人付き合いが怖い人の心理

人付き合いが怖くなるような人には、「たわいもないこと」に興味をもつことがない。

小さい頃から楽しいという体験がない人の生活は、経済的にゆとりがあっても、心のゆとりがない。

いつも急かされている。

人付き合いが怖くなるような人には生きる知恵がない。

知恵は精一杯生きている人には無理である。

知恵はゆとりのある人が身に付けている者。

知恵の人は「面白さ」を教えてもらっている。

それが五感教育。

損得のない教育。

精一杯なうつ病者は、ものの教育、損得の教育だけしか受けていない。

「ゆとり教育」という名前でも、結局は損得の教育だった。

だから食事の味もわからなくなった。

今は損得の教育。

五感教育と反対のことをしている。

競争教育も反対のことをしている。

ある親が子どもたちに、マンゴーとパパイヤのプリンを買って来た。

味覚のない子は値段の高いものを選ぶ。

また、ある子どもたちがシールを貼り換える。

損得の教育、競争教育をしっかりと受けている「よい子」は、やはり値段の高いものを選ぶ。

こんな考え方、生き方をしていれば、いつも生きることが不満になる。

人付き合いが怖くなるような人は、判断基準が間違っている。

人付き合いが怖いことを「大企業症候群」という人もいる。

彼らは名門大学を優秀な成績で卒業したかもしれない。

青春を犠牲にして入学した大学で色々な教育を受けたが、本当の教育はどこでも受けていない。

学校は色々なことをおしえてくれる。

しかし「スクール・スマート」になっても、「ストリート・スマート」ではない。

「ストリート・スマート」は、おいしいがわかり、綺麗がわかる。

匂いがわかる。

楽しいもわかる。

「あいつはずるい」もわかる。

神経質のエリートと落ちこぼれの楽天家と、どちらが実現に生き残るか?

