
『敦煌』などの作品で、何度もノーベル文学賞の受賞を期待された作家の井上靖もまた、回避型の愛着スタイルを抱えた人物だった。
両親ではなく、血のつながっていない祖母に育てられた幼年時代の体験は、『あすなろ物語』や『しろばんば』といった名作に描かれているが、井上靖が、当時としては珍しいモラトリアムの前半生を過ごしたことについては、あまり知られていない。
彼は、現代の回避的なライフスタイルを先取りしたような生活を、かなり長く送ったのである。
井上家は、代々伊豆の湯ヶ島で医者を生業としていたが、父親は軍医となったので、家族は共に方々の任地を転々とした。
『幼き日のこと』『青春放浪』などによると、井上靖が生まれたのは、旭川にいるときであったが、一歳になるかならないかのとき、父親に従軍命令が下り、母親と井上靖は、伊豆の実家に身を寄せることとなった。
旭川から伊豆までの旅は、難渋を極め、乳飲み子の井上靖は泣き通しであったという。
その後、父親が帰還し、親子水入らずの日々に戻ったものの、それも長くは続かなかった。
母親が、続けて二人の子を身ごもったのだが、下の一人がお腹にいるとき、音を上げてしまったのである。
つわりで体調もすぐれなかったのだろう。
結局、長子の井上靖が、祖母のもとに預けられることになった。
一時のはずだったが、母親は出産しても、井上靖を迎えに行こうとはしなかった。
祖母に懐いているのをいいことに、引きとるのを一日延ばしにしたのである。
そして、ずるずる一年が経ってしまった。
ようやく迎えに行ってみると、井上靖は祖母にしがみついて離れようとせず、祖母も、井上靖を渡すことに抵抗した。
母親はすごすごと引き下がり、結局、井上靖は、祖母が亡くなる小学校6年まで、土蔵の中で祖母と生活を共にすることとなる。
祖母は、実は井上靖と血のつながりはなかった。
曾祖父が生前、妾にしていた女性で、井上靖の母親を養女にして分家させてもらっていたのである。
寄る辺ない身の上の祖母にとって、一家の長子である井上を手元においておくことは、自分の立場を裏付ける錦の御旗である。
それゆえ、一層執着を強めることにもなったのだろう。
母親にしても、養母に対する遠慮から強い態度に出られなかったということもあった。
いずれにしろ井上靖は、何もわからないままに大人の事情に巻き込まれ、母親との愛着を育む機会を失い、代わりに、祖母に溺愛されて育つこととなったのである。
井上靖は小学校を卒業したら、祖母のもとを離れて、浜松の両親のもとに移ることになっていた。
祖母との別れの日が来るのを、重苦しい気持ちで待っている矢先、祖母はジフテリアにかかって、あっけなく逝ってしまう。
小学校を卒業する三カ月前のことだった。
井上靖は、悲しみにくれた。
両親のもとで暮らす歓びなどなく、ただ祖母を失った悲しさが、彼の胸中に尾を引くこととなった。
浜松に移った井上だが、中学受験に失敗し、両親のもとで一年浪人生活を送る。
しかし、両親に対する愛着は薄く、小学校にもう一年通わなければならないという屈辱的な状況もあり、決して楽しい日々ではなかった。
中学に入ると、再び下宿をしたり寄宿舎に入ったりして、家の家族との縁薄い人生を歩むことになる。
そのころ井上靖は、器械体操に熱中していたが、やがて柔道に出会う。
再び浪人して金沢の四高(現金沢大学教育学部)に進むと、毎日柔道に明け暮れた。
青年時代の井上靖は、人見知りが強く、無口で、打ち解けず、頑固で、反抗的なところがあった。
そんな井上靖にとって、厳しく自分を律する生活は、むしろフィットするものがあったのか。
井上靖に限らず、回避的なスタイルの人は、しばしば禁欲的な自己鍛錬に救いを見出すことがある。
ところが、そこでも井上は思いもかけない挫折を味わう。
柔道部の部長だった井上靖は、厳し過ぎる練習から、新入部員が皆無になったという事態を打開するべく、規律を少しだけ緩めるという策をとった。
しかし、そのことが伝統を重んじる先輩OBの逆鱗に触れることになった。
柔道部の存続のためにとしたことが、誤解されてしまったのだ。
井上は責任をとって、柔道部を退部した。
これに関しては、『私の自己形成史』で触れているだけで、当時を振り返った他の文章には出てこない。
