人疲れする人の思考は「一貫するべき」・・・そもそも人は、一貫しない

「一貫するべき」は、他人に対して適用する時

自分に対して適用する時も、人疲れするあなたを苦しめる価値観になっていることが多い。

そもそも人は、一貫しないものなのだ。

しかし、それでは社会が営みにくいから、「一貫しろ」という「教え」ができてきた。

人には「個の保存」と「種の保存」の二つの生存目的が備わっている。

一つの果物しか残されていない時、「私が食べて生き延びたい」という気持ちと、「家族や仲間に食べさせて、種として生き延びたい」という二つの気持ちが同居する。

その時点で、すでに人間は一貫できない。

また、心の中にはさまざまな「感情」が存在する。

感情は、蓄積疲労や体調、自信、それまでの刺激、過去の記憶の積み重ねなどによって、大きく影響を受ける。

ということは、相手や、テーマや、日によって違うのだから、一貫性などないのが普通なのだ。

しかも、原始人仕様なので、人疲れする当人もその発動の理由がわからないこともある。

人疲れする人はまさに混沌としたもの。

だからそもそも人は一貫しないものなのだ。

ただ、それでは、社会がうまくいかない。

会社と雇用契約を結び、給料をもらっているのに、腹が立つから、不安だから、ショックなことがあったからということで仕事をしないとなれば、社会的な活動が成り立たない。

そこで、人疲れする人はさまざまな感情があっても、それを理性で抑えて、必要な行動をすることが求められる。

一貫した言動・行動ができ、責任や役割などを遂行できる人になることが人疲れする人は求められたのである。

特に、周囲との和を尊ぶ日本では、自分の欲求より、周囲の意向を優先するため、一貫することは、とても重要な価値観となっている。

人疲れする大きな要因だ。

ただ、それはあくまでも「教え」のレベルだ。

そうしたほうが、社会で成功しやすいという人生訓である。

「教え」は、方向性は示しても、程度を教えてはくれない。

程度は、実社会で学ぶもの

「一貫すべき」は、決して原則とか真実などのレベルのものではなく、そうしたほうが良い、そうしたほうが、特に日本の社会では、お互い生きやすくなるという智恵であり、努力目標なのだ。

それを、人疲れする人は真実レベルで感じていると、一貫しない自分や他人に、強い不快を感じてしまう。

人は、一貫しないもの。

一貫している人は素晴らしい。

だから努力はするものの、一貫できないこともある。

それはある程度しかたのないことである。

おわかりのように、「一貫すべき」のさらに根底には、「理性的であれ」という価値観がある。

人疲れする人は一貫するためには、感情を理性で制御できなければならないからだ。

そして、「一貫すべき」は、これまでに問題にしてきた「我慢」と「忘れる対処」の延長線上にある価値観だ。

我々は、理性偏重による「我慢」と「忘れる」という対処だけになりがちだ。

疲れやすいこの態度をより柔軟なものにするためにも、日頃からこの価値観を少し緩めておきたい。

「そもそも、人は一貫しないものなのだ」。

その事実からスタートしよう。

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人疲れする人は我慢型・・・そもそも人はエネルギーを使いたくない

