人付き合いが怖い人は相手の気持ちがわからない

相手の気持ちが分からない人は人付き合いを整理してみる

相手の気持ちが分からない人付き合いが怖い人はなぜ、人の気持ちを考えられないのか?

なぜ、やさしい気持ちになれないのか?

相手の気持ちに気がつくのは、こちらに心のゆとりがあるからである。

相手の気持ちが分からない人付き合いが怖い人にはその心のゆとりがない。

相手の気持ちが分からない人付き合いが怖くなるような人は怒りに満ちているから、心のゆとりがない。

相手の気持ちが分からない人付き合いが怖い人には周囲の人に対する猛烈な怒りがある。

相手の気持ちが分からない人付き合いが怖い人はそれを抑圧して生きている。

相手の気持ちが分からない人付き合いが怖くなるような人は、その怒りに気持ちが支配されている。

もちろん抑圧しているわけだから、その怒りを意識できているわけではない。

しかし相手の気持ちが分からない人は意識してはいないけど、その抑圧された怒りに、気持ちは支配されている。

その無意識の領域にある猛烈な怒りを抱えながら、社会的に立派な人として行動している。

社会的には立派な人間である。

その日々の行動と心の中にあるものとは正反対のものである。

不幸な人々が、「幸せとはこうあるべきもの」という考えで、「幸せ家族」をみなで演じているようなものである。

でも相手の気持ちが分からない人は心の底でむなしさを感じている。

怒りと憎しみを取り戻す

心の葛藤の激しさに疲れ果て、生きるエネルギーがなくなったのが、相手の気持ちが分からない人付き合いが怖い人である。

相手の気持ちが分からない人は生きていること自体がむなしい、意味がない。

相手の気持ちが分からない人はわけもわからずつらくなる。

相手の気持ちが分からない人はとにかくもう生きるエネルギーがない。

自分の心の中にある、ものすごい怒りと憎しみを意識できれば、また生きるエネルギーも湧いてくるかもしれない。

しかし多くの相手の気持ちが分からない人の場合、怒りは意識されない。

そして本当は周囲の人を殺したいのに、「死にたい」となる。

相手の気持ちが分からない人は多くの場合、怒りは意識されないまま、生きるエネルギーを失っていく。

よく、何でもないのに怒っている相手の気持ちが分からない人がいる。

相手の気持ちが分からない人は欲求不満である。

この「何でもないのに怒っている人」が怒らなくなったらどうなるか?

相手の気持ちが分からない人は無気力になる。

これが人付き合いが怖い人の無気力である。

もともと密着の願望をもちながら、誰とも密着できないで生きてきた相手の気持ちが分からない人たちである。

相手の気持ちが分からない人は憎しみが湧くのが当たり前である。

誰も自分の密着の願望を、満たしてはくれないのだから。

人付き合いが怖い人の性格である執着性格者などの、義務感・責任感の強さというのも、怒りの偽装にしか過ぎない。

相手の気持ちが分からない人は他人への愛はない。

相手の気持ちが分からない人は表面的には立派に見えるけども愛はない。

相手の気持ちが分からない人は心の中に核がない。

「生命力の強さと愛の深さはひとつのもの」である。

そうした心理状態で「人の喜びのために何かをする」ということは、ほとんど不可能であろう。

もちろん、形の上でそうすることはできるかもしれない。

しかし相手の気持ちが分からない人付き合いが怖くなるような人が、本当に人の喜びのために動くなどということは、不可能であろうと思う。

「本当に」というのは、「心のある」という意味である。

意識して無理をして立派なことはできる。

しかし相手の気持ちが分からない人はやさしさをもって何かをするということは不可能である。

つまり、人付き合いが怖いを治すには、人付き合いが怖い人自身がかわらなければならない。

コンビニエンスストアの募金箱。

気分のいいときには募金をする。

気分の悪いときには1円も募金しない。

つまり気分の悪い時、相手の気持ちが分からない人は「いかにして人に真の喜びを与えることができるか」を考えることは極めて難しいということである。

これを毎朝考えられるようになれば、人付き合いの怖さは解消される。

自分がどんなに非利己主義と思っても、現に今、相手の気持ちが分からない人付き合いが怖いということは、自分は自己執着が強くて、人に喜びをもたらすなどということはできていないと、自覚しなければならない。

