私たちは、物事を「すべてか無か」「一か十か」で見がちです。
ですから私達の人生では、完璧にコントロール権を握っているか、あるいはコントロール不能におちいっているか、どちらかになってしまうのです!
手綱をしっかり握った状態が保てなくなると感じるや否や、私たちは緊急発進し、あらゆる手段を駆使してコントロールを取り戻そうとします。
けれど私達には、ある程度コントロールを手放す力が必要です。
「ある程度」という言葉に注意してください。
コントロールは「すべてか無か」の問題ではないのです。
12ステップのプログラムを使っている人は、これが「無力を認める」という第一のステップと何ら矛盾しないことがわかるでしょう。
無力を認めるとは、コントロールできないものをコントロールしようとする努力をあきらめること。
これは、「平安の祈り」とも似ています。
神様、私にお与えください。
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを。
変えられるものは変えていく勇気を。
そして二つのものを見分ける賢さを
自分がコントロールできないものを受け入れるというのは、生活に秩序をもたらす努力をあきらめることではありません。
ただ、誰にもコントロールできないことを自分だけはできるかのような幻想を持つのをあきらめればいいのです。
コントロールできないものを受け入れることは、不必要な努力を止めることでもあります。
明らかに私達のコントロールが及ばないことはあります―太陽を昇らせることはできないし、雨をやませることもできません。
それでも雨水を流す排水路をつくることはできます。
あらゆる努力をしたにもかかわらず、水があふれて家が流されてしまうこともあるでしょう。
悲しいけれど、どうしようもないことと受け入れるしかありません。
「私が雨を止めていさえすれば」と考えて罪悪感や自責感に駆られるような混乱におちいったりはしないものです。
けれど生活の他の面では、すぐに混乱が起こります。
私達が何かを強く望む時、そのことに自分の命がかかっているかのように思ったり自分の価値がかかっていると思いこんでしまい、「どうしてもそうならなければいけないのだ」と信じるようになります。
この考え方には、自分にはそうすることが「できる」はずだという信念が含まれるのです。
「私はどうしてもあの人にあいされなければいけない」と考えることは、二重の意味で誤りです―あなたはその人の愛がなくても死にはしないし、雨を止めることができないのと同じように誰かがあなたを愛するようにすることもできません。
それでも、なにかが欲しいという思いにとらわれ過ぎると、これが分からなくなってしまうのです。
親も同じです。
「うちの子はいい子でなければ」「うちの子は一生懸命勉強しなければ」という信念に続くのは「・・・だから私は必ずそうなるようにしなければ」です。
けれど、結果が出るのは慈しまれ励まされることによってで、コントロールによってではないのです。
生活を秩序立てようとする努力が無駄というわけではありません。
少なくともある程度の時間における、ある程度の秩序は欠かせません。
けれど私達はしばしば、生活のすべての面や周囲の人みんなの人生をコントロールしなければという思いに駆られてきたのです。
何はコントロールできて、何はできないかについて、アーネスト・カーツはこんなふうに言っています。(『The Spirituality of Imperfection』より)
ベッドに入るかどうかはコントロールできる。
眠りはコントロールできない。
本を読むことはコントロールできる。
理解するかどうかはコントロールできない。
遊びを始めることはコントロールできる。
ゲームに勝つかどうかはコントロールできない。
知識を蓄えることはコントロールできる。
知恵を得るかどうかはコントロールできない。
コントロールできることとできないことの違いを学ぶのは、自分の限界を受け入れる第一歩です。
私達は神ではないし、全能でもありません―ただの人間であり、その力はおのずと限られたものなのです。
コントロールを手放すのは、自分はすべての答えを知っているべきだという幻想を放棄し、あらゆることを管理しなければという思いを放棄することです。
過去は変えられないという事実を認め、未来をコントロールする力を持たないことを認めましょう。
私達に残されているのは、今ここにある現実の暮らし。「今、ここ」に生きることなのです。