喧嘩できない人とは

喧嘩できない陰にある本当の事情

「私は悪くない」「妻がけしからん」と思っている夫婦喧嘩の例を見てみよう。

ある神経質の主婦である。

彼女は「夫とギクシャクしているんですよね。もう家庭内別居みたいなものですよ」。

彼女は夫と顔を合わせたくない。

夜も朝も御飯ができると、「ご飯ができました。適当に食べてください」と言って、自分の部屋へ引っ込んでしまう。

夫は朝、一人で食べて出ていく。

夫と一年以上一緒に食事していない。

口をきくと言葉じりを捕らえた喧嘩しかない。

そこで今は話をしない方が家の中は静かだと言う。

この夫婦は喧嘩をするが、喧嘩をしていることが本当のトラブルの原因ではない。

真の課題は、いま起きているトラブルの裏にある。

アメリカの精神科医ハリー・スタック・サリヴァンは、パラタクシスという言葉を導入した。

パラタクシックな対人関係とは、人々の現在の対人関係における「ゆがみ」である。

口をきくと言葉じりを捉えた喧嘩になるのは、その喧嘩になっていることが問題ではない。

真の課題がその喧嘩の裏にある。

パラタクシス的歪曲のあるコミュニケーションとは、表向きの課題の裏に真の課題があるコミュニケーションのことである。

喧嘩できない人は好きな人を見ながら、嫌いな人にアメをやる子どもの心理みたいなものである。

喧嘩できない人は恋人が他の異性と話していたのが面白くない、しかし面と向かってそれを言えない。

そこで喧嘩できない人は違ったことで文句をつける。

言えば解決するのに、言えない。

そして喧嘩できない自分の人生はひどいと嘆く。

喧嘩できない彼女はやさしさを求めているが得られない。

それが真の課題である。

喧嘩できない彼女は体の調子が悪いのに、ご飯の仕度をしている。

それなのに夫はサークル活動をしている。

「それまでは私は我慢してきました」と喧嘩できない彼女は言う。

さらに「夫婦喧嘩も好きでないので、子どもの前でも10年も喧嘩をしませんでした。

私が我慢すればいいや、いつもそう思っていました」と付け加える。

喧嘩できない彼女は自分の我慢を美徳のように言うが、美徳ではない。

喧嘩できない自分への不誠実である。

それを美徳と思っているから喧嘩できない人はいつもイライラしている。

それなのに「お前が悪いと言われると、私は何だろうなー」と喧嘩できない彼女は思ってしまう。

そして彼女は、本気で喧嘩できない自分を解放する気にならないで、「私は悪くない」と思うことに逃げる。

嫌われるのを恐れない

喧嘩できない彼女はその場その場で、夫に怒りを表さなかった。

そこで憂鬱になるときも多かった。

「自分はいさかいするのが嫌いだという気持ちが強いもので」と言う。

喧嘩できない彼女は「いさかいするのが嫌い」と言うが、それ以上に真の自分自身になることが怖い。

喧嘩できない彼女はコミュニケーション能力がないことを、「自分はいさかいするのが嫌いだ」と合理化してしまう。

喧嘩できない彼女は対立することができない。

不本意ながらも喧嘩できない人は相手の言うことに従う。

喧嘩できない彼女は5年間いつも不本意ながらも譲渡してきた。

そして怒りを溜め込んでいたのである。

アメリカに「一日一回夫婦喧嘩で医者知らず」という格言がある。

夫婦の間では、それくらい自分の言いたいことを言う、つまり喧嘩することは大切であるという意味である。

言いたいことを言わないで、心に残しておくと、それはいつか火山のように爆発する。

爆発しないときには本人の中で頭痛をはじめ体の不調となって爆発する。

デンバー大学の心理学教授で結婚家族研究センターの所長であるハワード・マークマンも「建設的議論」という名称を使い、それが結婚生活成功の最大にして唯一の預言者であると言っている。

