仲間外れになるのが怖いとは

孤独になるのが怖い、見捨てられるのが怖い

大半が”仲間外れになるのが怖い自分で作りだした恐怖である”とするなら、本当の恐怖というのは、どういうものでしょうか。

それは「生命」を脅かす恐怖ということではないでしょうか。

例えば、病気が進行して末期になれば死に至ります。

怪我が悪化して死ぬこともあります。

こんな死に直面する恐怖です。

失業状態が長く続いて仕事がなければ、文字通り「飢え死にする」恐怖を覚えるでしょう。

孤独になるのが怖い、見捨てられるのが怖い」というのも、突き詰めれば、生命の存亡に関わります。

とりわけ経済力のない幼い子どもにとっては、死に直結するような恐怖となるでしょう。

こういった、直接生命に関わる根源的な恐怖があります。

「勝ち負け」を争っているとき、怪我をしたり死に至る場合もあります。

日常生活の一コマとしては、負けても実際に死に直結するわけではないのですが、そんな根源的な過去の記憶が、死に直結するような恐怖を呼び覚ますのではないでしょうか。

精神的苦痛がもたらす恐怖もあります。

過去の体験のトラウマによる恐怖もそうでしょう。

精神的苦痛によって起こる恐れは、直接生命を奪うものではありません。

それでも、私たちは傷つくことを恐れます。

一見「仲間外れになるのが怖い」というのは、精神的恐れのように思うかもしれません。

けれども、動物は群れて生活しています。

群から外れることは、死を意味します。

本能を司っている脳幹が、仲間外れになるというそんな生命の危機の記憶を刺激するからではないでしょうか。

自立するのが怖い」というのも同様です。

自立には、精神的自立だけでなく、経済的自立もあります。

もし、「自分で食べていく力がない」と信じていれば、文字通り生きていけません。

離婚するのが怖い。一人で生活していくのが怖い」といった恐れも、普段は意識されないけれども、「別れて一人になったら、生活していけるだろうか」という不安が起こるように、生命の危機が想起されるからでしょう。

行動する段階になると、怖くて動けない

心が束縛されてしまっていると、ドアが開いていても、外に出て行こうとしないような膠着状態に陥り、どんなに悲惨な状況よりも、現状把握できている今の状態のほうがまだ安全であると認識して、仲間外れになるという予測不能な未知の世界を恐れる心理です。

まさか、こんなところで異常事態が起こるわけがない

もう何年も前のことですが、某テレビ局で、火災時に人がどう反応するかを実験して隠し撮りするという番組を放映していました。

スーパーの店内の一角で、火が燃え上がっています。

その傍を買い物客が通りかかります。

ところがそこに映し出されたのは、燃え上がる火を一瞥すると、まるで何事もなかったかのように平然と通り過ぎて行く客の姿でした。

後のインタビューで、ある女性客は、「お店のイベントだと思った」と答えていました。

このような特異な場面に遭遇したとき、「まさか、こんなところで異常事態が起こるわけがない」というように、今起こっている異常事態を否定して、正常な状態であるかのように振る舞おうとする心理を「正常性バイアス」と言います。

皆と同じでないと恥をかく思考

これが集団になると、より顕著になっていきます。

「みんなが騒がないのだから、大丈夫だろう」

自分だけ騒いで、もし、何でもなかったら、恥をかいてしまう」といったような集団に合わせるような心理が働いて、個人行動がとりにくい状態に陥り、まるで何事も起こっていないかのような振る舞いをしてしまう、これを「集団同調性バイアス」と言います。

2003年2月18日のことです。

韓国の大邱広域市中央路駅で、放火による地下鉄火災が発生し、死者192名、重軽傷者148名にものぼる大惨事になりました。

このとき発表された報道写真には、煙が充満している車内に、動揺する態度も見せず静かにシートに座っている乗客たちの様子が写っていました。

火災発生時、情報が伝えられなかったために、対向列車が入選してしまいました。

中央路駅は対向式ホームであるため、炎上している列車に隣接してその対向列車が停車する形となったのです。

その結果、亡くなった人達のうち142名が、その対向列車の人たちだったといいます。

このような認知バイアスが、必ずしも悪いというわけではありません。

が、自分を大切にする即断や行動が必要とされる緊急事態のときに、自分の言動が”自動化”していたり、他人の目を気にする生き方になっていればいるほど、”恐れ”が先に立って、さまざまなバイアスが否定的かつ複合的に働いて、こんな悲惨な状況すら引き起こすこともあるのです。

