コミュニケーションが疲れる心理

自分の心の声を聞く

コミュニケーションの第一は、自分の心の底の声を聞くことである。

次に相手の言うことに聞く耳を持つことである。

聞く耳を持つということは心が柔軟で開かれているということである。

神経症になれば心が硬化しているから相手の言うことに聞く耳を持てない。

心が柔軟であるということは自己実現の姿勢があるということである。

生産的に生きている人のみが、心が柔軟である。

例えば攻撃的な人、なかでも搾取タイプのような人は、人の話を聞く耳を持たない。

敵意を持っていれば相手の話は聞かない。

コミュニケーション能力の大きな人は敵意の少ない人である。

当然ナルシシズムは消化され、依存心は解消している。

相手の言うことを聞くということは簡単なようで難しい。

子どもに母親らしさを一方的に押しつけて、子どもを可愛がっていると思っている母親もいる。

相手を自分の中に巻き込んでしまい、相手の個性を認めない。

しかしそういう母親は自分では相手の言うことに耳を傾けていると思っている。

つきあいで大切なことは、相手の言うことを相手の言わんとする意味において聞くということである。

「意見を言え」と言うから、意見を言う。

すると「君はすぐに文句を言う」と言う人もいる。

相手の言うことを自分の内面の不安と葛藤を通して聞く人が多い。

そういう人は自分では相手の言うことに耳を傾けていると思っている。

自分の心の通路は周囲の世界に大きく開かれていると思っている。

親しい友達がいない人は、人の話を聞いていない。

つきあいで大切なのは相手の言うことに耳を傾けることである。

それができる条件は心理的健康である。

不安や敵意がない、見栄とか張り合う心理がないということである。

見栄とか張り合う心理がると、どうしても相手の言うことを、相手が言わんとしている意味において聞くことができない。

とにかく人とコミュニケーションするためには、自分を理解することが先決である。

自分が求めているものがわかれば、相手が求めているものもわかる。

そして自分はなぜそれを求めているかがわかれば、相手がなぜそれを求めているのかもわかる。

自分が何を求めているかがわからないのに、相手が何を求めているかはわからない。

コミュニケーションが快い人

また、コミュニケーションがうまくできるかできないかは、相手によって違う。

だから誰かとうまくコミュニケーションできないからといって自信を失い、自分のコミュニケーション能力不足をなげくことはない。

自分の心の通路の大きさは決まっているわけではない。

相手との関係によって、大きくなったり小さくなったりする。

「コミュニケーションの達人」と接している時は、普通の人は心の通路が大きくなる。

つまりより深く理解し合える。

心の通路が小さくなればなるほど表面的にしか理解し合えない。

「コミュニケーションの達人」とは、何となくその人と「話をしたいなあ」と感じさせるような人のことである。

つまりその人といるとリラックスできる。

コミュニケーションに自信のない人は、「コミュニケーションの達人」のような人を探し、その人と一緒にいることである。

それができれば望ましい。

そうすれば自分の心の通路が自然と少しずつ大きくなる。

コミュニケーション能力を高めるためには、自分がリラックスできる人と一緒にいることである。

一緒にいると「ふと」本当の自分に気がつくときがある。

避けなければならない人は、思わず身構えてしまう人である。

あなたが心の中で身構えてしまう人は、おそらく人を常に評価する人であろう。

あなたは評価されるのが怖くて、つい身構えてしまうのである。

あなたを防衛的にする人と、あなたをリラックスさせてくれる人とがいる。

自分の話していることが録音されているときの会話を考えてみよう。

そのとき人は緊張している。

それが、話していてもコミュニケーションできていない心理状態である。

林に入ったときには気持ちよい。

でも木を意識していない。

「林の中、あー気持ちいい」と思う。

それが木とコミュニケーションしているということである。

さらにコミュニケーション能力を大きくするためには、信じる人がいなければならない。

そうしたらその人に言われたことは聞くから、意外な自分に気がつく。

そして気付いた自分を認めることである。

自分について気付かせてくれることは悪いことばかりではない。

時には自分の望ましい性質も気づかせてくれる。

人が「あなたは底抜けに明るい」と指摘してくれて、自分の明るい性質に気がつくこともある。

元々は明るい人でも、疑い深い人や妬み深い人に長いこといじめられて生きてくれば、自分の元々の性質などはわからなくなっている。

