イライラを解消するには評価をやめる

被害者になることはやめよう

イライラは、「ひどい」という思いを反映した感情、つまり、自分が何らかの形で被害に遭っていることを知らせてくれる感情です。

「予定狂い」も一種の被害ですし、「心の傷」を反映したイライラは、明らかに被害者意識と一体化しています。

つまり、「被害者でない人はイライラを感じない」と言ってよいと思います。

ですから、起こってしまったイライラをどうするか、という以前に、そもそも自分は本当に被害者なのか、ということを検証してみるとムダにイライラせずに済みます。

それが習慣になってくると、最初から「被害者」になることが減ってきて、だんだんとイライラしにくくなってきます。

イライラしてから手放すよりも、そちらの方がはるかに楽でしょう。

DV男性の定番のセリフに、「お前が俺を怒らせたんだ」というものがありますが、そもそも私たちは他人をイライラさせることなどできません。

せいぜい、イライラのきっかけを与えるくらいしかできないのです。

イライラというのは、自分の領域で起こる感情です。「自分が」イライラしているのです。

イライラは状況のとらえ方で変わる

もちろん人間が生き物である以上、反射的なイライラを100%手放すことは難しいでしょう。

生物としての自己防御能力がある限り、違和感のあるものは「脅威」と感じるようになっているからです。

しかし、手放せないのは反射的な感情のことであって、少なくとも「イライラし続ける」「イライラを相手にぶつける」ということを選んでいるのは、自分自身です。

この選択は、「この被害に対してイライラするかイライラしないか」というレベルで行われるわけではありません。

「その状況をどう見るか」というレベルでの選択なのです。

例えば、その状況を「自分への攻撃」と受け取れば、イライラ以外の選択肢はないでしょう。

でも、「相手の心の悲鳴」と見たり、「単に相手の事情を反映した現状」と考えたりするなど、受け取り方にはさまざまな選択肢があります。

反射的なイライラを感じたとしても、どういう受け取り方をするかは自分で選ぶことができるのです。

「そう言われてもとても選べない」と思うかもしれませんが、意識することによって訓練していくことができますし、「自分への攻撃」ととらえない方が自分も安全で心地よいことに気づくと、だんだんと新たな習慣に馴染んでくるものです。

「自分への攻撃」と受け取らなければ、被害者になることもありませんし、イライラにとらわれることもなくなります。

では例を見てみましょう。

例:二人で会っているときに、携帯で長電話されてイライラした。

こんな状況も、ついつい「自分が粗末にされた」とイライラを感じるものです。

でも本当にそうなのでしょうか。

相手がなぜ長電話をしたのか、ということは本当のところわかりません。

また、相手が電話の相手と自分の価値を比較した上で長電話したのか、ということになるとますますわかりません。

とても久しぶりの人からの電話だったのかもしれません。

電話を切ることが苦手なのかもしれません。

「今人と会っている」と言うタイミングを逸してしまっただけなのかもしれません。

あるいは単に、「まあ、自分が電話している間には、相手も好きなことをしているだろう」と考える自由主義者なのかもしれません。

わかっていることは、「相手が長電話をした」ということだけで、それが「自分を粗末にする行動」だったのかどうかは実のところわかりません。

それなのに、「自分が粗末にされた」と思い込んでしまったとしたら、それは「わざわざ自分で自分を傷つけている」ということになってしまいます。

傷をつけているのは自分

例えば、他の人が同じ状況に遭遇した場合、「それはあなたが粗末にされたのだ」と断定するでしょうか。

そんなことは言わないでしょう。

「相手にも何か事情があったのだろうけど、失礼ね」という程度に考えるのではないでしょうか。

自分が粗末にされたと思うとき、私たちはイライラを感じて、「相手のせいだ!」「相手が悪い!」と「相手」に意識を向けるものです。

しかし、こうやってよく見てみると、この状況を「自分が粗末にされた」ととらえることで、実は「自分」を傷つけていることになるのです。

逆に、「まあ、何か事情があったんじゃないの」と思う場合、相手を許してあげているように見えて、実は「自分を傷つけない」選択をしていると言えるでしょう。

こうして見てくると、私たちは出来事そのもの(相手の長電話)によって傷つくわけではなく、自分がそこに乗せるストーリー(自分が粗末にされた)によって傷つく、ということがわかります。

相手が長電話をしたとしても、そこに「自分が粗末にされた」というストーリーを乗せなければ自分は傷つかないのですから、自分が傷つくかどうかを最終的に決めるのは自分、ということになります。