明らかである。

「趣味をもて」という言葉のムチ

人付き合いが怖くなるような人に、よく「趣味をもちなさい」というアドバイスをする人がいる。

しかし小さい頃から楽しいという体験がないのに、「趣味をもちなさい」というアドバイスをするのは、馬鹿げている。

趣味がもてるような人であれば、もともと人付き合いが怖くならない。

趣味がもてないようなパーソナリティだから、人付き合いが怖くなったのである。

小さい頃からの楽しいという体験が積み重なって、大人になって趣味がもてる。

それなのに人が怖い者に「趣味をもちなさい」というアドバイスをする人は、手足を縛られている人を水の中に放り込んで、「泳ぎなさい」とアドバイスするようなものである。

まず、手足を縛っている縄をほどいてあげることであろう。

そうすれば「趣味をもて」といわなくても、趣味をもつだろう。

人付き合いが怖くなるような人に「趣味をもちなさい」というアドバイスをすれば、当然趣味はもつべきものとなり、苦しみをもうひとつ追加するようなものである。

「趣味を持ちなさい」というアドバイスは人付き合いの怖さを悪化させることはあっても、改善させるようなことはない。

「趣味をもちなさい」というアドバイスではなく、「趣味をもてる人間になりなさい」ということである。

それは自己疎外された人間でなくなること、興味と関心をもてる人間になることである。

人付き合いが怖くなるような人は、「本当はあれをやりたい」ということがありながら、つねに違ったことをしてきた人である。

しかも自分が「本当はあれをやりたい」ということを、意識すらしていないことが多い。

「本当はあれをやりたい」ということは、子どもの頃にやり残したことかもしれない。

単純な子どもの遊びかもしれない。

それをしていると楽しいということである。

それは、今していることとは全く違う。

だから、今していることは「つまらない」。

その「つまらない」ことを何十年も真面目にやり続けて、生きてきたのである。

「つまらない」と愚痴をいうこともなく、「つまらない」と意識することもなく。

そして人付き合いが怖くなった。

「あの人と遊んだら楽しいだろうなー」ということが無意識にありながら、楽しくないことをやり続けて生きてきた。

成功しても「怖い」が消えない人へ

そんな生き方は、周囲の人々からは誉められたかもしれない。

しかし生きる楽しさを体験しないうちに、楽しむ能力を失ってしまった。

楽しむ能力を失ってしまった人にとって、残された道は「上昇志向」である。

しかし上昇志向で成功しても、結果はより不安にさせるだけである。

あるいは失敗して無気力になるかである。

失敗しても成功しても内面は破壊されている。

それが「上昇志向依存症」である。

行き着くところまでいかないと、上昇志向は治らない。

楽しいことを体験した人の上昇志向と、楽しいことを体験していない人の上昇志向は全く違う。

楽しいことを体験した人の上昇志向は、心の安らぎがある。

望ましくない時にはやめられる。

つまり依存症ではない。

楽しいことを体験しない人の上昇志向は依存症である。

それが望ましくないと本人がわかってもやめられない。

先に「失敗しても成功しても内面は破壊されている」と書いたが、その内面の破壊は日常生活に現われる。

楽しいことを体験しない人は仕事以外の日常生活で、人とどうかかわっていいかわからない。

人と協力できない。

話していて楽しいという人がいない。

日常生活が楽しくない。

むしろ日常生活はつらい。

仕事に逃げていられるときには、内面の破壊は隠しおおせるが、仕事に逃げていられないくなると、その内面の破壊が表面化する。

それが人付き合いが怖いということであり、不眠症であり、自律神経失調症であり、燃え尽き症候群であり、スチューデント・アパシー(学生特有の無気力感)などである。

人付き合いが怖くても真面目に頑張っていた、燃え尽き症候群でも一生懸命に頑張っていた、スチューデント・アパシーでも無理して頑張っていた。

しかしみな、楽しいという体験がなかった。

みな、「これをしたい」という欲求を無意識に追いやって、黙々と「つまらないこと」をし続けた。

その無理な努力で、疲れる。

そうすれば無気力にならないほうがおかしい。

「この人といると何もなくても楽しい」ということを体験しないで、「つまらないこと」だけを一生懸命に頑張っている。

それだけでは、最後は挫折する。

パーソナリティーは段階を踏んで発展することはすでにわかっている。

子ども時代がないで、いきなり大人にはなれない。

彼らは心理的成熟の段階を追わないで、社会的にだけ大人になってしまったのである。

だからまずとにかく「何もしなくても、一緒にいるだけで楽しい」というような人を見つけることである。

今までの富を見つける情熱で、そういう人を見つける。

今までの学歴や仕事にかけた情熱を、人探しに向ける。

「自分は楽しいという体験をしてこなかった」という人は、自分を責めないで、人を責めないで、現実を認めること。

楽しむ能力のある人は、何でもない日常の事柄を楽しむ。

それに興味があるから。

たまたますれ違った人との会話を楽しむ。

内面が躍動しているから。

現実と理想のギャップ

人付き合いが怖くなるということは、非現実的なほど高い理想の要求に応えられない現実によって、簡単に起きてくる」という。

要するに、人付き合いが怖くなるような人には自己実現の喜びの体験がない。

親から非現実的なほど高い期待をかけられた子どもは、それを実現できない自分に怒りを感じるし、周囲の世界は自分を拒否していると感じる。

そこで、世界と自分とは対立していると感じるようになる。

つまり、世界は自分を否定していると感じる。

その非現実的なほど高い期待をかなえたときにのみ、世界は自分を受け入れてくれると感じる。

そして受け入れられようと、自分でない自分を演じる。

その結果、生きることは楽しくなくなっていく。

楽しみを知らない人は、この人にはこう思われたい、あの人にはこう思われたいと思い、必死で努力する。

そこで疲れてしまう。

気に入られるために、およそその人らしくないことをやり続けた。

受け入れられる努力をすればするほど、心の底ではいよいよ孤独になる。

自分でない自分を演じれば演じるほど、ありのままの自分を、自分が嫌いになる。

こうして人付き合いが怖く追い込まれる。

では、どうしたら人生を楽しめるか?

