失敗からの学びで高尚、低俗を超えた自由になれる

失敗の高尚や低俗とは

失敗から学べば高尚でも低俗でもない自由になれる

人間はある体験をし、ある印象を得る。

悲しんだり喜んだりする。

それらの体験にともなって、心の内部ではいろいろな感情活動が行われる。

しかし人間は、生きている以上次々にいろいろな体験をするわけであるから、それにともなう新しい感情活動が、前の感情活動をおしのけて心の中に入ってくる。

それによってその体験を中心にして集まった感情活動も放電される。

このように体験をなんらかの方法で放電する能力を、クレッチマーは「伝導能力」と呼んでいる。

体験によって心の内部に高まった緊張は、このような伝導能力の働きで平静にもどる。

「性格のもつこのような、平静をもたらす体験適応作用は、純粋に精神的内部に、つまり持ち合わせの全表象間の自由かつ多面的な観念連合によっても行われうるし、外部に向かった行為、たとえば簡単な打ち明け話、感動爆発、意志行為などによっても行われることもある」(「新敏感関係妄想」)

この伝導能力の欠如は、いろいろな問題をおこす。

こだわるというのもそうであろう。

一度なにかに失敗すると、その失敗にこだわってしまう人がいる。

同じ失敗をしても、ある人はその失敗にこだわり、同じ状況に出会うとまた失敗するのではないかと不安な緊張に襲われ、その不安ゆえにまた同じ失敗を繰り返す。

ところが別の人は、自分のした失敗をケロリと忘れ、次に同じ状況に出会っても不安にならず、今度はうまく乗り越えてしまうということがある。

この違いがまさに伝導能力の違いなのであろう。

不安から同じ失敗を繰り返してしまう人というのは、一度した失敗にともなう感情体験を発散することができない人である。

そういう人は、その失敗によって普通の人以上に深く傷ついてしまう敏感さをもっている。

ああしまった、失敗してしまった、うまくいかなかった、どうしよう、どうしよう、この失敗で皆は自分のことをどう思うだろう、この失敗であの人は自分のことをダメな人間と思うのではないか等々、思いめぐらし、悩み抜いてしまうのである。

その失敗について、相手は自分ほど強く印象づけられてはいない。

その失敗に関係した人は、その本人ほど強く印象づけられてはいないのに、本人は皆も自分と同じようにその失敗に強く印象づけられたと錯覚する。

それだけにその人は、自分についての悪い印象を回復しようとあせる。

その機会がくると悪い印象を回復しようとあせるから、また失敗をしてしまう。

人前で顔が赤くなることに恐怖を感じる人がいる。

顔が赤くなる自分を恥じる。

普通の人は赤面しても、そのことをそんなに恥じないであろう。

だいたい、まったく顔が赤くならない人などというのは、かわいげがない。

ところが顔が赤くなることに恐怖を感じている人というのは、その顔が赤くなる自分をふがいないと思う。

これに限らず、神経質気味の人というのは、誰だってするような失敗をして、その失敗を恥じる。

そのような失敗をする自分をふがいないと感じる。

神経質気味の人のほうが普通の人より失敗が多いというわけではない。

失敗するのは同じように失敗しているのである。

ただ同じ失敗によっても受ける心理的打撃が全く違う。

それだけ強い打撃を受けながらも、その感情を発散する伝導能力が欠如している。

そのような人がいろいろと心理的問題をおこす人なのである。

クレッチマーは、このような性格上の欠陥を背負っているのが臆病、ひかえめ、内気などと呼ばれている人であるという。

しかしこれらの人は、正常範囲内の人であろう。

問題は強い感情体験をもちながら、その発散を妨げられ神経質などになる人である。

溜めこむか、発散できるか

一度顔が赤くなると、そのときの感情が発散されずに、その人の心の中に残ってしまう。

それが「抑留」である。

よく白昼夢にひたる人などというのは、このような抑留に苦しんでいる人であろう。

深刻な感情体験にもかかわらず、乏しい伝導能力によって、その感情が抑留されてしまう。

それをなんとか放電しようとしているのが白昼夢ではなかろうか。

自閉的傾向の人の心内コミュニケーションというのも、似たようなものではなかろうか。

ひとりで心の中で話していて、現実の相手との対話がなかなか成長しない。

しかし白昼夢といい、心内コミュニケーションといい、なかなか活発な感情生活を発散して心を平静な状態にすることはできない。

ところで病的な例は別にして、普通の人でも放電能力のある人と、放電能力のない人とがいる。

不愉快なとき、それを表面に出してそのあとケロッとしている人と、それを顔には出さないが、心の中では顔に出す人より不愉快に感じたり、傷ついたりしている人がいる。

伝導能力の欠如とか抑留という表現を使うと病的な感じがするが、ここでは妄想する者のような例ではなく、普通の人の例で考えてみたい。

いったいどのような人が伝導能力をもち、どのような人が伝導能力をもっていないのであろうか。

伝導能力がないという人は、失う不安をもっている人だと思う。

いま自分が得ている好意を失いたくないとか、いまの自分が得ている評価を失いたくないとか、あるいはいま仮にも表面上だけでも得ている心理的安定感を失いたくないとか、とにかく失いたくないものをもち、しかも失う可能性とその恐怖を持っている人は、どうしても伝導能力が欠如してくるような気がする。

