私は昔、いつも自分は皆に嫌われているのではないかと恐れていた。

いや、嫌われているという気持ちを抑圧していたから、逆に自分は皆にこんなに人気があるのだと、自分にも他人にも強調していた。

自分が人気があることをことさら強調したがる人というのは、たいてい自分は皆に嫌われているという恐れを、心の底の底にもっている人ではないだろうか。

その嫌われているという気持ちから目をそらすために、必死で自分にも他人にも自分の人気を強調しているのである。

考えてみれば、人気があるということなど、それほど価値のあることではない。

それなのにそのことにこだわるのは、やはり嫌われているという気持ちを抑圧しているからであろう。

誰もその人のことなど問題にもしていないし、あてこすりのつもりなどまったくないのに、「どうせ俺のことを・・・」とか、「どうせ私のことを・・・」と怒りだす人だっている。

たとえば自分が不美人だとか、離婚したとかいうひけめがあると、そのことが話題になっただけで、自分のことをいっているのだろう、自分へのあてこすりだろうと解釈してしまう。

また、電話をかけて相手がでなかった、そして相手が電話を返してこなかったというだけで、相手は自分を避けていると勝手に思い込んでいる人によく会う。

そしてなんとなく、自分がそう思い込むのは、それなりの確かな理由があるような気がしてくるのである。

皆が自分をよけて通るとまでは思わなくても、あの人は自分を避けているのではないかと思ったり食事をしようと誘いの電話をかけて、その日はちょうど会議があってだめだと断られれば、自分のことを好きではないのではないかと思ったりする。

自分とはあまり近くならないようにしているのではないかと考えたりする。

実際は自分のことを避けていないのに、避けているのではないかと、こんなふうに思っている人は、案外多いのではなかろうか。

しかしよく考えてみれば、われわれだって自分のやったり思い込んだりしていることを、「なんておかしなことをしているのだろう」とか、「なんて気の毒なことになってしまうのだろう」と思ってもいいのではないだろうか。

つまり、われわれが日常悩んでいることなども、ちょっと第三者的視点でながめてみれば、「まったくおかしなこと」「なんの根拠もなしに、どうしてそんなふうに思ってしまうのだろう」というようなことなのではなかろうか。