答えは簡単である。

非現実的なほど高い理想の要求に応えない。

「私はネコです」といえばよい。

「私はサケです」といえばよい。

「私はキツツキです」といえばよい。

「高い理想」をいうから、おかしくなる。

高い理想でも何でもない。

それは人付き合いが怖くなった人を「食い物」にした、周囲の人の脅しである。

「戯言」である。

その脅しを真に受けた弱さと愚かさが、人付き合いが怖い原因である。

もう一度言う。

周囲の人間の質の悪さと、本人の弱さと愚かさが人付き合いが怖い原因である。

親をはじめ、周りにいた人がもし立派に見えたとしても、その人たちは単に人付き合いが怖くなった人から生命力を吸い取って、自分の空虚感を満たしていたに過ぎない。

親は「親の愛」という名で、人付き合いが怖くなった子どもに寄生虫のようにしがみついた。

友達は「友情」という名で、人付き合いが怖くなった人を「食い物」にした。

会社は「義務」という名で、人付き合いが怖くなった人の人格を萎縮させた。

人付き合いが怖くなった人は、自分が人付き合いが怖くなったという事実から目をそらしてはならない。

自分は義務感・責任感が強くて、真面目に一生懸命働いて、それで結果として人付き合いが怖くなり、人のお荷物になった。

憎しみでお金儲けをする人がいる。

憎しみで武装し、強盗をする人がいる。

人付き合いが怖い人は模範的市民で強盗はしないけど、周囲の人には迷惑な存在である。

自分は何を間違っていたのか?

そこから新しい、活力ある人生がスタートする。

人付き合いが怖くなるような人は「自分自身を否定し、究極のお荷物となる」。

人付き合いが怖い自分を許す

規範意識が強すぎると苦しくなる

人付き合いが怖くなるような人は、何かを言われると、心が怒りでいっぱいなのに、すぐに譲ってしまう。

自分は今、緊急事態に陥っている。

どうしてもこのことは誰かに頼まなければならない。

そんなときに「お願い、これ頼む」といえない。

何で自分の必要性を頼めないのか。

何で相手に迷惑をかけることを、そこまで恐れるのか。

迷惑をかけることが望ましくないのは当たり前である。

しかし困ったときに融通をきかせてもらい、何とかこちらの必要を通してもらうのが、友達である。

友達と思っている人にさえ、「お願い、これ何とかして」といえない。

人付き合いが怖くなるような人は、いつも気が引けている。

近い人にさえ遠慮をしてしまう。

それはなぜか?