事態に直面しないで議論を避けると次第次第に、夫と妻との間のガラスは透きガラスから曇りガラスに変わっていくという。

マークマンも結婚当初の問題は時が経てば解決すると人々は思うが、期待に反して問題は悪化すると述べている。

曇りガラスからいつか鉄のカーテンがひかれますます喧嘩しずらくなる。

夫婦の間ではトラブルこそお互いを理解し合うチャンスなのである。

トラブルがなければ喧嘩をしてお互いを理解し合う機会はない。

対立したときにお互いに自分を主張して話し合わないで、喧嘩できず自分が折れることで解決する人がいる。

しかしその感情は心に残る。

それはいつか別の仮面をかぶって二人の間に登場する。

イエス、ノーをちゃんと言えること

喧嘩できない彼女は、「自分に意志がないから対立ができない」ということが理解できない。

喧嘩できない自分の意志の欠如を理解できない。

自分を守るということは、基本を守ること。

迎合では守れない。

自分の意志でイエス、ノーをはっきりと言える。

相手を喜ばせるためのイエスは言わない。

言うべき時には喧嘩してでも言う。

それが自分を守ることである。

意志が一貫している。

それが愛があるということであり、自分を守ることである。

選択を迫られるときには、イエス、ノーをはっきりと言う。

そして意志には責任が伴う。

喧嘩できない彼女は「あの人は思いやりがない」とあとになって非難する。

しかしあとで非難するより、その場で、「私は思いやりが欲しい」と言えばよい。

しかし喧嘩できない彼女はそれは言わない。

なぜか?

