太り気味で元気な人がいる。

痩せていてエネルギッシュな人がいる。

太り気味で長生きする人がいる。

体重に「セットポイント」というのがある。

アメリカの心理学者、リチャード・ニスベットがいい出したもので、その人にもっとも適した体重のことである。

ダイエットなどして無理に自分のセットポイントより痩せようとすれば、健康によくない。

セットポイントより痩せても体に悪いし、セットポイントより太ってもよくない。

同じように、人はそれぞれ自分が生きていて、”もっとも快調な自分”というのがある。

つまり体のことばかりではなく心理状態をも含めて、人にはその人のセットポイントというのがある。

その人の身長というのがあるように、その人の能力というのもある。

その人の適性というのもある。

その人の顔というのがあるように、その人の性質とか性格というのもある。

人それぞれ違うのは、指紋ばかりではない。

好きなことも違う。

嫌いなことも違う。

そして人それぞれに性格の違いがあるように、人との付き合い方にも、適した付き合い方の違いがある。

「理想の自分VS.現実の自分」の不毛な戦い

ところがこれを無視して、「こうあるべき自分」というのにこだわり出す人がいる。

「こうあるべき関係」というのにこだわり出す人がいる。

自分の中の”自然”を否定する人である。

ここで、現実とコミットしなくなる。

それが、「理想の自我像」といわれるものである。

この理想の自我像を実現しようとすることで、現実の自分の能力は破壊される。

現実の自分には、いろいろな限界がある。

できることとできないことがある。

その、現実の自分にできることとできないことを無視して、「こうあるべき自分」にこだわる。

そして、「こう」できない自分を責める。

「こう」できない自分を憎む。

「こうあるべき自分」に、現実の自分を合わせようと無理をする。

そこで「こうでない」自分を価値がない人間と思ってしまう。

そして「こう」した自分になろうと無理をして焦る。

一日一日を大事にして生きない。

何よりも、「こうでない」自分は愛されないと錯覚する。

しかし、真実は逆である。

愛は、無理をして求めようとしても得られない。

愛は無理のない生き方をしているとき、静かに訪れてくる。

無理のない生き方とは、決して焦らない生き方である。

自分の今を信じる生き方である。

「こうあるべき自分」ではなく、ありのままの自分を大事にする生き方である。

ありのままの自分を大事にするから、ありのままの他人を大切にできる。

自分が、ありのままの自分にコミットしている。

そういう人は他人ともコミットする。

他人とのかかわり合いを嫌う人がいる。

自分が「ありのままの自分」とふれていない人である。

そんなに予定通り、思いどおりにならないのがあたりまえ

「こうあるべき自分」はどこから出てくるのであろうか?