なお、相手がわざとこちらを粗末にしようとして長電話した、という可能性もないわけではありません。

そういうときは「粗末にされた」のはストーリーではなく真実ではないか、と思うかもしれませんが、やはり違うのです。

どんな思いがあるとしても、長電話をすることで相手を粗末に扱うというのは、何とも病的な行為です。

それも相手の「事情」として考えれば、むしろ相手の病んだ部分を表したものであり、自分が被害に遭ったという話とも違う、ということがわかってきます。

これがわかりにくければ、再び、他の人が同じ目に遭ったら、ということを考えてみて下さい。

「えー、普通そういうことする?」という反応になるのではないでしょうか。

「余程あなたのことが嫌いだったのね」などとは言わないはずです。

他人に言わないことは、自分にも言わなくてよいのです。

自分のストーリーを信じ過ぎない

自分を傷つけるのは現実ではなく自分が作ったストーリーだ、ということがわかったら、「ストーリーを手放す」ことを考えてみましょう。

実は「役割期待の調整」をしていけば、ストーリーは容易に手放すことができます。

役割期待を調整していくと、「なぜ相手はそんな言動をとったのか」という現実がわかってくるからです。

この電話の件にしても、彼に自分の気持ちを伝えて、「ごめん、ごめん、とにかくうるさい取引先でね」などと事情を聞かされれば、被害者役をさっさと返上することができるでしょう。

こんなふうに相手の状況を実際に確かめて、「自分が最初に作ったストーリーははずれることが多い」という体験をしていけば、感じ方が変わってきます。

ストーリーを手放すための習慣

それと同時に、「ストーリーを手放す」という訓練を日頃から心がけることもできます。

「ストーリーを手放す」というのは、相手に長電話されたときに「私は粗末にされた」というストーリーを完全に否定する、という意味ではありません。

無理やりポジティブな考え方をするということでもありません。

「私は粗末にされた」という考えが浮かんでくることそのものは、別にかまわないのです。

「それを確信しないようにする」ということだけ意識しておけば大丈夫です。

確信するだけの証拠はないのですから、証拠が固まるまでは断定しない、ということにするのです。

自分が被害に遭った、と思う度に、「そう断言できるほどの証拠がそろっているだろうか?」と考える習慣を身につけるとよいでしょう。

「ほぼ確実」と感情が言っている場合でも、「本当にそうなのか」「違う可能性もあるのではないか」と考えてみます。

イライラしない人になる方法

そういうふうに考えていくと、実は、自分の外側で起こることについて確信できることなどほとんどない、ということに気づいてきます。

なぜかと言うと、私たちは他人の事情をすべて知ることなどできないからです。

例えば「相手の長電話」は、相手の領域で起こっていることです。

他人の領域で起こっていることについて、何かを断言することは不可能です。

常に、「何か私が知らない事情があるのかもしれない」という可能性は消えません。

それは相手自身が「何も事情はない」と言うときですら、そうなのです。

自分の事情をすべてわかっている人はおそらくいないでしょうし、意識していない問題をいろいろと抱えている人も多いものです。

こうして、「確信できることなどほとんどない」ということに気づいてくると、確実でもないものを断定してイライラする、というプロセスがとても不毛であることに気づいてきます。

そして、イライラも保留できるようになってきて、イライラしない人になっていくものです。

「証拠が固まったら怒ろう」と思っていると、結局のところ怒る機会はまずやってこないものだからです。

評価は相手も自分にも傷つける

現実に乗せてしまう自分の「ストーリー」とは、現実に対して自分が下している評価に他なりません。

評価は暴力です。

実は、評価はそれが向けられる相手に対して暴力的であるだけでなく、評価を下している本人にとっても毒になります。

もちろん「相手に評価を下すと、相手に対して自分がイライラしてしまう」ということもありますが、それ以上に、「評価を下す姿勢」は、他人だけでなく自分にも向けられるからです。

