何をしても楽しくない人が意欲的になる心理

何をしても楽しくない人が意欲的になる初め

何をしても楽しくない人とは、自分をよく見せようと、人の為に必死に生きてきて、精神を消耗してしまった人のことである。

無気力で生きる喜びがわからなくなっている。

そこで、どうしたら何をしても楽しくない人が意欲的になれるのかを人間関係を軸に述べてみたい。

何をしても楽しくない恥ずかしがり屋の人は、人付き合いが苦になる

何をしても楽しくない人は日常のなんでもないことについて、言いたいことが言えない。

自分の気持ちを何をしても楽しくない人はどう言っていいかわからない。

自分の心を人に伝えられない。

だから幼児期から何をしても楽しくない人は自分を押し殺した子であった。

そして親しい人が何をしても楽しくない人はいない。

親しい人とは、自分の弱点を話せる人。

人は誰でも全部しゃべると気が楽になるのに、何をしても楽しくない人はそれができない。

自分のことをしゃべることで楽になる生き方があるのに、何をしても楽しくない人はその生き方ができない。

自分の感情をすべて話すことで、気持ちが整理されていく

すると、生きる道が見えてくる。

しかし何をしても楽しくない人は、自分の感情をうまく表現できなくて、自己主張ができなくて、何かあると最後にはひとりで自分を責めてしまう。

そして低い自己評価に何をしても楽しくない人は悩む。

恥ずかしがり屋の人は、ひとりで布団のなかでしゃべっているようなものである。

人に話していないから、しゃべっても何をしても楽しくない人は不満であることには変わりはない。

歌いたいのに何をしても楽しくない人は歌わなかった。

踊りたいのに踊らなかった。

「好きです」と言いたいのに何をしても楽しくない人は言えなかった。

「キライ」と言いたいのに言えなかった

「イヤだ」と言いたいのに何をしても楽しくない人は言えなかった。

怒りたいのに何をしても楽しくない人は怒れなかった。

「それが欲しい」と言いたいのに言えなかった。

愛情を何をしても楽しくない人は抑えていることもあるし、嫌悪感を抑えているときもある。

そうすれば抑えている感情を、いつ人に気づかれやしないかと自意識過剰になるだろう。

恥ずかしがり屋の人が意識しているかどうかは別にして、何をしても楽しくない人の心の底には人に対する拭いがたい不信感がある。

そしてわけもなく不安になる。

人と一緒にいて楽しくない

何をしても楽しくない人は楽しくないどころか居心地が悪い。

それなのになんとか何をしても楽しくない人は取り繕うとするから、人といるとひどく疲れる。

エネルギーを消耗する。

本来、人は人とコミュニケーションをとることが生きる喜びなのに、何をしても楽しくない人は人に近づくのが怖い。

人とうまく何をしても楽しくない人はコミュニケーションできないから人付き合いが苦になる。

できれば人と接したくない。

でも人がいないとさみしい

何をしても楽しくない人は人と一緒にいると居心地が悪いが、一人でいることも楽しくない。

人と一緒にいて楽しい人は、一人でいることも楽しい。

だから何をしても楽しくない人は生きるのがつらい。

生まれてからずーっと生きることが楽しくなかった。

それは人を何をしても楽しくない人は信じられないからである。

信じる人がいれば、自分を出せるから生きることが楽しくなる

人を信じられないのは、何をしても楽しくない人が人を信じられる環境で育ってこなかったから。

自分の感情を表現できないのも、臆病なのも、付き合いが苦手なのも、何をしても楽しくない人は安心感のない環境で育ったからである。

心理的に健康な人は人とふれあうことが生きる楽しみである。

それなのに何をしても楽しくない人は人が怖い。

人恋しいところはあるが、接することが現実になると何をしても楽しくない人は、人を避けてしまう。

しかしこれらのことをなんとか解決しなければ、死ぬまで「生まれてきてよかった」と思えない。