信じることができる人はどこにいる

今、「信じる人がいなければならない」と記したが、そう言われても、信じられる人なんて簡単に見つからないという人がいるかもしれない。

しかし人を信じられないという人は、自分を信じていないのである。

信じられる人がいないという人は、まず自分が信じられる人になることである。

そうしたら信じられる人が見つかり易くなる。

人を利用する人も、自分を信じていない。

だから例えば迎合することをやめただけで世界は変わるかもしれない。

人を信じられる人は、自分を信じている人である。

人を騙す人は、人を信じていない。

したがって自分を信じていない。

自分の無意識に問題があることを気づかせてくれるのは、心の優しい人である。

自分の小さなコミュニケーション能力を大きなコミュニケーション能力に発展させてくれるのは、自分を受け入れてくれる人である。

その人といて、肩肘を張っていなくてもいい人である。

経営者は干天の慈雨のごとく有為な人材を探しているというが、社会的に優れた能力を持っている人を見つけるのはそれほど難しいことではない。

それよりも難しいのが、自分が肩肘を張らないでもつきあえる人を見つけることである。

「実際の自分」を気づかせてくれる人ほど貴重な存在はない。

どんな権力者を知っているよりも、こういう人を知っていることはあなたの強みである。

自分のしている行動をわかってくれる。

受け止めてくれるから自分という存在を感じる。

理解されることで人間は変わる。

成長する。

例えばピアスをしている若者は「ここに私がいるよ」と訴えている。

それなのに誰も気がついてくれない。

そこで捻くれる。

なぜなら周囲の人が自分の行動を受け止めてくれないからである。

こんなときにその人を受け入れる人がいれば、その人は自分には無意識に訴えたいことがあるのに気がつく。

必死になって認められたがっている自分に気付く。

自分に気付けば素直になれる。

自分が素直になってから努力をすれば努力は報われる。

コミュニケーションに自信のない人の人間関係

自分が理解できないと、他人も理解できない

コミュニケーションに自信のない人は、得てして恋人や友達を間違えている。

周りに自慢できるような人を恋人や友達に選ぶ。

無意識に問題がある人と付き合っている人は、たいていその人自身も無意識に問題がある。

この二人は話していてもコミュニケーションはできていない。

単に言葉が行き交っているだけである。

二人とも自分も相手もわかっていない。

自分がわかっていない人は、他人もわかっていない。

自分が見えていないということは相手も見えていないということである。

人は自分がわかっている程度にしか相手はわからない。

「誰も私のことをわかってくれない」となげいている人がいる。

自分がわかっていない人とつきあって、相手に理解を求めても無理である。

自分のことを理解してもらいたければ、自分がわかっている人とつきあうしかない。

「誰も私のことをわかってくれない」と言う人は、たいてい自分が自分のことをわかっていないのである。

自分が母親を求めているとわかっていない男性がいる。

その男性が女性を好きになる。

女性は男性の愛を求めている。

そこで二人は恋をする。

しかし求めているものがずれているからコミュニケーションできない。

時の経過とともにお互いにイライラする。

そして「あの人は私のことをわかってくれない」となる。

「実際の自分」を受け入れられない人は、実際の相手も受け入れられない。

「実際の自分」を認められない人は、実際の相手も認められない。

つまり劣等感が深刻な人と、劣等感が深刻な人の間ではコミュニケーションできない。

お互いに自分の存在を強調しようとするから、求めるものがずれてコミュニケーションできない。

子どもは、恩着せがましい父親とはコミュニケーションできない。

父親は子どもに感謝を求めているし、子どもは親に愛を求めている。

大きなトラブルが起きたときには、自分は相手の何を理解していないのか、相手は自分の何を理解していないのかを考える。

事件が起きたときには、たいていはお互いの無意識に問題がある。

オーストリアの精神科医ベラン・ウルフは、人は相手の無意識に反応すると言っている。

多くの人が、人間関係で不満になるのは、そこである。

自分が思っている自分がいる。

自分が意識している自分がいる。

しかし他人はその「自分が思っている自分」に反応しているのではない。

他人は「あなたには見えないあなた」に反応しているのである。

他人はあなたの無意識にあるものに反応している。

