すべては、この「矛盾した感情」から生まれる

幼児は何をするにも母親が見ていてくれることを求める。

おそらく母親の注目なしには何をやっても、やったという実感がないのであろう。

甘えた幼児は、どろんこ遊びをしていても、母親がそれをみていてくれることで遊びの実感を持っている。

もし母親が見ていなければ、あそんでいても何かが欠けているような空虚感を味わうであろう。

ある日のこと、ホテルで日本人とアメリカ人の子どもがボール蹴りをして遊んでいた。

アメリカ人の子どもと違って、日本人の子どもはいつも母親が見ていた。

そして母親が部屋に帰ろうとすると走ってそのあとを追った。

おそらく日本人の子どもは、母親が見ていてくれないとつまらなかったのであろう。

遊んでいても何か物足りなかったにちがいない。

つまり子どもは母親が見ていなければ自我の確認ができない。

おそらく母のあとを追っていくとき、子どもの心の中には二つの気持ちがあったのではなかろうか。

一つはもっと遊んでいたいという気持ち。

遊びそのものがつまらないわけではない。

もう一つは、母親に注目していてもらいたい、母親の目を感じていたいという気持ちである。

この二つが矛盾なく両立しているときはよい。

しかしこの二つが両立しがたくなったとき子どもは混乱してしまう。

子どもは母親に依存している。

したがって母親に見ていてもらいたいのに、それがかなわぬとき、子どもは必死になってそれを求める。

依存心の強い子どもは何かにつけて母親に要求がましくなる。

母親を支配しようとする。

それがかなわぬと、ときにはいかりになる。

依存と支配とは同じものの表と裏である。

子どもに対して支配的干渉的な親は、子どもの情緒の成熟にとって障害となり、いろいろな心の病の原因となる。

なぜなら、親が支配的干渉的なのは、親が子どもに心理的に依存しているからである。

さて、遊んでいる時に、親に去られてしまった子どもに話を戻そう。

そのとき子どもは、まだあそんでいたいのだが、母親が見ていてくれないところであそんでいてもつまらないから母親のあとを追う。

子どもの心は不満である。

どうして自分をみていてくれないのだと母親を責めたくもなる。

結局遊びそのものがつまらないわけではないから、遊ぶのをやめて母親のあとを追っていっても少しもおもしろくはない。

こうなると、この子どもにとっては、どちらを選んでも十分に満足することはない。

結果としては、不本意ながらも友達とのボール蹴りをやめて、母親とともにいるほうを選ぶ。

しかし不満である。

子どもはその不満の原因を母親に求める。

どんなに不満があっても心理的に母親に依存している以上、そうした選択をする。

心にとってはたやすい選択である。

しかしこの場合、母親自身がボール蹴りをやめることを求めたわけではない。

もちろん子どもに心理的に依存している母親なら、このとき子どもにボール蹴りをやめて、自分と一緒に来ることを求めるであろう。

母親がすでに自律性を獲得していると仮定すれば、子どもの不満の真の原因は母への依存性である。

要するに子ども自身が母親と離れては遊んでもおもしろくないからこんなことになるのである。

すでに述べたように母親がいることで、子どもは自我の確認ができる。

ここで子どもにとっての内づらの関係は母親である。

今、子どもはおもしろくない。

ふくれる。

そして、そのおもしろくないことの原因は、自分が一人では遊べないからだとは考えない。

そこで母親を責める。

内づらがわるくて外づらがよい人は、おもしろくない原因は自分の幼児性なのであるが、身近な人を責める。