もっと単純に考えてみよう。

恋人と話している。

相手にカッとするようなことをいわれたとする。

あるいは、こちらが傷つくようなことを言われたとする。

そのとき、カッと怒ったり、どなったり、ときには顔を軽くでもひっぱたいたりする人がいる。

原始性性格のような人は別にして、ごく普通の人でそのようなことをする人は、恋人に捨てられる心配をしていない人であろう。

そしてたいていそのあとはケロッとしているのではなかろうか。

もし恋人に悪く思われるのではないかとか、こうしたら恋人は自分のことをどう思うであろうかとか、恋人に見捨てられる不安を持っていたら、多少カッとしてもじっと我慢をしてしまうだろう。

多少不愉快なことがあっても、くやさしをこらえて笑顔でいるだろう。

しかし傷ついてじっと我慢して笑顔でいたら、心の中は不安で尖鋭化した緊張で平静を保てないであろう。

心の中は過度に緊張しても、それを外に出したら相手に悪く思われるのではないかと恐れている。

となれば、緊張をやわらげる方法を失ってしまう。

普通の人の心的放散能力というものは、自分に対する自信によって決まる。

この場合なら相手が自分を見捨てない自信、それによって自分を悪く思わない自信、それによって相手が自分を嫌いにならない自信である。

嫌われるのが怖い以上、対人関係で心的放散能力の欠如はまぬがれないであろう。

人間関係はお互いにケンカしながら深まっていくというようなケースにあっては、双方ともに心的放散能力をもっていることになる。

恋愛にしろ、友情にしろ、このようなケースはお互いに離れがたいであろう。

相手が自分の「こうした傾向」は嫌いだと承知しつつ、自分のそうした傾向を表現できるような関係にあっては、お互いに心の中にやわらげがたい過度の緊張をもつことはないであろう。