仲間外れになるのが怖い心理

無理と自覚することへの恐れ

”恐れ”という点では、生命を脅かす肉体的な恐怖以上に、自分の個としての尊厳を奪われることへの恐れもあります。

人間として生きる意味や意義、創造性、希望や願望、人間らしさ、自分らしさといった高次の精神を侵害されたり、奪われることへの恐れもあるでしょう。

例えば、結婚したとき「それは不幸の始まりだった」と気がついたとして、その次は「でも、離婚するのも怖い」という狭間に立たされれば、「自分の人生の未来」を遮断されてしまったような閉塞感や絶望感で苦しむ、というような”恐れ”のダブルバインドに陥るかもしれません。

新しい生き方を渇望しつつも、失敗することを恐れるのは、その一歩を踏み出す恐れもありますが、逆に、実際にその一歩を踏み出して、はっきりと「それを実現させるのは無理だ」と自覚してしまうことへの恐れもあるでしょう。

「絶対に不可能」だと悟るよりも、まだ、「できるかもしれない」という可能性を抱いていたい。

仲間外れになって絶望するよりも、一条の可能性にすがっていたほうが、まだ生きる希望が持てるというふうに、さまざまな恐れを回避しようとしては、新たな恐れを作り出していくのです。

自分の望みを通そうとすると罪悪感に襲われる

肉体的生命の安全は保証されているとしても、自分の存在を否定されたり拒否されれば、個としての存在の意味をなくしてしまうでしょう。

仲間外れになることは人によっては、それは肉体的な死以上の苦痛をもたらすものであるかもしれません。

精神的に「傷つく」というレベルでは、生命が脅かされているわけではありません。

例えば、自分の望む通りにそれをしようとすると、常に親が反対するとします。

それで今まで、断念してきたとします。

そんなあなたが、自分の望む通りにしようとすれば、罪悪感が襲ってくるでしょう。

実際には、それを実行するのも怖いでしょう。

行動するには、「親が反対する」という恐怖のハードルを乗り越えなければなりません。

ゼロ地点からスタートしようにも、そのゼロ地点に到達するまでに、通過しなければならない複数の難関があるのです。

そんな恐れと向き合うよりは、自分の人間性を放棄してでも我慢し、現状維持を選ぶ人もいるでしょう。

愛を失う恐れ

「愛を失う」恐れもあります。

男性は特に、自分自身が「愛を求めている」と気づかない人も少なくありません。

けれども、「満足する。充実する。幸せを感じる。生き甲斐を感じる」といった歓びに”愛”は絶対不可欠な要素です。

こんな充足感、満足感、幸せ感を味わうことができなければ、無味乾燥な人生となっていくでしょう。

なかには、その代償として、仕事の成功、出世、資格や肩書き、名誉、地位といったものを求める人も少なくありません。

仕事が成功すれば満足できる。出世すれば満足する。自分の能力を人に評価されれば、尊敬されれば、幸せに満たされる

それも私たちの目標の一つでしょう。

確かに、それらを得る満足もあります。

けれども、あくまでもそれらは、さまざまな充足感、満足感、幸せ感の一つにすぎません。

それを求めるあまりに、人や家族との心の触れ合いが疎かになっていくとしたら、どうでしょうか。

家庭の会話も乏しく、「夫は給料を運んでくるだけ」という関係の夫婦もいます。

人は孤独の中では生きていけません。

だから仲間外れになるのが怖いのです。

仕事の成功、出世、資格や肩書き、名誉、地位といったものは、一時の満足を得るための原動力にはなりますが、”生きる歓び”の原動力にはなり得ません。

人間はすべて、気づいていようが気づいていまいが、”愛”が必要なのです。

概して日本人は、”愛し合う”ことが不得手です。

多くの人が「私を愛して」と相手に求めます。

けれども、愛を相手に求めれば、「自分が愛されているかどうか」が絶えず気になっていくでしょう。

他人の目を気にする中で愛を他者に要求している限り、愛を得ても、その愛を実感し歓びや幸福感を味わうよりは、愛を得た瞬間、「愛を失う」ことを恐れ始めるに違いありません。