高校生活ものこりわずかというときに起きたこの事件は、井上靖の心に深い傷を残したに違いない。
井上靖は、医者の家系の出身ということもあり、医者になることを当然期待されていた。
そのため、四高では理科(現在の理科系に相当)に進んだ。
だが、井上靖の才能が理科系にないことは明白だった。
成績からしても、医学部に進むことは難しくなっていた。
井上靖は、高校時代から文学や詩に目覚め、自分でも創作を始めていた。
井上靖は京都帝大で哲学の勉強を志すも、理科にいたことから文科の勉強にはハンディがあり、結局進学できたのは、空きがあった九州帝大の英文科だった。
しかし井上靖は、九州に行くことさえせず、東京の下宿で好きな本を読み耽って過ごした。
そういう暮らしができたのも、両親が当時台北の任地にいて、自由を許されていたからであった。
ようやく大学三年になろうとしたとき、京都帝大に空きが出来たことを知り、急遽そこの哲学科に移ることになった。
そして、そこで一年からやり直すこととなったのである。
ただ、このころも講義にはまったく出ず、少数の友人との付き合いがあるだけの生活であった。
特に将来何をしたいという希望も目的もなく、ただ時間延ばしをするように暮らしていたのである。
井上靖のこうした暮らしぶりは、高度経済成長が終わったころから、学生を中心にみられるようになり、「モラトリアム人間」とか「モラトリアム世代」という言い方がされるようになった。
井上靖はそれを先取りしていたと言えるだろう。
モラトリアムとは「猶予期間」という意味であり、人生の本番が始まるまで、肝心なことは決定せずに、宙ぶらりんのまま過ごす期間を指す。
肝心な決断や行動を避けるという意味で、それは回避行動の一つの形であり、期間限定の回避だと言うこともできるだろう。
モラトリアム的な暮らしが、人生の中で確かに必要な時期もある。
問題は、それがいつまでも続いてしまうと、人生が何も始まらないまま終わってしまうということだ。
モラトリアムが種まきの時期となれるか
モラトリアムが、ただ続いてしまうか、そこから脱する方向に動いていくか。
その分かれ目はどこにあるのだろうか。
モラトリアムが、新たな飛躍のための雌伏の期間となるためには、何が必要なのだろうか。
大学を卒業した井上靖は、新聞社に入る。
しかし、就職しても、井上のモラトリアムと回避的ライフスタイルは続いた。
新聞記者には、当時からはっきり二つの人種がいたという。
一つは、出世と特ダネを目指して、猛烈に働く記者たちで、もう一つは、そんな競争とは無縁に、マイペースでのんびりと過ごす、出世争いからは降りた記者たちだった。
井上靖が後者に属したのは言うまでもない。
寝る間も惜しんで働く記者たちを尻目に、井上靖は昼頃出社して、さっさと退社した。
ときには何日も出社しないこともあった。
そんな働き方が許されたことは、井上靖にとっては誠に幸いだったと言うべきだろう。
井上靖は、宗教や芸術といった、新聞のなかではマイナーな欄を担当することになったのだが、これが井上にとって新たな世界を開くきっかけとなった。
新聞社には、各分野に造詣の深い一流の先達がいて、その教えを受けながら、仏教や美術について学ぶことができたのだ。
また取材を通して、実物を目の当たりにしたり、作者の謦咳に接することで、井上靖は自分なりの見る眼を育んでいった。
記事やエッセイなどを任されたことも、格好の作家修行になった。
当時は戦争へと向かう暗黒の時代であった。
しかし井上靖の場合、政治や経済のゴタゴタから距離をおき、精神的な世界に沈潜し、現実世界から回避していたことが、むしろその後の創作のための豊かな土壌を培うこととなったのである。
モラトリアムの期間は、決して無駄なことばかりとは言えず、それが必要な時期もある。
大事なことは、その期間をいかに使うかということだ。
現実の些事を回避し、自分を守ることも大切だが、それが自分の可能性を狭くすることにつながってしまったのでは、後の実りは期待できない。
内面を豊かにするような作業を試みたり、ある面では回避しつつも、他の面では新たなチャレンジを行なうということがなされていれば、その時間は、種まきのための時間として重要な意味をもつだろう。