傷つきにくい人ー二つのタイプ

傷つきにくい人とはどのような人であるかを考えてみます。

傷つきにくい人は、大きく二つのタイプに分けられます。

一つは鈍感な人です。

このタイプは、鈍感であることで自分を守っているのです。

もう一つのタイプは、しっかりした自己価値感を持つ人です。

このタイプは、あるがままの自分を受け入れており、防衛を必要としない人です。

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鈍感さで自分を守る人

繰り返し不安な場面におかれた幼い子どもは、無感覚、無感情、無表情になります。

感覚を鈍磨させることによって、自分を守ろうとするのです。

鈍感さとは、外界の圧倒する刺激に対して適切に対処しきれない場合にとる、自我の防衛機制なのです。

成長する過程で、こうした防衛機制を強く形成する人がいます。

このタイプの人は、根底に自己無価値感があるのですが、鈍感であることによって、この自己無価値感が揺さぶられることがないようにしているのです。

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鈍感さで自分を守る人は、強迫的性格の人が多いようです。

強迫的性格とは、物事に執拗にこだわる性格のことです。

これは、人により粘り強さとして現れたり、精力的な活動性として現れたり、ささいなことへの過度のこだわりとして現れたりします。

強迫的性格の人は、ある種の几帳面さを持ち、話がくどい傾向があります。

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思考は現実的であり、物事を全か無かの二価値論的に単純化してとらえがちです。

このために、柔軟性に乏しい思考や行動になります。

傷つきやすい人から見ると、この性格の人は繊細な感受性や豊かな情操を持たないかのように思えます。

失敗や恥ずかしい過ちをしても、あまり気にしません。

感情抑制的に接してはいるのですが、内面に敵意を抑制していることが容易に感じられます。

このために、こうした人に接するときには、素直に信頼するのを躊躇するような気持ちが起こることも少なくありません。

事実、時として、彼らは激しく怒ったり、攻撃したりすることがあります。

このために、このタイプの人のなかには、周囲を傷つける傾向の強い人がいます。

こうした防衛機制を選択する基礎には、神経系統の不活発さなど、なんらかの素質的なものがあると考えられます。

そのうえで、次のような親の影響が考えられます。

細やかな感情を否定する親・・・細やかな感情や、めめしさなどを否定する親に育てられた場合、そうした感情の表現は叱責されたり、ばかにされたりします。

このために、子どもは、鈍感さを強めざるを得ません。

過度に理性面だけを強調する家庭で育った場合も同様です。

厳格な親・・・厳しい親のもとでは、子どもは親に適応することが第一義になり、自分の感情に浸ることが許されません。

それが、子どもに鈍感さをもたらし、感情を枯渇させていきます。

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過干渉な親・・・過干渉とは、こうあるべきだとか、こう感じるべきだと、親の考え方や感じ方などを、子どもに強制することです。

子どもがこれに応じるためには、自分本来の素直な感覚や感情を抑圧するしかありません。

気まぐれで感情が激しい親・・・こうした親のもとでは、子どもは親の行動や感情に引き回され、自分の内からの感覚や感情に浸れません。

平穏な心を保つためには、子どもは自分の感覚や感情を鈍らせるしかありません。

共感的応答能力に欠ける親・・・愛情深くとも、感受性が鈍かったり、思い込みが強いために、子どもの細やかな情感に沿った対応ができない親もいます。

この場合にも、子どもは自分を保つために、感覚と感情を閉ざすしかありません。

このような親に育てられた人は、細やかな人間的な深い感情を抑圧していきます。

また、当然自分が本当には大事にされなかったのですから、その根底には根強い自己無価値感が横たわっています。

この無価値感に対する感受性を鈍磨させ、関心を現実と即物的なものに限定することで、自己無価値感を埋め合わせている人なのです。

ですから、いたずらに「鈍感な人」とさげすんだり、「傷つかなくて気楽な人」とうらやんだりするのではなく、そうならざるを得なかった人として、温かい目で見てあげたいものです。

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揺るぎない自己価値感を持つ人

幼いときから一人の人間として歓迎され、尊重されて成長した人は、自分の存在自体に価値があるという確固とした確信を形成します。

こうした自己価値感を持つ人は、容易に傷つくことはありません。

たとえ、傷ついても、心の根底まで揺るがされてしまうことはありません。

確固とした自己価値感を持つ人は、成熟した人格を感じさせます。

なにかに強迫的にこだわることはありません。

ゆったりとしていて、なによりも自然なさりげなさを感じさせます。

彼らは、自分の心にも自然であるし、人に接するときにも自然であります。

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その自然さが、人間的な誠実さと温かさをかもしだします。

あるがままの自分の存在自体に疑惑を持ちませんので、否定的な感情で心全体が揺さぶられてしまうというようなことはありません。

失敗は、次に成功するための教訓を引き出すものとして受けとめることができます。

他者からの批判は、自己を省みるための良き指針として生かすことができます。

自分が仕上げた作品や業績は、自分なりにしっかりがんばった成果として、充実感を持って受け入れることができます。

不十分さや欠陥、至らなさも、努力すべき課題として受けとめられるし、自分の努力では変えられないものだとしたら、それはそのままに受け入れようとします。

自分を不必要に防御することがないので、物事を屈折して見ることは少なくなります。

相手の意図や、客観的な状況を正当に考慮しようとします。

感情は素直で、直截的でありますが、事実と感情とを切り離してとらえることができます。

必要を感じたら、疑心暗鬼にとどめず、直接、遠慮なく本人に問いただします。

理不尽なことが明確になれば、その点で相手に明確に批判を伝えることもできます。

もちろん彼らが傷つかないということはありません。

誠実さへの裏切りなどには、むしろ人一倍深い悲しみを感じます。

しかし、傷つきを不必要に広げてしまうことはありません。

傷つきをいつまでも引き伸ばしてしまうことはありません。

傷つき体験からも、学ぶことがあれば学び、忘れるべきことであれば忘れようとします。

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許すべきことであれば、許そうとします。