「努力するべき」。この価値観に苦しむ人疲れする人は、本当に多い。

この価値観も、人疲れする人は他人を責め、自分を責める。

努力することは、成功に不可欠であり、真実のルールのように思える。

また、集団の農作業をベースにしている日本文化では、努力していない人は、他の人の足を引っ張る人でもある。

この価値観が極端になると、「幸せになるには、苦しまなければならない」となることもある。

先憂後楽という発想

一見、本当に正しい価値観のように思えるが、これも実は「教え」でしかない。

人は本来、怠惰なのである。

怠惰という言葉がネガティブな印象すぎるので、言い換えるとすれば、「エネルギーをとても大切にする」。

人は、動物の一種。

食べることで生きている。

人間の歴史を一日(24時間)の尺度で考えてみると、弥生時代が始まったのが、夜の11時を過ぎたころ。

それまでの23時間は、ヒトは、ほぼ飢餓状態で過ごしてきたのだ。

運良く小動物や魚を獲れれば、何とか数日食いつなげるという状態。

無駄な動きをして、貴重なエネルギーを使うことは、命とりになりかねない。

だから、人はそもそも、エネルギーをできるだけ使いたくないという本質を持っている。

食が豊富な現代でも、人疲れする人たちは、ムダな仕事、意味のない仕事をさせられるのが、非常につらい。

最もつらい刑は、穴を掘り、掘り終わったらそれを埋めるという意味のない作業を延々とやらされることだという。

単に肉体的に疲れるだけでなく、「エネルギーがムダに奪われる」原始人的苦痛を、強烈に刺激する作業だ。

一方、ある程度、食が確保される時代になってきてからはこの原始的な「エネルギーを節約したい」欲求のままだと、生活に改善がもたらされにくい。

そこで、理性が先を読んで、努力を継続させるのだ。

子どもは、疲れたらすぐに止めるが、大人になるにしたがって、その作業の重要さや完成した時のイメージをもとに、努力を継続できるようになる。

ここでも、人疲れする人は自然な欲求を、「理性」でコントロールすれば、人間社会で優位に立てるので、それが「頑張りなさい」という教えになったのだ。

頑張ること、努力することは、おそらくすべての文化で賞賛されるとは思うが、日本では、その重要度が格段に大きいような気がする。

というのも、先に触れたように日本は稲作に代表される集団での農作業が精神性のベースになっているからだ。

農業は重労働。

しかも稲作は、すぐには結果が出ない。

さらに、集団でやる作業が多いので、つい手を抜きたくなる。

だから日本人は、手を抜く人を非常に嫌うようになってきた。

欧米人は、結果主義だが、人疲れしやすい日本人は、頑張ったかどうか、というプロセスのほうを重視する。

そして、子どものころから強く「頑張ること」「努力すること」を人生の重要な価値観として植え付けられてきた。

ところが、現実の社会では、頑張る、努力するが実を結ばないことも多い。

特に経済が発展し、さまざまな価値観の中でいろんな生き方ができる現代では、頑張る、努力する、だけに縛られていると、逆に成功のチャンスを逃すこともある。

人疲れする人たちは、努力していない人を見ると、不快になる。

「努力するべし、頑張るべし」「誰にでも怠惰な気持ちはある。しかし、それを理性で抑えるのが大人、それが普通でしょ」という価値観で評価しているからだ。

しかし、そもそも人は「エネルギーを節約したがる」という本質を持っている。

理性で縛っていても、ほんの少しでも隙間があれば、人は省エネの方向に動くのだ。

それは、水が重力によって下に流れるのと同じこと。

本当の「普通」はこちらのほうだ。

だから、人がサボっているように見えたり、手を抜いているように見えたりしても、それを「人間としてダメなこと」と思わないようにしたい。

この「努力すべき」「頑張るべき」は、人疲れする自分が「我慢」してやっている分、他の人がそうでないと、不快感が非常に大きくなる。

そして、この価値観は、他人だけでなく、自分を強く縛りあげることがある。

まず、人疲れする人の「我慢」の対処のデメリットを拡大してしまう。

「努力すべき」が強い人疲れする人は、労働して疲れるだけでなく、湧き上がる感情に対しても、我慢で抑えてしまうのだ。

すると、人疲れが度を超えるといろんなことに疲れ果てて抑うつ状態になりやすい。

そして抑うつ状態になると、多くの人疲れする人が、「私は努力が足りないからこうなってしまった」と発言する。

人疲れする人は「努力→成功」の図式しか持っていないので、ピンチになったのは、過剰な肉体的・精神的疲労、つまり活動のし過ぎが原因だ。

必要な対処は、「努力」ではなく「休息」

「努力するべき・頑張るべき」という価値観が強すぎると、人疲れする人は今の説明を頭では理解できても、どうしても休憩することができない。

休憩していると、「怠惰にしている自分は、とても駄目な人間」と感じるし、「(休むことが)悪いことをしているような」罪悪感に襲われるからだ。

結局この「努力するべき」「頑張るべき」は、現代人病の一つ「うつ」に関して言えば、うつになりやすく、うつが悪化しやすく、回復しにくい価値観だといえるのだ。

私たちは、大人として、社会人として、努力や我慢が求められる。

が、人間という生き物は、そう言われても、簡単にはできないシステムになっている。

努力や我慢は、あくまでも社会がうまく回るための、文字通りの「努力目標」だ。

人は、基本的にエネルギーを惜しむことを知っておこう。

人疲れする人は、他人を支配したい

「疲れる人」で検索すると、「上から目線」「話を聞かない(自分の話ばかり)」「でも、しかしとすぐに否定される」という攻撃的な言動と、「愚痴を言う」「悪い発想ばかり」「自虐発言が多い」というネガティブ系の言動と、「愚痴を言う」「悪い発想ばかり」「自虐発言が多い」というネガティブ系の言動に疲れるという意見が多い。