嫌われる、軽蔑される、は大きな誤解

繊細で傷つきやすいにもかかわらず、心的放散能力をもっていない人は悲劇である。

しかし一般に、甘えの欲求の満たされていない人は皆、こうなのではなかろうか。

つまり、甘えの欲求が強ければどうしても傷つきやすい。

そして甘えの欲求があればこそ、他人の好意を得たいし、得ていれば引き続きそれを維持したい。

自分を殺さなければつきあえないなら、つきあわなくてもいい。

そう感じることができなければ、心的放散能力が充分にそなわっているとはいえないであろう。

愛情飢餓感の強い人は、どうしても対人関係で心的放散能力に欠けてしまう。

自分を殺してつきあっても、得るものが大きいからである。

失うものも、もちろんある。

しかしそれ以上に、愛情飢餓感をいやしてくれるというプラスは大きい。

対人関係で心的放散能力に欠ける人は、いくつか誤解している。

まず第一は、ケンカしたら別れることになる、ケンカしたら嫌われる。

次に、話題を合わせていないと嫌われる。

第三に、高尚な人間でなければ軽蔑されて捨てられる。

とにかく対人関係でいろいろな誤解があるから、対人的に感じたことをいつも抑えてつきあっていなければならない。

たとえば、自分に関心のない話題を相手が出してきたとする。

あまり親しくなければ、礼儀として話を合わせていることも大切であろう。

しかしまったくの私的な関係で親しくなれば、自分がなにに関心があり、なにに関心がないかをはっきりさせることは失礼ではない。

親しい間柄の人に対して、関心のない話題を関心があるようによそおってきいていることのほうが、よほど失礼である。

「そんなこと俺、関しないよ」とか、「いま私、そのこと話したくないわ」といったとて、べつに二人の親密な関係にひびが入るわけではない。

二人の関心がまったく同じでなければつきあえないなどというものではない。

相手には関心がなくても、自分には興味のあることもあれば、その逆のこともある。

それでいながら関係が続くのが親しい友人であり、また長続きする恋であろう。

親しくなれば、「またその話かよ、おれはもう嫌だよ」といったからといって、「俺はおまえが嫌いだから別れたい」という意味ではない。

またそのような意味に相手がとらないという信頼感があるから、そのようにいえるのであろう。

またそのようなことを平気でいえるのは、別のところで相手をほんとうに好きだからであり、相手もそのことをわかっているという信頼関係があるからである。

友人同士でなく恋人同士だって、「その話もういやだよ」とか、「何度もいうように、その話はしたくないんだよ」といったとて、その恋が壊れるわけではない。

それは「その話題」がいやだといっているだけであって、「あなたが嫌いだ」といっているのではない。

あなたは好きだけれど、その話題はいやだといっているだけである。

言外のところまでうまくコミュニケーションできている人たちは、対人関係において心的に強度の緊張をすることもない。

そのようにはっきりいう人のほうが、心の底ではわがままでないということはよくある。

じっと黙っていて、繊細で傷つきやすい人のほうがかえって心の底では我意が強く、わがままであることも多い。

ひかえめで自分の中にひきこもりがちだということと、わがままでない、我執が強くないということは必ずしも一致しない。

「もういやだよ、そんな話題」と親しい仲間にいう人のほうが、かえって心の底ではわがままではなく、我執性から解放されている。

その人は決してひかえめではないかもしれないが、相手に対する思いやりをもっていたりするものである。

ひとくちにいうと、対人関係で心的放散能力のない人は、相手との関係に自信がないのかもしれない。

あるいは自分の生き方に自信がないのかもしれない。

自分はこんな人間で、こうやって生きていくのだ。

もしそれでつきあえなければ、それは残念なことだけど仕方のないことだ、と思いきれていないのである。

「私は自分を裏切ってまであなたとつきあうつもりはありません」というように感じられるかどうかということである。

愛情飢餓感の強い人は、そのように感じることはできない。

そう感じることができないゆえに、いままで書いてきたようにいろいろと誤解をする。

失敗を受け入れると高尚や低俗でもない自由になれる

高尚・低俗のモノサシなどない

ところで第三の誤解であるが、高尚な人間でなければ軽蔑され、捨てられるという感じ方は、おそらく我執の強い神経質的プライドの高い親などに口うるさく干渉されながら育ったひとのものであろう。

