人が怖いの病前性格である「執着性格者」というと、すぐに「義務感・責任感が強い」ということがいわれる。

そのことはうつ病になるような人にとって、「毎日いかに生きていることが嫌であったか」を表わしている。

人付き合いが怖い人の共通意志は「日常の決まりきったことから逃れたい」ということである。

主婦なら家事から逃れたいと思う。

人付き合いが怖い人は自分の義務を意味のないつまらないものと思う。

「責任のある活動に従事するように追い込まれると、もっと受け身の複雑でないことに逃れたいと思う」。

つまり「義務と責任から逃れたい」というのが人が怖い人の願いである。

それにもかかわらず、執着性格者は、「義務感・責任感が強い」といわれる。

要するに、嫌で嫌でしょうがないことを毎日やっているのが、人が怖い人の病前性格としての執着性格である。

そしてついに力尽きて、人が怖くなった。

自分の人生を楽しめる人、楽しめない人

なぜ執着性格者は、嫌で嫌でしょうがないことを毎日やっていたのか?

それは人からよく思われるためであり、人から変な人と思われないためであり、人から嫌われないためである。

ある人が怖い教授である。

「『逃れる』というのが私の最も強い願望である。

どんな職業でも、私はもっと気分がよいと感じる」という。

逃げたい、逃げたいと願いながら、逃げられないで生きてきた。

そして人が怖くなった。

「義務感・責任感が強い」といわれる執着性格者は、ドイツの精神分析学者エーリッヒ・フロムのいう「神経症的非利己主義」にしか過ぎない。

つまり神経質が「義務感・責任感が強い」という仮面をかぶって登場しているに過ぎない。

人が怖い人は嬉しいと楽しいの違いに気付く

「満足がないということが、うつ病者の共通した症状である」とアーロン・ベックはいう。

アーロン・ベックのいう「満足」というのが、「楽しい」ということであろう。

人が怖い者は楽しいことがない。

人が怖い人にも、人が怖くなる以前には喜びはある。

喜びは、不安や安心と関係している感情である。

それは別の視点からいうと、「成功と失敗の軸」の中で出てくる感情である。

人が怖くなる以前に「よい子」であって、誉められたときには喜びを感じた。

認められる、誉められる、受け入れられるというようなときには喜びを感じる。

しかしそれは、「楽しい」ということではない。

「よい子」で生きていることは楽しくないが、受け入れられ誉められれば嬉しい。

ネコがネコとして受け入れられれば嬉しくて楽しいが、ネコがイヌとして受け入れられたときには嬉しくても楽しくはない。

人が怖い人が仮面をかぶって誉められても嬉しいが、楽しくはない。

しかし仮面をかぶらないで生きていれば、毎日は楽しい。

「楽しい」は、満足と関係している感情である。

ネコがネコとして生きられたときには楽しいのである。

「楽しい」とは別の視点からいうと、「充足と絶望の軸」の中で出てくる感情である。

「成功と失敗の軸」と「充足と絶望の軸」について述べているのは実存分析で知られるオーストリアの精神科医ヴィクトール・フランクルである。

とにかく、人が怖くなるような人は楽しいことがなかった。

生きていて楽しいと感じることはなかった。

人が怖い人は真面目で努力して誉められて生きていたが、楽しいことは何もなかった。

人が怖い人は自分に正直に生きて、その上で誉められたことはなかった。

人が怖い人が誉められるのはいつも、自分に嘘をついているときだけだった。

したがって自分のベースはいつも不愉快。

その楽しくないことの上に色々な体験をして生きてきた。

そしてどんなに誉められても最後には、こうして人が怖くなった。

いったい何のために誉められたのか?

仮面をかぶり続けているうちに、自分に対する深い絶望感が深刻になった。

そして生きるエネルギーを失った。

自分で決める事が出来ない人の心理

朝起きたときから、「これをしようか?」と迷う。

そして「やめようか?」と思う。

どちらにするか結局決められない。

就職をどうするかということではない。

誰と結婚するかということではない。

窓を開けるか閉めておくかというような、些細なことである。

真面目に生きてきたけど、こうして「小決断不能症」にもなった。

人が怖い人は何も決められない。

「小決断不能症」となるのは、エネルギーがないからである。

どうでもいいことに悩むのも、エネルギーがないからである。

じつは「小決断不能症」というのは、多くの場合、小さな「どうでもいいこと」で迷っているのではない。

心の底では、大きな生き方を決めかねているのである。

今の自分に自信がない。

大きな生き方を自分で決められないことが、小さなことの決断不能となって現れている。

大きな生き方を自分で決められないから、エネルギーが湧かない。

しかしよく考えてみれば、人が怖くなるような人には、もともとは、ものすごいエネルギーがある。

自分に対する深い絶望感に耐えながら、とにかく今日まで生きたエネルギーはものすごい。

人が怖い人は、そのことにまず気が付かなければならない。

仮面をかぶって何十年である。

ネコがイヌの顔をして何十年である。

普通なら死んでいる。

だから人が怖くなったら、もう休んでいい。

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人が怖くなりやすい人の共通点

今まで人と会うことが楽しかった。でも人が怖くなり出すと、人と会うのが億劫になる。

しかし、じつは本人が「楽しい」と思ったことは、本当には楽しいことではなかった。

単に嬉しいということであった。

あるいは気を紛らわしていたのである。

つまり「人が怖い」ということは、「気を紛らわすことができなくなった」ということである。

人はよいことがあれば、仮面をかぶっていても嬉しい。

給料が上がれば嬉しい。

誉められれば嬉しい。

給料が低くても楽しそうに生きている人がいるのである。

仮面をかぶっていない人である。

逆に給料が高くても、生きるのが苦しい人もいる。

人が怖い人は、小さい頃に「楽しい」という体験がない。

家族で海に行った。

そこで楽しければ海が好きになるだろう。

しかしそこで父親が不機嫌にしていれば、海は嫌な思い出でしかなくなる。

このようなことが、あらゆる生活分野で起きる。

すると、何もしたいことがなくなる。

何かをするときの動機はつねに恐怖である。

それをしないと、何かもっと嫌なことが起きるという恐怖から、それをする。

そしてそうした恐怖や不安を動機として行動すれば行動するほど、その背後にある価値観を身に付けてしまう。

神経質的傾向の強い親といれば、親に従順な子どもは何もかもがイヤになる。

「何もかもがイヤになっちゃった」という人は、心の底に恐怖と憎しみをもっている。

それが人が怖い人である。