頑張って歩いているのだが何をしても楽しくない人は、同じところを歩いている。

先に進んでいない。

消耗するだけで何をしても楽しくない人はその人自身が変わっていない。

だから、何をしても楽しくない人はうつ病にもなりやすい。

穏やかで、いつも落ち着いているおとなしい人は、感情を一年中すこしずつその場その場で出している

心の底にため込んでいない。

そのような人に何をしても楽しくない人は変わらなければならない。

迎合する自分から戦う自分へ。

保身の自分から信念の自分へ。

変わるということは何をしても楽しくない人は地獄の試練のときなのである。

試練に耐えられなければ、この先はない

何をしても楽しくない人は心の中に新しく何かを生み出さなければ道は拓けない。

石ころちょっとよければいいこと、何をしても楽しくない人は棒きれをちょっとよければいいことだけれども、それができない。

眼の前に起きていることはなんでもないことなのに、それにうまく対処できない。

そうして何をしても楽しくない人はゴミの山がどんどんふくらんでいく。

なぜ人から嫌われるのが怖いのか

なぜ嫌なことは「イヤ」とハッキリ言えないのか。

なぜ「してもらいたいこと」を「お願いします」と何をしても楽しくない人は頼めないのか。

なぜ人と一緒にいて相手に失礼になることをしないかと何をしても楽しくない人はいつも恐れているのか。

なぜ無心な会話ができないのか。

なぜなんでもかんでも自分のほうが我慢してしまうのか

高齢者と若者とが相互に理解しあうことは難しい。

男と女とが相互に理解しあうことも難しい。

また文化の違う国に属している人が、相互に理解しあうことがいかに難しいかは、歴史が示している。

しかしそれよりもはるかに難しいのが、幼児的欲求を満たして心理的に成長した人と、幼児的欲求を満たさないままに欲求放棄を強いられた何をしても楽しくない人とが、相互に理解しあうことである。

何をしても楽しくない人は「ハッキリ」と意志を伝えられない

人は自分に自信があるときには、自分の意志をハッキリと伝えられる。

自信のある人は、何をしても楽しくない人にくらべれば、はるかに直接的な言葉で自分の意志をストレートに述べる。

嫌なことは「イヤ」と言う。

してもらいたいことは「お願いします」と頼む。

恥ずかしがり屋の人は自分に自信がないから、自分を取り繕う。

遠回しな言い方を何をしても楽しくない人はする。

間接的な言い方を何をしても楽しくない人はする。

言い訳が多い

だから相手は何を言っているのかがよくわからない。

ハッキリと自分の意志を伝えないから何をしても楽しくない人は、人とうまくコミュニケーションできないのである。

「いえ、僕はどっちでもいいですけれども・・・」とか「あなたがそうであるならそれでいいです」とか「私はべつに行きたいというわけではないのですが・・・」とか、とにかくハッキリとしない。

ある何をしても楽しくない人の日本人を観光案内していたアメリカ人が、途中でその人を案内することを「もう、勘弁してくれ」と言い出した。

聞いてみると、何をしても楽しくない人はその観光スポットに行きたいのだか、行きたくないのだかわからないという。

恥ずかしがり屋の人は、迷惑をかけて嫌われることを恐れる

図々しい人だと思われることを何をしても楽しくない人は恐れる。

その恐れや不安が先行して、何をしても楽しくない人は「こうしてほしい」という自分の願望をハッキリと伝えられないのである。

人と効果的にコミュニケーションするためには、自分に自信があると同時に自分と相手の関係がわかっていなければならない。

自分はいま、親と話しているのか、恋人と話しているのか、昨日知り合った人と話しているのか、今日はじめて会ったビジネスパーソンと話をしているのか、目上の人と話しているのか、お世話になった人と話しているのかなどの関係がわかっていなければならない。

