、目の前に現れた異物の消化の試みが「評価」です。

目の前に現れた異物に対し、自分が知っていることに基づいて、「これはどういうものか」を判断するのです。

「よいもの」と評価すれば安心しますし、「悪いもの」と評価すれば疎んじ、「危険なもの」と評価すれば距離を置きます。

また、「自分よりもすぐれているもの」と評価すれば尊重しようと思いますし、「自分よりも劣っているもの」と評価すれば軽んじます。

このこと自体は、生き物として当然のことで、悪いことではありません。

しかし、それが「個人の」評価だということを忘れてしまうと問題が起こってきます。

そもそも評価というのは、「個人が」知っていることに基づいて、「個人が」判断するものなのです。

同じものを他の人が見たら、その「個人が」知っていることに基づいてその「個人が」判断するのですから、全く違う評価になることもあり得ます。

このように、評価というのはきわめて個人的・主観的なものなのですが、その自覚なく、唯一絶対の真理であるかのように相手に押し付けられることが多いものです。

これは一種の暴力とも言えます。

その人にはその人にしかわからない事情があるのですが、それを無視して何かを決めつけ押し付ける姿勢だからです。

評価に暴力性があるということは、それに傷ついて「少しのトラウマ」を受ける人がいるのも当然だということになります。

ポイント:評価には、相手の事情を無視した「決めつけ」「押しつけ」という暴力性がある

ポジティブな評価でも暴力性が潜んでいる

なお、ここまでを読んで、「自分は別に傷つけられるのが怖いわけではない。

ただ他人に認められたいだけ」と思った人もいるでしょう。

承認、称賛、という形での「評価」を求める人もいます。

しかしその場合も、それほど構造は変わらないのです。

人から認めてもらわなければ、ほめてもらわなければだめな自分、というのは、やはり自信がない自分なのです。

「傷つけられる」とびくびくしているわけではないけれども、ほめてもらわないとやはり傷つくのです。

そしてなぜほめてもらわなければもたないのか、というと、やはり今まで評価を下されながら生きてきたから、ということになります。

いつも他人の評価をもとに、

「自分は上手くいっているのだ」

「自分はこれでいいのだ」

ということを決めてきたため、他人がほめてくれないと、自分がこれでよいのか不安になってしまったり、だめな人間のような気になってしまったりするのです。

なお、暴力性というのは、何もネガティブな評価にのみあるわけではありません。

ほめられるというポジティブな評価にも、ある種の暴力性があります。

例えば、自分の同僚ばかりが「仕事ができる」とほめられていたら、やはり苦しいでしょう。

それは相対的に自分は仕事ができない、という評価を下されているのと同じことだからです。

また、自分自身が「仕事が出来る」と誉められた場合、その場では嬉しいとしても、「今後、絶対に失敗してはいけない」というプレッシャーになってしまうことがあります。

あるいは、自分に自信がない人の場合には、「本当の自分を知られたら、仕事ができるなんて思われるわけがない」と、「本当の自分」が知られることを怖れる気持ちが強まるかもしれません。

「やせたね」と言われればその瞬間は嬉しくても「もう絶対に太れない」と不安になりますし、「おしゃれ」とほめられると「次もほめられるような服を着なければ」と苦しくなることさえあります。

ポジティブな評価にも、決めつけや束縛など、様々な暴力性が潜んでいるのです。

ポイント:他人からの承認、他人からの称賛も、ネガティブな評価と構造はあまり変わらない

評価が気になる人と気にならない人の違い

評価は確かにあちこちで下されているのですが、それを気にして傷ついてしまう人と、そうでもない人がいることも事実です。

これはどういう違いなのでしょうか。

一般には、「傷ついてしまう人は気にしすぎなのだ」とよく言われます。

しかし、「気にしすぎ」と言われて気にしないように努力してみたことのある人ならわかると思いますが、「気にしないようにしよう」というやり方はまずうまくいかないものです。

なぜかというと理由は簡単です。

「気にしすぎ」という評価が、また一つの「少しのトラウマ」をもたらすからです。

他人から「気にしすぎ」と言われると、人は「やはり他人とは、自分に評価を下して傷つける存在なのだ」という認識を強化させ、その結果としてますます他人の目が気になる、ということになってしまうのです。