自分のしてきたことは、単にエーリッヒ・フロムがいう神経質的非利己主義ということに過ぎない。

相手の気持ちが分からない人は「相手を愛している」と思っても、それは単に「相手を束縛している」に過ぎないかもしれない。

相手の気持ちが分からない人は相手から搾取していながら、相手を愛していると思っているに過ぎないかもしれない。

人に喜びをもたらすということは、そういうことではない。

人に喜びをもたらすということは、こちらの心は「無」でなければならない。

自己執着の反対が「無」である。

「人のため」を逃げ道にしてはいけない

相手の気持ちが分からない人付き合いが怖くなるような人は、自分のことばかり考えている。

人のことを考えられるようになれば眠れるし、人付き合いの怖さは解消に向かう。

人の幸せを祈れる人間になること、それは憎しみが解消しているということである。

こちらに「やってあげた」という気持ちがあるときには、「やってあげた」人は「ありがとう」といってもらいたい。

でも、そういう気持ちがこちらにあるときには、相手は「ありがとう」という気持ちになれない。

それは相手には重荷である。

憎しみのある相手の気持ちが分からない人が、本当の意味で「人のため」ということはあり得ない。

憎しみのある相手の気持ちが分からない人は、人の不幸が喜びなのであるから。

「人のため」と本当に思えれば、その時点で人付き合いは怖くなくなる。

いつも借金をする人がいる。

そして反対に「これが最後、これが最後」といいながら、お金を渡す人がいる。

ギャンブル依存症の兄にお金を貸す妹に会ったことがある。

これは「あなたのため」ではない。

しかし妹は「兄のため」といっている。

妹は兄との関係が切れるのが怖いから貸しているだけである。

妹は寂しいから蛇に絡まれていたいだけである。

もうひとつ、偽りの「あなたのため」という例をあげたい。

ある高齢の女性である。

「娘の夫が心配で、心配で」というが、調べてみると娘夫婦は仲がいい。

その相手の気持ちが分からない女性は自分の寂しさや不安を外化しているだけ。

娘から「助けてくれ」と頼まれていない。

娘は母親に愚痴をいっていない。

この高齢の相手の気持ちが分からない女性は寂しいから娘夫婦に干渉する。

干渉していながら「娘夫婦のため」という。

子ども同士の喧嘩で、弾丸のように相手の家に飛んでいく母親がいる。

これも同じ心理。

人は自分の限界にくると現実から目を背ける。

能動性は相手を「放っておけること」である。

自分に能動性が欠如しているから相手に絡んでいるのに、「あなたのために」といっている相手の気持ちが分からない人が多い。

アドラーのいう「人に喜びを運ぶ」というのは、押し付けがましい善意とは違う。

なぜこうなってしまうのか?

それは小さい頃、自分を守る能力がない頃から、自分を守らなければならなかったからである。

「すみません」ひとついうのも、自分を守るためである。

相手の気持ちが分からない人は相手に「悪かったな」という気持ちがあるのではなく、自分が悪く思われないように謝る。

つまり相手のためではなく、自分を守るために謝る。

そういう人には小さい頃から、自分は守られているという安心感がない。

事実そういう相手の気持ちが分からない人は、保護者から守られていなかったことが多い。

自己執着が強いのは、小さい頃から自分で自分を守らなければならなかったから。

そして相手の気持ちが分からない人は自分の存在に負い目があるからである。

相手の気持ちが分からない人はつねに言い訳をしなければならない。

人付き合いが怖い人は、相手に「悪かったな」という気持ちで「すみません」といってみる。

怖さは解消に向かう。

認められたい、好かれたい気持ちを手放す

相手の気持ちが分からない人は人に優越することで心の葛藤を解決するのではなく、人とコミュニケーションすることで心の葛藤を解決するように、エネルギーの方向を変えることを促しているものである。

相手の気持ちが分からない人は人に迎合することで、じつは生きるエネルギーを失う。

相手の気持ちが分からない人は、「迎合の姿勢と優越への願望」で生きるエネルギーを失う。

人付き合いの怖さを解消したければ、自分についての認識を改めればよい。

相手の気持ちが分からない人は生きる姿勢を変えればよい。

理屈は簡単である。

相手の気持ちが分からない人は実行が難しいだけである。

なぜ実行が難しいか?