まずは、攻撃性によって疲れることについて考える

攻撃的な態度を取られると、人疲れする人は自分を防衛しなければならないので、疲れるのは当然だ。

ただ、その行為を「攻撃」と捉えているあなたの価値観を変えると、相手の言動を許せることがある。

まず、なぜ攻撃的な言動にこんなに簡単に「イラッ」と来てしまうのか。

上から目線は、原始人的に地位を気にする特質からきている。

原始人では、地位の上下で、食事や生殖の権利が左右された。

それは命に関わることだった。

だから現代人になっても言葉遣いなどでの上から目線がやたら気になる。

ただ、理性は「ささいなことだ」と判断するので、怒りが我慢される。

だから疲れるのだ。

相手が話しを聞かないのはどうだろう。

あるいは、一方的に自分の話ばかり。

これは「比較」を刺激する。

原始人的には、自分のことを周囲に知っておいてほしいという欲求がある。

表現欲求という。

自分のことについて話をすることは、何かあった時に、自分が必要な援助をもらえる可能性が上がるので、生きるために必要な行為だった。

その行為を独り占めされるのだから、腹が立つのだ。

しかも、それが説教的なものなら、「命令」されることになる。

命令は上下を固定するので、先の上から目線と同じで、腹が立つ。

たとえ、内容が正しいことでも、その形式に腹が立つのだ。

ところがここでも、理性的に考えると「それほど腹を立てる状況」ではない。

結果的に、こういった人疲れする人は怒りを抑える我慢が必要になり、疲れてしまう。

こういう時は、怒りを認めるといい。

イラッと来て当然。

ただし人疲れを克服するには「私は大人として、行動を選択する」というように、感情と行動を区別するクセをつけるのだ。

しかし、どうして人は、上から目線で話したり、他人をコントロールしたがるのだろう。

その理由についても考察してみたい。

これも原始人的に考えると理解しやすい。

原始人は、本能的に他人を恐れる

その一方で、他人がいないと生きていけない。

都合のいい時だけ他人にいてほしく、いても危害を及ぼさないところにいてほしい。

きわめて矛盾するが、それが本質なのだ。

つまり安全面の要求から、相手の行動をコントロールしたがるという特性がある。

これに、エネルギー関連の要求も加わる。

人は生きるために共同作業する戦略をとった。

ただ、人疲れする人は人に合わせるためにはエネルギーを使う。

一緒に歩くのでさえ、スピードを合わせなければならないので、自由に歩く時に比べて疲れが大きくなる。

一方で原始人は貴重なエネルギーを節約したがる。

人疲れするこの矛盾を解決するには二つの方法がある。

一つは、気の合う仲間だけと付き合うこと。

価値観、行動、スピード、思考などのずれが少ない人とは、ペースを合わせるのにそれほどエネルギーを使わない。

もう一つは、相手を支配して、自分のペースに合わさせることだ。

自分のペースなら疲れない。

一方、従うほうは大変疲れてしまう。

このように、人は潜在的に他人を支配したがる生き物なのだ。

社会は、そんな人たちの集まりだから、無意識に、どちらが支配するかの闘いが生じてしまう。

どんなににこやかな仲良しグループでも、心の奥底での好き嫌いは存在し、上下をつけたがる。