ひとつは脅えているから。

自分は価値のない人間だと心の底で感じているから。

次は、その人に今まで長いこと、「本当にしたいこと」がなかったからである。

もし「しなければならないこと」だけではなく「本当にしたいこと」があれば、そのときには「悪いけど、これ頼む!」といえる。

しかし、そのことはしなければならないけれども、心の底のどこかではそれをしたくない。

規範意識ばかりが過剰で、欲求が弱い。

あるいは欲求は「ない」といってもいいかもしれない。

そんな心理状態の中で、「それ」をすることの障害が現れれば、すぐに譲ってしまう。

迷惑をかけることを恐れているのには、いくつかの理由があると思うが、やはりひとつは「どうしても私はこれがしたい」という願望がないからである。

また欲求がないということは、いくら地理的に近くなっても親しくはなれない。

お互いに「これをしたい、あれをしたい」ということがあって、助けたり助けられたりしながら、人は親しくなっていく。

「お願いします」と言えない人は「お願いします」ということの内容について、それをしたくないという気持ちが心の底にある。

断ることは立派である

人付き合いが怖くなるような人は「お願いします」がいえないと同時に、「できません」がいえない。

これが「自己蔑視」である。

いわれるとその通りにしなければならないと思ってしまう。

だからいつも人のいいなりになっていく。

「小児科医の過労死認定」という記事が新聞に載っていた。

その記事によると、ある公立病院に勤めていた医師は一カ月の時間が勤務が平均100時間を超え、泊まり込みの当直も、3,4回。

病院外で救急患者のため待機する当番も月20~25回あり、多い日は一晩に5回も呼び出されたという。

これでは死ぬだろう。

おそらく過労死をするビジネスパーソンは、本質的にはみな同じであろう。

その場その場に居合わせれば「断れない」ということがあるだろう。

しかしどんなに人のためでも、自分が死んでしまってはしょうがない。

「『私は・・・しません』という言葉は、数ある人生の武器の中でもとびきり上等のものです」とは、シーベリーも言っている。

人が怖くなるような人がなかなか使えない武器である。

自分が相手に受け入れてもらいたいから、好かれたいから、嫌われたくないから。

「断れない」ことが、人付き合いが怖いことや過労死のひとつの原因であろう。

ただ思いやりから「断れない」というなら、それは望ましい行動であるが、非難されることや嫌われることの恐怖から「断れない」のであれば、それは望ましいことではない。

心理的にいえば、そういう場合には頼まれたことを引き受けるよりも断ったほうが立派ということがある。

耐えた数だけ、状況は悪くなる

今、過労死というようなビジネスの世界の話を書いたが、小さい頃から同じことが起きている。

ある中学生である。

熱があっても教室で勉強している。

普通は「帰らなければ」と思わなければならない。

しかしこの子はそう思わない。

「熱があるから、帰らせてください」がいえない。

学校にいないと親に怒られるからである。

その子には自分の体を守るという心構えがない。

その子が、熱があっても勉強しているのは、我慢強さではない。

「自分がない」ということである。

その子は助けてもらうということ自体がわからない。

また別のある中学生である。

友達に体操着を貸した。

なかなか返してもらえない。

やっと「返して」といえた。

そこで友達は「体育着を返した」と嘘をいった。

そういわれて、「返してもらっていない」といえない。

こうした真面目で努力家の子どもたちが、大人になって「執着性格者」といわれる人たちになり、ついで人付き合いが怖くなる。

体操着を返してもらっていなくても、何も言えない子は、やがて上司にとって使いやすい部下になる。

夫婦間の葛藤をぶつけやすい子が、やがて上司にとって使いやすい部下になる。

夫との関係がうまくいかないから、母親は子どもに当たる。

そのときにどの子にでも感情を吐き出すわけではない。

吐き出しやすい子に吐き出す。

ある子どもにマイナスの感情を吐き出す親は、逆に別の子には迎合する。

妻にひと言もいえない夫が、真面目に働いている息子に吠えるように怒る。

夫にひと言もいえない妻が、夫への怒りの感情を子どもに置き換える。

親にとって攻撃性を置き換えやすい子は、攻撃性をどこにも向けられないで自分に向けて、自己蔑視に陥る。

自己蔑視している人は、自分が自分の敵になる。

親にとって攻撃性を置き換えやすい子が、やがて上司や同僚にとって使いやすいビジネスパーソンになる。

そうした中から過労死をする人も生まれるのである。

家族関係のトラブルをしわ寄せされる子がいる。

そうした子はやがて職場の人間関係のしわ寄せをされるビジネスパーソンになっていく。

じつは利用され、搾取されたときには、誰でもくやしい。

子どものときに、親の攻撃性の置き換えをされた子はくやしい。

しかしそのくやしさは、もちろん意識されていない。

意識されていないけれども、無意識の領域ではくやしいと感じている。

