他人の目を気にする心理と対処法

他人の目を気にする人

メンツを潰されるのが怖い

「他人の目」など気にせず、自分らしくのびのびと生きていけたらどんなによいだろうと思ったことはありませんか?

「他人の目など気にしない」と言うときのイメージは、自分に自信があって、嘘がない、他人がどう思おうと揺るがない、という感じだと思います。

そんなふうになれたらよいですね。

ところが実際には私たちのとても多くが、「他人の目」を気にして暮らしています。

小さい頃から「そんなことをしたら、人からどう見られるか」などというメッセージを周りの大人たちから与えられる機会も多いですし、日常会話の中でよく使われる、「かわいい」「きれい」「ブス」「イケメン」「スタイルがいい」「デブ」「おしゃれ」「センスがいい」「ださい」「イケてる」「キモい」など、いずれも「人からどう思われるか」についての表現です。

「頭がよさそう」「仕事ができそう」というのも実は同じです。

これらは能力面の話に見えますが、実際には、「頭がよさそうに見えるか」「仕事が出来そうに見えるか」という、やはり「他人の目」にどう映るかの話なのです。

「メンツ」と言われる問題もそうです。

「メンツをつぶされた」というのは、「他人からどう見られるかを台無しにされた」という意味ですから、「他人の目」問題の中核的存在です。

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他人の目にとらわれる人

日常生活を過ごしていると、いかに人が「他人の目」を気にして苦しんでいるかを実感する立場にいます。

精神科の専門とする病気の一つが摂食障害であり、これは「自分の体型」についての「他人の目」を極端に気にする病気です。

他にも「他人の目」に関する代表的な病気はいくつかありますが、病気になる人は氷山の一角に過ぎず、普通に学生生活や社会生活を営んでいるように見える人でも、かなりの数の方が、「他人からどう見られるか」にとらわれ、苦しんでいます。

「他人の目」にとらわれることは、自分自身の苦しみにつながるだけではありません。

「他人の目」にとらわれるということは、人を気にしているようでいて、実は強烈に自分自身のことばかり見ているということ。

「人からどう見られるか」というのは、自分だけについての話だからです。

ですから、自分のことばかり考えてしまい、結果として、人とのつながりが損なわれる、という副作用もあります。

人は他人から支えられることで生きているわけですから、「他人の目」にとらわれることによって対人関係の質が落ちることは深刻な問題なのではないかというのが実感です。

そのような「他人の目」へのとらわれを全体として見ていくことによって、「他人の目」を気にする私たちが本当に得たいものを手に入れられるように、そして「他人の目」に縛られて自分の可能性を狭くしないですむように、目指していきます。

そのことによって、人ともっと本当の意味でつながり、質の高い人生を送れるように、考えていきたいと思います。

「他人の目」問題と全く無縁という人はおそらくいないでしょう。

「自分は他人の目など気にしない!」と強く思っている人であっても、「他人の目を気にしないように見える」という「他人の目」にとらわれている場合があるからです。

強がりみたいなものですね。

また、普段はそれほど気にしていなくても、何かの拍子に強烈に「他人の目」が気になるようになる、ということもあるのです。

頭の中で想像する他人の目

いろいろなケースを通して見えてくるのは、気になるのは「他人の目」そのもの、というよりも、「頭の中で想像する『他人の目』」のような気がします。

様々な「小さいトラウマ」を経て、「こんなことをしたら〇〇と思われるのではないか」という声が、自分の頭の中から聞こえてくるのだと思います。

もちろん、「評価体質」の人は明らかに存在しますし、時々ギョッとするようなことも言われるでしょう。

でも、「自分だったらそんなことを言うだろうか」と自分に問いかけながら、だんだんと「頭の中で想像する『他人の目』を癒していく必要があると思うのです。

つまり取り組むべきは「他人から〇〇と思われるのが怖いから、本当はやりたいけれども我慢する」というような方向ではなく、「ああ、これが自分の頭の中にある『他人の目』なんだな」と気づき、少しずつ自分を癒していく、という方向にあると思います。

「他人の目」をきにする姿勢は、明らかに人生を縛ります。

何をするにも、「頭ではわかっているのだけれど、〇〇と思われたらどうしよう」というブレーキが働いてしまうからです。

でも、せっかく人間として生まれてきたのだから、人生は楽しみたいもの。

実は同じような悩みを、多くの人が持っていると思います。

多様性を受け入れる

のびのびしている人を見ると、人は「いいな。あんな人になりたいな」と思うことが多いでしょう。

それが、「そうか、自分ものびのびしてよいのだ」という気づきにつながることもあると思います。

「みんな一緒」は、せいぜい中学生時代までの価値観。

大人になるということは、ひとの多様性を受け入れられるようになる、ということです。

今は、いじめがあまりにも当然のように横行していますが、「『他人の目』が気になる心」を手放すのは、「そういう社会をやめようよ」というメッセージでもあります。

それぞれが多様でよい。

人と違っていてよい。

そういうメッセージの発信者になっていきませんか?