一つには、「親の不適切な期待」を内面化するところから生じてくる。

不適切な期待とは、その人にとってハードルの高すぎる期待である。

そしてその基準だけが、唯一の基準になる。

そしてそのハードルの高い願望を内面化して、その願望に苦しめられる。

もう一つは、小さいころの心の傷を癒やすために、頑張ってしまう自分である。

深く傷ついた自尊心を回復するために頑張る自分である。

自分のできないことをしようとして無理するのは、向上心ではなく劣等感である。

向上心とは、自分のできることの中で頑張ることである。

自分が「ありのままの自分」とコミットしている人の努力である。

小さい頃、深く自尊心を傷つけられた体験のない人には、なかなか「こうあるべき自分」は想像できない。

「ありのままの自分」が「自分」だからである。

ありのままの自分とコミットしている人には、「こうあるべき自分」に向かって無理して頑張る心理がなかなか理解できない。

理想の自我像というのは”プロクラステスの寝台”の役割を果たす。

プロクラステスとは、ギリシャ神話に出てくる強盗で、旅人をただで泊めてくれる。

しかしその寝台より旅人の体が長ければ切って殺してしまう、寝台より短ければ伸ばして殺してしまう。

支配的な親を持ってしまった子どもの悲劇は、まず「自分はどうあるべきか」から人生を出発してしまったことである。

そして、「自分はどのような人間であるか」ということに注意を払わない。

無理をして生きている人は、「現実の自分」に注意を払うことなく生きている。

そして、「自分が喜びを感じること」に手を出さない。

無理をしている人は、実際の自分とコミットしていない。

それは「実際の自分」を受け入れていないということである。

実際の他人ともコミットしていない

この世の中にコミットしていない。

つまり自分とコミットしていない人は、根無し草、糸の切れた凧。

自分でない自分で生きているから、何かにコミットすることに意味を感じられない。

「成功」も「失敗」も、一つの体験に過ぎない

そういう人は、想像の中で生きていて、現実とふれていない。

だから、一回の失敗が自分をすべてダメにすると思っている。

自分の失敗を誇張して考える。

ちょっとした失敗で、すぐに取り乱してしまう。

それは現実とふれていないから。

人とふれていないから。

現実とコミットしていないから。

現実とコミットしていれば、失敗は失敗である。

それはたんなる一つの体験である。

現実とコミットしていれば、ささいな失敗で、自分の人生は「これでおしまい」とは思わない。

「失敗すると自分の価値が下がる」と思っている人は、自分の価値を信じている人より失敗を恐れる。

「失敗すると、他人から蔑視される」と思っている人は、そうでない人よりも失敗を恐れる。

失敗を恐れるのは、現在の自分に満足していないからである。

現実とコミットしていないから、「失敗したら大変だ」と感じる。

これらの失敗の恐怖感は皆、自分とコミットしていないから生じてくる。

他人が自分のことをどう思っているかを気にする人のほうが、そうでない人よりも失敗を恐れる。

自分の人生を生きていないから、失敗を恐れる。

つまり自分とコミットしていない人は、失敗を恐れる。

自分の人生を生きていれば、失敗は怖くない。

自分とコミットしていない人が失敗するからイライラする。

他人に自分の重要性を印象づけようとしている人のほうが、そうでない人よりも失敗を恐れる。

ストレスも強い。

失敗は「とりかえしがつかない」と解釈する。

自分の欠点を非難するだけでなく、自分自身を非難する。

自分とコミットしていないということは、一人でいても居心地が悪いということである。

他人とコミットしていないということは、他人といても居心地が悪いということである。

つまり自分とコミットしていない人は、かなり深刻な問題を抱えているということなのである。

こういう人は、人とコミュニケーションができない。

「失敗を恐れる人」の深層心理

たとえば、次のような会話である。

「貸して」と言って断られる。

そこで「なんで?」と聞けない。

「断られる」ということと「嫌われる」ということの分離ができていない。

断られたことを「嫌われた」と解釈する。

恥ずかしがり屋の人の四つの恐怖」というのがある。

そのうちの一つが失敗の恐怖である。

恥ずかしがり屋の人も、この分離ができていない。

遊びに行って、相手の部屋にいる。

相手から「自分は三時までしか都合がよくない」と言われる。

こちらは四時まで相手の部屋にいられると、後の時間の都合がいい。

そんなときに、

「四時までは無理なの?」

「無理だよ」

「あー、そう」

という会話ができない。

そういう人は、小さい頃、親に”嫌われて”いたのである。

だから大人になって、人とも自分ともコミットできない。

人と心が触れ合うことがない。

「失敗したら他人に非難されるかもしれない」と恐れる。

現実とコミットしていないから、すべてが想像の世界である。

小さい頃、母親に「いい子ね」と言われることは、世界中の人に「いい子ね」と言われるのと同じこと。

小さい頃、母親に「バカね」と言われることは、世界中の人に「バカね」と言われるのと同じこと。

小さい頃、母親の、「イヤな子ね」の一言は、全世界の人の言葉。

だから大人になって世界中の人から賞賛を浴びても、劣等感に苦しんでいる人がいるのである。

失敗した子どもを責める母親は、欲求不満。

不幸な母親である。

子どもが隣の家のガラスを割ってしまった。

「なぜガラスを割った!」と子どもを責める。

「謝ってこい」、これだけでは教育ではない。

「ガラスは割ってはいけないよ」と言いながら、「隣の家の人は寒いよ」と教え、「だから謝ってこようね」で、教育である。

失敗を人生の糧にする人、小さな失敗でダメになる人

「自分の弱さを受け入れれば、失敗は少なくなるはずです。完全であろうとあがくとかえって失敗します」。

失敗することをなぜ恐れるか?

失敗を恐れるのは、「失敗したらどうしよう」と思うからである。

失敗を成功のもととして、失敗してもそこから何かを学ぼうとする人は、失敗を恐れない。

アメリカの心理学者、デヴィッド・シーベリーは、心配事に対する反応について、大きく分けて三種類の人がいるという。

自分のトラブルを解決する道はないかもしれないと感じつつ、激しく揺れ動き、運命を呪うタイプ。

次はただ祈るのみ、神が答えを出してくれるのを待つタイプ。

最後に、指針を求め、喜んで努力しようとするタイプ

最後のタイプは現実とコミットしている。

だから不必要に失敗を恐れない。

失敗したら生きていかれないように感じる人が、失敗を恐れるのである。

どうなっても生きていかれる自信のある人は、失敗を恐れない。

相手が見えない人は、失敗することが恐ろしい。

「相手は自分を蔑視する」と思ってしまう。

相手が見えないから、相手が自分をどう思うかが気になる。

要するに、相手とコミットしていない。

無理をしている人にとっては、相手は魚や蛇と同じ。

「どうすればどうなるか」がわかっていない。

他人が気になるのは、マムシが気になるのと同じことである。

相手にコミットしていないということは、相手に関心がないということである。

相手がわからないから、自分に危害を加えるかもしれないと恐れる。

木こりは木と話し合うという。

料理人はゴボウに関心がある。

彼らは周囲の世界にコミットしている。

心配を「幸せのタネ」に変える、心の持ち方

失敗を恐れている人がわかっていないことは、「失敗しても自分は愛されるに値するのだ」ということである。

「引き続き愛される」ということである。

相手と心理的にコミットしていれば、誤解は少ない。

心が触れ合う関係でないと、さまざまな誤解が生じる。

「私は必ず成功してみせる」と言って、その上で失敗しても「私は愛されるに値する」のである。

失敗したことで不幸になる者と、失敗を通して心理的に成長し、幸せになる者とがいる。

違いは失敗という体験ではない。

「失敗にどういう態度で臨んだか」という違いである。

失敗の解釈の違いである。

小さな失敗を大げさにとらえて悲観的に考える人もいるし、素晴らしい明日に向かって乗り越える人もいる。

いつまでも「失敗した、失敗した」と嘆いているだけで、新しく何も始めない人もいれば、「なぜ自分は失敗したか?」を冷静に反省する人もいる。

そして、大切なことは他人の目に成功者と映ることではなくて、じぶんに確信を持つことである。

他人の目に成功者と映ることが大切な人が、小さな失敗に大げさに反応するのである。

他人の目に成功者と映ることに努力する人が、小さな失敗に絶望するのである。

他人の目に成功者と映ることが大切な人が、一度の失敗で人生を狂わす人である。

他人の目に成功者と映ることが大切な人が、一度失敗するとその失敗のことばかり考えて、自信を失う人である。

他人の目に成功者と映ることが大切な人が、一度失敗すると世の中を恨みはじめる人である。