対人恐怖症のような人達は、「他人に自分の正体を見破られるのではないか」と、いつも恐れている。

だから、人と接して疲れる。

よく知らない人に、自分がどう扱われるかが怖い。

低く評価されることが怖い。

拒絶されることが怖い。

まるで、一つ動くたびに、点数を書き込まれるような気がする。

赤面しても怖い。

誰に対しても、いつも何かを隠している。

自分のボロが出やしないかと怖い。

つねに「〇〇をできない私」をさとられまいとして、”不安な緊張”をする。

だから人間関係で消耗する。

小さいころから「〇〇をできない私」を責められたり、バカにされたのであろう。

したがって、「〇〇をできない私」を人に見せまいと緊張する。

その”不安な緊張”から心理的に委縮して、相手を見ていない。

相手がどういう人間かを考えていない。

相手を見る心理的ゆとりがない。

相手の価値観も、相手の社会的立場も、相手の性格も、相手の年齢も、中には相手の性別さえも、何も見ていない。

ただ相手に対して「自分の弱点を隠そう」とだけしている。

そして”不安な緊張”をしている。

燃え尽きる人は弱点を隠すのがうまいと、アメリカの精神心理学者、ハーバート・フロイデンバーガーはいうが、そういう人は、そもそも人間関係がわかっていない人なのである。

人間関係で疲れる人である。

相手がホームレスで、エリートコースなんかにまったく関心がないのに、「オレは本当だったら、〇〇という有名な会社でエリートコースに乗っているはずの人間なんだ」と叫んでいるようなものである。

つまり現実とまったくコミットしていないで、独りよがりの想像の世界だけで生きている。

無理をしている人は周囲の人に、「自分はこんな人間でないよ」ということを証明するための人生になっている。

努力とは、そのための努力である。

「完全な頭脳」とか「理想的な容姿」とかを持っていなければ、自分は誰にも相手にしてもらえないと、間違って思っている。

つまり、思い込みの想像の世界で生きている。

現実の中で生きていない。

社会の中で生きていない。

どんなに「すごい自分」を演じても・・・

対人恐怖症のような人は、コミュニケーション能力のある人から見ると、自分は見抜かれているということに気がついていない。

対人恐怖症のような人達は、他人を前にして「完全な自分」を演じようとしている。

しかし自分は自分の弱点を認めないが、他人にはその弱点が見えていることがほとんどである。

どんなに「完全な自分」を演じているつもりでも、他人からはその人の完全でない部分は見える。

それがわかれば、他人を前にして完全な自分を演じようとは思わないのだが、それに気がつかないから、彼らは無駄な努力で消耗する。

燃え尽き症候群のような人も努力をしているが、いつも無理をしている。

背伸びをしている。

「実際の自分」以上の自分を周囲の人に見せようとして疲れる。

その無理は、多くの人からはまず見えている。

無理をして燃え尽きた人は、まず自分が人に隠していた部分が大きいと認めることである。

みえている部分とは、たとえば心のすさみとか、深刻な劣等感とか、人を愛せないとかいうことである。

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本当に、「本音を出したら、嫌われる」?

対人恐怖症のような人達は、他人に自分の正体を見破られるのではないかと、いつも恐れている。

自分の弱点を見破られるのではないかと、いつも恐れている。

いつもメンツを気にしている。

恥ずかしがり屋の人も対人恐怖症の人と同じ。

人を前に「完全な自分」を演じようとする。

そうでないと嫌われると思う。

しかし実際は嫌われない。

相手を見ていないから、このような誤解が起きる。

相手とコミットしていないから、このように間違える。

「自分は周囲の人に敵意がない」と思っている。

そして「周囲の人は自分に敵意がある」と思っている。

ところが実際には、自分には周囲の人に敵意がある。

そして周囲の人は、自分に敵意がない。

この人は完全に誤解の中で生きている。

”被責妄想”という言葉を使っている。

それは前述のとおり、責められていないのに「責められた」と思う心理である。

逆に、本当に責められている時に「責められている」と感じないことがある。

そういう人は、人とコミュニケーションできていない。

現実とコミットしていない。

「偽りの自分」には、ニセモノの信頼が集まる

自分が小松菜なのに、チューリップの真似をした。

そうしたらアブラムシではなく、チョウチョがきた。

そこでチョウチョを前にして「完全なチューリップ」を演じ始めたのが、たとえば対人恐怖症の人である。

本当のチューリップは「完全なチューリップ」を演じない。

自分はもともと本当にチューリップなのだから、「完全なチューリップ」であることを自分に求めない。

ところが、いいチョウチョは小松菜にはこない。

いいチョウチョは匂いでチューリップがわかる。

いい本物のアブラムシが小松菜にくる。

チョウチョがきても小松菜は、ただ枯れるだけだろう。

「実際の自分」を表現して生きているから、本物がくる。

「実際の自分」を表現して生きているから、自分のところにきてくれた人が自分を幸せにしてくれる人なのである。

自分が小松菜なら、アブラムシがきてくれれば幸せになれる。

不幸になる人は、「自分は誰と付き合えば幸せになれるか」ということがわかっていない。

そして付き合う人を間違える。

このことを対人恐怖症の人達をはじめ、先に挙げた人達などは理解できていない。

無理をしている人の周りには、質の悪い人ばかりが集まる。

人から搾取する人、人を騙す人、人を操作する人、演技をする人、抑圧の激しい人等々である。

水草はトンボがきてくれて自分は水草だと知り、小松菜はアブラムシがきてくれて自分は小松菜だと知る。

チョウチョがきてくれて自分はチューリップだと知る。

トマトは赤い。柿も紅い。

トマトがトマトとして生きていれば問題はない。

ところが、同じように赤いからとトマトが柿として生きようとするから、問題が出てくる。

トマトが柿として生きていれば、「いつか見破られやしないか」とビクビクする

それが、先に挙げた人達の心理問題である。

どこかで誰かに、トマトは柿より価値がないと教えられたのである。

トマトは生きるに値しないと小さいころに教えられたのである。

自我が確立するとは、「自分はトマトである、そして柿と同じように価値がある」と思えることである。

お互いにこうなれば、人とコミュニケーションできるようになる。