アメリカの心理学者デヴィッド・シーベリーは「飽和の法則」ということをいっている。

水で満たされたコップにそれ以上水を注いでもこぼれるように、人間にも限界があるという。

人が怖い人は疲れ果てているから、障害に対して極めて過敏なのである。

「障害は乗り越え不可能と感じる」。

ある人が怖い女性は、ペンを探すことができないと考える。

しかし目の前の袋の中にペンが入っていることを知っている。

要するに袋の中からペンを取り出すことすらできない。

それほど心身ともに疲れ果てている。

ペンを取り出すことだけができないというのではない。

何もできないといったほうがいいかもしれない。

同じように、ある男性の車のタイヤがパンクした。

彼は自動車のメカニックだったのであるが、自分には何もできないという思いに圧倒された。

タイヤがパンクする以前からすでに彼は、その状態を保っているのが精一杯なのであろう。

そこにタイヤのパンクという新たな問題が出てきた。

そこで「もう私には何もできない」と感じる。

それは不思議なことではない。

タイヤがパンクする前から、彼はすでに新しく何かあったらそれに対処できないという心理状態のところまできていた。

心身ともに消耗しきっていた。

もう何もできないところまで心身ともに枯渇しているところに、新たに問題が起きた。

そうなれば自動車の修理工であっても、タイヤの交換はできない。

おそらく、その人が怖い人は自動車のことがすきではないのに、修理工になったのであろう。

そして真面目に働いたのであろう。

小さい頃から、自分に向いていないことでも一生懸命に努力したのであろう。

小さい頃から自分の体にムチ打って、無理に無理を重ねて生きてきた。

嫌いな人に囲まれながらも、笑顔で生きてきた。

無理をしながらも、無理を顔に出さないで生きてきた。

嫌いな人でも、「好きです」という態度で生きてきた。

「嫌い」を隠し、無理を隠し、何が何だかわからなくなるまで、必死で生きてきた。

その苦しさ、辛さは、自分の適性に沿って生きることが許された人には想像ができないものであろう。

小さな子どもでも、遊んでいる時のシャベルが好きだから、夢中で遊んだあとにはシャベルをちゃんと洗っている。

人が怖くなるような人が「疲れた」ということと、心理的健康な人が「疲れた」ということは意味が違う。

「せっかく誠実に骨折ってもそれが効果的でなかったら、ただキリもなく消耗するだけです」と、シーベリーはいっている。

人が怖い人が心の疲れを癒す方法

今述べたように、人が怖い人は心身ともに、疲れ果てている。

生きるエネルギーは枯渇している。

ではなぜ、その人は生きるエネルギーが枯渇したのか?

なぜ他の人の生きるエネルギーは枯渇しないのか?

人が怖い人の生きるエネルギーの枯渇は、所詮は人間関係が原因である。

人が怖くなるような人は、周りから適当に操られたり、脅されたり、こちらから相手に迎合したり、虚勢を張ったりしつつ、疲れ果てたのである。

好かれるために無理して取り繕うからいけない。

飽和状態になった。

不毛な努力の結果、消耗したのである。

なぜそこまで疲れ果てたのか?

それはサディストとマゾヒストの関係で頑張ったからである。

自分の内面からの望みを達成するために、耐えて頑張ったのではない。

サディストから傷めつけられることに耐えて、頑張ったのである。

「人が怖い人を生み出す家庭の特徴」といわれるものがある。

主権的人物と服従依存の関係があれば、服従しているほうにマゾヒズムの傾向が出て当たり前である。

そして親の側が好意的サディスト-口では「あなたさえ幸せなら、私も幸せ」といいながら、子どもを束縛している親-である可能性がある。

こうした生き方を続けていれば、当然のことながら低い自己評価になる。

自分の判断で何かを決めることができない。

何をするにも自分の意見ではなく人の意見に頼る。

そうしているうちに自分の意見そのものがなくなる。

人が怖い人の特徴として、「意志の麻痺」ということがあげられるが、服従依存の関係を長いこと続けていれば「意志の麻痺」になるのは当たり前である。

そもそも自分の意志があったら服従依存の関係を続けられない。

小さい頃からこうした性格が出来上がってくると、大人になってからも、人との関係でつねにマゾヒスティックな立場をとるようになる。

人が怖い人の夢は、心を不安にする、不愉快な、感覚に強く訴えるものである。

人が怖い人は夢の中でも、奪われ攻撃され、排除され、失敗する。

ただ、悪いのがサディストのほうだけであると認識をしてサディストを恨んでいたのでは、人が怖い人のエネルギーの回復はない。

サディストに狙われたのが、人が怖い人になった人の弱さである。

サディストは弱い人を狙う。

もし、サディストに狙われたときに、「オレではなく、あんたが対人恐怖になってくれ!」と出刃包丁をたたきつければ、相手は退く。

脅しをする人は、脅しに弱い。

心理的呪縛の中にいれば、呪縛の中にいると気が付かない。

相手に脅され、相手のいいなりになりながら、自分が相手に呪縛されていると気が付かない。

自然体で生きる

無理をしない自己実現の努力で、楽しい人生を送っている人がいる。

そういう人と人が怖い人と、どこが違うのか?

日々の生活の満足感、日常生活の価値観、何を大切に生きているかという「心の軸」等々。

さらに自分の周囲にいる人たちと、楽しい人生を送る人の周囲にいる人たちとの違いは何か?

さらに自分と自分の周囲の人との人付き合いと、楽しい人生を送る人とその周囲の人との人付き合いの、何が違うのか?

それを考えれば、自分が人が怖くなった道が見えてくる。

「ああ、自分は質の悪い人たちとかかわって生きてきたのだな」ということが理解できる。

人が怖くなった人も、もし生きることに疲れ果てた時点で「いかに生きるか?」を考えれば、人生は新しい局面を迎えた可能性がある。

人が怖くなりかけたとき「今までの何がいけなかったのか?」を考えれば、人生は新しい局面を迎えた可能性がある。

しかし人が怖くなるような人の周りには、そういうアドバイスをする人はいない。

人が怖くなるような人の周りには、貪欲に愛を搾取する人ばかりである。

人が怖くなるような人は、人災の連続であった。

人災なのに人災と意識していない。

小さい頃からの家族との楽しい食事の思い出がない人と、数々の思い出がある人では、人生が全く違う。

楽しい食事の思い出がない人は恐怖の中で生きてきた。

そんな家に育った人と、ありのままの自分を受け入れられて育った人では、まったく違う世界に住んでいる。

子どもをありのままの子どもとして受け入れられない親は、子どもが嫌いである。

嫌われて育った人と、愛されて育った人では、生きてきた世界は全く違う。

心理的健康な人の世界と、人が怖い者の世界とは、大空を飛んでいるワシと、暗い地下にいるモグラの世界以上に違う。