ビジネスパーソンになっていじめれたときにもくやしい。

意識、無意識を含めていえば、普通の人よりもくやしい。

昔いじめられたときに、いじめられたくやしさを意識化していない。

その味わっていないくやしさを、今度のくやしさで再体験している。

そこでわずかなことで、ものすごくくやしい。

そしてこの「ずるい人たち」は、同時に「搾取タイプの人たち」である。

さらに「ヒステリー性格の人たち」でもある。

ズルい人、搾取タイプの人、ヒステリー性格の人、これらの人は同じ種類である。

同じ人を別の言葉で表現しているに過ぎない。

人付き合いが怖い人は一度周囲の人を疑ってみる

人は、酷い人間関係にいるときには酷い人間関係にいるとわからない。

それが自己蔑視している人の弱点である。

いい人間関係のところにきてはじめて、かつて自分は酷い人に囲まれていたと気が付く。

真面目に努力しながらも、何もかもがうまくいかないときには、「自分は酷い人間に囲まれているのではないか?」と一応疑ってみることである。

人付き合いが怖くなるような人は、なにかをすれば障害にぶつかる。

そして譲る。

だから「どうすれば安らかに生きられるか?」を考える。

人付き合いが怖くなるような人は「どうしてくれるんだ」と悩む。

そうしたときには「この人は、困ったときに自分を助けてくれるか?」「この人は自分を守ってくれるか?」-そういう視点から信頼できる人を探す。

それを見て人と付き合う。

燃え尽きそうな人は自分を安売りしている上に、さらに自分のほうから「ずるい人」に迎合していく。

ある人の唯一の楽しみが円盤投げだった。

それなのに周囲の人に色々と用事をいいつけられて忙しくて、円盤投げをしなくなった。

友達がいなくなるのが怖いから。

やがて友達はいなくなった。

もしその人が唯一の楽しみである円盤投げをしていたら、新しい友達がきた。

今の友達をなくしても、新しい種類の人たちがくる。

それが再生である。

中途半端に古い友達をもっていては再生できない。

その人は100歳でも円盤投げができていたかもしれない。

踏み台の人生を卒業する

人付き合いが怖い人は、「人がどう思うか」などということをどうしても捨てられない。

悪く思われることを恐れる。

それは、人の好意で自分を守ろうとしているからである。

でも今周りにいる人は、彼らを守らない。

だから好きなもので生きていくしかないのである。

今の友達を徐々になくしていく。

そしてなくしていくことをオープンにしていく。

本当は寂しいのに、友達が沢山いるフリをする人の周りには、ずるい人が集まる。

ある人が怖くなった教授である。

「〇〇氏が語る」という講演会を頼まれた。

彼はいつも安売りに慣れているから、「〇〇氏が語る」の講演でも、無償で講演講師を引き受けた。

さらに「講師に呼んでくれてありがとう」と主催者にいう。

主催者は利益をあげている。

人付き合いが怖くなるような人は、まず自分の安売りをなくすことが第一。

それから健全な人間関係にいく。

「自分の安売り」にはずるい人が集まる。

自分が手を汚して人を殺した人はまだよい。

最も質の悪い人は、自分の手を汚さないで人を殺す。

そういう人は、自分は何の良心の呵責もない。

良い顔をしながら、人を踏み台にして自分の利益を築いている。

人を踏み台にして自分の幸せを築いても、それをわかっている人はよい。

最も質の悪い人は、人の幸せを願っているような顔をしながら、人を犠牲にして自分の幸せを築く人である。

決して自分の手を汚さない。

人をそそのかして人殺しをさせる。

自分の利己的な利益に邪魔になる人を殺す。

それを人にさせて、自分も人にも「知らない顔」をする。

人付き合いが怖くなるような人や燃え尽きる人の周りには、そうした質の悪いひとがいる。

そして人付き合いが怖くなるような人は、その質の悪い人を心の底で憎みながら、意識の上では憎んでいない。

人付き合いが怖くなるような人は、そういうずるい人に対する憎しみを意識できないままに、疲れ果てていく。

闘う人は、逃げる。

闘わない人は、質の悪い人から逃げない。

人付き合いが怖い人は、自分が自分を守るのではなく、守ってもらおうとする。

だから質の悪い人から逃げない。

都合のいい人間関係を見直す

人付き合いが怖い人は、環境を変えないと短期間では治らない。

人付き合いが怖い人の人生は楽しくない。

人付き合いが怖い人は自分の人生を人に見せる。

「母親」の代償として、名声を求めている。

名声追求は愛を求めているに過ぎない。

名声に対しては、人は無責任に「すごい」とお世辞をいう。

そんな人といたら人付き合いの怖さは克服できない。

今日という結果は、昨日が原因ではない。

今日までの何十年間の積み重ねである。

生きるのが楽しくない時に、まず過去を反省してみることである。

そして過去を振り返って、どこまでが本当の自分で、どこからが「自分でない自分」だったかを考えてみる。

その中でも大切なのは「過去に自分がかかわった人はどういう人であったか」という反省である。

自分が深くかかわった人のことを考えてみる。

今、その人と会いたいか?