無意識の視点で言うと、多くの人が「愛し合って傷つく恐れ。愛を失う恐れ。失ってさらに孤独感に打ちひしがれる恐れ」、そんな恐れを抱いています。

ひとによっては、そんな恐れを避けるために、最初から”愛を得る”ことを諦めて、仕事や成功に生きる人も少なくないのです。

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仲間外れになるのが怖いことの解消

恐れは危険のセンサー

これまで述べてきたように、「恐れ」にはあらゆるレベル、あらゆる質の恐れがあって、細かく挙げれば挙げるほど、無数の恐れがあるでしょう。

仲間外れになるのが怖い人はそれぞれの恐れが複合的に絡まって、新たな恐れを生じさせてもいます。

では、どうすれば、こんな仲間外れになる恐れを捨てることができるでしょうか。

もちろん、すべてを捨てることは不可能です。

なぜなら、仲間外れになる恐れには「私たちの危険を察して、身を守ってくれる」センサーとしての役割があるからです。

仲間外れになる「恐れ」を感じることができるからこそ、私たちは、自分を守ることができるのです。

この点においても、「恐怖という機能」は絶対不可欠の要素だからです。

ただ、「自分が勝手に作り出した、幻の恐怖」は、必要ありません。

こんな仲間外れが怖いという幻の恐怖は、できるだけ減らしていきたいものです。

私を守る。私を愛するためのスキル

自分で作り出した幻であれば、消すことができるはずです。

それは、簡単に言えば「私を守る」能力を高めていくことです。

そのためには、その能力を高めるだけでなく、「私を守るための具体的なスキル」も重要となってきます。

仲間外れになるのが怖い人はどうして幻の恐れを作り出してしまうのか。

それは、恐れが生じたとき、恐怖に直面したときに、それを「回避する能力。防ぐ能力。自分を守る能力と、そのスキルがないからだと言えるでしょう。

そう言う意味で言うと、「私を守る」は即ち「私を愛する」とも同義語です。

自分を守ることができる能力とスキルがあれば、仲間外れになる恐れが生じたときにも対処できます。

仲間外れになる恐れが生じたとき「自分を守ることができるんだ」という確信が持てれば、仲間外れになる怖さが消えていくだけでなく、そもそも、生まれようのない恐れもあると知るに違いありません。

つまり、「私を守る。私を愛するためのスキルを学ぶことが、仲間外れになる恐れから自分を解放していく”最善の方法”ということなのです。

自分は自由だと思えば恐れから解消される

「自分の望むことをしようとすると、常に親が反対するので、断念してしまう」というのがありました。

もしあなたと親がこんな関係だったとすれば、親が反対することを振り切ってでも、自分の望むことをしようとすれば、罪悪感が起こるでしょう。

「親の言うことに従わなければならない」と思い込んでいる人ほど、その罪悪感は強烈でしょう。

では、「親が反対したからといって、親の言うことに従う必要はない。決めるのは自分自身なんだ。私がどんな選択をしようと、それは自由なんだ」

こんなふうにつぶやくと、どんな気持ちになるでしょうか。

”私の自由”を自覚すると、まだスッキリとはいかないまでも、少し”罪悪感”から解放されて心が軽くなるのではないでしょうか。

「私は自由なんだ」と発想できれば、まず、「しなければならない」「してはいけない」という思考によって生じる仲間外れになる怖れからから解放されていきます。

親の反対を振り切ってでも、という恐怖もいりません。

「私はこうする」と決めれば、あなたの意志に勝るものはありません。

これだけで、「他者と戦って勝たなければならない」という戦う恐怖からも解放されていくでしょう。

このように、「しなければならない」を「私の自由」に変える”意識の変換”も、「私を守る。私を愛する」ための根本的なスキルの一つだと言っていいでしょう。