世界地図と地球儀

順番に考えましょう。
まず、われわれは共同体の一員として、そこに所属しています。
共同体の中に自分の居場所があると感じられること、「ここにいてもいいのだ」と感じられること、つまり所属感をもっていること、これは人間の基本的な欲求です。

たとえば学業、仕事、交友、そして恋愛や結婚も、すべては「ここにいてもいいのだ」と思える場所やかんけいをさがすことにつながっている。そう思いませんか?

そして、自分の人生における主人公は「わたし」である。
ここまでの認識に問題はありません。
しかし「わたし」は、世界の中心に君臨しているのではない。
「わたし」は人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、全体の一部なのです。

自分にしか関心を持たない人は、自分が世界の中心にいると考えてしまいます。
こうした人たちにとっての他者とは、「私のために何かをしてくれる人」でしかありません。
みんなわたしのために動くべき存在であり、わたしの気持ちを最優先に考えるべきだと、半ば本気で思っています。

彼らは「人生の主人公」を飛び越えて、「世界の主人公」になっているのです。
そのため、他者と接する時にも「この人は私に何を与えてくれるのか?」ばかりを考えています。

ところが―おそらくここが王子様やお姫様と異なるところでしょう―その期待が毎回満たされるわけではありません。
なぜなら、「他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない」のですから。

それで期待が満たされなかったとき、彼らは大きく失望し、酷い侮辱を受けたと感じます。
そして憤慨するのです。「あの人は私に何もしてくれなかった」「あの人は私の期待を裏切った」「あの人はもう仲間ではない、敵だったのだ」と。
自分が世界の中心にいる、という信念を持っている人は、遠からず「仲間」を失う結果になるでしょう。

おそらく、あなたは「世界」という言葉を使われるとき、世界地図のようなものをイメージされているのでしょう。

たとえばフランスで使われている世界地図では、アメリカ大陸が左端にあり、右端にはアジアが位置しています。
もちろん、地図の中央に描かれるのはヨーロッパであり、フランスです。
一方、中国で使われている世界地図だと、中央には中国が描かれ、アメリカ大陸が右端に、ヨーロッパは左端に描かれています。
おそらく、フランス人が中国版の世界地図を見た時、じぶんが不当に端へと追いやられたような、世界を恣意的に切り取られたかのような、名状しがたい違和感を抱くでしょう。

しかし地球儀で世界をとらえた時にはどうなりますか?
地球儀であればフランスを中心に見ることもできますし、中国を中心に見ることも、ブラジルを中心に見ることだってできるわけです。
全ての場所が中心でありながら、すべての場所が中心ではない。見る人の場所や角度によって、無限の中心が点在する。
それが地球儀というものです。

先ほど申し上げた「あなたは世界の中心にいるわけではない」も、同じことだと考えてください。
あなたは共同体の一部であって、中心ではないのです。

ここで最初の話に戻るわけです。
われわえはみな「ここにいてもいいんだ」という所属感を求めている。
しかしアドラー心理学では、所属感とはただそこにいるだけで得られるものではなく、
共同体に対して自らが積極的にコミットすることによって得られるのだと考えます。

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「人生のタスク」に立ち向かうことです。つまり、しごと、交友、愛という対人関係のタスクを回避することなく、みずから足を踏み出していく。
もしもあなたが「世界の中心」なのだとしたら、あなたは共同体へのコミットなど露ほども考えないでしょう。
あらゆる他者は「私のために何かをしてくれる人」であり、自分から動く必要などないのですから。

しかし、あなたもわたしも世界の中心にいるわけではない。自分の足で立ち、自分の足で対人関係のタスクに踏み出さなければならない。
「この人は私に何を与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人に何を与えられるか?」を考えなければならない。
それが共同体へのコミットです。

所属感とは、生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得していくものなのです。

対人恐怖症、社交不安障害を克服するには対人関係を世界地図ではなく地球儀で見ることである。