その人が懐かしいか?

あの人と、この人との懐かしさの違いを考察する。

今不幸な人はおそらく、それらの過去の人に会いたくないという自分に気が付くのではないだろうか。

もう一緒に仕事をしたくないという自分に気が付くのではないだろうか。

それは、いかに間違った人と深くかかわっていたかということである。

いかに心ない人と深くかかわっていたかということである。

それは自分の側にも心がなかったということである。

自分が適当に相手と接しているから、相手の本質がわからない。

相手も適当にこちらと接しているから、こちらのことがわからない。

お互いに根本的なことがわからない。

では、なぜそうした人と表面的には深く関わって人生を生きたのか?

それはひとつには寂しいから。

もう一つは、そのときにはそれらの人と付き合うのが都合がよいから。

その場その場が都合よいので付き合っているうちに、親しくもないのに長い人生を共に過ごすことになっただけである。

自己疎外された人は、好き嫌いがはっきりとしない。

好き嫌いより、便利か便利でないかのほうが、判断基準として有効である。

友人も、合理的な社長にとっての社員と同じで、いくらでも代替可能。

エネルギッシュに生きることの条件

人付き合いが怖い人は気にしなくてもいいことを気にして、エネルギーを消耗する。

気にしたからといってどうということはないことを気にする。

悔やむことで何の意味もないことを悔やむ。

エネルギッシュな人は、人付き合いが怖くなるような人ほど色々なことに心理的にかかわっていない。

色々なことから心理的影響を受けない。

人付き合いが怖くなるような人は、「あんな人、関係ない」と思えない。

たとえば誰にでも好印象を与えようとする。

そして好印象を与えることに執着する。

エネルギッシュな人なら「悪印象を与えたからといって、どうということはない」と思うような人のことを気にする。

いつも人に悪印象を与えたのではないかと気にする。

人付き合いが怖くなるような人は、関係ない人にまで好印象を与えるために、自分を殺してしまう。

人付き合いが怖くなるような人は、他人が重要になりすぎている。

他人の奴隷になってしまう。

そこをずるい人に見抜かれて、搾取される。

ずるい生徒を見ていると、ある先生の前では泣くが、他の先生の前では泣かない。

その生徒は、トゲのある言い方をする。

不満を言いやすい人にいう。

泣かれた先生のほうは心労で消耗する。

親の感情のはけ口になる子がいる。

家族の中で、感情のゴミ箱になる人は、社会に出ても仲間の感情のゴミ箱になる。

それが人付き合いが怖くなる人である。

人付き合いがい怖い人と「いい顔依存症」とは深くかかわっている。

いい顔依存症とは、アルコール依存症がアルコールを飲まないではいられないのと同じように、いい顔をしないではいられない人たちである。

彼らはつねに他人に振り回されている。

人付き合いが怖くなるような人は、自分が愛している人、自分にとって大切な人を憎んでいる。

その人に捨てられることが恐怖なのである。

恐怖心から相手に我慢をする。

その結果、相手を憎む。

人付き合いが怖くなるような人は、そうした矛盾に耐えられなくて怖くなる。

アメリカの心理学者アブラハム・マズローがいうように、自己実現している人は矛盾に耐えられるが、自己実現していない彼らには矛盾をどうしようもない。

ある人が怖くなった教授。

学生に嫌われるのが怖い。

評判が悪くなるのが怖い。

そこで病気でも休講しない。

無理をする。

これがエーリッヒ・フロムの言う神経症的非利己主義。

やることは表面的に非利己主義に見えるが、じつは神経症者。

このタイプは扇動政治家に利用される。

日常生活でもヒステリー性格者に利用され、翻弄される。

自分の人生を、他人に振り回される。

