愛着障害だった川端康成が「自分には子ども心がわからないので、親になるのが怖い」と述べていると述べているが、愛着障害を修復する一つの手立てとして、まさに愛着障害だった川端のいう「子ども心」を取り戻すことが、鍵をにぎるように思える。

愛着障害だった川端は23歳のとき、カフェで女給をしていた伊藤初代という7歳年下の少女と出会う。

初代は陽気にはしゃぐ明るい少女に見えたが、時折さびしげな表情を見せることがあった。

実は初代も幼いころに母親と死に別れ、その後父親とも離別するという悲しい生い立ちを背負っていたのだ。

自分と共通する身の上に共感したのだろう。

あるいは、伊豆で出会った踊子の面影と重なったのか、川端はこの少女に執心するようになり、ついには結婚の約束まで交わす。

この頃の心境を、愛着障害だった川端は『南方の火』という作品のなかで吐露している。

彼が初代との間で思い描いていた結婚生活は、「夫となり妻となること」ではなく、「二人が二人とも子どもになること」であり、「子ども心で遊び戯れること」だったと。

二人とも幼いころに家庭をうしない、「本当の子ども心でくらしたことがない。だから二人で力を合わせてその埋もれた子ども心を掘り出したかった」のである。

「子どもらしい日々のなかったことがどんなに自分の心を歪めていることか」と日頃から思い悩んでいた彼は、結婚でその痛手を癒やせると初めて自分の前に明るい人生の道が見えたような喜びを感じたのだった。

彼は幼い妻を子どものように遊ばせ、子ども心を味わわせてやり、彼自身にも子ども心を取り戻すことができると夢見ていたのである。

二人は「夫となり妻となるには若過ぎるかもしれないが、子どもになるには年を取り過ぎているくらいだ」

愛着障害だった川端は結婚生活に何を求めていたのか。

彼は意識的、無意識的に、自らの抱える愛着の傷を修復するにあたり、その格好の手がかりを、幼い少女とのままごと遊びのような生活が与えてくれるに違いないと、本能的に感じ取っていたのである。

幼い少女に執着を抱く、いわゆるロリータ・コンプレックスの男性は、ほぼ例外なく愛着障害を抱え、川端と同じように満たされることなく失われた子ども時代を取り戻そうとしている。

それは、傷ついた愛を修復する試みなのである。

『伊豆の踊子』の世界にも、やはり無垢な子ども時代へスリップバックする感覚が描かれているが、それが癒やしとして愛着の傷に作用するのである。

しかし、そうした試みは、しばしば幻影に終わる。

初代への思いも、一通の手紙で夢と消えた。

初代は、理由も明らかにしないまま、一方的に婚約破棄を告げ、姿をくらましたのである。

彼女もまた、心のうちに傷を秘め、愛着回避と愛着不安の混じった不安定な愛着スタイルを抱えていた。

初代が何を感じ、何を求めていたかは、愛着の観点から見れば察しがつく。

初代の抱えたトラウマは、恐らく性的なものであったのだろう。

穢れた自分を、潔癖なまでに純粋な川端に愛してもらえるか不安だったに違いない。

初代は川端が失望し、自分を嫌ってしまうのではないかと怖れたのであろう。

さらに言えば、初代は、川端が本当に自分の庇護者となりうる存在か、試そうとしていたとも言える。

しかし愛着障害だった川端には、それを押し切るだけの迫力に欠けていた。

初代は、愛着障害の川端の愛の本質を見抜いていたのかもしれない。

愛着障害だった川端のままごと遊びの夢と、初代の抱える糜爛した傷の間には、埋めがたい距離があったのである。