他人に評価を下している人は、自分への評価をとても気にしているものです。

つまり、本当の意味での自信がないのです。

ですから、ちょっとしたことで「バカにするな!」などと怒り出したりするのです。

こんなピリピリした姿勢で生きることそのものが毒だと言えます。

評価を手放す

怒りを生み出す「ストーリー」は、現実に対して下した「評価」です。

「怒りがあるところには評価がある」と言えるでしょう。

イライラを手放したいのなら、「評価する癖」を手放す努力をしていく必要があるのです。

例を見てみましょう。

例:ATMに並んでいたとき、前の人がもたもたしていてイライラした。

こんな小さな例でも、「イライラがあるところには評価がある」という原則は変わりません。

「ひどい目に遭っている」「自分は本当に運が悪い」「ATMの使い方もわからないなんてダメだ」などという評価を下すから、イライラするのです。

現実に起こっていることは、ATMを利用するのが予定よりも数分遅れる程度のことです。

それが本格的なダメージになる機会は、そう多くはありません。

さまざまな評価を手放して、現実をありのままに見た方がずっと楽です。

ただでさえ待ち時間が長いのに、勝手な評価やストーリーを乗せて心の負担を増やす必要はありません。

現実をありのままに受け止めて、「次は時間の余裕を持ってATMを利用しよう」など淡々と対処していくことが最もダメージを減らすのです。

正しさにこだわることはない

評価しないでありのままの現実を受け入れる、ということが頭では理解できたとしても、「そういうわけにはいかない!」と思うときがあるかもしれません。

特に、自分が「間違っている」と思うことについて「ありのままを受け入れろ」と言われると、「そうはいかない」と抵抗を感じるでしょう。

怒りを手放していくためには、「正しい」「間違っている」という「評価」についてもよく考えておく必要があります。

イライラを生み出す「正しさの綱引き」

私たちにはそれぞれ「自分なりの正義」があります。

これはあくまでも「自分なりの正義」であり、個人個人の事情を反映したものです。

実は世の中には唯一絶対の正義があるわけではなく、ある立場の人から見れば正しいことが、別の立場の人から見ると間違っている、ということもよくあります。

「自分なりの正義」を主張し続けると、それは必ず他人の正義とぶつかることになります。

一人一人の事情が違う以上、それは当然のこと。

「自分が正しい」と言うと、相手は「こちらこそ正しい」と言います。

これは綱引きのようなもので、「自分が正しい」と綱を引っ張った分の力で、相手は引っ張り返すのです。

どちらかがやめない限り、綱引きは延々と続き、怒りからは解放されることがありません。

正しいの綱引きに勝利はない

そもそも「正しい」を主張すれば相手を論破できるというのは幻想です。

どうも私たちは「強く言えば何とかなる」と思い込んでいる節があるのですが、現実にはそんなふうにはなりません。

何と言っても、強く言えば「攻撃」ととらえられますから、相手は防衛します。

もちろん暴力的に強く言えば、相手の行動は一時的に変わるでしょう。

でもそこで抑え込まれた相手側の「自分こそが正しい」という思いは恨みとして蓄積され、後日何らかの形で問題が起きてしまいます。

ですから、「正しいの綱引き」に勝つことはあり得ない、ということをよく覚えておいた方がよいと思います。

「どちらが正しいか」からの脱出

イライラを手放すためには、「正しいの綱引き」から手を離さなくてはなりません。

それは、「あなたが正しくて私が間違っている」と認めることではありません。

「どちらが正しいか」という「評価の次元」から脱するということです。

もちろん自分の考えを曲げる必要はないですし、大切にしている価値観は大切にしたままでよいのですが、「相手には相手の事情がある」ということを認め、どちらの正義が正しいかを決めない、という姿勢をとるのです。