自分自身を他人に売り渡さない

安売り依存症、いい顔依存症はみな、他人が重要になりすぎている。

人間関係依存症は、人付き合いが怖い原因になり得る。

人間関係依存症は、関係を第一にする。

その結果自分を殺す。

憎しみを抑圧した結果、自分の人生を、他人の食い物にされる。

そうして生きながら、誰にも憎しみの感情をくみ取ってもらえないから人付き合いが怖くなる。

もちろん憎しみや怒りの感情は人付き合いが怖いばかりでなく、色々な身体的症状となって現れる。

神経症者は憎しみや怒りの処理能力がない。

それがストレスになる。

受け身の我慢をして、人付き合いが怖くなる。

くやしい気持ちを、誰にもくみ取ってもらえない。

ことに近い人にくみ取ってもらえない。

そして不眠症になったり、人付き合いが怖くなったり、頭痛に苦しんだりということになる。

人付き合いが怖い人と不眠症とは相関しているが、眠れないのは怒りがたまっているからである。

回復に大切なのは、この表現できない怒りの感情と、自分の自覚できる様々な症状の関連を理解することである。

子どもは「あいつ嫌いだ」といったあとで、「あいつ」と遊んでいる。

それは「あいつ嫌いだ」といったことで、怒りの感情がはけたので、遊べるようになったのである。

子どもは、「嫌い」という感情を抱えて遊ぶことはあまりない。

寂しい時だけである。

人付き合いが怖くなるような人は怒りの感情を抱えたままで、にこやかに人と接している。

自分自身に不誠実なのに、他人には誠実になろうとする。

恐怖心からである。

よく「私には怖いものは何もない」という人がいる。

そういう人には、怖いものが多すぎたのである。

あるいは恐怖心が強すぎた。

小さい頃「よい子」だったのも、大人になってから立派な社会人だったのも、みな恐怖心からである。

人付き合いが怖くなりたくなければ、「嫌なときには、嫌だといってもいいのだ」と自分に教え込むこと。

それが最も大切である。

自分の気持ちを言えると、エネルギーが出る。

「こうしてほしい」といえないときには、その人間関係に、もともと不満がある。

もともと恐怖心がある。

そういう人には、もともとエネルギーがない。

人付き合いが怖い人は「こうしてほしい」といえないから、エネルギーがない。

エネルギーがないから「こうしてほしい」がいえない。

悪循環である。

不満があってもよい。

不満を言えればよい。

とにかく不満を紙に書くのでもよい。

書いて不満を吐き出す。

誰にも見せる必要はない。

本当に満足できる生き方

人付き合いが怖くなるような人の心は、白菜の漬け物と同じ。

白菜はぺったんこ。

人付き合いが怖くなるような人の心は、水が全部取られた白菜になっている。

白菜を漬けるのと同じように、押されて生きてきた。

漬物石にあたるのが生育期の養育者たち。

彼らは子どもに毎日無関心。

だから自分の身勝手な願望を子どもに押し付ける。

人付き合いが怖くなるような人は、親の不安定な感情で怒られた。

愛情から怒られたことはない。

人付き合いが怖いを克服する方法のひとつとして、

「強い感情、とくに怒りを抑えないこと。

あなたは友達が来るというので、何時間も買い物をしたり、夕食の仕度をしたりしたのに、最後の最後になってキャンセルしてきたとする。

不愉快だと彼女にいってやりましょう。

『あら、いいのよ』なんていわないことです。

よくなかったではありませんか。

酷い扱いを受けて諦めていると、その酷い扱いが自分に相応だと思えてきます。

そして終始そんな目に遭うようになってしまいます」。

こうして怒りの処理を間違えるのは、寂しいから。

人付き合いが怖い人は、誤ったエネルギーの使い方をしている。

人付き合いが怖くなるような人は、「自分の心が満足する生き方は何か?」を考えない。