「誰も私のことをわかってくれない」となげいている人は、他人が「自分が思っている自分」に反応してくれないと思って悔しいのである。

自分が「自分が思っている自分」なら、人はもっと自分に同情してくれるはずである。

人はもっと認めてくれるはずである。

しかし人は、「その人が見えていないその人」に反応するから、期待したように認めてもくれないし、期待したように「大変ねー、すごいわねー」とも言ってくれない。

相手のためは自分のため

人のために何かをしてあげる。

相手に恩を着せたい。

恩を着せたいから何かをしてあげる。

感謝を求めてその人のために何かをしてあげる。

しかし期待した感謝が返ってこない。

そのときに相手を恨む。

「こんなにまでしてあげているのに、あの態度はないだろう」と相手を恨む。

恨む人は自分がその人のためにしたことの「自分の動機」を理解していない。

動機は「相手のため」ではなく、「感謝されたい」という「自分のため」なのである。

動機は自分の無力感である。

自分の劣等感である。

もし何かをしてあげるときに、これは感謝をされたいからするのだとわかっていれば、期待した態度が返って来なくても相手を恨まない。

今あなたが周囲のあらゆる人を恨んでいるとすれば、自分はいる場所を間違っているのではないかと反省をすることである。

メダカが海にいれば、生きるのがつらい。

そしてあの人もこの人も不愉快な人である。

理想の自分と現実の自分

しかし、「自分のすることが『相手のため』と思い込んでいても、実は『自分のため』なのである」と言っても、全てそう思い込んでいる本人が悪いというのではない。

そういう自己執着の人間になってしまうには、そうなってしまう理由がある。

クジラの親はメダカの子どもに「メダカにはこんないいことがある」と教えないで、クジラにしようと努力する。

親の努力は失敗するし、子どもは不幸になる。

子どもがメダカなら、クジラにしようとしないことである。

子育てで大切なのは、メダカの子どもに「メダカにはこんないいことがあるよ」と教えてあげることなのである。

そうすれば、メダカはクジラの世界に行こうとはしない。

今いる場所を間違えている人は、小さい頃「メダカにはこんないいことがあるよ」と教えてもらわなかったのである。

人付き合いが怖い人にはいくつかの原因があるが、苦しんでいる人は、一度自分は「誰かから真剣に自分の幸せを考えてもらったか?」と考えてみることである。

思い当たることはないだろうか。

少なくとも20歳になるまで誰からも真剣に、自分の幸せを考えてもらっていないはずである。

何か期待されたことはあるだろう。

しかし、それも期待した人の幸せのためである。

だからこそ、ありのままの自分ではない自分になることを期待されたのである。

時には非現実的なほど高い期待をかけられた。

そして、「実際の自分」ではない自分を背伸びして生きて、苦しみ続けた。

非現実的なほど高い期待をかけた人の方は、相手の幸せを全く考えていない。

だから相手の現実を無視したのである。

また期待をした方は相手を好きではない。

好きなら相手の現実を見る。

子どもが好きな人は、子どもが求めているものがわかる。

つまり非現実的なほど高い期待をかけられた人は、相手から好かれてもいないうえに、「現実の自分」を無視されていた。

それでいながら相手の期待に応えるために、自分でない自分になろうと必死で無理な努力をした。

相手の期待に応えるために、自分でない自分になろうと必死で無理な努力をしているうちに自分が自分を嫌いにいなった。

自分が自分を尊敬できなくなった。

自分自身を愛せない人は、他人が自分を愛していると信じられない。

信じられないから、愛しているという証拠がほしい。

そこで無理をしていい人を演じる。

愛されていると信じたいのである。

そこでさらに自分を嫌いになる。

自分が自分を軽蔑する。

自分の寂しさを受容する

ずるい人の本心を見抜く

相手の期待に応えるために、自分でない自分になろうと必死で無理な努力をして、期待した反応がなくて悔しがっている人には、さらに悪いことが起きる。

ずるい人は、悔しがっている人に、その人が期待しているように反応する。

ずるい人は自分を知っているし、相手を見抜いている。

彼らは相手を操作しようとしている。

相手とふれあっていないからお互いの心の通路はない。

ずるい人にとって相手は人間ではなく、道具である。

憎しみがあっても相手が見える人と、憎しみがあって相手が見えない人とがいる。

ずるい人は相手が見えている。

騙す人は相手がわかっている。

「この人は寂しいな」と相手を見抜く。

リフォーム業者に騙される高齢者。

リフォーム業者は高齢者が期待するように反応する。