知人がちょっと不愛想にしただけで、わざといじわるをしているのだと思ったり、そのためにイライラして仕事がうまくいかないなどということはないだろうか。

自分と関係ないことでも自分と関係があると思い込む、自己関係づけの傾向は、日常生活の中で誰でも思い当たることかもしれない。

ただ、いろいろな人の悩みから思うことは、「他人のやることを自分と関係づけて解釈するな!」ということである。

とにかく「憶測をやめること」で、人間はどれだけの悩みから解放されることだろう。

小さい頃、常に人格を否定されて生きていた人がいる。

大人になって人からなにか注意されると、それを自分の人格が否定されたと思ってしまう。

好意的な注意であっても、自分の人格が否定されたと思ってしまう。

たとえば養育者である親が、神経質的傾向の強い人だったとする。

親には隠された憎しみがあった。

そこで親は常に子どもを否定し侮辱したかった。

その相手を否定し侮辱するための口実が、「注意する」だった。

親は自分の隠された憎しみの表現を合理化することが、子どもに「注意すること」であった。

子どもはほんとうの意味で、注意されたことはなかった。

親の注意には常に「お前はだめな人間だ」というメッセージが隠されていた。

その過去から自由になる。

過去から解放されて前へ進む。

それが「生きる」ということである。

生きることは、与えられた困難を一つ一つ乗り越えていくことである。

過去から縁を切ることは、ヤクザの世界から縁を切るよりもたいへんである。

小さい頃から基本的不安をもつ人は、甘えの欲求が激しい。

親の必要性に従って育てられたから、甘えの欲求が満たされていないのである。

小さい頃に基本的不安をもっていると、大人になっても、生きる土台が不安で不満である。

いずれにしろ、ささいなことでイライラして、すぐに怒る。

あるいはすぐに落ち込む。

怒りは単なる怒りでなく相手に対する要求になることもあるだろう。

いわゆる神経質的プライドになる場合もあるだろう。

もし自分が神経質なら、自分が神経質になっていることを否定しないこと。

そうなる理由があってそうなっている。

「私は神経質」などとわかることはすばらしいこと。

皆が自分を否定する世界で生きてきたことに気がつくことであるから。

「私は神経質でもいい」、そう思うことから出発する。

人生を諦める人は、結果ばかりにこだわる人である。

いまという結果ではなく、神経質者に囲まれて生きてきた過程を見れば、すばらしい。

つらい人生を生きてきた自分はすばらしい。

自分を受け入れる。

敏感性性格を受け入れる。

不幸を受け入れる。

運命を受け入れる。

それが「悟りを拓く」ことである。

自分がわかる。

「そういうことだったのか」と自分の気持ちや態度が理解できる。

「私がなぜ不愉快な気持ちに悩まされたのか?」が理解できる。

悟りとは新しい価値に気がつくことである。

アメリカの心理学者ロロ・メイのいう「意識領域の拡大」である。

自分を知ることである。

したがって悟りとは活発な精神的活動である。

人が成長する環境の重要性は否定できない。

しかし小さい頃の環境で、その人の一生は決まるというものでもない。

「小さい頃の環境でその人の一生は決まる」を認めたら、どんなに努力しても生涯幸せにはなれない人が沢山出てくる。

環境の重要さを認識するのは、環境で自分の人生は決定されるという主旨ではない。

それは「自らを知れ」ということである。

それは「自らに気づけ」ということである。

それは「自らの運命を背負え」ということである。

モグラはワシにはなれない。

魚はカエルにはなれない。

運命に逆らうな!