また、ある期間一心同体でなごやかにしていても、各個人のエネルギー状態や疲労の度合いは変化してくるから、感情や反応も必ず変わっていくものである。

人疲れしないためにはいつまでも仲良しではいられない。

小学生を観察していると、仲良く遊ぶ相手が三カ月ほどでどんどん変わっていくという報告もある。

だから、人間関係にトラブルは当たり前。

人が社会で生きていく上で、対人トラブルがないことは、ありえないのである。

子どもの心は、人間関係トラブルがないことをあなたに要求するかもしれない。

「みんなに好かれなさい」

「みんなと仲良くしなさい」と教えられてきたからだ。

しかしそれは現実的ではない。人疲れする。

以前は「男は外に出れば7人の敵がいる」と言われたものだ。

女性もどんどん社会進出している今では、「誰でも社会には7人の敵がいる」と考えておくといい。

それが、ヒトという動物の属性だ。

言葉を話し、道具を使うなどという基本的特性と同じレベルで、人とはそういうものなのだと知っておくことは、無用に自分に腹を立てることを減らしてくれる。

人疲れする人は、自分の苦しさを表現したい

「人疲れする人」のネガティブ系の言動について

人疲れする人の原因としてやはり一番大きいのは価値観である。

ネガティブ系の言動について、いくつか楽になる可能性のある考え方を紹介しよう。

まず、「愚痴を言う」について。

愚痴を聞くと人疲れする人は、「愚痴や弱音は吐いてはいけない(我慢するべきもの)」という価値観が強すぎる場合が多い。

自分ならそれぐらいのことで、愚痴は吐かない。

本当は相手に気合いを入れてやりたい。

でも、人疲れする人は我慢する。

だから、不快だし、疲れるのだ。

一方カウンセラー等は弱音や愚痴についてこう考えている可能性が多い。

人には、表現欲求というものがある。

愚痴の場合、自分の苦しさを表現したいという欲求だ。

苦しい時に苦しいと言えた人は、他者からの援助を受けやすく、生き延びる可能性が高まる。

もし、赤ちゃんが苦しくても泣かなかったら、大人はどう育てればいいかわからない。

確かに親にとって夜泣きはつらいかもしれないが、もし泣けなかったらと考えると、まだ泣いてくれていて、感謝なのだ。

弱音も愚痴も、表現欲求の一種である。

ところが、子どもが大きくなるに従い「泣くものではない」と教えられるように、社会の中で、多少のトラブルなら弱音や愚痴を吐かず、つまり他者の援助を受けずに「一人でやりなさい」というのが、子どもの心の「教え」、つまり有効な「しつけ」だった。

ただ、このしつけが強すぎると、不快感情を簡単に表現する人を、「ダメな人」と評価しやすい。

一方で、他人の救済信号に対し、「理性」が人助けを優先すべきと判断することも多いので、どうしても自分の怒りのほうを我慢しがちになる。

愚痴を聞くのは、人疲れする

もちろん、何か援助しなければならないという具体的なプレッシャーがかかる時は、「嫌」な感じはさらに大きくなるが、自分とは関係のないただの愚痴でも、聞いていると人疲れする。

それは、人疲れしてしまう自分の中の「人はこうあるべき」による相手に対する怒りと、愚痴によって自分の貴重な時間がムダになっているという二つの怒りを、我慢しなければならないからだ。