恥ずかしがり屋の人にはそれがない。

社会的距離が何をしても楽しくない人は理解できない。

さらに何をしても楽しくない人には自分を守る意識が強すぎる。

自分をよく見せようとする気持ちが強すぎる

何をしても楽しくない人は相手に対する関心はない。

そこでうまくコミュニケーションできない。

嫌われるのではないかと何をしても楽しくない彼らは恐れるあまり、必要がないのに言い訳をして、何を言っているのだか分からないことが多くなる。

相手が、そんなことを聞いていないのに、何をしても楽しくない彼らはくどくどと説明を始める。

無理をしている。

寒いときに「寒い」と言えない

うどんが食べたいときに何をしても楽しくない人は「うどんが食べたい」と言えない。

そこで不満がたまる。

「ハッキリ」と自分の意志を何をしても楽しくない人は言えない。

「ハッキリ」と言えないから相手はわからなくて、仕方なく無視する。

すると何をしても楽しくない人は傷つく。

コミュニケーションしようとしている。

でも気に入られたいから、何をしても楽しくない人は無理をしてしまいコミュニケーションできない。

たとえば学校の先生。

病気で熱があるのに無理をして頑張って講義に行った

ところがクラスでは学生が私語をしている。

そうすれば学生が嫌いになる。

「熱があるから静かにしてくれ」と言えれば効果的にコミュニケーションできる。

恥ずかしがり屋の人はこれができないから、効果的なコミュニケーションにならない。

ある人と待ち合わせて、何をしても楽しくない人はその人が好きだからなんとなく張り切って約束の時間より「早く行こう」と思って、早く行った。

相手は約束の時間どおりに来て、こちらの「早く行こう」という気持ちを汲んでくれない

そこで何をしても楽しくない人は傷つく。

それが積み重なって何をしても楽しくない人は敵意になる。

生まれ持っての攻撃性ではない。

あの人にも何をしても楽しくない人は無理をした、この人にも無理をした。

でも望んだ反応がない。

自分の気持ちを言わなければならない

何をしても楽しくない人は、恥をかいてもいいから、言う。

そこで世界が広がる。

自己主張というのは我を張ることではない。

自分のことを説明するのが自己主張。

言うべきことを言うのが自己主張。

人を無視したことを言うのはわがまま。

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何をしても楽しくない人は自分の犠牲を遠回しに売り込む

コミュニケーションは相手がわからなければならない

相手がわかれば心に思っていることを伝えても人間関係はおかしくならない。

自分はお弁当にサンドイッチを持って来た。

ところが相手に「あなた、おにぎり食べない?」と言われて、何をしても楽しくない人はおにぎりを食べてしまう。

そして「ありがとう」と言ってしまう。

相手に「おいしかったでしょう」と言われて、何をしても楽しくない人は「おいしかった」と言ってしまう。

「私は一個1000円のリンゴです」と言ってしまえばいい。

自分の価値を率直に売り込めばいいのに、何をしても楽しくない人は「800円では安いんじゃないですか」という言い方をする。

グズグズ言って、無駄な努力をしている

高く評価してもらおうとして何をしても楽しくない人はエネルギーを使うのだが、無駄なエネルギーを使っている。

たとえば、自分が払った犠牲を誇示する。

リンゴ畑でリンゴが「今年はいろいろと台風があって、頑張ってここまで来て、こんなことにエネルギーを使って・・・」と遠回しな言い方をしている。

長年にわたって「周りがみんな自分を理解してくれない」ということを知っている。

あるいはそう思っている。

そこでいまもみなは自分を理解してくれないだろうと、犠牲を強調する売り込みをする。

恥ずかしがり屋の人は、気を遣っているのだけれども、好かれない

冷たい感じを与えてしまう。

リンゴ畑にいるのに、梨畑にいると何をしても楽しくない人は思っている。

最初に「あなたは腐ったリンゴ」と何をしても楽しくない人は言われ、その後も言われ続けた。

だから「あなたはすばらしいリンゴ」と理解してくれる人がいることを知らない。

無駄なエネルギーを何をしても楽しくない人は使わなければすごいことができる。

自分の価値を売り込めば売り込むほど何をしても楽しくない人は嫌われる。

リンゴ畑ではみんなリンゴの価値を知っている。

無駄なエネルギーを使うことをやめたら人はすごいことができる

「こんなリンゴ食べてもらえると嬉しいな」と言えばいいものを、何をしても楽しくない人は「あなたはリンゴなんか食べないわよね」と言う。

恥ずかしがり屋の人はいまの人間関係に接していない。

昔は自分のことを認めない人に囲まれていた。

しかしいま、何をしても楽しくない彼の周囲の人達は違っている。

その人をその人として認めている。

しかし何をしても楽しくない彼はそれがわからない。

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何をしても楽しくない人は人間関係の「遠近感」がわからない

恥ずかしがり屋の人は、権威主義的な親をモデルにして自分の人間観をつくる

そうすれば、何をしても楽しくない人は人が怖いのは当然であろう。

ノイローゼになるような人や何をしても楽しくない人は、小さい頃から「親しさ」を体験していない。

親との関係で「近さ」を経験していない。

「近さ」を経験するから人間関係の遠近感が生じる。

こんなことは親だからしていいとか、他人にはしていけないとかいう人間関係の遠近感が出てくる。

しかし小さい頃、親との関係で「親しさ」を体験していないと、人間関係の遠近感が出てこないから、何をしても楽しくない人は、はじめて会った人にとんでもない「親しさ」を要求してしまう。