自己実現する心の姿勢をおろそかにし、劣等感から「理想の自我像を実現すること」に努力するのは、運命に逆らっていることである。

向上心とは、自分のできることの中でがんばることである。

自分のできないことをしようとして、無理するのは向上心ではなく劣等感である。

運命に逆らっても勝ち目はない。

人生最後まで不幸な人は、運命に逆らって生きてきた人である。

ある人が自分の成長の過程を次のように振り返った。

若い頃、どこにも自分の居場所がなくて「実際の自分」以上の自分を周囲に見せようとした。

少しして、そうするから心が休まるときがないとわかった。

さらに年月を経て、居場所がないのは「自分はこうだ」と勝手に自分で自分を決めつけているからだとわかった。

そして視野の狭さから「こういう自分なら認めてくれる」と勝手に思い込んでいた。

最後に自分の基準だけが、唯一の基準として生きていたことに気がついた。

自分は自分のゆがんだ世界観の中に閉じこもっていたことに気がついた。

周囲の人が見えてなかった。

広い世界が見えていなかった。

他人の努力が見えなかった。

周囲の世界が見えたときには、いまの自分のままで皆が認めてくれる世界があるということがわかった。

認めてくれないのは、いまいる「歪んだこの世界だ」とわかった。

こうして最後に自分の視野の狭さに気がついた人は幸せである。

くやしさを手放す方法

世の中にはずいぶん誤解されている人がたくさんいる。

その典型のようなのが敏感性性格的な人である。

表面穏やかに見えるから、人はおだやかな人と思う。

表面おだやかに見える人が、心の中に無念の気持ちをもちながら耐えて生きているとは、周囲の人には思いもよらない。

彼らは我慢して生きているのである。

彼らはついつい、利己的な人にとって都合のいい存在となりがちであるが、本人は「くやしさ」でいっぱいなのである。

同じことの解釈が人によってどの大変違う。

したがって、あることを期待して振る舞っても、その期待した解釈は周囲の人から得られないことが多い。

人によって同じことの解釈がこれほど違うということを頭に置いて行動すれば、それほど期待を裏切られることもないであろう。

他人が自分と同じに解釈していると思うことは間違いである。

日本人はよく「水に流す」という。

これは我々が、なにかあると、なかなか忘れられないからこそいうことであろう。

なぜ忘れられないかというと、あまり行動的でないからであろう。

執念深いのである。

どうも執念深いということは、行動を阻害するものが心の中にあるというような気がする。

クレッチマーがいうように、「伝導能力」というのは、行動する能力でもある。

実際の自分の敵意に従って、自分の敵を打倒するべく行動をおこす人というのは、いつまでも執念深くうらみはしない。

しかし敵意をもちながら、それを行動に移せないで、じーっとしている人のほうがいつまでもうらむ。

行動しようにも、行動することが面倒くさいのである。

敵意は燃えながら、それを行動に移す最後のところで、行動を押しとどめるものが心の中で働く。

それは決して敵意が薄いということではない。

心の中の憎しみの炎は、行動に移す人よりも激しく燃えている。

しかし他方で行動することに対する恐怖がある。

その恐怖と憎しみとの葛藤が心の中にある。

行動することを恐れる。

行動することを心の底の底で恐れている。

無意識の部分で行動することを恐れているのである。

この記事を読んだ人が自分の無意識の部分で行動をすることを恐れているということに気がつき、いつまでもただうらむだけで、結局卑怯な人間に都合よくあしらわれて、くやしい気持ちをもったまま生きることのないようになってくれれば、それに越したことはない。