これに対しカウンセラー等は、弱音や愚痴を聞くことを、有益な支援と考えている。

表現欲求を満たされたクライアントは、自分の弱音をしっかり聞いてくれる人がいるということに、原始人的な安心感を持つ。

すると、今度は自分の力で問題解決に向かえるようになることが多いのだ。

だから、カウンセラーにとって、愚痴を聞くのは決してムダな時間ではない。

また、カウンセラー、少なくとも私は、愚痴にもTPOにより使い分ける「程度」が必要だと思っている。

いつでも、何に対しても愚痴や弱音を吐くのは、やはり大人の社会人としては、まずいだろう。

ある程度の我慢は必要だ。

ただ、人疲れする人はカウンセリングという場面なら、愚痴のデメリットは少ない。

どんどん愚痴を言って、すっきりすればいい。

秘密は守ってもらえる。

そしてまた社会で頑張っていけばいいのだ。

いつも愚痴を言わない人が、愚痴を言い始めたら、少し注意をする必要がある。

多くの場合、蓄積疲労や体調の悪化で、我慢するエネルギーがなくなってきていると考えるべきだ。

「いつもの〇〇さんらしくないね。愚痴なんか似合わないですよ」と言うより、「眠れていますか」と声掛けしてほしい。

人疲れする人は、不安にとらわれやすい

何かしようとすると、過剰に失敗することばかりを考えていたり、なんでもない話の中で、過去の嫌なことの話を繰り返し持ち出したり・・・。

否定的な連想の多い人との付き合いは疲れる

否定的な反応によって私たちが疲れるのは、その発想によって、人疲れする人も否定的なシミュレーションがわいてしまいがちだからだ。

すると自分の中でも不安が大きくなる。

一方、まったくの取り越し苦労を聞かされる場合も疲れる。

自分自身は不安を感じていない。

すでに分析は終わって後は行動という時に振り出しに戻されるわけなので、ペースが相当乱される。

その人が仲間なら、説明し、説得する苦労も加わる。

余計な、無駄なエネルギー消費という感じがぬぐえない。

なのに、ここでもやはり「人助け」のために、どうしてもその人疲れする人の不安を少なくしてあげなければならないと感じる。

ただ、カウンセラー等は、怖さについても、話すことで整理が進むことを知っている。

カウンセラーとしての怖さの聴き方は、まずは、ネガティブな発想を否定せず、受け流す。

つまり、その人の不安を低下させようと考えない。

普通の人は、相手が不安と感じるテーマに対処するために、いろんな情報を与えたり、発想を提示したりする。その作業は疲れるし、自分には効果的な説明でも、相手には受け入れてもらえないことが多い。

そんな時は人疲れする人は徒労感がさらに大きくなる。

そもそも、現代人の不安は過剰なのだ。

原始人は、不安によって身を守ってきた動物。

だから、どうしても命がけの過剰な怖さを感じがちなのだ。

人疲れする人、本人は一大事のように話すが、本当に深刻かつ性急な対処が必要なことは多くはない。

ほとんどの場合、不安な気持ちが収まればそれで済む。

だから、相手のネガティブな発想に対して、問題解決を模索する努力をしなくてもいいのだ。

実はそのほうが、人疲れする当人の怖さは低下しやすい。

というのも、しっかり表現欲求が満たされるからだ。

また、聞いているほうが疲れないようにするには、不安独特の思考の偏りもりかいしておくといい。

「過剰なシミュレーション」と「過剰な過去検索」

この二つは連携している。

ゴルフで1回池ポチャをやった人は、同じようなホールが来た時に、なぜかまた池ポチャすることをイメージしてしまう。

本当はグリップや姿勢の確認など、やらなければならないことはたくさんあるのに、「またやってしまうかも・・・」という思いだけが頭を占め、緊張したまま、スイングしてしまう。

当然、また池ポチャ。

思考が現実となる・・・。

怖さには、人疲れする人に「過去検索」をさせ、おなじような状況で起こりうる危険を察知した時、行動をすくませる機能がある。

原始人の場合、体がすくめば、過去に危険な目に遭った山道に行かなくて済むからだ。

ところが、ゴルフはすきでやっている。

必要のない緊張と切迫感に人疲れする人は悩まされる。

まったく関係ないことなのに、過去の失敗やつらかった体験を思い出してしまう人は、この過去検索が過剰になっている人だ(一般的に、女性のほうが不快情報をよく記憶しているし、この過去検索も盛んに行ってしまう傾向にある)。