ですから「気にしないようにしよう」としてもまったくうまくいきません。

それどころか、今度は「気にしすぎ」に見える自分が気になる、ということになってしまいます。

すでに「気にしすぎている」ということは、その人が「他人とは、自分に評価を下して傷つける存在」という認識を強く持っているということなのです。

一方、あまり気にしない人は、別の認識を持っています。

例えば他人の評価についても、

「それはあの人の見方」

「人は人、自分は自分」

などとさっぱり割り切ることができる人もいます。

こういう人は、人それぞれものの見方が違うのだということを生育過程で学んできたのでしょう。

「少しのトラウマ」に満ちた環境で一方的に何かを押しつけられて育った人にはなかなか身につかない認識です。

あるいは、誰かから評価を下されたときに、「実際は違う」

「そういう言われ方は不愉快になるからやめてもらえる?」

などと言い返すことができる人もいます。

こういう人は、評価というのはあくまでも一時的・主観的なものであり、働きかけによって修正可能だということを知っているのです。

修正できないとしても、「もうこういう話はやめようよ」と、話題そのものを拒否する自由もある、と知っています。

これも、対等な人間関係がある中で育ってきた場合には自然に身につくけれども、「少しのトラウマ」に満ちた生育環境ではなかなか身につかない姿勢です。

このように、評価というのはあくまでも一時的、主観的なものだということを知っていれば、「他人の目」についての感じ方もずっと変わってきます。

「他人の目」が、相手の主観に基づく相対評価だということを知っているので、「よく評価されなければ」というところにとらわれにくくなるのです。

相手が自分をどう評価しようと、それは「相手」の「現時点」での評価に過ぎない、ということがわかるからです。

「相手」の「現時点」での評価は、相手側の現在の問題を反映していることもありますし、こちらからの働きかけによって修正していくことができる場合もあります。

それなのに評価を絶対的なものだと感じてしまうと、「相手の評価が悪いときには、自分側に問題があるのだ」と感じてしまい、自分をさらによくしなければ、というスパイラルに陥ってしまいます。

ですから、「他人の目」を気にする人と気にしない人の違いとは、他人の評価についてどのような認識を持っているか、というところにその本質があると言えるでしょう。

「他人の目」を気にするのは自信がないから、と言ってしまうと、自分をよくして自信をつけよう、という出口のないスパイラルに陥ってしまいますが、その本質が評価についての認識にあるということがわかれば、取り組み方もわかってきます。

ポイント:「評価はあくまでも一時的・主観的なものである」という認識が身についている人は「他人の目」を気にしない

他人のネガティブの言葉は「真実」ではない

「人から」何かをいわれたときに、それをどう位置づけるか、ということは、「もともとその人がどのような環境で育ってきたか」だけで決まるものではありません。

「自分がどう見られるか」についてはとても気にするけれども、それ以外のことについては、他人が言ったことを単なる発言と位置づけて、ほとんど受け流している人もいます。

例えば、ある病気についての知識を、その病気の専門家が言っているときには真剣に聞くけれども、ほとんど知識のない人が勝手な決めつけをしているのであれば聞く耳を持たないのと同じようなものです。

私たちは、そういう「普通のこと」については、「誰の意見を聞くべきか」ということを通常考えることができています。

でも、非常時など「誰が本当のことを言っているか分からない」という状態になってしまうと、あらゆる人の意見に耳を傾けてしまって、矛盾する情報の前にパニックになったりしてしまいます。

「他人の目」を気にしているときは、それと同様の状態になっています。

なぜそうなってしまうのかというと、自分について他人から何か言われる、ということはそれ自体が自分の非を指摘されるという「非常事態」だからです。

実際に何か言われるわけでなくても「相手は自分のことを悪く思っているのではないか」と感じられる状況は危険な「非常事態」です。

こういったとき、私たちはあらゆる情報をそのまま吸収してしまうのです。

それも、特に危険な香りのする情報にばかり目が向いてしまいます。

なぜかというと、あらゆる危険に備えておきたいときなので、その情報が危険であればあるほど、気になってしまうからです。

ですから、「他人の目」をひどく気にしている人の場合、「他人が言ったネガティブなこと」をほとんど「真実」のように受け取っているのが特徴です。

本来は、「他人が言ったネガティブなこと」はその人個人が言ったことに過ぎず、その人の個人的・主観的な感じ方を反映したものであり、およそ真実などではないのですが、「相手は自分のことをどう思っているのだろう」という不安が高まっているときには、当然「相手は自分のことを悪く思っているのではないか」という強迫観念が生み出されていますから、危険が次々と感じられ、危険情報(相手が自分について言ったネガティブなこと)にばかり目が向いてしまうのです。

ポイント:「他人の目」を気にしているうちは通常の判断ができないので、他人の言葉をそのまま「真実」として吸収してはいけない