現代の人は人に慣れていない

現代人が人に疲れるようになってきた二つ目の原因は、「生の人間同士の交流が減っている」ことだ。

生きる単位は、大家族から核家族へ、そして個家族へと変化した。

以前は祖父母や多くのきょうだいに揉まれて育った。

村の運動場や公園、原っぱなどで、年代の違う相手とも遊んだものだ。

その後も濃厚な近所付き合いや、親戚付き合い、青年団や職場を通してのお付き合いなどによって、多くの人と生で交流してきた。

大変うっとうしい部分も確かにあったが、いやがおうでも「人」に慣れることはできた。

人に慣れると「人に対する現実的な期待」を持つことができるようになる。

例えば、自分を追い詰める怖い人もいれば、やさしく守ってくれる人もいる。

あるショックな出来事に対し、もろく崩れる人もいれば、動じない人もいる。

多くの人が敵に回っても、自分を信じてくれる人がいる。

しかも、同じ人でも、状況によっては違う反応をすることもある。

正しさだけを唱えていても、人はついてこない。

努力だけでは達成できないこともある。

時に、お金ではなく、人柄がコトを解決することもある。

その逆の場合もある。

仕事においても恋愛においても、自分の信念やルールを杓子定規に適用するだけでは、他の人は動いてくれない。

言い争いやケンカ、叱責、行き違い、失恋。

私たちは、失敗したり、決定的に自分が否定されたりする中で、そのことを学んでいく。

このように大人になるにつれ、ある出来事や、ある言葉に対し、人がどういうリアクションをするのかの大まかな予測が立つようになるのだ。

それは自分を含めた「人」についての、現実的な期待尺度を持てるということだ。

これがあれば、必要以上に人を恐れることもないし、人に期待しすぎることもない。

ところが今は、さまざまな人間関係に揉まれて育つという環境も、どんどん少なくなってきている。

昨今、「中一ギャップ」という問題が注目を集めている。

小学校を卒業した子どもが、中学校に入り、違う学校出身のクラスメートが増え、部活や勉強で一気に忙しくなる。

慣れ親しんでいた友人関係や生活、これまでの自分自身とのギャップに苦しみ、心身共に支障をきたしてしまうことだ。

行政や自治体を挙げて対策に取り組まなければいけないほど、ダメージが大きくなっている。

小学校までに十分に他人と接していない子どもが増えていることを表す変化の一つだ。

中学以降も、個室を与えられ、自分のペースでゲームやSNSでの人間関係を楽しんでいる。

そのパターンが、社会に出るまで続いてしまう。

緊張して会社の電話がとれない新入社員が増えていると聞く。

自分の携帯以外は出たことがないので、名乗り方も取り次ぎ方もわからないのだ。

遅刻や欠勤の連絡をメールで済ませることも珍しくない。

休職のための「診断書」をSNSで画像添付して、人事部に提出した若者もいる。

というのも、彼らは大学で授業の欠席連絡はメールを使うという文化で育ったのだ。

生身の人間に慣れていない若者が、そのまま大人になっていくと、自分の対応を人がどう感じるのかが予測できない。

価値観が違うだけでなく、生身の人間というデータそのものが圧倒的に不足しているのだ。

KY(空気が読めない)という造語が流行語大賞候補に選ばれてもう10年以上経つが、まさに、さまざまな場面で、多くの人がKYになってしまっているのだ。

KYは、嫌われるが、まだほほえましい印象がある。

ところが、事態はもう少し深刻だ。

人に関する現実的な認識ができていないと、相手を攻撃する時、「この程度で止めておかないと・・・」というブレーキもかかりにくいのだ。

心身の痛みに対する共感能力が低下していると言い換えてもいい。

店員に土下座させる客や、商品にいたずらをしている動画をアップする人などは、明らかにKYを超えている。

朝の駅の混雑に立ちすくむ地方の若者のように、多くの現代人が、バラバラの価値観の中で、人にどう接すれば自分の望む対応が返ってくるのか、びくびくしながら、立ちすくんでしまう。

誰かにぶつかりそうになると、自分を守るために必死で腕を振り回すので、周囲の人を傷つけてしまう。

自分の行きたい方向が見つかった時も、周囲にお構いなく動き出してしまうので、他の人の足を踏む。

しかし、自分では、それらのことに気が付いておらず、周囲の怒りに驚く。

次第に人通りの少ない壁際にたたずんで、人を怖がっている人が増えているのだ。

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期待しすぎると、どうなるか?

