愛着障害を克服できるかどうかは、安全基地となる存在に恵まれ、それがうまく機能しているかどうかだ。

そもそも愛着障害とは、親の愛情に恵まれなかった人に起きた、愛着の傷に起因する問題である。

そのことに気がついて、それを取り戻そうと必死にかかわろうとする親もいるが、本心からその人に対して愛情を感じることができない場合には、結局かかわることを面倒がってしまったり、かかわり方を変えようと努力してみても、つい地金が出て、その人を責めたり拒否したりしてしまうことも少なくない。

幼い子どもの頃であれば、何事も許してあげて、献身的に愛情を注ぐ気になれたかもしれないが、大きく成長した今となっては、つい常識的な考えになり、「いい加減にしろ」と思ってしまう。

育て直しは、赤ん坊を育てるよりも、ずっと大変なのである。

それゆえ年齢が上がるほど、難しさが増す。

さらに親自身が極度に不安定だったり、共感が欠如していたり、本人に対して愛情がもてなかったりする場合には、かかわるとかえって本人が不安定になってしまうという場合もある。

無理に関係修復を図るよりも、親とは距離をとっている方が安全が確保される場合もある。

しかしそうした場合も、愛着障害を克服するためには、安全基地となる存在の媒介が、通常は不可欠である。

親という本来の安全基地に代わる存在として、困ったときに駆け込める避難場所や、安心の拠り所を提供することで、本人の安定を図るとともに、本人が自分自身の課題に向き合うことを可能にする。

身近な他者―先輩や上司、恋人や友人、知人などが安全基地となって、その人の悩みや相談を受け止め、回復と安定に寄与していく場合もある。

しかし、そこにはしばしば落とし穴もひそんでいる。最初のうちは親身に相談に乗ってくれとたんんいていても、次第に負担になってきて態度が冷たくなり、最後には拒否されてしまうということも起きがちなことだからだ。

そうすると本人はかえって傷ついてしまい、「信頼できる存在などいない」という思いを強くしてしまうこともある。

また、恋愛やセックスが絡む場合には、性的に引きつけ合っている間は、優しくされることで関係が安定するが、その時期を過ぎてしまうと、とたんに関心が薄れ、関係もギクシャクし始めるということも多い。

じつは愛着の課題は何ら乗り越えられないままに、ただセックスという麻薬によって、それを忘れていただけだったことが、後で明らかとなる。

カリスマ的な存在にマインドコントロールされる場合も、これによく似ている。

幻の安全基地をそこに見て、自分を捧げることで、苦しさを麻痺させようとするのだが、主体性のない依存に陥るだけで、もっと危険である。