ノイローゼになるような人や恥ずかしがり屋の何をしても楽しくない人は、はじめて会った人に親にするようなことを要求してしまう。

「いじめは家庭から始まる」というが、恥ずかしがり屋の人も家庭から始まる。

女性恐怖症の人が通りがかりの女性を誘うというのは、対人恐怖症の人が人間関係の遠近感がわからないからである。

この女性恐怖症の何をしても楽しくない人は、人間関係の遠近感がなくて自分のなかの衝動しかない。

その衝動でもっとも重要なものは幼児的願望である

そこで人は見知らぬ人に自分の幼児的願望をぶつけてしまう。

人間関係につまずく何をしても楽しくない人は人間関係の遠近感が分からない人である。

アメリカの社会学教授ギルマーティンの著書によれば、何をしても楽しくない人は、女性から見ると、自分の望みを表現するのがあまりにも早くて奇妙に感じられるという。

つまり関係がわかっていない。

はじめの関係ができる前に、こころのなかでは気持ちがかなり進行してしまっている。

普通の人は「このタイプはこうかなあ?」と思って接近する。

長くて堅い関係だけが何をしても楽しくない人は触れ合いだと思っている。

初めての会話は初めてにふさわしい会話で触れ合いになる。

人間関係の遠近感が理解できていないから何をしても楽しくない人は自然のつきあいが始まらない。

恥ずかしがり屋の男は「あの女を落とすにはどうしたらいいか」というようなことを楽しく考えることができない

今度、会議で会うから、すこし派手めの背広を着ていこう。

斜め前に座って、そしてにこやかに挨拶しよう。

そしてこちらに気が向き始めたら一度、素知らぬフリをしよう。

「向こうは必ず慌てる。

にこやかに、すこし冷たくをくりかえして、様子を見て誘ってみよう」

こんなことを楽しめないのである。

「あの女が初対面のときにつくった笑いはなんだったのだろう、あれは絶対にオレに気がある」。

あの女に会うときには背広の襟元に気を付ける。

姿勢に注意しよう

そうしてその目当ての女を落とす作戦を立てる。

それを時間をかけて実行していく。

そのようなことを何をしても楽しくない男はしない。

それをするエネルギーがないのである。

人とふれあっていないから何をしても楽しくない人は持続するエネルギーがない。

自分の側から何をしても楽しくない人は働きかけていく積極性が欠けている。

目当ての女がすぐにこちらを向いて、向こうから誘いやすい状況をつくってくれないと、あきらめる。

そして誘うときには、まさに「いきなり」なのである。

人間関係の遠近感がないことが、最近の若者の「人と、どうコミュニケーションをとってよいかわからない」という悩みであろう。

この人間関係の遠近感が問題にならないのが、インターネット

それでネットだと気が楽なのである。

テレビに出てきたあるネットの専門家が「面と向かって言えないことはメールでも言わないようにしようよ」と言っていたが、じつはネットで友達を捜しているような人は、面と向かっても、ふさわしくないことを言う人なのである。

恥ずかしがり屋の人が友達の家にいる。

「何時までいてもいい?」と聞く。

友達は「三時まで」と答える。

自分は四時までいられるし、いたいけど、何をしても楽しくない人は「四時ではダメなの?」と言えない。

相手が「あー、時間だわ」と言えば、そこですぐに立ち上がる。

「四時までは無理なの?」

「無理だよ」

「あーそう」

それが会話だが、そういう会話ができない。

自分の考えを何をしても楽しくない人は伝えない。

自分の意志を伝えて、嫌われてもいい、それが人間

それが人間の尊厳。

「自分の意志が言えた」という喜び。

それを何をしても楽しくない人は大切にすること。

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「恥ずかしさ」とは何か?

