ナルシストとは

ナルシストの傷つきやすい思考を理解する

ナルシストはこんなムダな努力で疲れてしまう

ナルシストとは他人に悪く思われないように、他人に低く評価されないように、自分が傷つかないように、ただそんなことばかりに気をつかって生きてきた人である。

他人に対して自分を守る必要などどこにもないのに、そのことだけに全力を尽くしたようなりきみがある人がいる。

自分に自信がなかったから、そんなことばかりに気をつかってしまったのだろう。

「どうやったら自分が傷つかないか」、それがテーマの人がいる。

「どう生きたらよいか」ということは、「どうしたら傷つかないか」ということと同じに思っている人がいる。

そして、実は心の中ですでに深く傷ついていたのである。

大切なことは、自分が深く傷ついているという自覚ではなかった、ということだ。

小さい頃、自分にとって重要な人間に認めてもらうという心の必要性のために、別の必要性は犠牲にされていた。

小さい頃、自分にとって重要な人間にかわいがってもらうために、自らの甘えの欲求の満足を断念した。

そうした心理的挫折を体験したことで、その人の心の中は深く傷ついている。

つまり、自分はありのままでは愛されるに値しない人間だという自分のイメージが、心の中にできあがってしまっていたのである。

ありのままの自分は人々にとって価値のない人間である。

自分は人々に好かれない人間である。

そうした自分のイメージが心の中にできあがっていた。

自分は愛されないけれど、あの人たちは愛される。

自分は価値がないけれど、あの人たちは価値がある。

そんな自分と他者とのイメージが心の中に定着していた。

その心の中にある自分と他者とのイメージを必死になって否定しようとしていた人が多くいる。

しかし、自分には価値がない、自分は愛されないという心の中のイメージは、否定しようとして否定できるものではない。

意志の力で無意識に追いやろうとしたり、理性で、そんな感じ方はおかしいと主張してみたりしても、それは消えない。

おそらく多くの人は、心の奥にある、自分は価値がないという感じ方と、必死に闘っていたのではないだろうか。

傷つかないためにはどうしたらよいか、その一つの方法は撤退である。

こんなムダな努力で疲れてしまう人

他人と自分を比較するなという話をすると、「他人と自分を比較して、他人を見習うことはいいことではないですか」という質問が出る。

まさに、そのとおりである。

ただ、その質問をした人と人付き合いが怖い人との、心の底にある自分についてのイメージがまったく違っているのである。

その質問をした人はおそらく心の底に、自分は価値があるという自分のイメージをもっていたのであろう。

だから、その人は自分と他人とを比較しても傷つかなかった。

そして自分と他人とを比較しても生きていかれた。

なによりもその人は、心が退行的になる理由を抱えていなかったのであろう。

私は当時、自分は価値がないという自分のイメージを心の奥底にもっている人に対しては、あまりにも多くの訴えかけるべきことをもっていた。

しかし、自分は価値がある、人に好かれる、愛されるという自分のイメージを心の奥底にもっている人に対しては、訴えかけるものをなにももっていなかったのである。

「他人にどう思われたって気にするな」ということについても同じである。

自分は価値が無いという自分のイメージを心の底の底にもっている人にとっては、他人が自分をどう思うか、ということを気にすることは傷つくことに結びついている。

自分は他人に好かれないのではないか、自分は他人に愛されないのではないか、と心の底で感じている人にとってみれば、他人が自分をどう思うかということを気にすることは、傷つくことであり、また、よく思われるためには、実際の自分を偽らなければならないことである。

他人が自分をどう思うかと気にすることは、ほんとうにつらいことなのである。

ところがこれもまた質問がでた。

他人からどう思われたって気にするな、ということは身勝手なことをすることにならないか、という質問である。

しかし、これも前のことと同じである。

この質問者と人付き合いが怖い人とでは、心の底にあるイメージがまったく逆だったのである。

この質問者は、自分はべつに他人に嫌われる存在ではないという、自分についてのイメージをもっていたのであろう。

小さい頃、親にありのままの自分を受け入れられた人なのであろう。

したがって、他人が自分をどう思うか、他人は自分のことを自分の望むようには思ってくれない、だから傷つく、ということのない人なのである。

人間は、自分が自分のことをどう感じているかということによって、ものごとへの反応はいろいろと違ってくる。

肉体的なことを考えればすぐわかる。

病気の人と健康な人がいれば、それぞれすすめることが違う。

三十九度の熱のある人に散歩してくることを誰もすすめないであろう。

心理的にいえば、自分は価値がある、自分は他人に拒絶される存在ではない、自分は他人に受け入れられる、と感じつつ育った人、あるいはそんなことを意識することさえなく育った人が心理的に健康なのである。