周囲とは関係なく、自分の頭の中だけで過去の、しかも悲惨な状態にワープして勝手に落ち込むのだから、周囲は疲れてしまう。

そういう話題に対して、「今は関係ない」と指摘したり、まったく違う話題に転換したら、相手に自信を失わせる。

逆に詳しく聞いてしまうと、人疲れする人はその時の怒りや悲しみが盛り上がってしまう。

このような場合、先に説明したように、まずは怖い気持ちを一通りしっかりと聞く(聞き流す)。

その上でその怖さに関連した「今できる現実的な問題」をテーマにすると、人疲れする本人の不安も収まりやすいし、聞いているほうも意味を感じやすいので、疲れにくい。

人疲れする人は、過去と将来の怖さにとらわれやすいもの。

過剰な過去検索と過剰なシミュレーションから逃れられない。

そのせいで、人間関係のトラブルも、人疲れする人は今ある課題のみに集中できずに縦(時間軸)に発展し、より苦しくなりがちである。

そういう架空の人間関係トラブルが生じるのが、人間の特性なのだ。

人疲れする人は、自分にダメ出ししやすい

常に自虐的な人と付き合うのも、人疲れする

自虐には、2種類ある。

「自信のなさ」と「自分を責める気持ち」。

そして、この二つは重なることが多い。

そういう人との付き合いは、なぜ疲れるのだろう。

それは、その人疲れする人を持ち上げてやらなければならないからだ。

人疲れする人はエネルギーの負担が大きい。

そこで一般的には、その人疲れする人が感じている自虐のネタを否定する情報を思いつかせようと努力する。

実際はよくできている、とか、だれも責めていないとか、あなたは十分努力しているとか・・・。

ただ、軽い自虐の場合はこれも効果があるが、自虐が癖のようになっている人には、「でも・・・」「でも・・・」とことごとく否定される。

このサイクルに入るとあなたは一層疲労を覚える。

では、どうしてその人は自信がなく、自分を責めるのか。

二つの理由がある。

そもそも人には、「自虐」に陥りやすい仕組みがある

人の中には、さまざまな感情が同居するものだ。

例えば仲間が好きで、仲間のためになりたい、という気持ちがある。

これをAグループの気持ちとしよう。

そして現実に仲間と楽しく過ごしているとする。

一方同時に、その仲間に対し、本当は信用できない、仲間外れにされているかも、自分も都合がいいから付き合っているだけ・・・と感じている部分もある。

これをBグループの気持ちとする。

他人には、その人の表面のいいところしか見えていない。

ところが本人には、自分のBグループの気持ちも見えている。

なので、人疲れする人は自分を責めるのだ。

一貫していないし、隠し事をしている感じがしてしまうのだ。

そして一貫させようとすると、どうしてもネガティブなほう(B)を「本当の自分」と取ってしまいがちだ。

隠している部分のほうが人疲れする人は「本当の自分」のように感じやすいからだ。

すると人疲れする人は自分を性悪だと認識するので、自信もなくなる。

しかし、読者のみなさんはおわかりのように、本当の自分とは、AとBのすべての気持ちのことだ。

自虐に陥りやすい二つ目の要素は、「子どもの心」の縛りが強いこと

通常は大人になるにしたがって、性悪な自分も自分だと認めることによって、自虐サイクルは少なくなっていく。

ところが、人疲れする、子どもの心が強すぎると、その修正が不十分なまま大人になっていく。

欧米人は、お互いの不備や悪いところをディスカッションしながら、自己主張する民族。

一方で、日本人は稲作文化をベースに、周囲と歩調を合わせることを重視してきた。

結果よりプロセスを重視し、自己主張やスタンドプレーは嫌われる。

そんな社会で通用する人になるために、功績があっても控えめに、ある程度成功しても、まだ足りないところを見て努力する。

人のせいにせずに自分の努力不足とする。

こうした「子どもの心」の教えを人疲れする人は叩き込まれることが多い。

この教えの縛りが厳しいと、どうしても人疲れする人は自虐思考になってしまう。

そういう人と付き合うのも疲れるが、実はその本人も、人間関係でとても疲れやすいのだ。

というのも、その人は本当に我慢して自分を律しているのに、多くの他人は自由奔放にやっているように見えるからだ。

人疲れする人はそれを見て腹が立つし、その怒りを抑えなければならない。

自分のエネルギーが豊富な時は、色んな気持ちを抑えられるが、人疲れする人は蓄積疲労が大きくなると、うつっぽくなりやすい。

すると、自虐は、もっと強くなってしまう。

自分を責める気持ちは、反省好きの日本人の特性だ。

無くなることはない。

だから、自分ではポジティブすぎると思うくらいに自信を持ち、自責的でない考えをする練習をしておくといい。

一方、他人の自虐発言については、怖さと同じように受け流すのが最も効果的だ。

人疲れする人はまずは聞く耳は持つが、その自責や自信のなさを修正する責任を感じなくていい。

聞いてあげることで、十分な支援になっている。

ある程度聞いたら、話題を変えてあげよう。

なかなか自分では、切り替えが難しくなっているからだ。