ジンバルドーは、それは「心理的ハンディキャップ」という適切な説明をしている。

肉体的ハンディキャップは目に見えるが、心理的ハンディキャップは目に見えない。

社会は心理的ハンディキャップを背負った何をしても楽しくない人には冷たい。

つまり何をしても楽しくない人の苦しみはなかなか理解されない。

手を怪我したときには、目に見えるから、原因がわかる。

心を汚したときには、目に見えないから、何をしても楽しくない人は汚したと周囲の人も本人も気がつかない。

恥ずかしがり屋の人はそのハンディキャップゆえに本来の能力を発揮できない

しかし、何をしても楽しくない人は、心理的特徴さえ乗り越えられれば大変な能力を発揮できる。

最大の問題は、何をしても楽しくない人が人をすきになれないということである。

人を信じられないということである。

あまりにも何をしても楽しくない人は成長するときの人間環境が悪かった。

人間嫌いの人々の集団のなかで成長してきた。

その結果、人が怖い。

いつも嫌われて何をしても楽しくない人は生きてきた。

だから大人になってからも何をしても楽しくない人は嫌われることが怖い。

小さいころの彼は自分の周囲の人が嫌いだったし、周囲の人も彼のことを嫌っていた

もちろんこれは日常的に何をしても楽しくない人は意識されているわけではない。

多くの場合、この心理過程は無意識のなかで進行している。

したがって「なんだか変だ」という感じ方である。

「なんだか楽しくない」
「なんだか気が重い」
「なんだかつまらない」
「なんだか不安だ」
「なんだか不愉快だ」

そして何よりも何をしても楽しくない人がさみしくて孤独だということがある。

孤独こそさまざまな苦しみをよりいっそう苦しくしている

生きている以上だれでも苦しいことはある。

現実の世の中で生きている以上だれでもストレスはあるし困難はある。

しかし、それらのことをよりいっそう厳しいものにしているのが、何をしても楽しくない人の心理的な孤立感である。

誰とも何をしても楽しくない人は信頼関係を結べず、誰とも心の絆を結べず、だれともほんとうに楽しいときをすごせず、ここまで生きてきた。

恥ずかしがり屋の人の積極的な評価としては慎重、内省的などをあげる人もいる。

しかし、恥ずかしがり屋の人を積極的に評価するとすれば、それは「嘘をつかないこと」である。

もちろん意志があって嘘をつかないのではない

何をしても楽しくない人は小さいころから嘘をついたら親から厳しく罰せられた。

その恐怖感から嘘をつけない。

ところで、この何をしても楽しくない人と正反対にペラペラと平気で嘘をつく人がいる。

それはヒステリー性格の人である。

ヒステリー性格と何をしても楽しくない人を比較すると、何をしても楽しくない人の心理がよく理解できる。

ヒステリー性格の人は人を利用するが何をしても楽しくない人は利用される。

ヒステリー性格の人は大きなことを言っては自己陶酔するが何をしても楽しくない人は低い自己評価に苦しむ。

恥ずかしがり屋の人は他人とかかわりあっても、その後どうしてよいかわからないで無口になる

ヒステリー性格の人は陰口が多いし、人の間に入ってそれぞれに違うことを言って人々を攪乱する。

ヒステリー性格の人は表面的には親切で、社交的であるが、何をしても楽しくない人は人に近づくことが怖い。

ヒステリー性格の人は思わせぶりな態度で異性の気を引いて異性をもてあそぶが、何をしても楽しくない人は異性を誘えないし、異性といると居心地が悪い。

話しかけられると何をしても楽しくない人は、当惑してしまうが、ヒステリー性格の人は、自分の利益だけを考えるのだが、受け答えは面白くてうまい。

すぐに人に何をしても楽しくない人は譲ってしまうが、ヒステリー性格の人は自己中心的でわがままで我を通す。

人の言う事は聞かない

絶対に譲らない。

人に迷惑をかけることを何をしても楽しくない人は異常に気にするが、ヒステリー性格の人はわがままだから平気で人に迷惑をかける。

迷惑をかけながら迷惑をかけているということに気がつかないくらいである。

困惑しそうな場所を何をしても楽しくない人は避けるが、ヒステリー性格の人はとにかくでしゃばりで、どこにでも出て行きたがるし、なんでも威張りたい。

自分が中心でないと気がすまない。

その自分の立場を脅かす者には猛烈な憎しみを持つ。

相手を何をしても楽しくない人は見ない。

ヒステリー性格の人は相手を見る。

相手を利用するから相手が何を欲しがっているかを見抜く

周囲の人が何をしても楽しくない自分に批判的だと思って怯えている。

それに対してヒステリー性格の人は、人を傷つけることに快感を持ち、スキャンダルをつくりあげて、人を失脚させようとする。

自罰型と他罰型であり、抑制型の人と非抑制型の人であり、搾取されるタイプと搾取するタイプであり、自己否定他者肯定型と自己肯定他者否定型であり、何かあると自殺するタイプと、何かあると人を殺すタイプである。

大胆な人と何をしても楽しくない人は間違えられることはないが、ヒステリー性格の人は冷酷なエゴイストなのに、演技がうまいから、いい人と間違えられる。

ヒステリー性格の人は市民社会のテロリストであり、何をしても楽しくない人はテロに怯える一般市民のようなものである。

ヒステリー性格の人とかかわれば何をしても楽しくない人は間違いなく餌食になる。

骨までしゃぶられる

同じ兄弟姉妹でも、何をしても楽しくない人とヒステリー性格の人とがいる。

同じ会社のなかでも何をしても楽しくない人とヒステリー性格の人とがいる。

小さな地域にも隣人どうしで何をしても楽しくない人とヒステリー性格の人とがいる。

だから同じひとつの小さな家族のなかで、うつ病になる人と好き勝手な生活をしている人がいるのである。

同じ会社でも一方に燃え尽きる人やうつ病になる人がいるのに、他方にのうのうと利益をむさぼっている人がいる。

この記事を読んで「私は何をしても楽しくない人間である」と思ったら、生きていく上でもっとも注意することはヒステリー性格の人と深くかかわらないことである。