リフォーム業者は期待したとおりに家を訪れてくる。

ずるい人は、高齢者にとってみんな「いい人」になってしまう。

ずるい人は、心を捉えることをいろいろとする。

相手の心の隙に入り込む。

寂しいとずるい人に狙われて、利用される。

ずるい他人から見ると寂しさが見える。

狙う人にはよく見える。

人間環境で傷つくようなトラブルが多い人は、まず自分の寂しさを認めること。

寂しい人は甘えている。

本来そんなに味方になってくれる人は、世の中にいないはずである。

それを認めることで、自分の心の無意識にある問題が小さくなり、コミュニケーション能力がそれだけ大きくなる。

対人恐怖症のような人は、自分がネズミなのにライオンに見せている。

だから相手が怖い。

騙す人は、こういう人を狙う。

相手がネズミと知りながら、ずるい人は「あなたは強いライオンよねえ」と言う。

こうして相手をおだてる。

相手が求めている言葉を言う。

言われた方は、その心地よさに負ける。

ずるい人は相手が期待する反応をする。

それが麻薬。

自分をライオンに見せていても、自分はネズミとわかっていれば、相手のずるさを観察できる。

おだてに乗らない。

自分をわかっていればいい。

深刻なトラブルが続発する人は自分が見えていない人である。

つまり無意識に深刻な問題のある人である。

自分がわかっていないうえに相手が見えていない人は騙される。

相手が「あなたはすごいわ」と言うのを聞いていると、相手を好きになる。

『論語』の有名な言葉に「巧言令色、鮮し仁」というのがある。

相手が見えていない人は、口先だけの「人徳がない人」を見抜けない。

他人の使い捨てにならないために

自分がわかっていれば、相手の心が見えないときには、相手との心の通路を閉める。

「相手にとって都合がいい人」という人がいる。

それは「相手の、今現在にとって都合がいい人」というにすぎない。

時が過ぎると都合が悪い人にもなる。

つまり都合がいい人というのは相手にとって使い捨ての人である。

ずるい相手は、自分のとって都合のいい人を大事にしようとは思っていない。

利用しようとおもっているだけである。

その人が「都合がいい」ということは、自分が楽をして大きな顔ができるからである。

ある人が、家を買う時に、不動産屋さんが突然手のひらを返したような態度に出たのを見て、腰を抜かすほど驚いた。

それまでは腰を低くして彼に都合のいいことを並べていた。

ところが買おうとした土地の隣の土地に買い手がつきそうになった。

その時点で、彼は不動産屋さんに都合のいい存在から都合の悪い存在になった。

彼は自分の目と耳を信じられないで、ただ呆然と不動産屋さんを見てしまったという。

日常生活での出来事も基本的にこれと同じである。

もう一度繰り返すと、人が見えていない人は口先だけの「人徳がない人」を見抜けない。

穴の中にドングリがいっぱいある。

ずるい人はそのドングリが欲しい。

そこにリスとモグラと熊、さらにネズミと大蛇がいる。

「ドングリを拾ってこい」と言うには、リスが都合がいい。

このときにどの動物が好きかは別。

利用できる動物が都合いい。

都合のいい人は、相手にとっては今が良い人。

時が過ぎると都合が悪い人にもなる。

使い捨てにされる。

自分が楽をして得することができるから、その人が都合がいい。

相手を尊敬しているわけではない。

しかし利用される人は利用されたときに「好かれている」と錯覚する。

相手と自分の心の奥に潜む特徴を知らない。

人間の場合いろいろと利用価値があるから、ほかでも利用できる人は、相手はその人にそのときに不満があっても我慢をする。

都合のいい人に対しては、時には「ありがたい」と感謝をするけれども「好き」ではない。

心の中では尊敬はしていない。

ずるい人に重宝されている人は、病気になったら「はい、さようなら」と言われるだけである。

そのときに「私ばかりつらい目にあう」と恨みなげくが、そうなったことの原因が自分にあるとは思っていない場合が多い。

自分の周りで起きている様々なトラブルは、自分に原因があるということを認めないと、死ぬまで「都合のいい人」で終わってしまう。

最後に「何であんな卑怯な人に無理して尽くしたのだろう、自分の人生はいったい何だったのだろう」と気がついてももう遅い。

アメリカの精神科医でうつ病の認知療法の創始者、アーロン・ベックによれば、うつ病者は「自分の問題だけれども、人が解決してくれることを望む」。

「私は悪くない」「私ばかり辛い目にあう」と被害者意識にしがみついているだけでは、死ぬまで幸せにはなれない。

アーロン・ベックはうつ病者の動機の特徴として増大する依存性という表現をしている。