「自分の正しさを手放す」と考えると難しいのですが、「相手の事情を知ろうと努力する」ということを意識すれば、自然とできるようになってきます。

相手の事情が何もわからないときには、私たちは相手に「人間として間違っている」などと強烈な評価を下しがちです。

評価というのは、自分にとっての異物を自分なりに位置づけるための試みですから、自分とは異なる「正義」を持つ強烈な異物には、強烈な評価を下すことになるのです。

しかし、相手の事情をよく知っていけば、「まあ、そうやって育った人なら理解できる」などという見方ができるようになってきます。

そして、相手のありのままを受け入れることもできるようになるのです。

心の姿勢と行動は分けて考える

もちろん、「ありのままを受け入れる」ということは、相手からどんなにひどいことをされても大目に見てあげるという意味ではありません。

イライラを手放した上で、現実的に必要な対処をすればいいのです。

そのためには、「行動」と「心の姿勢」を区別して考えていく必要があります。

例えば、相手によって何らかの損失を被った場合。

そんなときに「怒りを手放す」ということは、実害を「なかったことにする」という意味ではありません。

必要であれば、怒りを手放した上で、相手に訴訟を起こしてもよいのです。

怒りを手放すということは「心の姿勢」を変えるということです。

訴訟を起こすなど現実的にとる「行動」は、「心の姿勢」とは別の次元にあります。

その「行動」をどういう「心の姿勢」で行うか、ということは選べるのです。

そもそも、訴訟を起こすというのはただでさえ大変なことで、そこに怒りのエネルギーまで乗せたら、本当に消耗してしまいます。

また、怒りによって気持ちのコントロールが難しい状態になってしまうと、効果的に訴訟を進めることもできなくなってしまうでしょう。

「行動」と「心の姿勢」を区別するというこの考え方は、さまざまな領域で応用可能です。

例:忙しいときに保険の勧誘の電話がうるさくてイライラする。

こんなときも受け取り方によっては簡単に自分は被害者だと思い込んでしまい、相手に対して「デリカシーがない」などという評価を下しがちです。

しかしこれもちょっと「相手の事情」を考えてみれば、別にこちらを邪魔しようとしてやっているわけではなく、単に「契約がとれないと生活が苦しい」という心の悲鳴を上げながら一生懸命生きているだけの人なのだろうと思えてきます。

イライラを手放した上で、ノーを言う

相手のことをそうやって見ることができれば、イライラを手放すことはできるでしょうが、では行動面でも相手につき合ってあげる必要があるのかというと、それは全く別の話です。

「イライラしない」という「心の姿勢」と「断る」という「行動」は、十分両立可能なことです。

「そちらも大変だと思いますが、こちらも本当に忙しくて大変なんです。ごめんなさい」と電話を切り、もしもまたかかってきたら、もうとらなくてよいでしょう。

同じく断って電話を切るという行動をとる場合でも、イライラしているとその後の仕事への集中力も落ちるでしょう。

ただでさえ忙しいときに、集中力まで落ちたら大変です。

イライラを手放して「まあ、みんな大変なんだな」と思えば、それ以上その出来事に影響を受けずにすむと思います。

やはりポイントは「断る」という「行動」にあるのではなく、「心の姿勢」にあるのです。

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イライラしないためには今に集中する

例:電話でずっと愚痴られてイライラした。

人の話を聴く際に、「この愚痴はいつまで続くのだろう」「また同じ話だ」などと思うと、イライラするものです。

もちろん聴かずにすむ話は聴かなくてよいと思いますが、聴かなければならないことも多いでしょう。

そんなときに怒りを手放すためのよい方法が、現在に集中するということです。

イライラは過去の記憶に影響されている

私たちは人の話を聴くときに、ほとんどいつも、「過去のデータベース」を通して聴いています。

「愚痴」というのも、「また同じ話だ」というのも、過去のデータベースに基づく評価です。

相手の話を聴き始めて数秒すると、「この愚痴はいつまで続くのだろう」などという思考が頭に浮かんでくると思いますが、そのような思考に気づいたら、それを脇に置き、相手の話に集中し直してみましょう。

思考が出てきたということは、「過去のデータベース」を参照し始めたということ。

こうした思考を脇に置いて、「今、相手の話を聴くこと」に集中するのです。

すると、いつもとは違う雰囲気で聴けることに気づきます。

それは何とも言えない、温かい感覚です。

もちろん、現在に集中しているときは相手に何の評価も下していませんから、アドバイスも出てきません。

思考を脇に置くということは、「相手の問題を解決することもやめる」ということなのです。問題解決もせずに、ただ相手の話を聴くことに集中します。

すると、相手の話は、結果として短く終わるのです!

評価やアドバイスは相手の領域に立ち入るものですので、相手は必ず防衛します。

すると、自己正当化のための話をする必要が出てきてしまい、話が長引いていくのです。

電話で愚痴られた、という状況では、おそらく「そんなふうに考えなくてもいいんじゃない?」「気にしない方がいいよ」などというアドバイスをしており、それがかえって愚痴を長引かせたのだと思います。

聴かなければならない時間も短くなるし、しかも、その間、とても温かい気持ちで聴けるのですから、こんな聴き方を試してみない手はありませんね。

まとめ

なぜ、ちょっとしたことでイライラしてしまうのか?

  1. 自分でつくり出した「ストーリー」が現実をゆがめていることに気づこう。
  2. 相手には自分の知らない事情がある、と考えよう。
  3. 現実をありのままに受け止め、評価を下さない癖をつけよう。
  4. 正しさにこだわるのは、やめよう。
  5. 余計なことは考えないで、「相手が今、話していること」に集中しよう。