それは、その人の愛情欲求が満たされていないからである。

愛情飢餓感が強いと、「迎合の姿勢と優越への願望」の呪縛から抜け出せない。

したがって、人付き合いが怖い人が現在の自分を理解するためには、何よりも精神分析論的手法が欠かせない。

「なぜ自分はこうなったか?」という自己分析については、オーストリアの精神分析学者ジークムント・フロイト以来の精神分析論からスタートする。

しかし、精神分析論的立場で自分を理解しているだけでは、絶望しか残らないことが多い。

「私の親はこうだった」というだけでは、今の自分の心のつらさの原因は理解できても、「それではこの先どう生きるか?」はわからない。

たしかに自分が人付き合いが怖くなるには、怖くなるだけの理由があった。

それを正しく理解するためには、精神分析論的立場が必要である。

しかし相手の気持ちが分からない人はそこで止まっていては、先に進めない。

運命に振り回されないような生き方

「自分がどう生きるのか?」というときにアドラーやシーベリーの心理学を学び、フランクルの実存分析を学ぶことが大切なのである。

相手の気持ちが分からない人付き合いが怖くなった人にいきなり、「どこに注意を向けるかで、あなたの幸せは決まります」だの、「成功は、あなたの肩にかかっているのです」だの、「運など、私たちが変われば変わってきます」など、シーベリーの主張を突きつけても、それは心の傷口に塩をぬるような結果になる。