憎しみに従って行動できないのは、自分を弱々しく感じるからである。

ひとりで人より傷つき、激しく憎しみながら、他方でその憎しみを処理するような行動に出ることを恐れる。

ただじーっと心の中の憎しみの炎を燃やし続け、死んで化けて出ることになる。

感情の保持能力ばかり高くて、いつまでもうらんでいることになる。

行動しようとすると、できない。

「意思の麻痺」というが、いざというときになると、行動に出ない。

いざというときになると、じっとしてなにもしないというほうを選んでしまう。

行動に出るのが億劫なのである。

心の中のなにかが、その行動を押し留める。

憎しみは人一倍強いのであるが、そのうらみを晴らすための行動にどうしても出られない。

一つには超自我が優勢なのかもしれない。

自分の心の底にベットリとついている無気力を反省することである。

なにが自分が行動することを妨げているのか、なにが自分が行動に出ることの障害になっているのか、その無意識にあるものを意識化することである。

アメリカの心理学者、シーベリーがいうように「怒りを勇気に変える」ことを忘れてはならない。

憎しみは人を変える。

自分の心の中の憎しみを消すことで自分を変える。

自分が変わりたければ、自分の心の中から憎しみを取り去ることである。

心の中から憎しみが消えれば、自然と怒りは勇気のエネルギーに変わっている。

保護してもらうことによって自分を守ろうとしているから、相手を敵にまわせないのかもしれない。

皆に好かれようとしているから、自分を傷つける者にまで気に入られようとしているから、相手を敵にまわす行動に出られないのかもしれない。

そのようなものが、自分が行動に出ることの心の中の障害になっているから、行動に出られず、卑怯な相手にいいようにあしらわれてしまうのである。

嫌いな自分に執着する。

嫌いなあの人に執着する。

自分が嫌い。

でも自分をすばらしく見せたい。

あの人が嫌い。

でもあの人によく思われたい。

人が嫌いなくせに、人から嫌われることを避けようとする。

だから嫌われることを恐れる前に、好きな人を探す。

そのままの自分を受け入れてくれる人を探す。

生き方を変えれば、いいたいことをいっても嫌われない世界がある。

いまのくやしい気持ちは「人間関係を変えないかぎり死にますよ」というメッセージである。

敏感性性格の人は努力する場所を間違っている。

人生では誰でもが自分の運命の扉を開く鍵をもっている。

しかしその扉には鍵穴がある。

自分がもっている鍵とは違ったドアの鍵穴に入れてドアを開けようとしてがんばっている人がいる。

日本人は「長いものには巻かれろ」という。

「泣き寝入り」という言葉もある。

自分を傷つける者にまで、なんでいい顔をしなければならないのだ。

相手はこちらをばかにして、しかもこちらを傷つけているのである。

相手はこちらにいい顔をするのか。

しないではないか。

相手にいい顔をするから相手に傷つけられて、そのあと、また自分で自分を傷つけているのである。

それだからこそ、くやしくて、くやしくて、夜も眠れないのである。

いつまでも水に流せないのである。

そして一方で、そんな水に流せない自分を責めたりしている。

自分はそのように傷つかない大物でなければいけないと思い込んでいるのである。

そして自分にも他人にもそのような大物であるような顔をする。

そのようにして二重にも三重にも自分を傷つけている。

世の中には、自分を不当に傷つける者にきちんと抗議する、行動的な人もいる。

しかし敏感性性格的な人は、そうではない。

それは、あまりくやしくないから行動しないというのではない。

敵意に燃えて敵を倒すために行動をおこす人のほうが、敏感性性格的な人よりくやしがっているというのではない。

いつもくやしがっているだけの人は、行動をおこそうとするとき、その行動をおこさせないなにか、つまり心の底に重い石のおもりのようなものを感じるのである。

意識はそのくやしさ、くやしい相手に集中する。

意識は自分を傷つけた人に対する憎しみに集中して他のことは考えられない。

自分を不当に傷つける人にきちんと抗議をする人などより、ずっとくやしい気持ちが強い。

それにもかかわらず、なぜか行動をおこそうとすると、それを妨げる重いなにかを感じる。

意欲と行動を結び付けるところに、なにか障害がおきている。

億劫というのは、その障害の一つなのであろう。

なにもする気にならないという意欲の減退が一方にあり、他方に敏感に傷つく心理がある。

したがって、心の中でくやしさだけがいつまでもうずまく。

意欲障害というのは、決してなにも感じないというのではない。

感じてはいるけれど、そしてその無念を晴らそうとはするけれど、どうしても行動するとなると、それができなくなるということである。

くやしいけれど行動できない人は、なにかにしがみついているのである。

そのしがみついているものを失うのが怖いのである。

しかし、じつはもともとそんなものをその人はもってはいない。

もっていると錯覚しているにすぎない。

たとえば、自分を侮辱する人に対してさえ、敵対するのが怖くて行動をおこせない人は、気に入られるということにしがみついている。

しかし、それは幻想でしかない。

行動をおこさないでいい顔をしていれば、人々から好意をもたれると錯覚しているのである。

行動をおこせない人は、人々の好意という幻想にしがみついているにすぎない。

誰にでもいい顔をする人が、そんなに人々から好意をもたれているわけではない。

むしろ逆であることのほうが多い。

好意をもたれているという幻想にしがみついている人が、軽く見られている人なのである。

だから、よけいなことは考えない。

どうしても将来を暗く考えがちだが、だまされたと思ってがんばって「いまにいいことあるさ」と前向きになってみる。

いままでの心の習慣を変えることはものすごくつらい。

いままでの生き方はなかなか変えられない。

でも一度、愚痴をこぼす前に、人を恨む前に、生き方を変えてみよう。

行動をおこすということは、新しい世界へ踏み出すことでもある。

そうしたら無理をしなくても手に入るものがあるかもしれない。

一番楽な生き方。

それは毎日嘆いていること。

でもなにもおこらない。

過去にとらわれて、未来を失うべからず。

まとめ

同じことであっても人によってとらえ方は違う。

親からの注意にはお前はダメだというメッセージが隠されている。

くやしさの意識はくやしい人に向けられる。

行動することで新しい世界への一歩を踏み出そう。