大切なことは、自分が自分をよく思えるようになることである。

そのためにはやはり一度、自分は自分のことを悪く感じているという心の底の感じ方を正直に見つめることであろう。

そのことを正直に見つめることさえできれば、自分は価値がないというおしつけられた感じ方は消えていく。

しかし、その心の底の自分についてのおしつけられた感じ方と直面することを避ければ、いつになっても自分についての否定的な感じ方は心の底にこびりついているであろう。

他人が自分のことを悪く思うのが怖いのは、自分が自分のことを否定的に感じているからにすぎない。

もし自分が自分のことを肯定的に感じることができさえすれば、他人が自分のことを悪く思っても、それによって傷つくことはないのである。

もし自分が自分のことを肯定的に感じることができれば、他人に自分をよく印象づけようとする、神経質な努力で疲れることもなくなるであろう。

また不安な緊張で身をかたくすることもなくなるであろう。

ナルシストは心の底で自分のことを蔑視している

本当の「思いやり」と「やさしさ」とは

偉そうにして虚勢を張っている者ほど、他人の批判で傷つくであろう。

高慢な人間は、どんなに平静をよそおっても、批判されたら心の底では傷つく。

高慢な人間は、心の底で自分を軽蔑しているからこそ、他人の自分への批判に過敏なのである。

そして自分を批判するものを激しく憎む。

虚栄心の強い人というのも同じであろう。

他人を見下し、自分のもっているものや、自分の地位を鼻にかけながら、他人が自分をどう見ているかを気にかけ、そして他人の批判に過敏に反応する。

おそらく虚栄心の強い美貌の夫人は、鏡を見て自分の美貌にうっとりし、一日に何度でも鏡を見るだろうし、なによりも自分の姿を見るのが好きだろう。

あるいは自分の宝石を見るのが好きだろうし、社会的地位の高い自分の友人と話をするのも好きであろう。

美貌の夫人は、周囲の人間からちやほやされていなければ自分がもたないのではないだろうか。

この夫人の他人に対する関心とは、その人が自分にどのような反応を示すかということでしかない。

つまり他人そのものにはなんの関心もない。

彼女に関心があるのは自分だけである。

湖に映る自分の姿に見とれるナルシストとは、実は自分に自信のない美青年なのである。

彼は湖に映る自分の姿を見ているようである。

しかし、これは彼自身の目が彼の姿を見ているのではなく、他人はこんなにも自分を美しく見ているのではないだろうか、ということである。

彼は彼自身の姿に見とれているのではなくて、他人の心の中に映った自分の姿に見とれているのである。

自分はこんなにも美しく他人に映っていると思って酔っているのである。

彼が酔っているのは、自分の心に映った自分ではない。

彼がたたえているのは、自分の心に映った自分ではなく、他人の心に映った自分なのである。

もっと言えば、彼は自分の心に映る自分ではなく、他人の心に映る自分にしか関心がないのである。

彼は自分がどのような人間であるかに関心がない。

彼は自分が他人の心にどのように映っているかに関心があるのである。

だからこそ、他人の批判に過敏に反応するし、他人の言動に傷つきやすいのである。

ナルシストは自己評価の低い人と同じく、傷つきやすい。

それは自分の本質そのものに関心がなく、他人の心に映る自分にしか関心がないからである。

自分がなにであるかという関心ではなく、自分がどう見られているかという関心がナルシズムにはある。

他人にとって自分がなにであるか、ということがナルシストには大切なのである。

他人に嫌われることを恐れて他人に対していろいろ配慮をする自己執着的人間は、ナルシストなのである。

そうした意味で『精神衛生講話』(岩波書店)を書いた精神科医の下田光造のいう執着性格というのは、ある面ではナルシストでもある。

他人に対する配慮があっても、それはあくまでも他人が自分に好意をもつためのものである。

他人に嫌われることで傷つく。

だからこそ他人に配慮する。

他人に対する配慮はあくまでも、自分が傷つくことに対する防衛のための配慮である。

執着性性格の人も、どこまでいっても他人そのものには関心がいかない。

どこまでいっても関心は他人の心に映る自分の姿だけである。

我執というのが、ある面ではナルシズムなのである。

ナルシズムを自己愛と訳したことに大きな間違いがあった。

我執の人は、他人に批判されると傷ついて怒る。

そして怒れないときには抑うつ感情に襲われる。

執着性性格はうつ病の病前性格である。

それは怒れない我執の人を表現している。

ナルシストや我執の人は、傷つくことを恐れて過度に自分を防衛する。

しかし他人が傷つくことにはまったく無関心である。

他人に関心がないのだから当たり前であるが、とにかく他人に対する思いやりはゼロである。

思いやりとかやさしさというのは、ナルシズムが解消されれば自然に生まれてくるものである。

逆にナルシスティックな愛の対象とされたほうはかなわない。

ナルシストの親に「愛された」子はいつも傷ついている。

親にとって唯一の現実は自分の人生であり、自分のナルシズムである。