「人」に対する現実的な期待を持てていないということは、持っている期待が小さすぎる場合と大きすぎる場合があるということだ。

どちらも問題だが、最近は大きすぎるほうの問題が目立つ。

どうして自分を含めた「人」への期待が過大になっているのだろう。

昨今の教育現場では「挫折感を感じさせたくない」「いじめの原因になってはならない」などという配慮から、競争が丁寧に避けられている。

そして子どもたちはほめられて育つ。

自分には可能性がある、何でもできる、という過剰な万能感が醸成されているのだ。

しかもインターネットがその万能感を助長している。

誰でも、一流の人々や商品、サービスにコメントできる。

自分の主張やパフォーマンスを世界に向け発信できる。

もちろん、自己肯定感が高くなるのはいい。

しかし、それが過剰になると、自分にも、他人のにも行き過ぎた「期待」が大きくなりがちだ。

期待しすぎるとどうなるか。

まず人は、自分の期待通りに動かない対象、つまり他人にイライラする。

しかしいくらイライラを募らせても、その相手は変化するわけではない。

結果、自分が疲弊する。

人を避けるようになる。

そして次第に、そういう他人や社会とうまくやれない自分へも失望し、またイライラしてしまう。

こうして、自分や他人に対して現実的でない期待を持つ現代人は、ますます人に疲れ、人を嫌うようになり、他人や社会に対し、うっすらと性悪説の目で警戒するようになるのだ。

一方、このような一般的な「人嫌い」だけでなく、個人的な過去のつらい体験が原因で、人嫌いになる人もかなり多い。

虐待やいじめが、ひどいトラウマになっている場合だ。

これもまた、核家族化が進み人間関係が閉鎖的になった現代において、顕著になってきた。

大家族では、父と息子の衝突があっても、他のきょうだいが修復してくれた。

また、息子がひどく傷ついても、それをフォローする親戚のおじさんがいた。

今は、例えば都会で共働きをしながら、子育てをしているケースも多い。

夫が深夜に帰宅するまで、くたくたになった母親が一人で子育てをする中、つい子どもにつらく当たってしまうこともあるだろう。

しかし、その時、母親にも子どもにもフォローしてくれる人がまったくいなかった場合、そういう中で育った子どもは、人間に絶対的な安心を感じられないままで大人になっていくこともありうるのだ。

虐待だけでなく「いじめ」などのトラウマも、確かに個人的な問題ではあるが、大きく言えば、社会の影響を受けて増加している部分があるだろう。

もともと人間は人が怖い

ここまで、現代人としての傾向を話してきた。

しかし、そもそも人間は、生き物として「人を怖がる」という側面も持っているのだ。

さあ、ここで、あなたの頭の中を、人類の始まりの時代にスイッチしてみてほしい。

あなたは原始人であり、小さな集落のリーダー的存在である。

50名ほどの仲間が、畑を作り生活している。

ところが今年は気候が悪く不作。

狩に出ても、小動物や鳥には逃げられ、仲間は何日も食べていない。

一方で同じくエサがなくてふもとに降りてきた危険なクマの気配も迫ってきている。

私と仲間はどうしたら生き延びることができるだろうか。

実は、そんなあなたがもう一つ警戒しているものがある。

それは、他ならない「人間」だ。

他部族は、きれいな水とクヌギ林のあるこの土地を狙っている。

奴らは我々が弱っている間に仲間を取り込み、土地を奪うかもしれない。

夜の闇に紛れて、自分を殺しに来るかもしれない。

その巧妙な手口は猛獣の比ではない。

縄張りを守り、自分たちの子孫を残す。

そのためには最大限に警戒しなくてはならない脅威は人間である・・・。

今は、想像もしにくいが、このように人が人を殺すことが当たり前の時代が、人類の歴史の中の、95%以上の時間は続いていたのだ。

この「他者に対する警戒心」が、実は、今の私たちにも根強く残っている。

いや、残っているというより、そのままだ。

猛獣や他族に脅かされることもなく、食べ物が夜中でもコンビニで手に入る時代になったのに、である。