それは怒りを我慢することで相手に「罪悪感を抱け」とひそかに要求する方が、自分の恨みの気持ちにぴったりとするからである。

喧嘩できない彼女は我慢しながらも、夫が自分を理解してくれることをひそかに求めていたのである。

さらに言えば、実は喧嘩できない彼女は夫に、私はこんなに我慢をしているのよと、罪悪感を持つことを要求しているのである。

そうしている方が、頑張って自分の潜在的能力を伸ばすよりも心理的に楽だからである。

「ベストの自分を見つけて伸ばす」ことよりも、「私ばかりつらい目にあう」と言って被害者意識の中に立てこもっている方が心理的には楽である。

ところが逆に夫は「私ほどいい夫はいない」と言っている。

喧嘩できない彼女の方はそれが許せない。

夫は「俺ほどいい夫はいないはずだ、少しは世間を知ってこい。

俺は真面目だし」と言う。

夫から言えば、「私は悪くない」のである。

夫婦そろって「私は悪くない」と思っている。

夫婦そろって「自分と向き合うこと」から逃げている。

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喧嘩できない人は人間関係を円滑にできない

イラッとしたときは人間関係を結び直す機会

喧嘩できない彼女から見ると夫は、「相手の気持ちをくみ取ろうということが全くないんですよ」ということになる。

実はそれが夫の説明ではなく、彼女自身の「自分についての説明」であることに気がついていない。

夫は言葉もいつも「お前が悪い」という言い方しかない。

喧嘩できない彼女は「お前が悪い」と言われて、「気持ちの中にぐさっときた」と言う。

お互いに「私は悪くない」と思い、お互いに「相手が悪い」と思っている。

そこである日突然、「あー、許せないっていう気持ちになってしまった。

この人とこれから先も気持ちが合わないんですよ」。

それでいながら二人の間に離婚という選択肢はない。

いわゆる人間関係依存症である。

アルコール依存症の人が、アルコールが好きでなくてもアルコールを飲まなければならないように、お互いに好きではないけれど喧嘩できず離れられないという人間関係である。

それは人間関係依存症である。

もともと気持ちが合わないのではなく、自分の気持ちを素直に表現しないことで「気持ちを合わなくした」のである。

マークマン教授の考えが載っているアメリカの心理学雑誌「Psychology Today」が1992年の1月、2月合併号で結婚特集をした。

その結論がやはり葛藤(conflict)は結婚生活のコミュニケーションの主要な領域であるということである。

だから相手が怒ったり、自分が「イラッ」となったりしたときには「これこそがチャンス」と思うようにすることである。

ただこう思えるのは、喧嘩をしてお互いに自我の確立が条件である。

お互いに「本当の自分」を隠して、トラブルを解決しようとしていれば、トラブルは解決しない。

自分の方から不孝を背負う喧嘩できない人は、あっちもこっちもパラタクシス的歪曲である。

そして本音が建前の仮面をかぶって登場する。

本音を語れるのは二人で十分

こういう人達は、小さい頃から本音を言い合える、喧嘩できる環境に育っていない。

小さい頃の、子ども同士の喧嘩は残酷である。

いじわるも本音。

小さい頃の喧嘩は全てがストレート。

大人はいい人と思われるために喧嘩ができず我慢をするから、怒りがあふれる間際にまでいく。

欲求不満な喧嘩できない人の本音と、満たされている人の本音とがある。

いじわるなときも、誠実なときもある。

前提が愛なら本音は誠実。

本音で喧嘩して親しくなるのは難しいが、それしか方法はない。

自然に相手を受け入れられる。

それが本来の高揚した気分である。

それが本来の心のふれあいである。

大人になって本音の言い方がわかる。

愛には「もっと、もっと」という種類の悩みがない。

「もっと、もっと」の欲が消える。

幸せは大股で歩くものではない。

幸せは、こんな小さなこと、というようなことの積み重ねである。

今日をきちんと生きている者に未来がある。

今日をきちんと生きられない者に未来はない。

ある人が本音が言えない自分に悩んでいた。

ありのままの自分かどうかわからないけれど、私を知っていてくれるのは二人ぐらいです。

こんな悩みである。

二人で十分である。

二人以上ということはチヤホヤされたいということである。

チヤホヤされると理解されるとは違う。

悩みの続きである。

「私はありのままの自分が愛されたことがあったか」と心で考えたとき、「ない」と結論がすぐに出せました。

本当の私をわかってくれる人はいない。

本当の私を知ったらきっとみんな失望するだろう。

本当の私を知ったら誰も私の友人にはなってくれないだろう。

それはわかったのだけれど、頭でわかっても、今までのこともあるし、なかなかそのままの私が出せません。

こういう喧嘩できない人は「ありのままの自分」が本音の自分と思っている。

そうしてそれをどこでも出せることが望ましい生き方だと思っている。

ありのままの私は、本当は恐ろしい喧嘩っ早く勝気な性格で、こんな性格で外で人とつきあったらみんなに嫌われるのは当然だ。

そう思っていましたと言う。

ありのままの自分は、その中に成長欲求を含んでいる。

喧嘩できない彼女は退行欲求の自分だけが、ありのままの自分だと思っている。

喧嘩できない彼女は自分のベストの部分を引き出す人に会っていない。

ありがとうが本音で言えるかどうか

本音を言うと相手を傷つける。

本音、喧嘩そのものは悪いわけでもなくよいわけでもない。

本音、喧嘩の善し悪しは関係によって決まる。

本音、喧嘩は人間関係の距離によって使い分けなければいけない。

そうでないと人を傷つける。

人間関係の距離感のわかっている人は、本音や喧嘩を人間関係を深めるために使える。

誰にでも本音を言っていいものではない。

それなのに本音を言うことが「自分を出すことだ」で、いいことだと思っている人がいる。

もともと信頼関係がなければ本音は言わない。

耐えることは美徳であることも、美徳でないこともある。

それはお互いの関係の中で決まる。

信頼関係はわかってくれる人との関係である。

自慢話は本音である。

信頼関係の中で自慢話は嫌われない。

喧嘩とは真逆の自慢話を共有できればいい。自慢する方に感謝の気持ちがあればいい。

妬みが基本の社会で自慢話は難しい。

相手にとって不愉快なことである。

こんないい花をありがとうございます。

こうした言葉で関係は深まる。

相手も本音を受け入れる喧嘩できる人でないと、本音で関係は深まらない。

本音で人間関係を深めるためには、花を持ってきた人が本音を受け入れる人でなければならない。

「まあ、こんないいお花」「ありがとうございます」お互いに本音を言える人。

「道で咲いていたのだけれども、これちょっとキレイだと思わない?」

「うん、キレイ」

「これいける?置いていくけど」

「いいの?いただくわ」

しかし、次のような会話もある。

「六本木でカトレアを買ってきたの」

「あら、ありがとうございます」

そして、「ケーキ召し上がる?」

無理がある。

終わったあと「はあ」。

疲れる。