子どもの欲求と自分の欲求が違うということを認識できない。

そのような親は子どもの欲求をふみにじりながら、「こんなに愛しているのに」というようにしか理解できないのである。

親からしてほしくないことをしてもらって、「嫌」とは言えず、うれしそうな顔をしなければならない子、そんな子はいつも心理的に挫折し、傷つきながら生きている。

ナルシストの親にとって、この世の中で欲求とは、自分の欲求だけなのである。

彼は他人の言葉を聞いていない。

彼にとって他人の話は音でしかない。

自分以外に重要な現実がないのだから、当たり前である。

したがって、子どもの心を傷つけながら、自分は子どもを愛してやまないとしか思えないのである。

昔々からこのような過ちはあった。

あのイプセンの『人形の家』がそうである。

ヒロインであるノラが言った次の言葉は、夫には理解できなかった。

「あなたたちは、私にたいへんな間違いを犯してきた人です。はじめにお父さまが、それからあなたが」

夫は驚く。「なんだって、・・・おまえをこの世でなによりも愛してきた私たち二人が」

夫は決してウソをいっているのではあるまい。

ただエゴイスティックにナルシスティックに自分の欲求を満たすことと、愛することが違うということが理解できないだけである。

ノラは「お父さまも、あなたも私に対してたいへんな罪を犯してきた」という。

罪を犯しながらも、それを愛としか思えないほどナルシストの現実はゆがんでいる。

ナルシストは立派な親という自己のイメージを限りなく愛するのである。

そしてそのイメージを傷つけるものに対して憎しみをもつ。

「ちょっと弱い自分」の受け入れ方

我執の人、ナルシストはうぬぼれている。

うぬぼれるとは、「うぬ」つまり自分にほれるということであると解説されている。

これこそが湖に映った自分の姿に魅せられて死んでいくナルシストの姿ではなかろうか。

「うぬ」にほれてしまって、他人にほれることができないのである。

だが、うぬぼれている人間もやはり傷つきやすい。

すばらしい自己像に自信がないから、どうしても批判に過敏になるし、批判に傷ついてしまう。

うぬぼれている人間は、心理的に不安である。

心の底には劣等感がある。

心の底では、実勢の自分は、自分がそうであると主張しているすばらしい自己像とは違うと知っている。

うぬぼれている人間は、心の底の無意識のレベルで自分が劣っていると感じていることを知っている。

そしてそれを憎んでいる。

そしてその無意識のレベルにある劣等意識を他人に投射する。

劣っている人間に対して厳しい批判をし、軽蔑し、憎む。

これみよがしに嘲笑する。

うぬぼれている人間が劣った人間をこれみよがしに嘲笑するのは、うぬぼれている人間の心の葛藤をあらわしているのである。

彼は自分が劣っていると感じていることを、どうしても認めることができない。

しかし心の底の底では、自分が劣っていると感じている。

そのような心の葛藤は苦しい。

その苦しさを一時的にせよ救ってくれるのは、劣った人間を非難し、軽蔑することである。

自分が冷たいということを心の底の底で知りつつ、それを認めることができない人が、ことさらにあたたかさをよそおう。

そしてなによりも、そのようにあたたかさをよそおう人は、冷たい人を鋭く糾弾する。

自分の弱点を受け入れられない人が、同じような弱点をもった人にもっともつらくあたる。

他人の弱点に対してあたたかい思いやりを示す人は、自分の弱点を受け入れている人である。

心が弱いということにあたたかい思いやりを示す人は、体が弱いことを受け入れている人である。

体力があって、たくましい人間にあこがれ、厳しい出世競争に勝ち抜きたいと願いながらも、それだけの体力がない男がいる。

しかしがんばって、気力で体力のなさをカバーし、どうしても自分が体力的に劣っていることを認められない男がいる。

そんな男性がもっとも体力のない同僚に冷たいし、大げさに嘲笑しようとする。

ほんとうに体力があったり、また体力はないが、そのことを受け入れている人は、体力のない人に思いやりがある。

ただ、心の底の底で体力がないと知りつつも、気力で体力のなさをカバーしているような男は、ときに自分の体力にうぬぼれている。

無意識のレベルで自分を憎みつつ、意識のレベルで自分に惚れている人が、うぬぼれている人ではなかろうか。

第三者から見て高慢でうぬぼれている人がいる。

そうした人は、やはり心の底で自分を憎んでいることの反動形成として、そうなってしまっているのである。

ナルシストの自己誇大視は自己蔑視の反動形成であると先に書いたが、うぬぼれについても同じである。

ナルシスト、我執の人、うぬぼれている人、これらの人は皆傷つきやすい。

それは無意識のレベルで、自分を憎んでいるし、軽蔑しているし、信じていないからである。

まとめ

小さい頃の養育環境で、ありのままの自分には価値が無いという思考が根付いてしまっている。

もし自分が自分のことを肯定できれば他人に嫌われても傷つくことはないし、相手にいい顔をすることもなくなる。

高慢な人は、心の底で自分を軽蔑しているから他人の自分への批判に過敏なのである。

ナルシストは傷つきやすい。