そこで多くの場合に、相手の気持ちが分からない人付き合いが怖くなるような人たちは、そういうことをいう人に不快感をもつ。

相手の気持ちが分からない人は怒りを感じる。

そして「あなたたちに私の苦しみの何がわかる」と反感をもつ。

そういうことをいう相手の気持ちが分からない人が不愉快な存在になってしまう。

シーベリーに反感をもったら、シーベリーのいうことに耳を傾けなくなる。

したがって私たちが「どう生きるか?」ということを考えるときには、まずフロイト以来の精神分析論的立場の理解が必要なのである。

しかしそれだけでは、その人はときに「運命の犠牲者」になるしかない。

「私は母性的保護を失って成長しました。

私の父親は人間嫌いでした、母親は対人恐怖症でした。

そして私はこうなりました」

それだけでは、相手の気持ちが分からない人は「私は運命の犠牲者です」になってしまう。

自分が運命の犠牲者にならないためには、精神分析論的手法の他に、シーベリーやアドラーやフランクルの理解が欠かせない。

その両方の理解が相補って人間は自らの人生をまっとうできる。

したがって精神分析論的立場からいうことと、シーベリーやアドラーの心理学の主張とが矛盾していてもよいのである。

いや矛盾しているからこそよいのである。

人間は遺伝や環境だけに影響されるのではないということも正しい。

これが本質的に矛盾していないということを理解できたときにはじめて、人付き合いの怖さからどう回復できるかの道筋が理解できたということである。

ふたつの主張が相補って人類は救われる。

たとえば「ずるい子」は最も嫌な子だけれども、ずるい子だって一番最初の人間関係に問題があった。

ずるい子は親との信頼関係がない。

信頼関係がないところで自己無価値感に苦しみ、自暴自棄になる。

信頼できる人がいれば自己無価値感には陥らない

しかし、だからといってずるい人を許すわけにはいかない。

たしかにフランクルのいうように、苦しむことには意味がある。

シーベリーのいうように「苦悩は人間を清めます」。

しかしこれらの言葉は、その通りなのであるが、相手の気持ちが分からない人付き合いが怖くなるような人の胸に突き刺さるだけに終わるかもしれない。

「苦しみは、あなたに才覚の使い方を教え、才覚を使うことを強いるためのものなのです」。

これを苦しみにうめいている相手の気持ちが分からない人付き合いが怖い人がいきなり聞いても納得しない。

人付き合いの怖さの、このどうしようもない苦しみをわかっていないとなるだろう。

そして最後はみな、同じことをいう。

「このつらさは経験していない人にはわからない」。

相手の気持ちが分からない人はそうして自分の殻に閉じこもる。

それが運命の犠牲者になった瞬間である。

そして自分の殻に閉じこもりながらも、人に理解を求めている。

相手の気持ちが分からない人は「死にたい」という。

そのときに「それは卑怯だ」と言われる。

その通りである。

しかしそのようなシーベリーやアドラーの考えをいわれても、人付き合いが怖い人はますます「誰も私のことをわかってくれない」と自閉していくだけである。

相手の気持ちが分からない人付き合いが怖くなるような人は誰と会っても、文句をいわれるか不安である。

相手の気持ちが分からない人は寝るときも不安、起きている時も不安。

相手の気持ちが分からない人付き合いが怖くなるような人の求めているのはシーベリーやアドラーの力強い言葉ではない。

相手の気持ちが分からない人付き合いが怖くなった人は、「茨の道で生きてきたね、そんなにつらいの」という言葉で慰められる。

相手の気持ちが分からない人はこれまで努力してきていることを認めてもらいたい。

それをいってほしい。

相手の気持ちが分からない人は「つらいんだよね、つらいんだよね」といわれて、そこで心のガードが取れる。

そこで涙が流れて、エネルギーが出る。

誰にだって、つらいときがある

「自分に気がつくこと」は大切であるが、それはなにも、自分と自分のことにばかりに注意を向けるということではない。

むしろ逆に、他人に注意を向けることでもある。

他人に気付くことも、自分に気付くことにつながる。

「この人はいい人だと思っていたのに、何でこんなに不幸なのだろう?」

そう思うことが自分に気付くことでもある。

こうして他者に関心が向くことで、人付き合いが怖いことは解消に向かう。

「私はこんなに苦しい」と嘆くだけではなく、「他人もまた同じように苦しいけど、頑張っているのだ」とわかることで、自己執着から解放されていく。

今日一日、現実に何か不安なことが起きましたか?

エネルギーは信じることから生まれる。

絶対に仏様が何かやってくれる、そう信じること。

ウェインバーグ流にいえば、夢はそこにある。

夢を捨てたのは相手の気持ちが分からない人付き合いが怖い人である。

相手の気持ちが分からない人は誰も私の苦しみをわかってくれないといって、陰気に自分の殻に閉じこもっても、生きるエネルギーは湧いてこない。

それが、自分のほうから夢を捨てたということである。

今、相手の気持ちが分からない人は「私はこんなに苦しい」と、嘆くことにエネルギーを使うのではなく、「なぜ自分は今こんな不愉快な気持ちになったのだろう?」と、自己分析にエネルギーを向けることが夢を持ち続けることである。