人間は高尚か低俗かということだけで親しまれたり、捨てられたりということはない。

高尚なほうがいいに決まっているが、人間にはそうなりきれないところもある。

高尚な人間になろうと努力することはよいが、高尚な人間でなければ軽蔑される、捨てられると思うのは間違いである。

俗人といわれる普通の人は、高尚な面もあれば低俗な面もある。

いわゆる普通の人には全部高尚という人も少ないし、全部低俗な人というのも少ない。

高尚な自分がほんとうの自分でもなければ、低俗な自分がほんとうの自分でもない。

高尚な面と低俗な面と両方もっているのが実際の自分であろう。

そして、それを自分に許すことが大切なのである。

時と場合と雰囲気と気分とによって、自分がえらく高尚になることもあれば、逆のこともある。

ところが相手が必ずしも自分と同じように高尚と低俗の波をもっているとは限らない。

ときに親しい相手であっても、高尚な話についていけない気分のときがある。

そんなとき、はっきりとそれをいったからといって、べつに関係が壊れるわけでもない。

単に私は今、そんな高尚なことを話す雰囲気ではないと述べているだけである。

そのテーマにもともと興味がないのではなく、興味があるけれどいまはそんな気分ではないといっているだけである。

これも先に話したのと同じことである。

私はあなたを好きだけれど、いまはそんな高尚なテーマを話す気分にはなれませんといっているのである。

ひかえめで傷つきやすく、それでいながら心の底でわがままな人というのは、人間の多面性を理解し、受け入れていないのではなかろうか。

一つのことで、すぐにその人は決め込むと思い込んでいるふしがある。

そして無理して高尚な話をしたからといって、相手にそのことで気に入られるというわけでもない。

繊細で傷つきやすく、わがままな人というのは、無益な努力が多すぎるのである。

伝導能力がないということは、重大なことである。

またそのような無益な努力は、いくつもの誤解にもとづいているのである。

そのような人は低俗な話をすると、低俗な人と思われると信じている。

小心な倫理性というか、柔軟さを欠いた倫理性というか、自由でない倫理性というか、そのような倫理性をもっているのが、いま述べているようなタイプの人である。

感じやすく傷つきやすく、内気で倫理的で我執の強い人である。

自由な人というのは、相手が少しぐらい低俗なことを話したり、高尚な話題を拒否したからといって、相手を低俗な人とは決め込まない。

関連記事
人付き合いが怖いを克服する方法
自分を信じられないと他人も信じられない

楽しいふり、いい人のふりをやめる

敏感性性格の一つの特徴として、小心な倫理性というのがあるとクレッチマーはいう。

これが誤解をうむ原因でもある。

倫理的でなければ軽蔑されるという誤解が、その人を過度に倫理的にする。

したがって、こんな話をしたら軽蔑される、こんな話を拒否したら軽蔑される、こんな話に熱中しないと軽蔑される、こんな話をおもしろそうにしたら軽蔑される、と誤解する。

小心な過度の倫理性の裏には自己蔑視がある。

心理学者ローゼンベルグのいう低い自己評価の特徴の一つとして、「ふり」をするというのがあるが、敏感性性格的な人も、実際以上に倫理的な「ふり」をしているのであろう。

そしてその「ふり」に自分も気がついていない。

したがって、他人といてほんとうにリラックスして楽しいということがない。

いやなことはいや、好きなことは好きといってもいい関係の中で、気を遣う必要のない気楽さがあるのだが、そういう関係を他人との間になかなかもてない。

実際の自分を表現しても充分に自分は相手にとって意味のある存在であるという感じ方がでいるとき、対人的関係において心的放散能力を充分にもつのではなかろうか。

そしてそれが高い自己評価ということであろう。

そしてまた、それが親密な間柄ということではなかろうか。

相手の期待にそえなくても、自分は相手にとって意味のある存在だと感じられるとき、相手と心から親しくなれたということではなかろうか。

人間関係における期待など、具体的にはいくらでもある。

ここでこういってもらいたい、ここでこう振る舞ってもらいたいからはじまって、数限りなくある。

しかし親しくなれば、その一つひとつはかなわなくても、意に介さないでいられるということである。

子どもの心を病ませる親の期待というのは、こういうものではない。

成績がよくあってほしい、地域社会で評判のよい子であってほしいという期待があると、その期待にかなうかぎり、子どもをかわいがるということである。

自分のいうことに従うかぎり、子どもをかわいがるという親が、表面立派な親のように見えて、実は問題のある親である。

親密な人間関係というのは、このような関係ではない。

相手の自分に対する期待はわかっている。

わかっているけれど、その期待に自分はそえない。

そして相手の期待に添えないけれど、そのことはあまり気にならない。

アメリカの心理学者、シーベリーの言葉に、「白鳥によい声で鳴くことを期待するのは、期待する方が間違っている」というのがある。

美しい声を期待するならナイチンゲールに期待しろというのである。

私もこのとおりだと思い、講演のときなど、ときどきこのシーベリーの言葉を引用させてもらうことがある。

ただ親密な間柄では、このような期待そのものが問題にならないのである。

白鳥は相手が自分に美しい声で鳴くことを期待しているとは知っている。

しかし自分は白鳥であってナイチンゲールではない。

自分は白鳥として振る舞えばいいのだし、ナイチンゲールのふりをする必要はない。

そして自分がナイチンゲールのふりをしなくても、自分は相手にとって意味のある存在だと感じている。

それが親しい関係であろう。

なにからなにまで相手の期待どおりでなければ相手にとって意味がないと思うのは、自己蔑視の結果以外の何物でもない。

そもそも相手だって自分にとってそんな存在ではない。

それにもかかわらず、相手は自分にとって意味のある存在ではないか。

自己蔑視してしまうと、相手と自分とが同じ人間の権利をもっているということを忘れてしまう。

自己蔑視とは、なにか特別に素晴らしいところがなければ、自分は他人にとって愛するに値しない人間であるという感じ方である。

特別に美人でなければ愛されない、特別に能力がなければ愛されない、特別にお金がなければ愛されない、特別にセクシーでなければ愛されない、そのように感じている人は、心の奥深くに根強い自己蔑視のある人である。

おそらく小さい頃、自分は特別にすぐれていなければ愛されないという不幸な親子関係の体験があるのだろう。

たとえば常に他人と比較されて育ったりするということである。

親の愛を得ようと、特別に従順に振る舞ったりするようになる。

ことさら従順に振る舞えば、支配欲、所有欲の強い親のお気に入りになれる。

そして子どもの側は特別に従順に振る舞うことで、特別に従順に振る舞わなければ自分は愛されないという感じ方を強めてしまう。

その結果、他人の期待に反することのできない大人になっていってしまうのである。

親しい人の誘いを断わったって、相手は自分への親しみの感情をなくすわけではない。

しかし自己蔑視した人は、誘いを断ると、相手は自分への好意をなくしてしまうのではないかと恐れる。

自分が相手の期待にそえないということと、自分が相手にとって愛するに値しない人間であるということは、まったく別のことである。

まとめ

失敗にこだわる人は、失敗したらまた同じ失敗をするんじゃないかと思い、過度にプレッシャーを感じまた失敗する。

そして、他人もその失敗に対して大きな意識を抱いていると錯覚する。

お互いに喧嘩できる人は、お互いに自分もOK相手もOKという気持ちをもっています。

それは私は自分を裏切ってまですることはしないということである。

高尚な人間になろうと努力することは良いが、高尚な人間でなければ軽蔑されるというのは間違いです。

そして、自由な人とは相手が高尚な話をしたり低俗な話をしたりしても低俗だと決め付けない。

また、自己蔑視とは自分に優れた部分がなければいけないと思い込むことである。