現実から逃げることが夢を捨てること、現実に向き合うことが夢を持ち続けること。

そして、もし「引きこもることを自分が選択した」と認めれば、道は拓ける。

なぜなら、それを認めることは「私は運命の犠牲者にはならない」という意志の表明だからである。

「あのときに迎合したのは、私がそれを選択したのだ」と認められれば道は拓ける。

ここで、捨てた夢をもう一度探しに行く。

相手の気持ちがわからない苦しみから解放へ

自己無価値感との向き合い方

人のために何かをしてあげる。

しかし相手から期待した態度が返ってこない。

すると相手の気持ちが分からない人はその人を恨む。

「こんなにまでしてあげているのに、あの態度はないだろう」と相手を恨む。

しかし、たいていこのようなときには「相手のため」の努力ではなく「自分のため」の努力なのである。

つまり自己無価値感があるから、人に感謝をしてもらいたい。

そこで相手に恩を着せたい。

相手の気持ちが分からない人は恩を着せたいから何かをしてあげる。

感謝を求めてその人のために何かをしてあげる。

しかし期待した感謝が返って来ない。

そのときに相手の気持ちが分からない人は相手を恨む。

このような態度で、「人のために」過ごしても、人付き合いの怖さは治らない。

恨みは心が点す警告

相手の気持ちが分からない恨む人は、自分がその人のためにしたことの、自分の動機を理解していない。

相手の気持ちが分からない人の動機は「相手のため」ではなく、「自分のため」なのである。

もし何かをしてあげるときに、「これは自分が感謝をされたいからするのだ」とわかっていれば、期待した態度が返ってこなくても相手を恨まない。

相手にごちそうをするときに、「自分がチヤホヤされたいから」とわかっていれば、みながチヤホヤしてくれなくても相手を恨まない。

「面白くない」という気持ちは残るだろうが、おごってあげた人を「あんなにごちそうしたのに」と恨むことはない。

取引先を接待する時などは、「自分たちのため」とわかっているから、それほど恨みにはならない。

接待の効果がなかったと思うだけである。

個人的な感情としての恨みつらみはない。

「自己執着的対人配慮」は恨みを生じる。

相手の気持ちが分からない人の配慮は配慮でも相手のための配慮ではなく、自分が得するための配慮である。

そして得しなければ恨む。

相手の気持ちが分からない人は自分が得するための配慮とは気がついていないのだから。

今、ある人が周囲の人を、あの人もこの人もと恨んでいるとすれば、その人は自己執着が強いのではないかということである。

自己執着的対人配慮をしていると、本人は相手のためにしたつもりでも、ときにはお節介な人と思われる。

相手の気持ちが分からない人の好意は迷惑になる。

ある女性が好きな男性にプレゼントをした。

すると彼はそれを母親にあげた。

するとその女性は怒って、そのプレゼントを取り返しにいった。

これが自己執着的対人配慮である。

自分は相手にプレゼントをしていると思っている。

しかしこれは相手を喜ばすためにプレゼントをしているのではない。

自分のためにプレゼントをしているのである。

だから自分が気に入らない使い方をすると、それを取り返そうとする。

愛を伝えるのは、自己満足とは違う。

自己満足は相手が何を求めているかは関係ない。

相手の気持ちが分からない人は現実と接していない。

これはナルシシストの愛である。

相手の気持ちが分からない人付き合いが怖い人の特徴は満足しないことである。

人のために何かをできるということは、その人が満足しているということである。

人付き合い改善の近道

自己疎外されているということは、生きることが不満であるということである。

相手の気持ちが分からない不満な人に他人のことが考えられるわけがない。

相手の気持ちが分からない自己執着の強い人に他人のことが考えられるわけがない。

自分が溺れそうになっているときに、人のことを考えられないというのは人間としては当たり前のことである。

たしかにアドラーがいうように、他人の幸せを考えられるようになれば人付き合いの怖さは解消する。

相手の気持ちが分からない人付き合いが怖い人は自己執着が強いから、他人のことなど考えられないのである。

相手の気持ちが分からない人付き合いが怖くなるような人は、自分は自己疎外された人間であるということの自覚が必要である。

つまりアドラーの言葉を言い換えれば、自己実現するようになれば、人付き合いの怖さは解消する。

ある女性である。

大学時代の男性の友人に会うことになった。

彼女が食事をもっていくことになった。

彼女は食事のメニューを考える。

相手は1時間しかないという。

公園で食べることになった。

彼女はお弁当をもっていく。

彼女は「すごい、こんな食事をつくって!」と相手が驚くようなお弁当をつくりたい。

相手の気持ちが分からない彼女はつねにそういうふうに、人を意識したものをつくりたい。

こういう好意は好意ではない。

必ずしも、ものをもっていくのが好意ではない。

こういう売り込みの好意は、あとで「こんなにやってあげたのに感謝をしない」と不満になる。

こうした防衛的性格の相手の気持ちが分からない人は、誰とも親しくなれない。

人に見せるためにつくった弁当は、キレイだけれどもおいしくない。

自分が食べるためにつくったお弁当は、汚いけれどもおいしい。

見た感じはおいしそうではないが、おいしい。

相手の気持ちが分からない人付き合いが怖くなるような人は、人に見せるためのお弁当をつくる生き方だった。

お節介で押し付けがましいことを、「相手のため」と思ってしまう人がいる。

それだけ自己執着が激しいということである。

自己執着が激しいままでは、どんなに頑張っても人付き合いの怖さは解消されない。

ではどうするか?

自分は今、あの人にこんなこともしてあげられない。

そんなことをいくつも考える。

「もっと体力があれば、あの人にこんなこともしてあげられる」とか、「もっと知識があれば、みなにこんなこともしてあげられる」とか、考える。

そうして、そんなことをしてあげられない自分を残念に思う。

そうなったときに、神経質神経質神経質も人付き合いの怖さも治癒に向かう。

「もっとお金があれば、こんなこともしてあげられるのになあ」と思う。

しかしそんなときに「そうすればあの人から感謝をされる」と思ったら、それはあの人への関心ではない。

それは自己執着の強い人でしかない。

自己執着的対人配慮ではなく、相手に対する関心をもてたときに、社会的感情をもてるようになったということである。

今、相手の気持ちが分からない人は相手が不愉快そうになったときに、「なぜ?」と考える。

それが相手への関心。

それをもてたときに、神経質も人付き合いの怖さも解消に向かうのである。